紀年銘鏡こそが 魏からの下賜品

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの8回目。今回は、魏志倭人伝に記されている下賜品の一つ「銅鏡百枚」について、私の説を示します。

日本列島全域で発見された銅鏡の、僅か1%に満たない「紀年銘鏡」こそが、それに該当すると考えます。紀年銘鏡とは、銅鏡に魏の年号が記されているもので、希少性だけでなく、権威性も高いと言えます。この銅鏡の出土状況は、女王國の支配地域とも一致しています。

 魏志倭人伝には、倭国の朝貢に対する下賜品として、「銅鏡百枚」が記されています。これは一体何なのか? という議論が邪馬台国研究者の間で繰り広げられています。主なところでは、畿内説が主張する三角縁神獣鏡と、九州説が主張する平原遺跡から出土した青銅鏡です。

 前回の動画で、近畿地方から多く出土している三角縁神獣鏡については、

・出土数が多すぎる事

・製造時期が100年遅れている事

・中国からの出土がなく、日本国内産の可能性が高い事

などを理由に、魏からの下賜品ではないと結論付けました。

 一方、平原遺跡からの出土品については、一部が日本国内産である事を除いては、時代的な一致もあり、可能性は高いと思います。平原遺跡は福岡県糸島市にありますが、畿内説・九州説ともに魏志倭人伝に記された伊都國と比定されていますので、どちらの説ともに納得のいく出土品と言えます。

 しかしながら、私は少し違った見方をしています。

 弥生時代の青銅鏡の中でも、「紀年銘鏡」と呼ばれるものがあります。これは、鏡の絵柄と共に中国・魏の年号も記されています。非常に希少なもので、日本国内では、わずか8点しか発見されていません。弥生時代末期から古墳時代に掛けての青銅鏡は、800点近くの出土がありますので、その中で年号が入った銅鏡は、たったの1%に過ぎないという事です。

 私はこの紀年銘鏡こそが、魏の皇帝からの下賜品であると推測しています。

理由は二つあります。

 まず第一は、800点の中の僅か8点という希少性です。日本でも古墳時代ともなれば、鋳型を取って大量のコピー品が作れた筈ですが、紀年銘鏡にはそれがありません。8点はそれぞれ異なる鋳型で作られています。

 そしてもう一つは、年号が入っている事の重要性です。現代でも、公文書・私文書問わず、日付の入っていない書類は無効です。いつ作られたものかが書かれていない文物は、いつの時代も軽く扱われます。日本の弥生時代とは言っても、中国では既に千年以上の文明が経過した時代です。年号が入った青銅鏡の価値は、入っていないものとは比較にならないほどの重要性があったものと考えます。

 紀年銘鏡の内訳は、次のようになります。

魏の皇帝からの下賜は、正始元年(西暦240年)ですので、その年代よりも古い年号が記されているものを拾い出します。

最も古いのは、青龍三年銘の方格規矩四神鏡が二点。

次に、景初三年銘の三角縁神獣鏡が一点と、画文帯神獣鏡が一点。

景初四年銘の三角縁盤龍鏡が一点。なおこれについては実在しない年号なので、「日本国内製である」、という説もあります。

そして、正始元年銘の三角縁神獣鏡が三点です。

 これらの出土地の分布です。

最も古い青龍三年銘の方格規矩四神鏡は、京都府峰山・弥栄町の大田五号墳と、大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土しています。

景初三年銘の三角縁神獣鏡は、島根県加茂町の神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)から出土しています。

景初三年銘の画文帯神獣鏡は、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳から出土しています。

景初四年銘の三角縁盤龍鏡は、京都府福知山市の天田広峯遺跡から出土しています。

正始元年銘の三角縁神獣鏡は、山口県周南市の竹島家老屋敷古墳、群馬県高崎市の柴崎蟹沢古墳、兵庫県豊岡市の森尾古墳から、それぞれ出土しています。

 このように紀年銘鏡となると、近畿地方ではたったの2点ですし、九州からは全く出土していません。

年号の入っている重要な鏡となると、分布状況は一変してしまいますね?

 一見すると、日本列島各地からランダムに出土しているように思えます。けれども、ちゃんとした傾向があります。日本海側の地域からの出土が多いのです。では、これに私が主張する女王國の領域を重ねてみましょう。

八点中五点が女王國の範囲の中で見つかっているのが分かりますね?

 では、近畿地方に焦点を絞って見てみましょう。

三角縁神獣鏡の大量出土のある地域ですが、紀年銘鏡に限ってはたったの2点です。安満宮山古墳と和泉黄金塚古墳からの出土です。これらは、古代の近畿地方の中心だった河内平野や奈良盆地ではありません。

 和泉黄金塚古墳は、大阪南部にある4世紀後半頃の前方後円墳です。記されている年号と古墳の築造時期との差が150年もあります。これだけの差があるという事は、後の時代にどこか他の場所から持ち込まれた「伝世鏡」の可能性があります。

また、安満宮山古墳は、淀川下流域にある小さなお墓で、3世紀の築造とされています。まさに邪馬台国時代と一致する墳丘墓なのですが、年代推定に重大な問題があります。

 一般的な古墳の年代推定は、出土する土器の種類から行う「編年」という手法が用いられますが、この古墳からの土器の出土はなかった為に、銅鏡に記されている年代をそのまま信用して、3世紀の築造としてしまっているのです。考古学の権威たちの「近畿推し」は有名ですが、その典型的な悪例と言えるでしょう。かなり虫のいい話です。

近畿地方以外でこんな年代推定をすれば、彼らは口から泡を吹いて激怒してしまいますね?

 この古墳からは、鉄製の長刀や翡翠の勾玉、さらには紀年銘鏡ではない三角縁神獣鏡の出土もあります。弥生時代のものとすれば近畿地方では非常に貴重な発見とされていますが、年代推定自体に誤りがあります。

 近畿地方でこれらの遺物が一般化するのは5世紀~6世紀頃ですので、その頃のお墓だと私は推定します。つまり、記されている年号よりも200年~300年も後ですので、発見された紀年銘鏡はやはり「伝世鏡」である可能性が非常に高いものです。

 一方、但馬・丹後・丹波エリアからの紀年銘鏡は3点あります。ここは現代でこそ近畿地方に含まれている地域ですが、日本海に面している事もあり、太平洋側とは明らかな文化的断絶があった場所です。奈良盆地などで大量に発見されている青銅鏡は少ないものの、貴重な紀年銘鏡は3点も発見されているのです。

 また、そのほかの出土品の質でも、圧倒的に太平洋側を上回っています。

 この地は、魏志倭人伝に女王國の中の主要国の一つ・「投馬国」ですので、後進地域だった太平洋側の「狗奴国」とは一線を画していたという事です。

 いかがでしたか?

河内平野や奈良盆地を中心とするエリアは、4世紀からが日本の中心地ですので、邪馬台国時代にはあまりぱっとしませんね? 青銅鏡についても「紀年銘鏡」の出土はなく、後の時代に大量に作られた「年号無し」の銅鏡ばかりです。

これは前方後円墳が日本全国に広がって行った事との相関関係があります。「年号無し」の銅鏡もまた、それと歩調を合わせるように、日本全国に広がっています。水田バブルに沸いた近畿地方の古墳文化の一端が、青銅鏡の広がりから垣間見る事ができるでしょう。