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コメント: 93
  • #93

    地の塩 (日曜日, 17 3月 2024 11:10)

    魏志倭人伝に記載されている 『 邪馬台国への行路 』 について、越前説にもとづく解釈もよく読ませていただきました。日本海には大きな左回りの海流があって、日本の海岸線に沿っては西から東向きに海流が流れています。それに乗って九州方面から 『 水行 ~ 日 』 で越前に到達するというのは合理的な解釈でしょう。

     私が問題視しているのは、 『 陸行1月 』 についての解釈です。帰りは海流に逆らうことになるので陸路を戻らざるを得なかった…、それが陸行になった。本当にそうだろうか…?古代から近代における日本海側同士の交易をみると、海流に逆行して東から西向きにも船で物資を運んでいた。海流と言っても、太平洋側と違って日本海側の沿岸近くではそれほど速くはない。風や人力での船行も、十分に可能ではないでしょうか?

     越前海岸は三国も含めて岩礁帯が続き、現在の様にコンクリートで護岸を造らない限り船の接岸は無理でしょう。九頭龍川も今でこそ堅固な堤防で守られているが、古代においては自然に流れて分流も多かったことが想像されます。船で九頭龍川を遡上するという水運は室町時代から明治・大正の時代まであったのは事実ですが、古代において可能だったのでしょうか?

     こうしたことを考えていると、水行10日で到着したのは敦賀ではなかったかという思いが湧いてきます。そこで荷揚げをして、陸路を使って越前福井に向かったのではないだろうか?敦賀を出ると直ぐに山登り(海岸線)が始まり、木の芽峠という場所を越えなければなりません。幾度となく、戦の勝敗の分かれ目にもなった峠です。

     峠を降りると、今庄 ⇒ 湯尾 ⇒ 鯖波 ⇒ 南条 ⇒ 武生 ⇒ 鯖波 ⇒ 福井と日野川沿いを右岸側の日野山を見ながら北上します。文殊山が見える頃から、ようやく福井に入ります。陸行1月は行程に比べて少し長いような気がしますが、鉄器などの重い荷物を考えると進行も遅かったのでは…?

     実は、私は 『 福井の本当の美しさは何んだろうか? 』 と思案していたときに邪馬台国越前説に出会いました。私の家の近くに 『 平岡山 』 という得体のしれない小高い丘がありました。隣にあった 『 丸山 』 は今でも残っているのですが、平岡山は街づくりに無用のものとして取り崩されてしまいました。私たちの知らない遠い 々 時代に、福井の地には 『 何か美しいもの 』 があったような気がしています。

  • #92

    地の塩 (木曜日, 14 3月 2024 12:28)

    昨日、丸山に登頂して来ました。駐車した場所の関係で、西側から丸山に近づいたのですが登り口が良く解りませんでした。願應寺があって 『 確か、入り口は神社だったような… 』、それで左側に進んで右回りにぐるっと一周してしまいました。 『 弱ったな~ 』 と思っていたのですが、何と願應寺の右側に入り口があって丸山神明神社の石碑も見えました。
     
     階段を登って行くと、鳥居があって奥に本殿(?)も見えました。一年中そうなのかも知れませんが、冬囲いがしてあって社の中の参拝はできませんでした。HPに書いてあった虫などの生物はいなくて、例年だとまだ雪があるのかも知れません。社の左側を見ると、上に向かって踏跡がわずかに残っていました。

     私は山道には歩き慣れているので、直ぐに頂上に着くことが出来ました。背丈以上の金網で囲まれたコンクリートの建物があって、これが水道設備なのでしょう。金網の際は人一人通れる隙間があって、一周してみました。雑木林に遮られて、景色は木々の間からしか見えませんでした。フキノトウが芽吹いていて、春の訪れを感じていました。

     荒れた山という印象でしたが、古代の墳丘墓というものは全てこんなものかも知れません。少し言い過ぎるかも知れませんが、 『 怨霊渦巻く心霊スポット 』 というのが正直な印象でした。邪馬台国越前説に関心を持って新幹線で福井に来られる方々も、ここを訪れるかも知れません。もう少し、整備されても良いのかな~と思いながら下山しました。

     丸山自治会の注意看板もあったのですが、ここは丸山自治会の管轄なのでしょう。丸山自治会を通してボランティアも募って、定期的に清掃活動をしてみたらどうでしょうか?民間が動けば行政も動く・・・そんなに甘くはないかも知れませんが、邪馬台国越前説を広げるための運動としては、やってみる価値はあるような気がしています。

  • #91

    ひかる (金曜日, 01 3月 2024 21:46)

    二月も終わり3月1日となりました。 ひかるです。
    主催者様、ご苦労さまです。

    <倭国30カ国の繋がりの意味する事>
    倭人どうしの小競り合いや戦闘の後に、倭国を再度統一するために考えられた""卑弥呼"(女性権王)擁立によって半世紀にも及ぶ女性祭祀汪(・・・鬼道)の歴史が生まれます。 その模範となった鬼道とは中国大陸にあった考え方なのか? それとも天孫族の思考なのか? はたまた一万五千年前からの縄文式祭祀の末端時代だったのか? シルクロード経由の景教(ヘブライ教)の伝播のものだったのか? ・・・・・・卑弥呼自体は占いを主体にした生活環境からの共立(擁立)なので国々同志の争いを削ぐ為には、どうしても巫女が必要となっていった事だろうと思われます。
    占いというのは中部から東日本に多くの亀占い・鹿骨占い・石占い、等々の縄文文化の生活体系が残したものなのか、存在する様で、最近ですが栃木県のトアル神社の丸石が、真っ二つに乾きによるだろうけれど割れていた事も占いの道具から、未来が薄々と見えてくるということだろう。  では占いに最適な土地柄は乾燥・寒風・日が高く・雨水が少ないという場所でなければ、頻繁には割れは生じないであろう。
    倭国とは中国の揚子江に在った倭人から始まったとされているから、倭国の権力は稲の生産が中心的だったのは、そうだろう。 米というのは7年の在庫が可能なので、7年の在庫が有れば毎年の食料に困る事は無いという。 なので、米が権力という時代が到来しているとする弥生末期時代には倭人と入植と共に稲作文化は、脈々と九州・・中国・・北陸近畿・・東北・・そして関東の茨城辺りに到着した。 日立の稲作の始まりはAD200年頃と云い、卑弥呼のど真ん中の頃なので、卑弥呼30歳の頃だろう、稲を学ぶ為に北陸へ派遣されていた卑弥呼が稲による権力を知り、学び茨城に稲作を体系化し、稲作文化と繋がった瞬間に、・・・・法王としての立場を意識して大きくなっていく。  稲を育て自然の占いが有れば、鬼に金棒的であり、誰もが稲作の王として、稲の権力の地(倭所属)に必要とされた。 

    ただ、越前の地で鬼道を行なう卑弥呼だったが、この地越前は茨城と比較すると年間通してウエットな越前とドライな茨城との占いのミスが生じた、生じてしまっていたのは、言うまでもない。 越前の春以降の雪解け水と長雨とによって河川の氾濫は、水害という雨水の増大が鬼道を狂わせていた可能性がある。
    そんな中、南側を支配する"狗奴国"(クナトノ王)がスパイスの効いた勢力支配が着々と士気を揚げている。 インドの渡来民の先祖に持つクナトノ王系譜にはスパイスが有れば麦・米は付属品とする勢いそのもので、カレーの汁で器イッパいにしてしまえ!! 的な赤道直下の考えが、日本の緯度に浸透するのか・・・・・
    ・・・・・うむうむ。

    <ユーチューブ北関東座談会の夫婦(かっくんとみやこ)>
    この座談会の話から、卑弥呼の添う所のイヨ(二代目の卑弥呼)の存在が茨城(久慈那珂は日立の中心地)あるんだ、と報告している。 そしてその昔、聖徳太子から鎌倉時代の間に、大津波(50㍍)が東関東を襲っている、と。 55㍍から 65㍍の辺りに神社が増設され、近くの名や神社名に波や磯や島の名が残されていて、千木とは別に龍ではなく波が大量に掘られたり絵にされている。 龍というのは波が打ち寄せるという意味が(初期段階)こめられているのかもしれない。

    そして私の推察・・・
    平安時代に東国の源氏さんが都に登場するのも、2000年型大津波の後の名・・・すなわち、源氏さんは原にサンズイの水が溢れた地から派生した枕詞なのかもしれないという事。 きっとそうだろう表現方法として、その地より出ずる存在として"源"という名を大僧から頂いて使い出した。 ということなのかもしれない。

    きょうも、私の推察と物語でした。
    では。!!




  • #90

    地の塩 (日曜日, 25 2月 2024 17:22)

    昨秋、地元のテレビを何気なく見ていて、初めて 『 邪馬台国 越前説 』 を知りました。私は生まれも育ちも福井で、仕事の傍ら 『 九頭龍川の自然 』 に魅せられてきました。ヤマタノオロチは 『 八つ股がある 』 生物なので、 『 頭は九つある 』 ということになり九頭龍川のことでないか…、古代史についてはそんな自分流のイメージしかないような者です。理系人間で考古学など人文系には疎いので、昨日 『 佐竹有清著 邪馬台国論争 』 岩波新書を買って少しずつ読み始めています。

     九頭龍川の上流の九頭龍川ダムの畔には、 『 白馬洞 』 という鍾乳洞がありました。入り口の岩が崩れそうになったことと、ダム湖の水が洞窟内に入ってくることから今は閉鎖になっています。洞窟内は昔と変わらずに残っていて、調査によると洞窟内の池の水深は測定できないほど深いという県の報告があります。鍾乳石が出来ない特徴を持つ洞窟で、その分 『 石灰水 』 が洞窟内の池に溜まっています。九頭龍川は支流の真名川と共に、大量の石灰水を山奥から運んでくる川なのです。

     石灰は太古の昔から 『 環境の消毒や殺菌 』 に使われる天然の薬品で、古代の縄文人も使っていたことが知られています。福井平野でお米を栽培している農家の方々は、口をそろえて 『 春になると、田圃を耕して苗を植えるだけで美味しいお米が収穫できる 』 と言います。九頭龍川が運んでくる石灰水の働きで、土壌改良がなされているからだと考えています。

     卑弥呼の時代には福井は農業大国だった…、それを支えていたのは土だけではなく大地を浄化する九頭龍川のきれいな水もあったのではないでしょうか?古く世界の4大文明は、いずれも 黄河 ( こうが ) 、インダス川、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川といった 大河 ( たいが ) のほとりで産声を上げています。豊富な水があったからこそ、文明が発展することができたとも言われています。邪馬台国越前説を、日野川や足羽川など大きな支流を抱える 『 大河 九頭龍川 』 の視点から見つめてみたいと思っています。

  • #89

    秘密命 (日曜日, 25 2月 2024 07:52)

    「邪馬台国」は「山大国」であり、
    場所は沖縄だと思う
    だから、「山城」と言う苗字が多い
    住んでいた城は「今帰仁城」

    卑弥呼は自分の過去を知っていた
    はずなのに
    なぜ訂正しなかったのだろう
    トラウマや多くの誹謗中傷を恐れての事だったのだろうか
    月日が経てば経つほど
    真相を解明するのは難しい
    能力がある者にしか知り得ない事実
    世界でたった1人しかいない存在
    私は、訂正し未来へ繋げていくのが良いことだと思う

  • #88

    こんちは (木曜日, 18 1月 2024)

    どちらにお住まいかは存じ上げないのですが、ご健康であれば幸いです。
    感覚派で、学術的な人間でないので、まあスルーしていただいて構わないです。
    福井説というのを見て目から鱗が落ちました。青森県の三内丸山遺跡を目の当たりにして縄文人の異常さというか精神性というかテレパシーのうような異様な存在にきづいたのですが。
    卑弥呼という文字の力強さと
    邪馬台国が九州というのを聞いてからなんかしっくりこない、出雲も関西も行ったり住んだことはありますが違うように思いました。あくまで個人の感想。
    占いがし易い、場所というのは空気が澄んでいて波動がなんというか高い場所なので、青森のように誰もその地に畏敬の念をもって切り開かないように思うのですが。う〜ん。
    意図的に卑弥呼のデータが隠されたというのであれば違うのかもしれません。

    昨年12月頃に福井をよく調べていて、なんであそこに東尋坊があり、人はそこで一生を終えようとするのか考えていたのですが、その矢先に地震があり、このブログとも出会い考えさせられています。

  • #87

    (火曜日, 16 1月 2024 01:37)

    楽しく拝見いたしております。
    遣唐使船についての記述で気になるところがあり、
    日本書紀、続日本紀に、一隻につき百名を超える乗員がいた記述等があります。
    少なくとも西暦654年~で利用された遣唐使船については、準構造舟ではなく、大型の平底の船舶であるはずだろうと思われます。

  • #86

    ひかる (月曜日, 01 1月 2024 06:13)

    ひかるです。
    2025年 シンネンおめでとうございます。 今年もよろしく。

    現在、わたしは他説のルートを追ったり思考したりして、邪馬台国越前説の城固めの方策を考えたりしています。
    なかなか日本全国には様々にな思考者が立ちふさがっている様です、 特に関東・四国・畿内・九州などの識者はヤル気満満といいますか死に物狂いの鈴・榊・太鼓を鳴らしてボカサレテ、暗闇に乗り上げてしまう・・・  。
    そんな中、関東説の前半が最も気に成っていて(後半はデタラメ)、前半の邪馬台国は茨城県辺りだとかんじているのですが、鹿島神宮・香取神宮ではなく、それができる切っ掛けと成っていたモノが邪馬台国であって、倭国連合国の一つの国、邪馬台国だったのであろうと、想うのですが。
    問題は、ヒナモリという副官と成っている存在が何か�を掛けている様なきがしてならない、雛杜・雛森・雛守り、等々の音感からか、ヒト神神社に繋がる意味があるのではないのか・・・・。
    卑弥呼が女王となっていたからには、当然倭国30カ国の利用は出来たと思いますから、本殿・政治の執務塔・などの住まいは何か所ヵに有ったとするならば、結果的に亡くなった近隣に墓が作られるという(マクモニーグル氏の透視)事も考えられるので、本殿の近くに埋葬されるというのは無いという事も大いにあるだろう。
    私の見立てでは、倭国30カ国を現在名で言えば、福岡県~島根・鳥取~兵庫~越前・石川県・富山・新潟・長野諏訪~群馬~多摩・千葉~茨城までの周辺を含む30カ国となる。
    その中で、鹿島・香取の神宮に結び付ける"ミステリー事件簿"さんは後半に大間違いをしていると思う。
    倭国の習慣・習わし・風習として入れ墨を入れたり栃の実を塗ったりするのは水辺の蚊取りとしての必然性・・・。
    すると、刺青をしない天皇家の初期支配地の奈良県・宮崎地方には倭国とは無縁の場所、そこに人神を始めた理由は倭国から分家した人々が居たという事に繋がる!!。
    ヒナモリがイスラエルの渡来人として国作りを指導していた、雰囲気があるような・・・。

    ということで、魏志倭人伝の最初の文面ですが、"従う"という文面の"從郡至倭"を漢文としてどの様に読むのか?
    通常が"倭に行くには帯方郡より"という和訳で始まるので、帯方郡からの女王国の隅の"北岸狗邪韓國"へ7000余里となっていて、理解されていて、本当の漢読みは・・・・従(通りという意味も含む)、"帯方郡を抜けて"又は"帯方郡を通り"という読みが正しくて、長安から北岸狗邪韓國(倭国の西の北端)までの"7000余里"が正しいであろう。 であるなら、長里(435㍍)で計算されるのが正しい。
    そして対馬国から一大国へ海上を向かう"又南渡一海千餘里"とは対馬の南側から船出する意味が、"南へ行く"という理論を和訳した結果、対馬海流を対馬の南から船出すると、隠岐の島か出雲に向かうだろう。 じゃな。

    倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對海國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里。

    という事で、東日本の占いと入れ墨文化、縄文食的な食文化も含み、稲作文化導入と忙しい時代だったのは間違いなく、新しい文化・システム・男王の復権等々、卑弥呼にとっては鹿占い等々の占いだけは楽しかったと思われます。
    冬季の関東は乾燥するので鹿の骨の割れ具合は最高だったに、違いない。 間違いない!!

  • #85

    ひかる (木曜日, 30 11月 2023 17:03)

    ひかるです。
    秋も深まり冬へ移行している様ですね。 コシヒカリも豊作だったろうから七年備蓄できる米というのは国家安定には必要な第一の方策なのでしょうね。 92歳没の親鸞聖人が茨城県に行った経緯は分かりませんが、古代よりの何か気は感じます。

    <三国志記の殆どが魏距離(一里430㍍)を使っている事の・・・。>
    魏志倭人伝では狗邪韓国から対馬まで千余里と述べられている。朝鮮半島から対馬までの実際の距離は約60Km程度だから、千里で割り算をすれば、1里≒60mとなる。魏志韓伝では、韓は方4千里と述べられている。朝鮮半島の東西の幅を300Kmとすれば、これも割り算をして、1里≒75mとなる。帯方郡-狗邪韓国-対海国-一大国-末盧国の地図を見ながら魏志倭人伝を読めば、1里=434mという解釈はどう見てもおかしいと思うのだが、古田氏の③『「邪馬台国」はなかった』を読んだ後、このようなことすら据え置かれて魏志倭人伝が解釈されてきたかと思って、既存の日本古代史に対して不信感を強く感じたことを覚えている。
     古田氏は言う。従来、長里は中国の一貫した里程であると考えられてきたが、魏・西晋朝公認の短里(1里=77m)がある。「倭人伝の里単位は韓伝と同じであり、韓伝は高句麗伝の里単位と同じであり、そしてさらには、本伝の帝紀に出てくる里単位であるということになります。」(④『倭人伝を徹底して読む』p.148)
     これに対して、②『決定版邪馬台国の全解決』の中で孫氏は、「魏・晋里は1里=434.16mであり、三国志の里単位は、韓伝と倭人伝だけ例外としてすべてこの魏・晋里と一致し、多くの学者達によって考証済みだ。」(②p.32)と反論する。更に、魏志で韓伝と倭人伝のみ5倍の誇大表示されていることには深い訳があるとし、『三国志』の著者の陳寿と西晋を築いた司馬懿(宣帝)との関係などから説明している。

    <松任(松等)と魏志倭人伝末盧国とのお話・・・>
    盧の音からロゥーと読む、についての考察。
    口を軽く開けて、舌の先を、上前歯のすぐ上の歯茎に当てる。舌の両端から息が流れるように「ラ」と「ロ」の中間のような音を出す。後ろに続く母音とあわせることで、「ラ行」のように聞こえる。
    「u」は、日本語の「ウ」の口の形よりもっと唇をすぼめて、口笛を吹くように「ウー」と発音する。口の奥のほうで音を出すように意識する。日本語の「ウ」に近いが、それよりも長くて強い音である。

    松任市の呼び名が末等と語られたという小さい伝承が有った様で、魏志倭人伝の末盧国とも近い存在を導きだしました。
    そこから伊都国(糸魚川市)への行程は北東方面なのは正しい様で、魏の距離が一里430㍍の流れから見れば、何か面白い事になるような・・・・。
    倭国の広さは天皇系列の範疇の更に上お行く感じで、倭国それぞれの共同倭国といった感じがおもしろい。�

    <倭国の刺青と敬遠策を執る天皇主義の人々>
    入れ墨民族の古墳が出土しない所に天皇族は集まっていたらしく、奈良地方・日向地方、など鯨面刺青の出ない所に、集ってきていたとも考古学から推察されているみたいで、おもしろい。�

    ひょっとすると、黒潮に乗って南九州・四国・伊豆・千葉、に辿り着いた割と新しい民族だったのかもしれない。 そこに人神を入れてきた経緯が薄ら薄らあるような、な。

    年末最後かもしれませんが、私の妄想を語りました。

    では

  • #84

    福島雅彦 (金曜日, 20 10月 2023 22:09)

    著書紹介
    『邪馬台国・うきは市説』考察 うきは市の古代史
    松下 愛 ・福島雅彦 ・大矢野榮次 著
    発行所 株式会社五弦舎
    定価(本体1,400円+税)

    正誤表
    50頁七行
    誤=<後述=63頁>
    正=<後述=68頁>
    74頁六行
    誤=禎良親土
    正=懐良親王

    ご購読賜ります様にお願い申し上げます。
    畿内説を完膚なきまでに叩きのめしています。

  • #83

    リベリ (学生) (日曜日, 15 10月 2023 20:57)

    初めてこのサイトを拝見させて頂きました。とても面白い資料や考察。
    驚きと感動でいっぱいです。

    よく学校で邪馬台国(この表記が正しいのか分かりませんが…)の場所は未だ謎なんだよねーと
    教えられていましたが、ここまで世で説や論争が深まっていたとは、、

    ひとつ疑問に思ったのですが、邪馬台国の場所。北九州から南へ南へ、すると海じゃないかー
    ということや、稲作に適した土地でなかった、ということが邪馬台国九州説の怪しいところ
    ということですよね?邪馬台国の位置の記述について
    ここでは「東」を「南」と間違えて書いてしまった説と、そもそも日本列島の方角の認識
    (地図)が現在と異なっていた、と書いてありましたが
    この時代にはまだ方位磁針が無かったのでしょうか?中国ともなると、細かな地形や海岸線を把握することはできなくても向きぐらいは間違えないと思いますが… そんなことないですかね?

  • #82

    ひかる (日曜日, 03 9月 2023 15:19)

    ひかるです。

    八岐大蛇様のYouTubeがAIシステムなのだろうが、シンポジウム分別動画をみています。二時間程度で説明するのは大変だろうと思いますが、与えられた時間を端的に語られる姿に・・脱帽したいです。
    誉めあいも程々にして、先にまいりましょう、と、いう事で・・・・
    福井県に関してです。 福井県の組織的なイベントトと言えば、春の桜まつり・田植え等々、夏の花火大会・越前時代行列、秋のコシヒカリ等の米の収穫など、冬の豪雪などの防備等、 という福井県ならではのイベントが目白押しです!!!。
    しかし、弥生時代のコメの流入以降・・・際立った良きイベント祭り的な事は、皆無なのかもしれません。
    歴史上、弥生時代の米作流入・平安時代の租税(何俵納入)・南北朝時の負の大将の入場、戦国時代の朝倉氏の敗走・江戸時代の租税(何俵納入)・明治時代の皇軍から続く大正時代の二百三高地突撃兵の兵庫地・昭和に入って大戦の完全敗北・そして戦後から高度経済成長を支え続けるコシヒカリの増産、原発誘致地と、福井県は長い長い間において日ノ本を支え続けてまいりました。 その結果・・・・
    その結果、どうでしょうね、福井県内で亡くなられた多くの人々は、地に土に埋められたままなのだろうか、それらの地に埋葬されたでしょうが、ところが埋葬されているはずが、未だに霊魂という幽霊が地上に舞い降り、または這い上がり彷徨っている、という見解があるらしい。 これは、成仏とか恨みとかの現われとは想えないか・・・・・。
    日本の米作の始まりは九州福岡の板付遺跡から始まったと言われているが、北陸に米作が入ってきたのも、その後であって、順番が有るようですね。  そして西九州に多いとされる"精霊流し"は近代に始まったという事が、あります。
    そう、福井県にも "精霊流し" なるものが御盆の三ヶ日に各河川の長い距離を、松明を付けて流してみるのも先祖供養・精霊流し・御霊奉り、となると思います。良いも悪いも霊魂がいたる所に出没する現象があるならば、それを見送る事が出来るのならば、それは、ミラクルでしょう、精霊流しの世界的発展に・・・つなが・・って。
    各個人的な家庭においても職場や学校、知り合い、の中にも身は死んでも魂が残ってしまっている事って多いと思います。
    寺の衰退、神社の不道徳、等の事が多い時代というのは、自治体が先頭を切って、やるべきことって有るのかもしれないです。

    魂の在りかが、ひよっとすると、ヒンズー教にある"川に返す"、"海に戻る"事なのかもしれませんね、

    <邪馬台国>
    福井県の山間地の奥に入ると、そこにあった建造物(住宅)を見たことがありますが、その建て方は中国の女真族とかドキュメンタリーで見た建物と瓜二つの建築があったのを記憶しています。けっして中国の漢民族的な建造物では無く、山の民族の
    象徴的な建築方法で瓜二つに見えました。 大和地方のヤマトではなく、山裸国、山態族・八馬臺国・山登国、などの漢読みからのカタカナの感性があるようにおもえてならない。
    ・・・

      � 福井県  二度目の繁栄  精霊流し �

    ではまた。



  • #81

    長瀬公昭 (火曜日, 01 8月 2023 01:32)

    先日はとても勉強になる話をありがとうございました。
    私は両面宿儺のことを調べていたのですが、飛騨の高山市国府町には古墳がものすごく多く存在し、かつ鉄剱や鉄の鎧が出土しています。
    また、近くの場所からは王冠が出土していますが、先生のお示しになったものに形がよく似ています。
    かつて、三重大学名誉教授で高山市郷土館長の八賀晋先生が、「飛騨人は味噌とナツメを食べる文化がある。あれは、韓国の大邱地方の食生活の名残だ」といわれたことがありました。

    昨日先生の講演で、その場所は「任那」であったことを知りました。
    高山市国府町から飛騨市古川町にかけては、古墳がたくさんあり、なぞとされています。
    また、両面宿儺が住んでいたとされて、その領地は美濃の関市や美濃加茂市のあたりまであったとされ、かなり広大です。

    また語りましょう

  • #80

    ひかる (日曜日, 16 7月 2023 14:36)

    おはようございます。 ひかるです。
    来る7月29日にハピリンホールで講演会をするという事で、わたくしも喜んでいます。
    わたしも地元生まれなので参加聴衆したいものですが、なかなか時間がとれないでいて、パソコンを見ているだけで精一杯な
    状況なので、遠呂智先生の頑張りに陰ながら応援しております。 よろしく。

    さて、邪馬台国卑弥呼伝説も300年の長い長い歴史考察&考古学考察がなされてきました。 そんな中、遠呂智先生のうねる様な歴史考察が、知る人々を納得させています。 船の帆先は南に向けて、いないと対馬海流に負けてしまい東には到底たどり着けない事、日本海の只中にナンパする気がします。
    最近、見たユーチューブのミステリー事件簿氏の動画(邪馬台国論争完全決着!)を見ておりまして、魏国(当時の)の距離観測としている一里(一里問題)が435㍍としている考えで行程を辿っているのですが、最初は可笑しな考えだと感じておりました。が、
    なかなかの推論が展開されていて、句邪韓国北岸の処から見入ってしまって、句邪韓国北岸とは未だ東シナ海を出ていない所の
    句邪韓国北岸(弁韓₌伽耶₌句邪韓国)であると、解釈されていて、対馬上陸までは、洛陽から対馬まで3000キロ(7000里)であるとすると語っています。 この尺度であるなら洛陽から邪馬台国まで5000キロ(一万2000里)となり、句邪韓国北岸から邪馬台国までが残り2000キロ(5000里)となるらしい。そして奴国・好都国には行っていないと文献では見られるとしており、・・・
    対海国から一大国へ渡るというのは対馬国から隠岐の島(出雲)ということであり、一大国から松虚国へ渡るというのは隠岐の島から石川県の松任市であるという。 では伊都国は何処だ!? というと糸魚川市辺り、伊都国から奴国、奴国は信濃国らしく、奴国の次は不弥国だという。不弥国は前橋市辺りらしく、船で20日進むというらしく、利根川を20日で多摩国(投馬国)で到着す。 そして10日で木更津市、そして歩いて鹿島や香取へ向かう、そこが女王が住まう邪馬台国であるとする。
    ・・・・・・・・。  ・・・・・。          ・・・・。
    この論理を語るのはミステリー事件簿氏だけらしく、大分納得させられている。
    ただ、
    ただ、狗奴国の存在は何なのか?  西日本や九州が狗奴国と考えてしまう・・・。
    狗奴国とは千葉県の古代前方後方墳(前方後方墳)の古い体制が狗奴国だったのだろうか・・・。
    ミステリー事件簿氏のYouTubeを貼っておきます。
    日高見国・高天原・日立が日本の祭祀場であったならば、古い前方後方墳⁼狗奴国に対する邪馬台国卑弥呼の倭国参加が
    薄ら薄ら見えてくる気もする。

    問題は越前であろう。 越前にはイザナミ・イザナギが降りてきていると考える私ですけれど、イザナミの子天照大御神は高天原に暮らし育ったたと言われているから、この地、鹿島辺りに邪馬台国の卑弥呼が居た、ということか。
    ただ、天照大御神は男性だとするホツマツタエからも、卑弥呼は女でなければならず、長命であったとすることからも、イザナミが越前で暮らした様にも思えてならない。

    これ全て、想像からの考えに過ぎない。 以上

    <コシヒカリ米>
    こしひかりは越前で生まれて新潟でブランド米化されて今では各県で・・・コシヒカリという名で作られています。
    中国にも渡ったらしく、新潟でコシヒカリ玄米が盗まれています。
    そのコシヒカリとは、20%30%はもち米であるということであるから、コシヒカリを食べる人というのは正月の餅を薄ら薄ら食べているということだと言える。 コシヒカリの特徴は腹持ちが良くて、戦争時の食料だったり、スポーツ選手の食事、強労働者の為の主食であって、平和な人が食べるには不釣り合いな食べ物だとおもう。 米だから麦・豆同様に悪性が少ないから主食になってきたのだろうから、良い面もあるが、平和な時に食べるものでは無い様だ。
    コシヒカリを食べるのであれは、韓国風に野菜を巻いて食べるか、タクワンヲ3倍5倍食べる必要があろう。
    コシヒカリを作ってしまう理由は、苗が中央で配布されてしまっているからに他ならない。
    わたしは、華越前か農林①号の米を食べたいと思う。

    では、8割は発掘されていない日本というのは緑に埋まっているからだろう。
    どんどん未来の為にも、話を進めてほしい。
    福井にはドンドン焼という祭りがあるので、言葉通りにドンドン進むべきである。
    そして、素直に行き過ぎた事は最初に戻って、普通のコメの喜びに帰るべきであろう。

    では。


  • #79

    ひかる (月曜日, 19 6月 2023 16:21)

    お久ぶりです。 ひかるです。
    ダニ・ゴキブリ・蚊・アメンボ、の季節となって、この夏は長くなりそうでありますね。

    龍神信仰とは
    全国各地に龍神信仰というか龍神神社が在ります。 その日本列島における龍神さん、龍神神社の頭というか竜頭山が韓国のプサン~新羅の辺りに在るというのを見つけました。 ・・・ということは、竜の尻尾(シッポ)が何処かに無いものかと思っていました、ら、鹿児島と千葉県に`竜尾`という名を見つけました。長野県の戸隠には龍神神社の総本郷と伝わる龍神神社が在るとユーチューブで見ました。 龍神社というのはそもそも倭国が指導した神社の杜だったのでしょうか・・・・・。
    福井の九頭竜川は昔は黒竜川と言われていましたので、その龍体の部分だったのでしょうか?。
    それ以上の情報は無いのですが、邪馬台国ならびに倭国の民は竜の様な入れ墨なのか、皮膚に"色炭"を塗ったものなのかは分かりませんが、竜という存在(架空)を表現してデザイン化していたのは言うまでもなく歴史文からも解ります。
    私の見解としては、蚊やダニや虫が付かない様に"渋い色粉"を液体にして塗っていたモノなのだろうと思いますが。

    守り神と成るモノが"竜"から"人神"と成っていった歴史経緯からか、歴史の分岐点ともなる飛鳥の宮からの天皇制というものが始まって各地に人神神社の隆盛となって、それ以降も秦氏の渡来以降には八幡神社や稲荷神社etc なんかが人神的に増大し拡大し・・・・・・そして現代にはその人神神社の祖氏に成ろうと江頭人神神社として創始を始めんとする勢いである!!。
    王とか主とか玉とか皇とか、王の中でも白い王がトップだろうと思われますが、神の下に竜という民が在る姿も、悪くないかとも思いますね。ただ神の概念だけでは人を導くには至らずに、結局は相争う結果とも感じてしまう・・・。
     悪くても神の導きという概念が、三種の神器とかに表わされる、鏡(かがみは法律の意味)、勾玉(子育て経済の意味)、剣(警察的な統制の意味)として見れば、十分に成り立つ神法として有ってもいいでしょう。

    段々とこう言う深い話になっていくのが怖いものですが、ウクライナ戦争を見ていると、ホントに何処かの祭祀汪が真の法制を
    行わないと未来が永光ではなくなっていく様が気になりました。

    私の農地に65歳定年の頃にに、小さいプレハブを置いて(キイロイ旗めいたものを飾り)、弥生発掘をしたいと思っています。
    以前に近所の教頭だった人がこの地から弥生の土器破片を持ち歩いて見せびらかしていたのが、この歳にして興味をそそられています。 よかったらカメラ設置の現場から真東へ向かい400mの地点に居るでしょう、たぶん発掘しているでしょう。
    イザナギ・イザナミしんわからの"淡い路"が私の環境での最終結実点だと思っています。
    昔、耕運機で地面の下にガタガタいったあの音が気になります。

    暑い夏は弥生時代のように"水風呂"で身を冷やしましょう。

    では。



  • #78

    ひかる (火曜日, 04 4月 2023 23:03)

    ひかるです。
    早速ですが。

    倭面土国王帥升等ら・・・・・

    この゛面土゛という意味深い国を表わす単語には、どういう意味があるのだろうか。
    卑弥呼より140年前である倭面土国王スイショウ等の時代、そしてスイショウ等から50年前の漢の倭の奴の国王<漢委奴国王印>奴国王の頃が"面土国"が登場しているのですが、いったい面土国の面は殿位に大きな面土だったのでしょうか・・・。
    おそらく倭国は米作に特化していた繋がりの民族だったろうから、面土地を探し当てる事才能に長け、そして住家となす。
    邪馬台国以前が面土国であったとするなら、卑弥呼が座する以前の或る地域の名前であり拡大以前の農地である鯖江・武生・今立・今庄等が面土国だったのではないだろうか。
    この地には能面という文化の発祥地であり、静かに面を広げていく現象とも感じ取れる。

    面土国王帥升等と語られる"等"とは複数の取り巻きがいる様ですね。


    今日はこの辺で・・。

  • #77

    ヒカル (土曜日, 25 3月 2023 23:12)

    こんにちは、ヒカルです。
    春の嵐なのか、貿易風と偏西風の只中でもあるのでしょう、東西南北の勢力が意気良い余って答えを導きだしてくれている
    春は未だ遠し。

    イサハミ姫は卑弥呼なのか。
    イサハミ姫とは契丹古伝の耶摩駘記(やまとき)

    「契丹古伝」の内容のほとんどが古史文献からの引用で、資料集のような古文書です。
    明治38年(1905年)、浜名寛祐という人物が満州奉天のラマ寺院に保管されていたものを書写し、研究発表した古文書が契丹古伝です。
    契丹古伝だけを読めば、中国の先住民は日本人と同じ倭人が住んでいたことになり、
    中国の歴史はシウカラと漢民族の主導権争いと見ることもできます。漢民族という民族はありませんが、周を主体とするいくつかの民族が漢字文化のもとに統合され漢民族と称している集団です。
    シウカラの勢力は漢民族と称している集団に次第に圧迫され現在の中国史が成立したということです。
    https://note.com/ai_auwa/n/ne1b961fa6fbf
    黄河中流域に発生した殷王朝(紀元前1500頃)は、初代湯王(成湯)から約30代続き、過ぎ、そして酒池肉林に溺れたと言う紂王(帝辛)の時
    周は殷の時代、既に「存在」していたと言う事です。彼ら(周)は殷や我々の祖先・倭人等の「東大神族」(「シウ-カラ」と呼んだ)に対して、「西族」と呼ばれました。黄河中下流域に殷が栄えていた時、彼らは西域(トルキスタン)から黄河上流の辺境地帯-現在の中国・甘粛省へと「移住」(民族移動と言った方が適切かも知れません)してきました。彼らはそこに殷の宗主権を認めた上で、周と言う国を作ったのです。殷の宗主権を認めた-つまり、殷の属国の地位を認めるのと引き替えに、自治国を許された訳で、これはかつての中国と朝鮮の関係に似た様なものです。しかし、周(と言うより、「西族」)は狡猾でした。殷の属国という地位に甘んじながらも、殷に取って代わる算段を着々と打っていったのです。
    殷の南方に目を転じると、そこにはもう一つの大勢力が存在しました。その国の名を楚と言います。その楚に歩み寄り、「倒幕」の密約を結んだのが、あの周でした。周は文王(殷を滅ぼした武王の父)の時、諸侯の上に立ち、殷王の後見として天下に号令する迄に実力を上げていたのです。つまり、臣下の最高位に迄登りつめていた訳で、周にとっての目標はもはや、殷に代わって名実共に天下を取る事以外あり得なかった訳です。その周が楚と同盟を結び、殷を西と南の二面から挟撃(はさみうち)し、遂には滅ぼしてしまったのです。これが世に「殷周革命」と呼ばれる王朝交替の真実です。しかし、周楚同盟による殷滅亡はその後、約900年に及ぶ「動乱」の時代の幕開けでもあったのです・・・春秋戦国へ。
    <烏須勃(うしぼつ)の773年に日本に漂流し見聞きした事>
    773年能登に到着した渤海の国使、烏須勃は当時の日本人のことを、「アキヒ」を祖霊に持つ民族だと認識していたということです。
    「ワイ」いう民族は、殷帝国を構成していた大国「濊族」と同種であり、「ワニ」という民族も同じく殷帝国を構成していた黄国の一族だとしています。殷帝国は中国最古の王朝だとされていますが、現在の漢民族とは異系統の民族国家です。
    このような大陸の対立抗争に日本列島の住民も同胞であるシウカラ支援のため、派兵したことなども契丹古伝に書かれています。
    シウカラは・・・古代の有力な民族に「シウカラ」という民族がいたこと、シウカラの民のことを称して[タカラ]と呼んでいたことが書かれています。
    さらに邪馬壱国のヒミコもシウカラ出身であること、新羅本紀と照合するとヒミコの本名はイサハミ姫(イサハミコメ)だったことがわかります。
    後継者「壱与」の消息についても言及していて、第40章にはこのようにあります。「ダたるかのイヨトメ、民を率いてミマナとなる、人なき山にケンが叫び、風は入江をよぎって星は冷たい、駕してここにかつての東大国を観るに、かつての大丘は今何人あるのか、云々」とあります。
    イヨは邪馬台国と狗奴国(くぬこく)の抗争の末、民を率いてミマナにいることがわかります。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    以上は773年に契丹国のウシボツ(中央役人)さんが能登に上陸し漂流記という3500字を書いたものです。
    私が想うに、卑弥呼が240年頃に没して後の500年の経過の末の漂流記でもありますから、その時代には天皇中心の権力体制は
    整っていたのだろうし、けれど、庶民の中には過去の伝説や民話・神話というのは見えかくれしていて契丹古伝はおもしろい。
    <卑弥呼の本名がイサハミ姫>
    イサ = ヘブライ語には(イェシャ Yesha)という「救い」を意味する言葉があり、この言葉をルーツとして、今日でもヨシュア、イエス、イサ等の人名が世界各国で使われ、名前そのものが「救い」、「救世主」を意味しているそうです。
    ハミ = ハミとは馬の隙間顎(あご)に鉄の金具を取り付けて馬を人馬一体にする具足というもの。
    卑弥呼の流れが、祖先が其処まで理解できた感じがします。
    古代天皇系列とは一線を隠すも、中国大陸に意識が有ったのはウナズケルと思います。

    <イザナミとイザハミとの名前の近さは・・・いったい。>
    ワイ・ワニ・・・というワ族(倭属)は日本・韓半島・中国東岸・契丹に居た古代種族なのは理解できるが、王家と言われる流れというのは殷・周・楚・などの権力行使からのものなので、王家からの継ぎという人選は理解に苦しむ なあぁ。


    では。


  • #76

    ひかる (木曜日, 02 2月 2023 19:20)

    2023年2月2日、ひかるです。
    コロナ5類となりウクライナ戦争は話し合いのステージへ向かい、そして邪馬台国解明は足場固めと進展している。
    渋い床の間は自宅ですか? 床の間の掛け軸は無いのですか? マナの壷の代わりに大きなヒスイはカッコいい! 
    それにしても卑弥呼の城郭は掘りが有るために案外河川が流れる所か、ギリギリ岩石の無い土砂の多い所だろうと思いますが、ズバリ現在のコシヒカリ米が生まれた福井農林試験場(現在地)の地に卑弥呼の城柵があり、その裏手近くには花野谷という白いジュエリーの出ている花野谷遺跡が1000人の侍女たちの館が有ったと感じます。 それ以外の弥生末期文化物は足羽川や荒川や九頭竜川の川泥によって1m~2m全て埋もれてしまった有様を感じる事ができる。

    #74からの続きです。山と終末旅さんの動画に天照皇太神宮(越前大野)の話をしましたが、この動画もアリトアラユル資料から考察をしてきているので、興味深いです。ただ、完全なる答えではないので、答えは"イセ"という単語にしか答えは導けないようでもあります。
    山と終末旅さんの動画より・・・
    https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%b1%b1%e3%81%a8%e7%b5%82%e6%9c%ab%e6%97%85&&view=detail&mid=A864A3976165B206A136A864A3976165B206A136&&FORM=VRDGAR&ru=%2Fvideos%2Fsearch%3Fq%3D%25e5%25b1%25b1%25e3%2581%25a8%25e7%25b5%2582%25e6%259c%25ab%25e6%2597%2585%26FORM%3DHDRSC3

    次の文章は年輩の作家さんの若い時の事象です。
    もともとヘブライ語の「イエシュア」から来ています。
    つまり伊勢神宮の「イセ」は、「神の救い」というヘブライ語の可能性があるのです。

    <伊勢神宮とエルサレムの神殿>
    ところで、ずいぶん前のこと、私は、
    イスラエルから日本を訪ねたユダヤ教のラビを
    伊勢に案内したことがあります。
    神宮に向かう道路の両側に並んでいる灯篭に
    「マゲン・ダビッド(ダビデの星)」があるのは何故かと聞かれました。
    そうです、すべての灯篭に、
    菊の御紋とタビデ王の紋章であり、
    イスラエル国旗にも使われている
    ユダヤのシンボルであるダビデの星が刻まれているのはどうしてかと。
    私には、答えることはできませんでした。
    「手水舎」もエルサレムの神殿に入る前に、
    手と口を洗うユダヤ教の儀式と同じだと言われました。
    神殿の配置も、
    一番奥の至聖所は大祭司しか入って祈れない場所であり、
    神宮で天皇だけが祈ることのできる瑞垣の配置と同じだと驚いておられました。
    そのラビは、
    「日本には宗教がなく、日本人は信仰がないと聞いていた。
    しかし、この宮は驚くべきことに二千年祈りが捧げられ、
    いまも生きている宮だ。われらの神殿は、破壊されていまでは遺跡となっているのに」
    と泣き出しそうなほど魂が高ぶっておられたことを思い出します。
    また、エルサレムの城壁には七つの門があり、
    その中のヘロデ門の上には、
    なんと天皇家と同じ十六菊家紋があるのです。
    それから伊勢神宮で御神体を納める箱を入れる
    「御船代」に対し、
    古代イスラエルの「契約の箱」は「アーク(舟)」と呼ばれています。
    ユダヤ人であり、
    失われた十部族の探究者であった
    ヨセフ・アイデルバーグ氏は、
    京都の護王神社で神官の見習いにまでなって、
    ユダヤ教と神道の関係を調べています。
    彼は、「イセ」という地名も、
    ヘブライ語から生まれているかも知れないと言うのです。
    「神の救い」を表す「イエシュア」
    イエス・キリストのイエスも、
    もともとヘブライ語の「イエシュア」から来ています。
    つまり伊勢神宮の「イセ」は、
    「神の救い」というヘブライ語の可能性があるのです。
    ヤマトとユダヤの間には、
    想像を絶するつながりがあるようです。
    ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
    何を言いたいのかと言いますと、イセという名を持つ集団が何処かに居たのでしょう(渡来人)彼らの集まりは何時の頃からイセという名の集団で住み着き始め、商いを基に移動しこの国を纏めたいと思う様になり、突如として降臨の動きを始める。
    と、言う風に纏めたいところだけど、なかなか資料的なものは出てこない、。


    では。

  • #75

    ひかる (月曜日, 21 11月 2022 06:54)

    ひかるです。
    相撲の廻しの飾りにされているのは 雲・雨・雷 らしく、古来より意味づけされてきたベースの上にあるみたい。
    ああぁ、もう少し65型の4Kテレビが欲しい・・・。ひかるです。

    <ナシメとごぼう講の関係>

    毎年旧暦の正月17日に当たる2月17日・・・・・
    この日に五斗米道と重なる奇祭が福井県・・町の神事とし「ごぼう講」が行われるのです。
    五斗米道という信仰は中国の古代の信仰で、通常は道教の中の五斗米道という流れからのもので、卑弥呼の鬼道も五斗米道で
    あるという歴史家の研究もあるそうです。 私も卑弥呼と五斗米道を取り上げるには・・研究が足りないと自覚していたので、すが。・・・
    (ごぼう講)https://www.matuno.co.jp/vegeful/category/journal02/29202.html
    この奇祭は答えは 待て夜 だったのですが、答えは出ました。
    五斗米道の五斗とは五合と同じであるという(同量)ことで、町の神事「ごぼう講」も現代でも五合の白米の盛り付けを行っているという事実が判明しました。 五斗米道という信仰は健康祈願が最大の第一の目的であると説明文からも、卑弥呼の鬼道というのは、犯罪者・生活苦・病気者・などの苦を救い、卑弥呼主導の邪馬台国を堅持させていた原動力であったものではなかったのか・・・・という結論に達しました。
    ナシメという補佐官のナシとは"お米"の意味であり、ナシゴレンというインドネシアの料理のナシと同じ意味らしい。
    まっ はっきり言って米文化の流入の地という所は中国南文化の影響を多大に受けていたとも言えますが、対馬の海流の流れからは韓国半島の鉄器文化も流れてきた事での発展性も考えられる魏志倭人伝により近く感じられる気がします。

    <ホツマ文献からの考察>
    ココリ姫の 義理の妹ウケステメは クロソノツミ王の嫁入りし コロビツ国王となる クロソノツメル君を生んで子育てしながらも国中を巡られてニニキネ一行と会い桃の種を3000もらう。途中 サルタヒコと出会い裸の御姉さまの・・・が声を架ける・・・・・・。

    ホツマツタヱのニニキネ一行の文章から天孫降臨高千穂へ行く、という古事記の文面だろうとされています。
    大田田根子が物部氏に歴史を残す為に書かせたオシテ文字によるホツマ伝という事ですが、書かれたのは卑弥呼が亡く(240年)なって30年~40年なので(西暦280年頃)歴史改ざんは無いだろうけれども国の認識はそれぞれの王朝や言葉によって様々な名を持っていたのだろう。 
    これで卑弥呼がココリ姫の義理の妹ウケステメ、か、その子か、その御婆ちゃんか、それとも単なる巫女上がりか。
    邪馬台国越前説からはココリ姫系の白山中宮神社の筋が有力なのかも知れない。
    ここで、もう一つ。
    九頭竜川最上流に白山中宮神社があるが、関係性を持てるのは、その道を幾度となく通過できる人々という事は間違いないだろうし、この地域が大阪の和泉と同じ文字を持つ事に注目してみても、おもしろく、もう一つの山頂平野の名も"いとしろ""石徹白"と言われていて、宮中の催し衣装などの"いとしろき"と同じではないのかと想う。
    疲れた・・・

    きょうもこのへんで。

  • #74

    ひかる (火曜日, 06 9月 2022 01:35)

    今回は、
    皇大神宮(三重県伊勢市)、皇祖皇大神宮(富山)、天照皇太神宮(越前大野)、丹後一宮 元伊勢 籠神社、の関係性と時代展開と隠匿性を感じる文脈から・・・。
     ひかるです。邪馬台国は越前説としている私としても、天皇家の筋が絡んでいるとも"ややこしい"中から、崇神天皇の御世の頃の荒筋を考える目的で貼りました。書きました。

    <天照皇太神宮(越前大野伊勢)>
    三重県伊勢神宮につながる伝説の上伊勢神明神社(皇大神宮)。
    http://www1.vipa.ne.jp/~izumi-jichi/shiseki-kamiise-shinmei.html
    伝説によれば当神社は、天照皇太神宮と称し、その起源は遠く伊勢神宮仮鎮座の跡なりとして尊崇され、境内には周囲十三米、高さ五十三米におよぶ巨大なるお祓い杉を中心に老杉うっそうと繁る森厳なる神域なりしも、九頭竜川電源開発により全戸移住して無人の境となる。
     祭神は九頭竜川沿岸の聖地に建立する新神殿に水没地の各神社祭神を合祀することになり、永く遺跡を表示するため伊勢氏子の総意をもって碑壱基建設し、茲に銘記す。
         昭和四十一年七月十六日 伊勢区の「碑文」より
     つまり当社は、伊勢の皇太神宮が、五十鈴川の畔に鎮座される前に、一時この地に鎮座されたと地方住民の間に伝承されている社で、住民は皇太神宮と呼び、社殿、社叢、神域ともにこの地方では希に見る規模の社である。
     当社本殿のご神体は、径24.0 の木版に布を張り漆をかけて仕上げた懸仏で、雲上の蓮台に座する十一面観音に、日、月が配してあるものであった。
     製作の年代は明らかではないが、手法表現等からみて、室町時代のものと考えられた。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    <伊勢皇大神宮(三重県伊勢市)>
    御鎮座の歴史
    天孫降臨以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10代崇神天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命は大和の笠縫邑に神籬を立てて大御神をお祀りしました。
    その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。
    『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではあるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。
    このように天照大御神は永遠の御鎮座地を伊勢に得られたのです。これが二千年前にさかのぼる、皇大神宮御鎮座の歴史です。『皇太神宮儀式帳』には豊鍬入姫命と倭姫命のご巡行地14カ所の記載があります。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    <皇祖皇大神宮(富山)>
    竹内文書のつながり。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    という事で、仁徳朝天皇(含む)以前の暦年を春秋年で捉えていてない現代では解けない事もあり、頭の中で崇神天皇、崇神氏の時代適年を読み込んで考える必要はあるのですが・・・。
    越前大野伊勢に天照皇太神宮が鎮座されていた時代が有ったという事実。 この場所は奈良県大和飛鳥地方と飛騨上(日高見)地方との線の上に有り、穴間街道とも言い、そして九頭竜川の最上流でもあり、イザナギ・イザナミの心の仲介をした狗弧理姫(白山ククリヒメ)の白山中宮神社の近くでもあり、イザナミが死んで訪ねて来たイザナギに「見ない様に・・」と忠告をしたククリヒメが現れたらしく、時系列、地系列が一致する。
    この辺りが以前から心の中でウゴメイテいて、越前邪馬台国説の私自身の原動力ともなっています。
    天皇系列の元々は笠縫村という形で傘を徒歩の時代の必需品として作っていたのあるらしいから、他県へ他地方え移り住むのもうまかった様ですね。

    きょうも、この辺で。

    あと、余談ですが・・・
    私の考えの中に、卑弥呼はイザナミとしていて台与が天照大神(女性)と見た場合、の後の近畿圏内の動きも見えてくるような来ないような・・・・。
    ・・・・ハハハ。

    では。

  • #73

    ひかる (土曜日, 27 8月 2022 04:57)

    夏の終わりの季節である晩夏となっています。
    ひかるです。 ひさしぶりです。

    <奥目玉置工事(おくめだまおくこうじ)>
    山本浩二・玉置浩二・仲本工事、などetc すべての進歩は"工事"による新しい発見と発現に
    あるのではないか・・・・・・・・という気持ちが高ぶっているのであります。
    古代を掘りあてたいと願う政治家の出現を待つしかない、資金が大問題だから。
    こういう時は無神論者のヒトラーが居たらいいのに、なんて、なんでもかんでも神が宿るからなんて言っていたら地球上は墓で埋もれてしまうかも。

    農業の担い手も減り、白米の需要も減り、海面上昇という現象による土地利用の改善の必要性、そして高台住居の増大、漁獲量の増大と魚屋さん減少とのズレ、etc 様々な見直しは世界的に必要に迫られてきている。 宗教家の意見の様ですが・・・ではなく、世の中にはウイルスが有る世界だと理解していれば、必然的に各個人の防衛生活が必要なのであるという真実。
    わたしは有るがままの天然渋みを身に入れる事で、ブドウの渋皮・栗の渋皮・柿渋皮、などの
    様に守られる身となれるのだという神話を手に入れた近況です。
    身に皮膚に虫や菌が付くのは渋みの無い生活を取り入れ過ぎた現代人の病だろう・・・。
    であるから崇神天皇の頃に疫病が流行り、3分の2の人が亡くなったという歴史文献からの話だけれど、崇神朝の頃には奈良の中部一帯に疫病を抑えるモノが導入されたと想像できる。それは、青柿から採れる柿渋の薬、そして身の浄化吸収される三輪そうめん食、その近くにある玉置神社は何を祭るのか・・・・。木造住宅の基礎部分に柿渋を塗る習慣から、根本的に始まった疫病対策だった。
    <崇神天皇>ミマキイリヒコとか別名があるが幼名だろうと思いますが、卑弥呼と一人の弟?が出入りしていた名がミマキ氏と書かれているため、卑弥呼政務宮殿の出入り可能なミマキは邪馬台国の地位としてはナシメ氏と同格か・・何者だったのか。大和朝廷が活動する200年前の上古時代の天皇家は様々な国に身を置く存在の商売人だったのだろうか?。
    崇神天皇は神武天皇と同じ名前の不思議と、消えた150年の日本の歴史と、卑弥呼の存在地、
    などはこれからも日本国の謎なのである。
    <エジプト18王朝アクエンアテンとモーセ物語の類似性>
    モーセ物語はアクエンアテンの逃亡によりイスラエル建国へ繋げた歴史がモーセ物語として聖書に書き込まれたらしい。 アクエン18王朝は19王朝に攻め入られてシナイ半島、エルサレムへの逃亡物語なのか・・・。
    エジプトの帆船は富山の日本丸と重なるものがあるのか。 ・・・・・・
    にしても、石川県羽翆市のモーセの墓は18朝アクエンアテンの墓という事に成る。まあ、権勢を失った後の墓なのだから価値はないけれども、アテン信仰(一神教)を日本列島に持ち込んだ事(3400年前)は縄文時代の変化をもたらしたのか。 そしてアテン(太陽信仰)信仰は神通川を坂登り飛騨地域に一神教の元井を祖を築く、飛騨朝は神代から上古時代を経て寒冷に見舞われて、山を降臨する事となり、降臨時代は歴史は消えていた様だが、崇神天皇頃から奈良中部地方に多くの飛騨朝は降臨し続けて、大和へ変貌する。大和朝廷へ権力が伴う形と成って以降、農地改革(平野部の溜池の造成)が主ではあったが、発案した天皇家の立場の為か、止め池には大きな墓を陵墓を造る事で天皇家、天皇制(アテン神)の立場は揺るぎないものへと安定した神

    アテン信仰は太陽神の一神教なので、アメン信仰(多信仰)とは相いれないものかと思うが、日本列島の太陽信仰は多信仰の長としてしる事に中和していると言える。

    <それぞれの邪馬台国>
    ミステリー事件簿さんからの邪馬台国茨城説
    https://www.youtube.com/channel/UCu1V6f3eqvCfy6fxUb_hO3g
    歴史マニアさんの邪馬台国西鹿児島説
    これは川合陵神社をそれとする考え方
    https://www.youtube.com/watch?v=aVGXtCvcV_A

    ミステリー事件簿さんは北松浦半島と東松浦半島を90度の間違いを指摘していた人なので、気にはしていた、が・・・・。
    歴史マニアさんのYouTubeも最後まで拝見しました、が、・・・・・。

    最近はこんなもんです。
    では





  • #72

    ひかる (日曜日, 05 6月 2022 21:09)

    ヒカルてす。 
    6月、初夏です。 鮎解禁でもあります。 ご無沙汰しています。
    世の中の動きが理解しずらいぐらいに動いている様ですが、私の歳ではアマリ関係がないようです。
    しかし、少しでも理解したい社会情勢などなど、努力を怠らずに努力したいものです。
    下のYouTubeアドレス動画は、最近見ていて気になったのでアドレスをアップしました。
    スライブと言う方向性・・・
    https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI

    <魏志倭人伝の邪馬台国の風習と雰囲気について>
    人は皆ハダシで居る様だ !! 明らかな状態を語っているようですね。 この状態は赤道直下の裸族を想わせる様ですね・・。
    農作業というのは様々な風体(ふうてい)があるでしょうが、邪馬台国で最も大きな仕事というのは平民であれば家族全てに言えますが、泥田や泥畑に入って農作業しなければならないという当たり前の風体(ふうてい)があるのに気が付きました。
    それは田興し・田植え・畦作り・草取り 等々の作業には"はだし"が必然的に必要な状態なのだと気が付きました。
    現代では農作業用の長靴や足袋を履いて農作業をしますが、当時の弥生末期時代にはそんなものは無かったと思います。
    それはゴムというモノが存在しなかったと思われるからです。 靴があるとしたら下駄の様なモノだけだったろうと思われるからです。 田畑に出かけるだけで泥は跳ねているし、いちいち泥を洗う程の事ではないという理由がう裏付けされる事かと。
    いまだに縄文的な生活水準の多い中で、稲作文化という一番厄介な努力が は だ し という状態を、陳寿の"皆裸足"という文面に落ち着いたようだと感じる。

    <天然の柑橘があるのか>
    この件に関しては・・・・越前海岸の南面にはミカンが作れるそうで、当時から有ったのかは分からないが、水田の多くは水を田んぼに、水田に引いているので、8センチの水溜まりなのであり、超浅いミズウミであるから、春夏と水田の水温が上がり、何が起こるのかといえば、関東のビル放射熱と違い、蒸せる夏になるのは水田地帯・盆地には起こっている現象で・・・とても暑く蒸し暑いという特有の・・・現象になっているのでございます。
    で、柑橘が取れるのか? という疑問に対してですが、中国では橘というのは桃・ミカン類・栗・ドングリ・椎の実・、ブナ林が有れば実になるモノは多いはず。 米の種を持ってくる以上、何らかの実も持って来ているとは思う。 以上

    <天の鳥舟・天の岩船 という表現に含まれる古代舟の様式>
    天の鳥舟・天の岩船という言葉が古代に語られていたようですが、三角形の帆と四角い帆という二種類の小型帆船は有った様だと思われます、が、イカダ・丸木舟・竹制舟、などの縄文期でも帆というものは�っていたとも思いますが、弥生期にはどの程度帆船がはったつしていたのかは、残されていないので分からないとはいえます。
    海洋民族との交流が成り立つのなら、山岳の木材というのは発展性は有ったように思える。
    衣食住が満ち足りた弥生期には、船舶は重要な投資品目として第一に造船製造に躍起になっていた時代だったのだろうと、思えてならない。
    <干飯の威力>
    これは、玄米を蒸して干して出来る主食となる食料で、イタリアではパスタ、フランスではフランス堅パン、アメリカではコーンフレーク、インドではナンパン、などの携帯食料となるもので、私も体調不良の時には3日連続に玄米を炊きます。
    腸が整調されて疲れが取れるものです。
    <通貨とおぼしきモノ>
    確かにヒスイ・メノウ・などの製品は通貨の価値はあったのでしょう。 住宅建築や石積み等の作業に対して備蓄米の報酬は考えられる事ですが、豪族が生まれるまでは通貨という概念が成り立たない様でもあり、隣国や外洋や他国への進出が増加する事で通貨的な共通の価値モノが考えられていったのはあるだろう。  ヒスイに関してですが、糸魚川へヒスイ採りに行った事がありますが、ヒスイというのは硬度6.5の球面とするには最終硬度なので成形が容易ではないのを覚えています。 鉄で削っても削れませんし穴を開けるのは何か月も必要とのこと。 そんな労力がアルのならば、米作りでの労役の方が楽に生きていけると思います。 それならば鉄による貨幣的なモノへの移行が通貨として進んでいったのは歴史の流れという事ですか。
    ただ、物々交換も現代でもある様に、大半は通貨貨幣というシロモノは持てる時代じゃなかったという事でしょう。

    <弥生末期の食事情>
    縄文時代から 100度シ~という土鍋による煮込み料理は有ったので、それを越える料理が並んでいたのは間違いないだろう。それまでの主食であるドングリ・シイの実・栗の実・イモ類・そばの実 などはポン酢で食べていた様にも思えます。しかし
    肉類も100度殺菌による食事法を大切にしていた縄文時代、弥生期には鉄鍋が出来るようになって鉄板焼きの時代にも成っていった様ですから、油に関してもゴマ油・菜種油・えごま油と、作られてくる時代変遷期をむかえて、油に関しては冷凍庫でも固まらない荏胡麻油などの油脂が作られていただろうと、三内丸山遺跡から荏胡麻が作られていたというから、揚げ物はあっただろう弥生期。

    少し長くなったようなので、今日はこの辺で。





  • #71

    ヒカル (金曜日, 22 4月 2022 00:21)

    ヒカルです。
    今日も投稿欄に日々研鑽というか感じた事を投稿します。
    八岐大蛇様のYouTubeも快進撃だと感じます。

    <弥生期・飛鳥期・大和期の越前地方由来の人々 ①>
    倭国の範疇に活躍した人々とも言えますが、魏志倭人伝や日本書紀・古事記の期間でもありますから、多くの邪馬台国(倭国)のゆかりの人々が越前近隣から登場してきたのはあるだろう事実。
    その中で邪馬台国とは直接的に縁があったのかは不明ですが、古事記を現した"稗田阿礼"という人物について・・・。
    稗田阿礼の出身地は飛騨地方の・・・
    稗田阿礼は飛騨高山出身。高山から郡上八幡に抜けるせせらぎ街道にある高山市清見町楢谷が生誕の土地とされている。稗田とは飛騨(ひだ)でありますから(カタカナ文字~平仮名文字~漢字文字の流れ)、弥生末期から飛鳥への期間に向かう時代というのは天孫族が飛鳥へ集中していく時代であり大和政権に橋渡しする期間だったので、倭国(邪馬台国)から飛鳥時代へ向かう時代とも言えますから、この時代を知る者ということは否めない。 でしょう。
    賣太神社の祭神は稗田阿礼で、7世紀の阿礼の活躍ゆえに奈良の飛鳥に授かった神社であろう。
    しかし稗田氏の流れは生誕の地、高山市清見町楢谷が生誕の土地での見聞きが稗田阿礼を大きくしてきた様な気がする。
    稗田という人々は木地師でもあり御椀や木地製品を山岳の堅い木材から作り出すので、山岳に住むわけだから、高山出身であるのはウナズケル。 菅笠なども山間地で作られていた事も低湿地よりも山間地の利用は弥生時代には必要なアイテムであって、米作地帯とは違って山間地の道というのは熊野古道の様に数多くが街道として開発されていたという事でしょう。
    そんな稗田氏一族も各地に移動して木地製品を生業に村を作り活動した・・・福井県の美山町の(足羽川の奥地)にも稗田の里公園が有りますが廃村していますが、この地には耳磐菩薩が祭られていて、一度目や耳にしたことは決して忘れなかったという。その記憶力を見込まれ、天武天皇から『帝紀』『旧辞』等、古代からの伝承を誦習することを命じられる。 とある。
    稗田阿礼は神代文字も読めたとあり、カタカナ文字が読めるという事は文字の無かった弥生期の音の伝達でもあった為に、耳という大切な器官を大切にする文化とも理解できます。

    <天孫族の山本氏と山下氏の活躍>
    この山本氏は鈴鹿伊勢地方へ向かった末裔の猿田彦、瀬戸内海へ向かった者が末裔の大山清命たちは独特の文化を携えて天から降りてきたという飛騨王朝文化の走りとなり、数多くの降臨・高架が有った様だ。 しかし彼らの降臨・降下は時として問題も多く山岳文化ゆえに小さな争いは発生してはいた。 そしてとうとう、飛騨王朝(日抱き王朝)最後の降臨・降下として、その王朝の神宝でもあった十束の神宝・三種の神�を最後に降下する降臨したのである。 その最後の御手渡しとして天照大神(女)から孫の邇邇芸命に託された!!。 ヘブライで語られる"十"と"三"を根に持つ飛騨王朝は、時に国の祭り事への参政場所として奈良県の斑鳩辺りへジックリと確実に集合させたのだろう。
    その後の飛鳥地方の進展は目覚ましいものがあったのは言うまでもない。
    飛騨文明というのは縄文文化と弥生文明の混交であって縄文の習慣を色濃く持ちつつ弥生文化流入の合理性をも纏め上げたというのが飛騨文明であり、古い縄文文化と西方渡来人との融和を根本として祭る事と合理性を合わせ持つ文明と言えるが、今渡来系の住民からすると古い考えとしか映らないのはかわらない。

    <では、越前は如何いう位置づけか!?>
    越前は天照大御神の親のイザナギとイザナミの最初の降臨の地であり、神話からは天津国ということだろう。 天孫族から見れば "津" そのものであって、天孫族の力が及ぶ地域となる。 しかし越前の地というのは米作地帯(黄泉の国)ではあるけれども雪の降雪地であり雪解け水の洪水の地帯でもあったのである。 降臨の地を変えたいイザナギとして天孫族の地域を廻っているうちに四国・淡路を見出す、しかしイザナミは男性の様に旅は禁物であった為か、土地の有力者との¥を時間を持ったためか動けなくなった様で、古事記の物語がシックリと感じ取れる。
    かくして越前という穀倉地帯は穀倉と鉄を武器に尚も進展する。
    紙文化・農作業鉄文化・造船・米文化は恐ろしく発展する。
    祭り文化は???
    ということなのであろう。

    <ウイルス文化とドングリ文化の相対性>
    ドングリ文化とも言われる縄文時代の遺骨から・・・健康そのものである。
    が弥生文明となると遺骨から・・・・・・・・・・・不健康である。
    との科学的証明が成されている。
    のであるが、未だに米文化最強説がテレビでなされている。 でも、何を食べなくなって人体は弱くなったのか?? という話にはなっていないのであり、 ピーナッツも中身だけ食べて・栗は中身だけ食べて、米も中身だけ食べている。
    こんな時代というのはブドウの中身だけ食べて弱くなっている人体であって、細菌・ウイルスの繁殖の最たる状態であることは間違いのない話だ ろう。


    皮を・渋みを・苦みを捨てれば皮膚の弱い体質となるのは目に見えている。
    私は半年前から緑茶以外は水分補給しないというノルマを課している。
    どうだろう、ノドに溜まった渋みが、皮膚に浮き出る青臭い渋みが、ウイルスを細菌を寄せ付けないらしい。
    自らがトゲのある"栗の実"に成っている様だ ね。

    では。




  • #70

    ヒカル(日軽) (月曜日, 21 3月 2022 18:46)

    どうもヒカルです。
    コロナやウクライナ情勢など気が重くなるので、見ない様にしていましたが、とうとう小核の刃(ヤイバ)がチラチラと、
    見え隠れしてきている様で、コロナに関してもウクライナ戦争にしても、良き終焉を迎えてほしい日軽であります。

    しかしウクライナの町を見ていてもロシアの町を見ていても、何か足りないものを感じる時がある。 その、それは逆に日本・欧米に必然的に増えてしまう事なのか、何か足りないものを足し算する "是足安良する"四文字熟語の原点ともゆうべき、一文字忘れたが・・・、答えは・・・・祭り・・・・の存在なのかもと思ってしまう、弥生時代以降は統治旺・祭祀汪の存在が必然であったように、大きな国作りには大きな乱れもあってはならないという道理があるだろう。 ・・・
    しかしウクライナ戦争を見ていると祭り事(祭祀汪の範疇)が両国とも機能しておらず、統治旺の権勢の意のままに何かに導かれていってしまっている気がしてならない。
    元共産圏には神仏廃棄という流れはあっても新たな信仰は生まれてはいない、科学的平和主義でもいいから新たな祭祀汪の出現を願いたいものだ。両国共通の祭祀シンボルとしてギリシャ正教の"マリア様"を利用してムラのマリヤパン祭りを両国の橋渡しとしたい・・。

    <十戒とは>
    1、神の他に、なにものをも神としてはならない。
    2、偶像 を作ってはならない。
    3、神の名を みだりに唱えてはならない。
    4、安息日を取ること。
    5、父母を敬うこと。
    6、殺してはならないこと。
    7、女女女淫してはならないこと。
    8、盗んではならないこと。
    9、隣人について偽証しないこと。
    10、隣人の家を貪ってはならない事。

    以上が出エジプト以降のイスラエルのシンボルの内容に成っていった。 私自身は浄土真宗という仏壇の下で育ったようなので
    キリスト系を語る者ではないけれども、身近にあった祭祀という遊びは場は、ビバhappyな人間性を育ててくれている。

    <和泉平坂の地(古事記の地)>??・・・私見
    この場所は、ここで言いたい和泉平坂とは、越前福井平野を東西に流れる九頭竜川の上流の上流に和泉村があります。その上には石徹白高地があり源流となってい居て、(その先は白鳥、五箇山、高山へと)おります。 和泉平坂の平坂とは? 現在の平泉寺の平らになった九頭竜川の中流に感じられてしょうがないですね。 なぜなら鹿の骨を朴占いする機関という場所として白山中宮神社(表)の存在が大きいからです。 天孫族(飛騨上)が・・いや、降臨し威厳を創るために計画的に積み上げた努力によって天孫族の行きたい方向に天孫文化が降りてきた空気があっただろう。
    その一例が越前降臨であろうイザナギ夫婦の物語だった のだろう。

    <魏志倭人伝>
    今現在のトピックスは習俗・風習 なので・・・
    越前でもㇳても古く造りが丈夫な民家といえば、北風を遮る山辺の蔭や、東西に入り組んだ住まいの場所に古代からの村が形成されている(場所取り)のは分かっていて、平野の中や水辺には古代の住まいは造成は少なかった気がする。北風の直風の住まいには外来の者たちの場と成っていったのは分かる。 ただそういう場所には同じ動植物も求めている場所なので・・・・・悩ましいところだ。 弥生時代というのはマダマダ自然の力に左右されてしまう時代なのである。
    ただ、鉄器の出現は、道を拓け、船を加工し、狩猟の高度化、衣料の大量化、住まいの品質、そして稲作の生産が増え続け、という弥生最高となっていった。
























  • #69

    ☂の中主の加味 (火曜日, 15 2月 2022 03:25)

    深夜にヒカルです。

    一年前の奈良県のニュースからですが・・
    柿という食べ物は古代からあったのでしょう、柿が柿タンニンといういわゆる柿渋がコロナウイルスの不活性化に、一万分の一
    というレベルで効果が強いという結果を出したという事です。 渋み という代名詞ともなっている"柿渋"ですが自動販売機で売っていても誰も買わないだろうと思われますが、ウイルス新時代ともなれば、古代の英知を現代に蘇らせていいものではないだろうか・・・・。
    https://www.youtube.com/watch?v=NhSHi6Nm5kc&t=18s

    やはり"渋み"という存在は味覚の中に取り入れていいものであったという事だろう。 柿渋・茶渋・栗渋・親父渋・渋顔・渋ワイン、等々の存在は削除するべきでは無いようで、あり、むしろ積極的にチャーハンに渋みを入れたり、甘いケーキに渋甘の味を出したり、コーヒーや麦茶は炒ったものであって渋みではないから、早急に世界は渋みを安く手に入れられる体制を体系化するべきだろうと、思われますがどうでしょうか。

    <モーセの十戒>
    この戒律はモーセがユダヤ難民をエジプトから脱出した後に、シナイ山に上り聖霊から頂いた十の教えを十戒と云い、荒野から始めるユダヤ民の法典として石板に記されたユダヤ民へのプレゼントのようなものだった。
    モーセ自体はエジプトでは役職のある上級官僚的な立場の人だったが民族を荒野から救う意味で書いたものだったみたいだ。
    モーセはシナイ山以降は存在は消えていて(エジプトの恨み辛みの存在)、紅海を渡る為にチャーターした大きな舟は紅海~インド洋へと船出する可能性がある。 結果的にモーセの十戒の石板とアロンの杖とマナの壷、は、ユダヤ民の糧となり得た様で、神の棺としてソロモン王・ダビデ王までユダヤ王国の聖杯所に置かれていた。 その後はユダヤ十二部族のうちの十部族が他部族に襲撃を受け滅びていくのですが、聖なる棺はその後消えていく運命となっていったという。
    モーセの十戒の中身・・中言葉には何がかかれていたのかは分からないが、エジプトで流行した疫病等の事からも"柿渋"的な渋みの食習慣(干しナツメヤシ)を大切な文言として書いていたのではないかと想像しています。 想定。
    渋みというのは身の中に食してそれが腸を伝い血液の流れの中に漂い、体の表面に現れてこそ渋みの意味を成すわけで、自然と世に漂うウイルスやバイキンから身を護る作用が感じられる。

    <食前茶なのか食後茶なのか>
    わたしは食後茶のほうがノドにハーブ的な渋みを残せるので、そのようにやっています。 そして寝る前にうがい程度に渋茶を飲んで寝ます。 朝のノドには菌やウイルスの流入は感じられません。
    <十の押し絵>
    十戒の事ですが、言葉では世界共通には成りません、世界共通に絵にすることで根本的な広がりがあると思いますが、どうでしょう。
    言葉にして記すというより口伝で残す方が真実性が増す気がしてならない、東がしへ真っ直ぐのほうが真実性が増すようなきがしてならない。 魏志倭人伝の事です。

    では。

  • #68

    平仮名なぎさ (土曜日, 12 2月 2022 22:37)

    どうも ヒカルです。

    わたしの父親が奥越(勝山地方)出身で、その地の名は "鹿ノ谷"と云われる所で育ったようです。 この地は割合と福井平野にも遠くはなく、近場でもありませんが、縄文の時代を反映している所だと感じます。 それは、その浅めの谷あいで鹿(カモシカ等)を野性的に飼いならして、その谷あいが九頭竜川への出口にある"遅羽口"という鹿ノ谷の入り口で襲うという習慣があった様です。
    魏志倭人伝には小振りな弓矢という単語が示す通り、縄文的な習慣も交えた雰囲気がありました。 入れ墨に関しては藪蚊や蚊やハエを寄せ付けない南方や湿地帯特有の防御策として体に渋いというか虫の付かない木炭液などを粘着性の液体で練りこんで身に塗り込んでいたという事だろうが、次第に明るい色の塗り液が主流となっていった・・・。この習慣は縄文時代からあっただろう。
    獣道しか無い時代というのは移動という手段に多くの知恵を使っただろうと思います。 食べていける場を求めて多くの部族は
    土地の形状から始まり海の流れなど水流の優劣など知恵と体験を総合して習慣と成っていったのでしょう。 そんな古代まで知りたいわけでも無いですが、縄文時代と弥生時代の接点と縄文の言語と弥生以降の言語の接点という事も知り得たいです。
    文献から、スサノオの時代には、スサノオが残したといわれる詩、"八雲たつ 八雲八重垣 妻籠みに 八重垣造る その八重垣を" という妻のクシナダヒメに残した歌だったそうですが、もう既に漢字もヒラガナもオシテ文字も有った様な弥生時代だったのかもしれません。 かと言って、鉄の文化や船の文化はまだまだの様で、鉄が無いという事は道の整備、田興し、材木の調達、全てにおいて国が立つまでには程遠い時代だったと思います。その地域その区域には豪族的な中心の族は存在するまでは当然にありえただろう。
    神武東征が2650年前だとして、その頃の歌に漢字が使われているのは可笑しいです、が、卑弥呼の時代のスサノオだとしたら歌を詠んで残すというのは有り得ただろう。 言葉も部族の様なもので、部族語の主流はそれぞれで違っていたのは当然で、部族の統治範囲によって言葉も違っていたのは当たり前だった。
    現在、平仮名の、あいうえお×あかさたなはまやらわん、 が主流ですが、オシテ文字は あいうえお×あかはなまさたやらわん、という部族も存在した、様で部族間ではそれらの文字が御旗の違いとして認知されていたのではないか。
    そして最終的にオシテ文字勢力の狗奴国(宮内国)が"杜の教え"という支配教義による伝搬によって力を隠し持ちつつ広がっていったのではないだろうか・・・・。
    ただ杜の教えという教義はどこで始まったのか? という疑問になってしまう。
    ・・・・・・・・・ ・
    それは元々日本には縄文人は居たのだけれど杜の教えという教義は無いはずだ。 と言える。
    生きる教えは在っても、杜という発想が乏しく、有ったとしても病気にならないとか清々しいとかが精いっぱいの先代からの教えしか存在せず、杜の教えという進歩したスタイルは、何処から始まったのか? という疑問だ。
    一つある、モーセの十戒である。ここの教えは縄文の教えとは弱いものではなく、十戒なのだろう。
    この教えが杜の教えだったのではないだろうか。
    そういえば、内灘の渚にモーセ伝説の残る石川県の山にモーセが眠るというらしく、どうも、ここら辺りから杜の教えが岐阜山中へ行き、この地から列島に似付かわしき"杜の教え"となり最終的に大和王権へと天皇制を擁護し推進していったのではないだろうか。

    ・・・。

  • #67

    ヒカル (木曜日, 13 1月 2022 02:49)

    どーもヒカルです。

    最近、私は タッシー&たー坊 さんの動画を拝聴しています。
    https://www.youtube.com/c/tassykotoguide/videos
    この人は観光会社にお勤めですが、深い意味を知る為に辿り着いたホツマツタエをアップしているようです。
    ホツマツタヱというのは卑弥呼が死(240年頃)んだ後、西暦280年の頃の大神神社(奈良県)の主の大物主(世襲制)と大田田根子によって、時の天皇の盟により書き記された書物であり、それは漢字が流入する流れによるクニの歴史(天皇家に繋がる歴史)の迷い歴史にならないように、正しい歴史をホツマツタエというホツマ文字で書かれた書物であります。
    私もこのユーチューブにハマっているのは、消えた150年の流れを知りたいという欲求からでした。 このユーチューブを見ていて想うのは、古事記に書かれている文章というのはホツマ文からの流れを読み取った形で約400年後に記紀として漢文または平仮名で書かれたものだったのだなあぁ、と思うようになりました。
    しかし、魏志倭人伝からの表現とは全く相いれない邪馬台国であり卑弥呼の文字も、うかがわせるものは無いようです。
    何故か、邪馬台国の南にクナコクありと魏志倭人伝には書かれているとおり、近畿説が正しいとするならば、その南に狗奴国が有るという魏志倭人伝は如何なものかと・・・・。 奈良県中心広域がクナコクであるならば、邪馬台国は北に位置するものでなくてはなりません。 宮を造営する国家戦略で広がっていくクナコクであるならば、ホツマツタエから読み取れる邪馬台国というのは、天皇家が窮地に陥った`ハタレの乱`の事が邪馬台国(女王国)の表現なのかも知れない。
    未だ全巻は読んでいないので、あれですが、全巻を見た後にコメントさせてもらいます。
    ただ、ただこのホツマツタエによるイザナミの存在は、おもしろく、島根や九州の筑紫と四国へも杜の教えを伝搬していくのですが、ホツマツタエでは火に焼かれて紀伊の国の熊野で亡き葬ったとされていて、イザナギの心は敢えて歴史に刻んだという表現からして、妻との別れは格別の心痛だったらしい。
    だけど、邪馬台国(越前説)との関りは微塵も感じないというのは削除に値するものだったのか・・・・・ハタレの乱のほうが気になる所だ。 ハタレの乱を鎮圧する為にタケミカヅチが1000もの捕虜を殺害したt×2=2000人をするくらいの激戦なのは気は重くなるし、同じ人間に対して見下す組織もうなずけない事は確かだ。

    あの頃、弥生末期というのは多くの国が立ち、連合し又は飛び地を吸収し、民の安寧・安泰・安らぎ・を探し求め国づくりを興していた時代だったのだろうと思われます。 理不尽な国の成り立ちであるならば、いずれ国は消滅していくだろうが、消滅していかない国立であるならば、それは残っていくのもだろうと、も思えます。 る

    以上、ホツマ情報を伝えしました。

  • #66

    ヒカル (土曜日, 08 1月 2022 20:29)

    harrow happy new year
    どーも ヒカルです。
    歴史の確信性というのは中々難しくて、足利尊氏の肖像画が変わってしまうくらいに歴史は
    不安定でもあるのですが、現代には科学的というか裏付けが真実性を足すといえます。
    今回は、YouTube内に出没する皆さんの邪馬台国論を少し纏めてみました。なかなか若い人には答えが出ない邪馬台国論ではありますが、何かお役に立てればと思います。

    <邪馬台国、それぞれの答えと論拠>
    ★地図をなぞって・・・ふるしょう氏
    邪馬台国は八百津姫で八女地方の奥から出なかった説
    ★アメリカの透視者・・・マグモ・ニーグル氏
    奈良県の鳥見山に住み(祭祀)、そして墓は山口県の萩地方(倭国内)に葬られる説
    ★古史と考古学の著名な学者・・・安本美典氏
    邪馬台国は甘木・朝倉説
    ★むすび大学講師・・・小名木氏
    若干、竹内文書(本家筋)を意識する説
    ★古代史新説チャネル・・・サングラスの人
    九州説前提の数値化による北部九州説(吉野ヶ里)
    ★百田尚樹(関西弁)
    近畿説に偏っている現在だが、私は九州説
    ★神尾正武氏
    神尾でございます。 甘木・朝倉説(高天原の地)を押して間違いないと思う説
    ★ミステリー事件簿
    邪馬台国は北陸地方説 松浦半島(北・東)で既に90度曲がっていた
    ★田中英道(歴史学者)氏
    邪馬台国は存在しなかった説
    ★竹田学校校長
    邪馬台国は・・・・そんな国、あったの? 地方の小国だろう説
    ★マットショー氏
    若干、新潟説で、邪馬台国移動説
    ★なべおさみ氏
    ワンワン吠える説
    ★のだせんいち氏
    四国神山説、アークも天照大神も邪馬台国も全部四国説
    ★福永晋三氏
    九州田川説、庶民への講演に精をだす
    ★TBS公式 諸説ありグループ
    九州説・畿内説・四国説に重きを置く
    ★ゴー宣道場チャンネル
    邪馬台国「九州説」の逆襲 !!!
    ★近重博義氏
    大和朝廷前は近く吉備が邪馬台国だ説
    ★邪馬台国は阿波だったグループ
    列島震撼!! 阿波踊りが世界の秩序を保つ四国説
    ★アカシックレコード氏
    卑弥呼は殺されている、日御碕の巫女、四国にも行っている、金印は四国にある説
    邪馬台国は350年存在し、おばさんの占い師、若い時に夫と死別、一年半が女王、説
    ★ヤマタノオロチ様
    邪馬台国は越前説
    ★魏国防軍司令を説く筋様
    呉防衛の為の地理策謀説

    以上、邪馬台国の想いと答えが皆さんの答えと成れるように心から願うばかりです。
    まだまだ、多くの邪馬台国論者は居るでしょうが、出来るならば本の二冊や三冊は読んだ上で
    邪馬台国論を展開してもらいたいのは山々です。 高く険しい邪馬台国の卑弥呼はいったい
    何処で占っていたのか・・・・・。 鹿の骨が埋まって居る場所かもしれない。

    今回も余談と想いを書いてみました。
    では。









  • #65

    ヒカル一兵卒 (水曜日, 22 12月 2021 02:14)

    ヒカルです。
    今年最後の記事です。 進軍!

    <卑弥呼子王の狗奴国の官クコチ彦の墳墓が岐阜県の美濃にあるという話>
    岐阜の墳墓の一つに狗奴国の官クコチ彦の墓があるという古代史家がいるという。狗奴国がこの辺りまで勢力が有ったとするならば、邪馬台国の南に狗奴国が居たという事に繋がる話なのですが、邪馬台国(越前説として)の南に狗奴国あり、という事なので結構巨大な狗奴国とはなりはしないか・・・・。もし先生の流れからして南が東だったら、狗奴国は越前からすると現在の飛騨高山か信濃の諏訪とか、関東か岐阜美濃、東海、となりはしないだろうか。 
    もしかして、飛騨から美濃そして東海と大和・徳島の広範囲の東南域に狗奴国は広がっていた可能性も考えたい。
    しかし、須佐の男の氏族であるニギハヤヒらは天孫族直系を認めたくない天孫族系の族もあっただろう、し、空白の150年は記紀よりも少し古い古史古伝からの読みが必要となってきてもいる様だ。
    だだ、竹内文書の創造期間を取り去れば、筋の通った話には成る気はする。
    しかし、竹内文書には飛騨と出雲の通り道ではあるが、越前に居たという口伝は語られていないのが現状だ・・・。
    須佐の男が田を壊し、機織り屋に馬を投げ込んだ、終いには食のパイオニアの伯母さんの料理に対し「こんなドロドロとした食べ物は食べ物ではない!!」などとして伯母さんを殺したと言われる。 もしかして、そのドロドロとした食べ物とは? 米料理の現れなのかもしれない。 当時では飛騨では里芋・キノコ料理が主流だったろうから、そう思えます。

    <ヒルコ・泡島、の表現について>
    イザナギとイザナミが生んだ国作りの最初にヒルコが生まれ淡島が生まれたという表現は、国作りの最初という意味において
    語られた比喩表現であって、水に流されたという現実を例え、比喩として表現したものだと言っている人は多い。
    わたしもそう思うが、ホツマツタエ(オシテ文字)太田田根子筆、では、ヒルコは和歌山に育ち金森氏に囲われて・・神社の祖神
    となって・・・うんぬん、何故か生きた人物として書かれているらしく、比喩としているならば、ヒルコを書いた太田田根子は
    ゛うそ゛を書いているという事にもなる。
    本当にそうであるならば、そうなのかもしれない・・・
    卑弥呼が238年に没し、大田田根子は280年頃の人というのも畿内政権樹立への過程としても、どこまでも畿内への融通でしかなかったものかもしれない。 たぶんそうでしょう。
    ん・・・・。


    きょうはこのあたりで。


  • #64

    ヒカル (月曜日, 13 12月 2021 12:03)

    harrow
    どーも ヒカルです。
    暮れにさしかかっている12月となりました。 クリスマス・大晦日とセワシイ時間となっています。
    早速ですが日進月歩の流れは止められないので投稿させてもらいます。
     
    <天の鳥舟・天の岩舟>
    古史古伝に特に多いのですが、天の鳥舟・天の岩舟 という乗り物に乗って降臨するとか舞い降りるとかの表現が多い古伝書類は西洋東様を問わず世界に表現されてきたものがあります。 最近になって鳥舟は三角形の帆だと理解でき、岩船は帆が船体に対して直角に立っていて正面から見ると大きな岩がこちらにヤッテ来る様を初期の漢字で表現したもの、岩船に関しては北前船が岩船の様な表現が望ましい感じがする。

    <竹内宿祢の正統派の71世竹内宿祢さんが50代で亡くなっていた件>
    この人は襲名形式の竹内宿祢として平成に名を表わして、71世竹内宿祢として現代に住んで生きていました。 が、ご病気で亡くなっていました(酒の飲みすぎ・・) 彼のYouTube見ていると、時々だがこれは言えない゛禁言゛という形で口を押さえていたのがありました。 その裏には語ってはいけない秘密めいた内容が有るという事、竹内宿祢の立場でも伝えられない古事があるという事を、再三にユーチューブでは口を自ら押えていたようだ。 
    彼が亡くなり、それから2~3年過ぎた現在に、彼(71世竹内宿祢)の禁言を解き明かしたとして、TOLAND VLOGさんYouTube
    では竹内文書の秘伝中の秘伝を解明したとして最近伝えている・・・。
    それによると、古事記には天孫族、僅かに登場しているが何をやっていたのか分からない人々の変遷が細かく語られています。 https://www.youtube.com/watch?v=jjDWsM8N2RI  TOLAND VLOG
    ニギハヤヒ・大歳・アジスキタカヒコネ・ナガスネヒコ・アマテラス・クニテラス・アメノホアカリ・クシタマ・イワレ彦・
    ニギハヤヒ政権交代の謎・アマテラス男神(ホツマツタエ)とも云われる理由・スサノオの子ニギハヤヒ政権・本当の天照大御神(女)の男神のアマテラスに対しての戦いが蘇我氏と大物氏へと時間がかかり・・  などなど

    この時期の表現として、稗田阿礼は・・・・時間をかけて天孫族を吸収し排除しながらイワレ彦が結果的に初代天皇家として樫原の地に遷都したという事とした史実としている。
    卑弥呼と卑弥呼子との類似性と、天孫族アマテラス(女神)とニギハヤヒ(アマテラスクニテラスアメノホアカリニギハヤヒノ命)の内部抗争の動きは面白いほど同じ現象か。
    南朝武ノ内文書には茨城武内宿祢伝とは違う正統という名で歴史を伝えています。

    これらの事は、信じるも信じないも、竹内文書という宇宙創成から語られる漫画ドラマから真実を貫く不思議な文書なので
    聞くのも読むのもバカバカしいといまでも思っています。
    しかし乗鞍の淡池から始まり天孫族~各地の天津国~芦原の中つ国へ拡大~天孫族降臨の種々族の集合~大和へ大集合~天皇家一代の始まり~天皇政権存続~大和政権の安定。
    では倭国というのはどうなっていったのか、それは、王家以上の論理は持っていなかった様で・・・女支配の穏やかな安定した王家支配以上の一神教の信仰的支配は揃っていなかった、食以上に支配力は考えていなかった、外国の例えばユダヤの支配というモノの順番は、神・十戒・マナの壷・アロンの杖であって食に関する支配よりも神の戒律が優先されていた事からも判る様に、倭国には神という戒律が概念が有ったのかは分からないが有ったようには思えない。
    神の為に働くのと、王の為に働くのとの違いが後々に応えてくるというか、倭国が薄くなっていき大和が色濃くなっていく様は、時間をかけて大和政権へと移行していった時間配分と歩調が似ている。

    と、まあ、頭の中は失われた150年の中に没入中といいますか、少し、だいぶ、理解できたような気がします。
    先生のも必ず二回は見ています。遠呂智先生のは120パーセント正しいです。 
    が、少し浮気したいのもあります。

    では






  • #63

    ヒカル (金曜日, 26 11月 2021 01:09)

    ども、ヒカルです。

    <水銀朱鉱山は高志の国のどこにあったのでしょうか?>
    この質問に対して・・私から一言。
    現在の政治上なのだろうが、福井市・越前市・大野市に大きく集約されてしまいました。 以前は福井市・鯖江市・武生市・大野市・勝山市などと少し小さい市町村だったのですが、武生市・鯖江市の近隣には丹生郡や今立、今庄、織田町などの名が有りました。 その武生市丹生郡には"丹生"という朱丹が取れる鉱山なのだろうが、ありました。 越前焼の近くでしょう。

    <歴史から消された邪馬台国シリーズを見て>
    このシリーズは大変気になっているのですが、記紀以前に上宮記を書いた聖徳太子や蘇我氏の出自等々が書かれている可能性が高いという事なので、より邪馬台国の繋がりを露わに出来る書物として、先代公事本義と同様に大切な書物。
    しかし乙巳の変によって藤原鎌足(後年名)らによる書物の隠蔽・焼失・改ざん・地名変更 などなどが平安以降も繰り返されてきた様で、なかなか厄介な邪馬台国系列であった様な理不尽な遮断が成されてきた経緯を感じざるおえない。
    平安時代には平安京の守り神として安倍晴明が活動して・・・陰陽師として東西南北に守り神を据え置き、特に東北方面(越前・北陸・東北)に鬼という称号を表わしている。 これらの平安京の楚を築いた藤原一族には乙巳の変で蘇我氏を壊滅的にした負い目からなのだろうが、第一の敵対者(内乱者)として蘇我一族を指定したようなものだった のだろう。
    九州・関東・北陸・東北方面は鎮護国家の対象となっていったのは歴史の史実であります。
     蘇我氏は若長氏・竹内宿祢から続く蘇我氏五代で中臣氏に暗殺された為に歴史書の整理が必要とされた。 歴史書の整理は長年の時間が歴史資料が必要とされた、国記・天皇記(聖徳太子・蘇我馬子編纂)・巨連伴造国造百八十部・その他、そして風土記などに伝わる等々の文書・記念物などは徐々に消されていったのだろう。

    なんで消す理由があったのだろうか?
    トップレベルの闘争において歴史までもが対象になっていたのは言うまでもない。 国レベルまで消して終う事もヤブサカデハない平安遷都はユダヤ人の謀略かそれとも神の・・・それでも天皇の継続だけは記紀に完全に記されているのは救いだが・・。
    私は思う。
    越前(邪馬台国)に竹内宿祢を宿していたのは越前の許容量の大きさなのだと言える。 ☂の岩戸伝説・イザナミ イザナギの伝説などは天皇族の通り道として越前の地に舞い降りた事は信じている事実だと思う。 卑弥呼に関しては七〇〇〇〇余戸の黄金のベルト地帯として異彩を放っていた土地として、コシヒカリ(冷えていても旨い)の発祥として現在も御コメの価値は下がる事はない。
    ・・
    <上宮記>
    この書物が発見されれは、邪馬台国に関した繋がりが明白になる事は感じます。
    越前市に住む蘇我氏系の農家か神社か寺の蔵にあるのかもしれない。
    オシテ文字などのカナ交じり漢字入りという事だろうか・・・・。


    では

  • #62

    八俣遠呂智 (日曜日, 14 11月 2021 08:04)

    朱丹は、倭国にあったという記述はありますが、邪馬台国を特定していません。
    四国あたりで採掘して、邪馬台国へ献上したのでしょう。

  • #61

    阿波君(あわきみ) (金曜日, 15 10月 2021 14:13)

    邪馬台国に在ったという当時の水銀朱鉱山は高志の国のどこにあったのでしょうか? ご教授願いたく思います。

  • #60

    田中 (木曜日, 14 10月 2021 17:09)

    八俣遠呂智先生
     コロナによる影響で社会が一変しましたが、お元気でご活躍の事と推察致します。
     さて、大阪府高槻市は13日、継体天皇の墓(6世紀前半)とされる今城塚古墳で太鼓形埴輪が,
    3基分のたたく面や胴の一部が復元できた。と発表されました。
     太鼓形埴輪は宮崎県百足塚古墳(6世紀中頃)での出土がこれまで唯一の例でした。群馬県伊勢崎氏では、今城塚と同時期にあたる6世紀前半の太鼓をたたく人物埴輪が見つかっています。
     今回、出土したのは古墳を囲む内濠と外濠の間にある「埴輪祭祀場」と呼ばれる区画で、これまでに230基以上の埴輪郡が見つかっています。太鼓形埴輪が出土した周辺には、儀式をつかさどる巫女や、両足のかかとをつけてあぐらのように座る楽器演奏時の姿勢(楽坐)をした人物の埴輪もおかれていました。埴輪群は、大王の遺体を祀った「殯の宮」の儀式を再現したものと思われます。太鼓3基の内2基は、全体の大きさは不明ですが、面の直径が23.4cm、21.2cmと判明しました。面に張る革を留める「鋲」とみられる直径~2cm突起があり、木の
    胴に牛や馬の革を張った太鼓がモデルと見られています。
     今城塚古墳は墳丘長181mの前方後円墳で出土品の年代などから継体天皇の墓であることが学界で確実視されていますが、陵墓に宮内庁が指定していないので調査が今も続けられています。大王の政治や日常生活に音楽が根付いていたことを伺わせます。
     コロナに気をつけてお身体にきをつけて益々の研究を充実させて下さい。
                       以上報告です。

  • #59

    岳騨ヒカル (木曜日, 14 10月 2021 03:46)

    どうもー、ヒカルです。
    早速ですが、
    文献史学からの考察でもありますが、ミステリーチャンネルの富士吉田さんのYouTubeから
    2日前に飛騨王朝を纏めているようなのであっぷしときます。
    https://www.youtube.com/watch?v=ShsyzPPmWp4&t=52s

    高天原・邪馬台国・神様・・・等々の呼び名は、高原川・山(八馬、耶麻、山大、山台など)・上方様、の伝搬の後の言葉となった感じがしております。 八ッ駕岳は八つの高山を表わしているもので、富山平野(神通川)からは北アルプスの八つの峰が見えています。
    20日で投馬国~ 10日で投馬国~邪馬台国へ水行する、20日陸行の行程も可能。
    邪馬台国の範疇は北陸・美濃山間部も含まれていた様で、米どころ(黄泉の国)の地域には山間部で採れた山芋・自然薯・椎茸・笠・草履・干肉・木の実・etc、が米と取引されていて、生計を成していた様で、海産物・米・豆・干魚というのは黄泉の国の食生産物だったのでしょう。
    邪馬台国の範疇以外の諏訪や南美濃などには別文化が・・・美濃物部や諏訪縄文などが色濃く存在していて、ト祈祷などの動物骨の亀裂による占いがアルプス構造線には盛んであったと考古学では語られています。 卑弥呼のト占いなどは縄文スタイルの最西端なのかもしれません。 
    身の皮に蚊やダニや昆虫が付かないように工夫されてきた経緯から、何かを皮膚に着けていれば蚊やダニは来ないものであるという知恵が結果的に赤色顔料となっていった様で、最初はドクダミの葉のエキスを液体にして塗り込んでいた程度だったが、フラバンジェノールの様なフランスの松の幹細胞から塗り込んだもので透明感を得たのであって、最初は汚い色の樹皮が皮膚に塗りこまれていたようだ。 渋く漢方薬は皮膚にも練りこむじだいだった。
    口内は外皮に近い内皮と言われていて、口内殺菌や食事後の渋茶は名残でしょう、けれど最近は水やジュースで食後が終わっている現状に、ウイルス・細菌の体内侵入の危険を誘発させている切っ掛けとなっているようだがね。
    <飛騨王朝の分身たちの仮の住まい>
    最近エクアドルの金版が掘り起こされたようで、そこに書いてあった文字は解読できない宇宙文字として理解不能としていたが、ある日本人が出雲の神代文字で解読できるとして簡単に解読している。 弥生縄文時代と古くなるほどに歴史は読めなくなりますが、地の果てまでも行動する人々は我々定住民との根本的に違いが理解しにくい。 古事記・日本書紀でも簡単に場面が1000キロ先へ飛んでいたりする事も、だが、根本的に教育の違いによる行動の違いへと発展していくのでしょう、が、地球を一周しないと大人にはなれないという教科書が有れば、それは、その様に行動するだろうが・・・・・・・。
    まあ、天孫族というのはソンな教科書が有ったのだろうと、しか、うま、理論的に理解される。
    福井平野の稲作地も河川の氾濫(降雨と雪解け水)と海水浸入による地域というのは弥生末期には既に満ちていたと思われます。 現に福井市周辺の町名ですが、舟寄地区・春江地区、岡保地区・芦原など海水と真水のあるような名が目立つのです。
    もともと天孫族というのは商売を通して社会支配を考える集まりで、農漁業生産からの社会支配とは行動範囲が全く違いを見せている。国家づくりも天に通じるスタイルと地に通じるスタイルとでは腰の位置が違いすぎる。
    わたしは地に通じるスタイルが嘘の無い純粋であると思うのだけれどね。

    今日もこの辺で !
    では。

     

  • #58

    竹南方 (火曜日, 21 9月 2021 23:23)

    こんばんわ、ヒカルです。
    最近はふるしょうさんのYouTubeにはまっていて見ごたえありますね。対面形式なので対話しながら的な感覚でストップさせながら再生・停止、とじっくりと視聴しております。
    古事記・日本書紀・三国志、等々の時代考証が難しくて、ふるしょうさんの様にパソコンに資料が満載させているのは新しい発見があるのかもしれませんね。

    <地図をなぞって日本古代史を考える>  この人、ふるしょうさんのYouTubeは見ごたえがあって面白いので報告します。 特に狗奴国は神武が天皇に成る前の熊野の地で戦闘準備期間が、魏志倭人伝の倭人の章・・・の邪馬台国の南に狗奴国あり官はクコチヒコとあるが、その神武の集団がまさに狗奴国だったと。 確かに九州勢力や北九州や広島・岡山に滞在し軍の拡大が有ったのだろうと伺えますね。 越前と滋賀(伊勢遺跡)、奈良纏向遺跡を考えれば・・・各地の壷などが出てきますが九州地方の壷は出てこないらしく、卑弥呼(邪馬台国)が魏への忠誠を選択した事と、神武が東征して熊野まで来て居た事はツジツマが合う。
    ただし安本ビテン氏の天皇年数二倍説(神武天皇の即位年を紀元150年)を受け入れたという前提が必要だが・・・・。
    ふるしょうさんが語っていたのかは分からなくなったが、紀元前660年に神武即位とした理由は釈迦や孔子などを越えたかったという単純な動機があったものとも言われている。

    ・・・・・
    <日本の泥水地の歴史>
    日本の歴史というのは大きな大きな流れからならば、大きな意味で解るのですが、集約して一期間を知るのには発掘が欠かせないと思われます。高台の考古学ならば発掘に時間は必要ないですが、平野部というのは土砂の流入が大きなネックであって、丸山地区の田んぼを一㍍掘り起こすと緑色した粘土層がビッシリと埋まっております。この粘土層は堤防の無い河川時代の
    泥水の結果というのは明らかなのです。 ですから安易な低地の集落はというのは数多くの洪水による泥水の積み重ねが過去の遺物を隠しているのですよ。
    いずれにしても、私の田んぼの塚田の遺物は掘り起こしてみたい気ではいますが、仕事に追われてチャンスが廻ってこないのが現実です。丸山の水源地の周囲の盛土などを金属探知機で回ってみようかと、も、おもっていますが。
    最近、誰かのYouTubeだったのですが、中国史の魏(曹操) ~ 普(司馬懿)に移譲されて国名が変わった場合には一旦金印を返還するという事なので、親魏倭王の金印は日本国内には存在しないとも言われているらしい。が。


    では。


  • #57

    竹南方 (火曜日, 14 9月 2021 22:57)

    9月も中旬ですね、どうもヒカルです。
    コロナの影響はまだまだですが、みなさん元気で過ごしているようですね。
    みなさん と言っても、会ったことも無いうえに一般的に読書家でもあるという事だけが繋がっているようなものですが、言葉があれは案外ツナガリも確定している様なものです。・・
    さて邪馬台国ファンにとっての関心事は、やはり女王として一時的にも君臨した卑弥呼の事だろうと思います。 いろんな角度から様々な文献から多くの主張から邪馬台国の卑弥呼を考えるに、なぞ解明したいにも関わらず、出てくる答えは・・・宇宙の謎と、答えは堂々巡りの壊れた AI とでもいうのか、やみ雲の世界と言ってもイイだろう。
    やみ雲というのは気質にはある。 金の使い道がヤミクモニなるとか、やみくもに運転していたら民家に辿り着いたとか、二人の仲が闇雲になって見えなくなるとか、だ。
    せめて彼女(女王卑弥呼)の片鱗でも明確な名の書かれた勉強机や御皿や衣装などが出て来てくれれば、文献上の指定地よりも格段に推定度がアップします。 どうかひとッ、考古学的な調査を優先して発掘一番という旗印のもとスタートしてもらいたいものです。

    <丸山古墳>
    この地域は福井平野の真ん中にある事から、アクセスしやすいという事なので福井古代歴史民衆博物館として水源地を利用するべく開発し、新しく保ち、まあるく、長もち本として新築維持、そして世界に開けた優しい文化会館として卑弥呼真衣(舞い)を毎年執り行い、県知事・総理大臣・天皇・チンピラ・サラリーマンを集め、天岩戸開ける儀式を電電太鼓を掻き鳴らす360度のパノラマから巨大な宇宙船からみのもんた、身が持たないのでここまでにしておきます。
    身近な我々にとっては蝉の鳴き声、鳥のさえずり、木々の息吹という自然が身近にあるのは大変な喜びでもあります。 50年前に丸山が材木を売った地主がいて禿山にナッタころの事を思い浮かべると、時代は複雑になったなと思います。 しかし単純な所に解決策というのが転がっているのかもしれません、例えば
    例えば、木の中身は甘いものです、が木の皮膚は苦く成っていて虫やウイルスを入れないようにしています。 栗の実は美味しいですが栗の皮膚は苦くてトゲトゲで鳥でも食べれません。
    そうです渋皮や赤色顔料というのは日本脳炎やウイルスの侵入を妨げてくれる天然の素材だったのです。より虫刺されやダニによる皮膚炎、そしてウイルスによる人体えの攻撃も渋皮・朱液は防いでくれています。個人的には墨液もダニやウイルスには効果が大きいと思いますが・・・。

    <踊るアホウ、に、見るアホウ、同じ阿保なら踊らなければ損損>
    四国の徳島に伝わる現在最高の伝説となっている阿波踊りですが、阿保踊りではないので勘違いで理解されていると思います。 四国の住人に成るくらいのハイペースで四国ユーチューブを見聞してきましたけれど、邪馬台国四国説だけは何かしらのオブラートに包み入れて吐き出した食べ物のように原型が何なのか見えてきません、四国も一時代の期間に文化が育ったようなものはあるのでしょうが、イザナギから神武東征までの宇津々は感じられるにしても、元々倭国の争そいごととは無縁の相争わない衆族の感じかするのは私だけでしょうか・・・。
    考えてみてください、四国の太平洋側に玄関を持たなくても、太平洋の内浦である日本海側こそが自然を巧みに取り入れた知恵の宝庫となりはしないか、四国は二名島と言われており伊の国と予の国とあったので、淡路・二名島と国の始まりを歌っているようですね。
    しかしですよ・・・・
    しかし、魏志倭人伝に七万余国とあるように7×5=35万人を擁する人口を抱えていた現実から、徳島吉野川にはその責任は果せていなかったという四国説ストップ!! という結果しか生まれない事となる。 そして酒を飲むとある、米の酒というのはある程度米作りが進化しないと生まれてこないものであって、雪解け水か巨大墳墓にある水瓶が夏場のコメの成長を促進させるもので夏枯れする吉野川であっては満更良いコメも育たないのである。 コメは元来淡水平野でしか作れないものであるという事。
    我々北陸人は南の阿波踊りに踊らされている現状が有る、北陸の雄の星稜×和歌山の簑島との一戦は良い例だ。 踊らされてしまった星稜はファーストミットにも玉が入らなくなって堅くなった身では踊りは踊れない、終いには逆転されたのだ。
    転機を待って身を保つという基本に則れば何時かチャンスは音ずれるのである。
    耳を澄ませ・・音が変わった! チャンス到来ということとなる。

    今回は自分自身への説教でもあり、空海と最澄との戦いを具現化するこだわりでもあり、未来永光の物語の終着点でもあり、終着点は鑑真でもあるのだから・・・

    それでは。

  • #56

    竹南方 (金曜日, 09 7月 2021 00:20)

    どうも、ヒカルです。https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zpyvT5f91fs&feature=emb_logo
    7月となって線状降水帯が明日の天気を怖がらせています。 山陰あたりがヤバいみたいで、コロナと同じ様に大雨が過ぎていくのを待つ、だけでしょうね。
    最近ハマっているのは、古事記徳島説を深読みしたせいか、徳島にもイザナギ~から~神武東征までの期間の天孫族の期間が有ったものと理解するようになりました。 三村氏のYouTubeを何度見ただろうか・・・、魏志倭人伝からの卑弥呼は少し無理している気がしますので、そこは省かせてもらいたいものですが、何せ、阿波踊り(踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿保なら踊らにゃ・・・・)を材料に天孫族の存在を解いているのは素晴らしい勢いが感じられました。
    だだ、以前に私の説(書所から)でのイザナミの存在は越前に有ったように思えるのですがね。
    <天皇家の移動系譜>
    現在の天皇の活動場は東京であり、その前は京都で、奈良周辺を移動し、その前は空白の150年、その100年間は徳島美馬中心に国生み期間となっていて、その前、卑弥呼の頃は越前というか徳島にはイザナギが徳島の同じ天孫族に単身降りて行った・・・、イザナギとイザナミは本来の文化の違いによる別れをしてしまった事の結果、イザナギの国生みを徳島を中心に拡大していくこととなる。淡路島・四国の二名島・九州島・などなどを生みだしていった。
    では越前の資料として白山中宮神社にイザナギとイザナミの足跡がオシテ文字資料に有るらしく、ここでヒルコや淡島を生み悩んでいた事でもあるから、飛騨という天孫族の集団が何らかの天皇家の成り立ちを感じる・・・。
    徳島美馬には5万戸の住まいが有ったとは考えにくい、今現在は徳島と福井は人口も似ていて、過疎化も似ている様だが。
    <イザナミから卑弥呼へ改名か>
    イザナミとイザナギの離婚は案外早かったような気がします。 同じ天孫族の身の上だから似ている様だが笑いの国と寡黙な国との根本的な身に溜まったアカは簡単には結び付かない、というか寛容な国と雪国との隔たりは、結果、離婚を招き、天孫族ではありながら二人の道は邪馬台国と狗奴国という違いに至ったのでは? と思うのです。

    <オリンピック>
    九州には(宮崎)、五色人神社があるらしく、五輪の書の宮本氏も意識したのかもしれませんが、当時でも肌の色が異なる存在は強かったのかも知れません。

    まだまだコロナの空気は減りませんから、くれぐれも焦らず騒がず、清潔第一にした生活を心がけましょう。 神社の手水鉢は10代崇神天皇が発明したらしく、殺生による罪穢れなのか手を洗うという行動はコロナを衰退させるものなのかも知れません。

    では

  • #55

    竹南方(ユーチューブ) (日曜日, 13 6月 2021 22:08)

    どうも、ヒカルです。
    6月中程となりオリンピックも近く明るい矢柱が天から差してきている気がします。 
    お元気ですね、絶賛ユーチューブ見ています。 一つ一つ塗りつぶしている研究に頭が下がる一方ですね。 邪馬台国と女王国は同じではないとする考え方に、やっと理解できた想いです。
    邪馬台国から21カ国めに奴国を女王国の尽きる所としている事が筋立てて見えるようです。
    途中に21カ国の途中の邪馬国という邪馬台国では無い近い国が有りますが・・・これは出雲あたりなのでしょうか ? 、邪馬台国の支店のような邪馬国・・・・。
    <四国ソロモン秘宝伝説>
    剣山に秘宝在りという文章から 一度は見たりチェックする事となるのですが、日本には、倭国には多くの部族や地域の国が有った様だと思います。 まあ、それ以前の倭国には100くらいの国が有った様だから、女王国が30カ国程度という事なので絶対的に倭国を支配したというわけではないようですね。  其の中で四国(徳島)に集った人々はいったい狗奴国とどういう関係をモッていったのだろうかと・・・・。
    最近ハマっていてなかなか抜け出せないのですけれど、ただ、ただ五万余戸数を理解すれば邪馬台国では無いと答えは出るのです。
    <卑奴母(ひなもり)>
    卑奴母(ひなもり)という官がいます、卑奴母を漢文から要約すると・・卑弥呼は奴国の母となるようですね。 奴国から女王とするべく米作地帯の越前に根を下ろして、邪馬台国をマトメて安定させて、そして女王国の範囲を約30カ国まで広めたのだろうと思います。
    倭国の統一の寸前までこの体制を維持しつつ、他の倭人地域との連盟を模索する。
    <京都大学出身安本美典氏>
    安本さんの仁徳天皇以前の天皇年齢二分の一説。 この説はオロチ先生の農業米生産穀高比例説と似ていて、納得させられていて真実だと考えさせられました。
    安本氏の講習演説を見ていまして、千年が五百年しか進んでいなかった事に、越廼国の季節感というのが越年読み(春と秋を二年とした)を生んだのか、中国(シナ)の越国からの渡来民による年数えが仁徳天皇あたりまで数えられていたのか・・・、西暦が無い為にそのように数えてしまっていたのか、舎人親王・稗田のアレ・太安万侶、等は、いえいえオオキミ内の歳読みは二倍にする習慣が、何故か数えられていた、とする安本氏の第一の邪馬台国探索の大きな大きな証明として安本氏を美典として評価されているみたいです。
    しかし、それに留まっていては進歩が無く、怪しい古代研究家の大頭ダイトウを許してしまう事となっていく暗黒の御手前理論が蔓延ってしまう。ハビコッタ御手前理論は、暴走を重ね、神尾冒涜するのか、それとも笑ってすますのか、ナンデ そんな小さな事象まで・・・、わかるのじゃーと言いたい気持ちがぁ、神尾です。(笑)

    <飛騨王朝伝説>
    縄文時代はアマリ文化流入としては無かったように思います、やはり米作により人口が増えだす頃からが文化が築かれていった事は誰しも感じているのでしょう。 その縄文文化の中に逸早く卵巣に入る精子の様に辿り着いた地、それが飛騨山地だった様に思える。 対馬海流に乗り丹後・越前を経て宝来山に着き、そこから大きなアルプス山脈の麓まで辿り着いた。 二艘三艘の大きな船で着いたという伝説が有るようでトミー一族とか・・・、そして彼らは神通川を南下し飛騨の地で天然温泉に足を奪われる、また縄文人の生活スタイルを取り入れ(郷に従う)て一神教の神を表わす前の段階として、巨石文化を残すこととなる。 縄文海進が終わりかけた頃に飛騨を降りる事となる、天然温泉は有れど食料事情が良くなく、寒冷では種族(天孫族)の身体までも子孫までも・・・・降りる事となる。山本・山下を先頭に暖の取れる食料の確保できる場へとチームを作り種族の証明書となる石材を胸に翳し、子孫存続に命をかける。のである。
    <饒速日の命(ニギハヤヒ)>
    この男は直接に天孫から降りてきた様で、関西に住み関西で偽名多く、偽名を創る事で天孫族の御方様の正統性を伝播していく。


    今日もこの辺で。




  • #54

    ヒカル (日曜日, 02 5月 2021 20:57)

    どうもヒカルです。
    五月の連休です。 いかがでしょうか、相変わらずペースがある
    八俣遠呂智先生ではありますね。
    われわれ凡夫からしたら頭があがらないですね。
    という事で、考古学や科学的または実証的根拠からの知恵に乏しい者にとっては、魏志倭人伝や古事記・日本書紀などの文献からとなりますが・・・今回も、感じるものがあったので・。

    <黄泉の国という表現について>
    黄泉の国と表現された意味合いについて死の国と和訳されていますが、いやいや、古事記からはそう理解されているようですね。 黄泉国=死の国 と定着しています。 怖いというしかないような国とされています。  しかし、どうでしょうか、黄色い稲穂の多い国と読み返せばだが、理解不能な稲穂だらけという見方をされていた人々の集団(天孫族)の見分で書かれている書物が古事記・日本書紀の当時の見方だったとしたら、そこに死も含めた事件(天災)も含めて"黄泉"と呼ぶ様に漢文大和へと移行する過渡期の表現として"黄泉の国"を利用したのではないだろうか。 と思うようになりました。
    かつてマルコポーロは日本の第一印象を・・「黄金の国ジパング!!」と言っています。

    <イザナギがイザナミの神社を余生の淡路島から渡、美馬市に伊邪那美神社を中州に創る>
    これは離縁した理由が想像できる。 それは君の居る場所は河の中州なのだと・・・イザナギは元妻の意地に対してのササヤカナ反抗として中州に宮を建て祭ったのではないだろうか。
    水害や天災の多い土地に縛られるのは"もういいよ"と無言の祭りを似た地で供養したのであろうと、思われます。
    この時代には越前の地も入植できる場所は、危険地帯は多く広いが、扇状地や川下というのは失敗しやすく二重の苦しみに出会という、因果な所で、当時の河川というのは竜に例えられるほど手の付けられない制止させれない災害を繰り返す事があったからだ。
    天孫族は山から下りてきただろうから、平野部の思ってもみない災害を一度は出会ってしまうものなのかもしれない。
    <イザナギ・イザナミが国を見下ろす天の浮橋に立ち・・・>
    天の浮橋 = 二本松山古墳の端に立ち と漢文の無い時代の平仮名もどきで語った言葉を古事記にしているからか、そこから見下ろす入植地は塩水と河川と沼地で有った様で、そこから始まる二人の旅路はアッケなく一代半で終わりを告げる。 同じ天孫族の散らばった地へゆくゆくは辿り着き、別れ、時が過ぎ、妻の出身地の島根に葬り、イザナギは淡路に引きこもる。

    ・・・・・
    なぜ北陸越前へ入植したのか? それはやはり、黄色い米・麦というのは害の少ない食べ物だと理解されていたからではないだろうか。 四国の讃岐うどんの始まりはイザナギが苦労の末広めた食べ物では? と感じるのは私だけだろうか。 米よりも麦の栽培の危険度が少ないのは陸麦栽培として成り立つからだろう。
    畿内では三輪そうめんが活動期となるのもこのころからだろう。


    今日もこの辺で・・。






  • #53

    hayachan (土曜日, 24 4月 2021 10:41)

    次の2点に疑問があるのですがご教示願えませんか?
    1. 九州に上陸してから奴国に行くまではやけに詳しいのに、20日も掛かるというのに邪馬台  国までの途中経過(経由地)が全く書かれて無いのはどう考えられますか?
    2. つまびやかでないその他の傍国はどこに比定されますか?

  • #52

    ひかるチャンネル (月曜日, 05 4月 2021 18:39)

    ヒカルです。
    おしんの橋田さんが亡くなられたそうです。
    95歳まで生きるというのは、おしん一筋の精神があったのだろう。
     帰省一週間を過ごしました。 老夫婦(私の)が車を廃車したので、徒歩とタクシーで買い物をするという状況なので心配してました。 80歳済んでいるのでやはり心配で、帰省を長くしました。
    そんな中で、丸山淵の西片面を歩いてきました。 
    【亀石型横穴蓋】
    神社の昇り階段の下から願応寺の間の山側に四角い井戸のマスが有ったので(昔から)眺めていましたら・・・・その奥の雑木林の地ズラに岩が有ったので眺めていました、何か楕円形の形状していたので亀の甲羅を大きくしたような岩だなと・・・・思いました。 岩の材質は"サザレ石"の様で、君が代を思い出して、いたんです。 が、またフト、井戸と丸いサザレ石のコンビネーションが坑道の蓋と感じ得ました。
    地べたに平行してある坑道であるならば・・・・ひょっとして奴婢百人の坑道(墓)だとしたら、扱いやすい坑道となりはしないか、と思った次第です。
    <貯水棟の秘密>
    丸山の山側の廃屋が有りますが、近ごろ不動産屋(アイフル)に売ったのか、そこには住まない地主が不動産屋に任せたようで調査していました。なぜ住まないのか? 村内には住みずらい、のか、それともヘビが出るからなのか? 廃屋になって20年以上ですから、売るタイミングだったのか・・・。 ヘビでしょう。 わたしの自宅まで時折姿をみせるヘビは穏やかだが夜の動物の鳴き声というのはヘビが小動物を飲み込む時の喘ぎ声だったのか、よく聞こえてくる。
    餌の無い季節になると私の家まで出てくる様だ。
    守り神なのか厄介な動物なのか、貯水池が廃墟になった理由が少しずつ見えてきたが、まさかヘビが貯水棟にトグロを巻いて住んでいるとしたら・・・。

    福井県に帰って福井の番組見ていると、歴史に対しては余り熱心ではなく、米・家・仕事、と現実的な視点が強く、県が主催する"越前時代行列"ではミスお市の方、が福井のミスコンとなっていて柴田勝家役のタレントが気になる程度の歴史思考で終っている。 何故に朝倉氏・新田義貞氏というのは主役に成れないのか・・・・それは負け戦的な戦歴が越前の歴史となっている中、お市の方は三姉妹を生み江戸幕府の礎となった所に福井県民の心があるのだろう。
    漢文と平仮名からが歴史の始まりが強く、言葉が無かった現れない現状に奈良時代の繋がりからが歴史を感じさせる事柄が多いのだろう所が歴史の始まりであり全ての福井県の物語となっている。 魏志倭人伝の雰囲気には酒文化や敬老文化や料理文化が進んでいる景色があるが文化を持った渡来人は雪国ではなく雪の積もらないラインに多く移り住んだ気がしてならない。
    雪のある時期というのは精神統一が損なわれるので文化祭的には遅れてしまう結果となっているような気がする。 ただ、生活文化は進展する発展する気配を感じるが・・・。

    きょうはこの辺で、ん
    ところで、丸山墳墓の突破口は県や市の文化部の力による様な気がしているのですが、卑弥呼にに関しては宮内庁は関わっていないのが筋なので、宮内庁を意識するのは神社の境内だけにので、其処だけ残して県や市は調査発掘と貯水棟の解体を進めるべきだ!!。 竹田恒泰氏さんは邪馬台国卑弥呼を‥‥『だれ? それ、日本の歴史には・・・無いから、どっかに王が、たくさん王は居たからね列島には。』と、ユーチューブでは言っていました。

    では。





  • #51

    田中 (木曜日, 01 4月 2021 19:00)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事お慶び申しあげます。
     コロナ第四波に入り、社会が一変しておりますが、産業革命以来の構造変化の過度期の場に我々は存在して次なる港を目指しているのでしょうか。
     さて、箸墓古墳(神話によると、ヤマトトトヒモモソヒメ)は、「国立歴史博物館研究報告Radiocarbon -Dating the Appearance of kofun」炭素14年代法で箸墓古墳が完成したのは西暦240~260年と考えられる。という研究は確かなのでしょうか?魏志倭人伝では、卑弥呼が没したのは西暦247年頃です?。この年代を意識した邪馬台国近畿説の発表ですね。陵墓ですので宮内庁が比定していますから考古学者も立ち入りは出来ない制約がありますね。
     名古屋大学と樫原考古学研究所共同で宇宙線ミューオンで箸墓の埋葬空間を確認しようとしていますね。箸墓の埋葬者解明は古代史関係者皆が望んでいると思います。
     ヤマトの墓は元々、方形周溝墓で4m=12mの墓でしたが唐子・鍵遺構のように建物は大きかったので、水運にも都合の良い奈良が交易場として合意ができていたのでしょうか。
     三世紀~四世紀に中央集権国家の原型が成立したと考えられています。しかし、真実は常に少数説である事は歴史が証明しています。
     お身体に気をつけて益々のご精進を祈念致します。

  • #50

    ひかるチャンネル (日曜日, 21 3月 2021 22:24)

    ヒカルです。

    気になる事があったので・・・。
    丸山墳墓としている丸山において、墳墓としての道具・材料・人材は不可欠だと思われます。
    道具は鉄製のスコップは作れたでしょう、そして人材は当然揃ったでしょう、・・・しかし・・
    材料はいったい何処から取り入れ運んだのだろうと、思いました。
    材料(石材) ? となると、丸山一帯は泥で埋もれている地域なので、遠く九頭竜川だったり、シャクダニ石材地だったりと、ずいぶん離れているように思う。 という事は、丸山墳墓に選定された時には石材の事も考えられていた筈だと・・思いました。
    ・・・・・考えてみました、長い時間。
    ふと、そういえば、丸山の北西の崖は何の理由からか、墳墓用の石材として丁度イイ大きさであり形が積み上げやすい平板なモノだったと思い出しました。  ああ、これは作業効率といい絶好の墳墓作りとなるだろう、と思いました。
    だから幼い頃から平板型の崖の崩れ方といい、何かの作業場の気配を感じていたのは間違いのない事実です。願応寺の山側の崖が削り取られて、トラック5杯分の石材(崖石)が無いような気がしていました。1800年前の事だとしても可笑しくない事実だと思います。

    ああそうか。

    今回は、石材が有るから墓を造ったという順番に考えてみました。

    今回も、あくまで自説からですが、考えてみました。
    では。

  • #49

    ヒカル (月曜日, 15 3月 2021 06:34)

    こんにちはヒカルです。
    YouTubeでプロレスを好く見ています、天竜が大好きで突っ張る天竜に外国レスラーも動きが止まっている時、タケミカズチがタケミナカタを諏訪湖へ飛ばしたという伝説を描いてしまいます。 レスラー天竜は丸山墳墓と言われる上流の町勝山市出身なのです。

    <乙巳の変>
    イッシの変が起きたのは皇極天皇の在位中です。乙とはオッス!! ありがとう ごくろう という意味が有り、そして巳とは の意味であるから、乙巳とは御疲れ交代します、の意味としての事変ということで理解されて国史に書かれている様だ。
    <イザナミの墓を造った天照大御神>
    スサノオが起こした事件は天変地異による邪馬台国崩壊を語っているとするならば、田の畦を壊した件・牛が機織り小屋に流れ込んだ件・食堂の女を殺した件、などは黒竜川の氾濫を示唆している様子であって川の水流氾濫によって失われた田畑は取り返しのつかない状態と化し、イザナミの死後に天照大神は洞穴に住まわれて現状を取り戻す事ができなくなって終いました。 そんな中で埋葬を考えるのですが・・・・卑弥呼(イザナミ)と奴婢百人を同時埋葬墓という形で低い場所からの入り口を設け、埋葬する。 そして、この地と決別の儀が滋賀県守山の地で執り行われ(伊勢遺跡)、天照大神は父親(イザナギ)の指導の下へと進展していく。
    イザナギは性格上"暗い所"、"湿った所"、ヘビ、殺し、などが好きではなく、自然から排除したいと思っていたようで、妻のイザナミとは許容量が違っていた、夢に見るのは常日頃得体のしれないものであったに違いない、間違いない。。。

    皇極天皇の御世になると倭国の存在・イザナミの存在・九頭竜川の氾濫頓死、等々を神話化して消し去ろうと・・・・最後の権力者である蘇我氏との乙巳の変をして終う。 国権の仲間の命まで取ってしまった結果と成って、その歴史(倭国・氾濫都村消滅・イザナミの道程)をアル程度消していく作業が必要と成っていったのである。 結果として、神話にして供養できたとは思えるが、蘇我氏の首は日本中を舞っているかもしれない。

    <奈良時代>
    大きく示す良い時代・・・・。
    田畑を洪水から守るための方策として、ダム建設・・・当時は湖水・ため池建設であったのだろうが、古墳時代には実行されてきて、飛鳥・奈良へと確信されてきて安定し、平安遷都へと繋がっていく。

    きょうも長ったらしくコメントしましたが、あくまでも自説なので、そのへんよろしくお願いします。 座りっぱなしは穴の血管を潰しているので歩くようにしましょう。

    では。

  • #48

    ひかるチャンネル (日曜日, 28 2月 2021 12:48)

    こんにちはヒカルです。
    マイペースですが今回も奇想天の想いで歴史文献を読んでみました。
    今回は約80台の歳で死んでいった卑弥呼が、卑弥呼子(男王)・狗古智卑狗(官)の組織と対峙したという記紀神話文献から関係性が相似している気がしましたもので・・・。
    <イザナギとイザナミの夫婦の関係が卑弥呼子と卑弥呼との関係と似てる似てない !!??>

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kobayashi_Izanami_and_Izanagi.jpg
    天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。イザナギとは夫婦となりオノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
    火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチはイザナギに殺された。 カグツチの亡骸は熊野や島根に埋められた。
    死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。 イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミとイザナギは離縁した。
    ・・・・・・・・。
    この後、イザナミは黄泉の『 主宰神 』となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。 
    <黄泉津大神としての主宰神>
     直接に死去したとは表現されていない。「神避り」の解釈を巡っては、天皇の「崩」に対応する神の死の表現とする説や、死を意味するのではなく元いた場所から離れていくことを表すとする説、死を表す文脈にあって、異なる神格への変化を含んだ、黄泉国への移動の表現とする説などがある。(国学院古事記の説明より)
    と、する国学院の説明からすると・・・・・イザナミは身が死んではいないが黄泉と云われる国に居座ってしまった、という事になると想う。

    <ハラミ山(原目山)に16歳から其処に住まわれた天照大御神>
    これはホツマツタエからですが、天照大御神が全国行脚(あわ歌・田作り・生活等)する父母の不在中でしょうが、高天原から高臨して天津国に来て育った場所とされている。
    ・・・・・
    原目山でしょう!!。


    今回は記紀文献から考察しました。
    丸山墳墓は天照大神よりも母親のイザナミの方が可能性が有る気がします。
    イザナミの亭主への裏切りにより名も無き神社は増大したのは良かったことだと思います。
    こうなったら・・・
    こうなったら世界中に、たとえばアイダホ神社とかカレー神社とかジャーキー神社・石油神社・天安門神社・地中海神社・あっふりか動物神社・唐辛子神社・島唄神社・アサイー神社・
    とか、鶴瓶神社・アザラシ神社・・・・・・・・・・・・・・・等々の名も無き神社が増えたとしたらイザナミのお蔭だとなります。 ね。

    では。 そうだチャンネル登録お願いします。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=5&v=zpyvT5f91fs&feature=emb_logo

  • #47

    八俣遠呂智 (木曜日, 25 2月 2021 09:57)

    山口哲也さま
    魏志倭人伝シリーズで述べていますので、ご参照下さい。
    https://www.youtube.com/playlist?list=PLrCGq8HwIwxYL2T5zgZuVG1kfs-abekNN

  • #46

    山口哲也 (日曜日, 21 2月 2021 23:09)

    追伸
    ⑤奴国の比定地を博多の金隈遺跡とお考えでしょうか?しかし、奴国の中心地はむしろ当時の青銅器生産の一大拠点である、須玖岡本遺跡付近と考えるのが一般的です。そうすると、伊都国の真東に位置しますが?
    ⑥方位が90°ずれて記載されたことの妥当性は?なぜ、朝鮮半島→対馬→壱岐→末盧は、45度のずれなのか。むしろ、全て45度のずれ(私は30度と考えていますが、これもどのポイントを取るかで違ってきます)と考える方が一貫性があるのではないか?
    以上質問の追加です。

  • #45

    山口哲也 (日曜日, 21 2月 2021 20:58)

    八岐遠呂智様の「邪馬台国と女王国は同じじゃないよ!」動画を拝見しました。
    「悪質なる曲解」に対する嫌悪の気持ち、よくわかります。
    原文に忠実に読むべきとのご意見全くごもっともです。
    そこで、質問です。
    ①女王国に統属=女王国の一部という見解のようですが、女王国との主従関係との見方の可能性はないでしょうか?
    ②末慮国=現在の伊万里市である根拠はありますか?
    ③対馬から壱岐が45°方位がずれているとし、伊万里から伊都国は方位が90°ずれているとしているが、では、その後行程がすべて90°ずれるとする根拠は?
    ④③の方位のずれは、魏志韓伝においてもいえるずれなのか?
    以上が、この動画を見ての疑問です。
    ちなみに、私の見解はこれらの点で異なりますので、ご質問差し上げています。
    ぜひともご見解をお願いいたします。

  • #44

    藤原 (金曜日, 12 2月 2021 00:32)

    弥生時代のはじめから日本列島は「ヒムカイの国:ヒッタイト」の植民地となった。
    神武帝の東征により首都を任那から大和へ移動し、統制力の弱まった満州地域で上づ国(高句麗)が関東軍と同じ原理で暴走し独立した。高句麗が宗教的、言語的にみて朝鮮族ではなく、日本民族であることはあきらか。
    卑弥呼は伊勢の斎王:いつきの「ヒメミコ」を事情を知らぬ中国人が名前と勘違いしたもの。
    瀬戸内は軍事目的のため平安時代にいたるまで外国船の通航が禁じられていた。したがって、日本海か太平洋にでて伊勢湾からはいるしかない。太平洋航路をとる場合、九州の東か西を「南下」し黒潮に乗り伊勢湾の「鳥羽:投馬」から上陸、神宮近辺をとおり大和にはいるのが自然なルートだとおもう。
    「倭人伝」に伝わる倭人の風俗はヨーロッパ西アジア系であるはずの日本民族というより、渥美半島周辺を拠点とし朝廷につかえた海洋民族である安曇族の風俗と考えるべきだ。