冷遇されていた藤原氏

 邪馬台国が歴史から消された原因は、藤原氏の蘇我氏への遺恨です。蘇我氏一族を完全に滅亡させた後でも、藤原氏の怒りが収まらなかったのでしょう。古事記・日本書紀の編纂においても、蘇我氏一族がいかに極悪だったかと記述するだけでは飽き足らず、蘇我氏の支持基盤であった邪馬台国を歴史書から抹消することで、藤原氏の溜飲が下がったのでしょう。

 では、遺恨の原因は何か?

藤原氏の息の掛かった記紀からだけでは見えて来ない状況を、藤原氏と蘇我氏の勃興の時期から追跡して、両者の関係を見極めて行きます。

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藤原氏のルーツ1[邪馬台国]

 記紀編纂時の天皇家の最高権力者だった藤原氏ですが、そのルーツはほとんど記されていません。

中臣鎌子、中臣勝海などの祖先の記載もありますが、特筆すべき活躍はありませんでした。

 中臣氏(藤原氏)が活躍し始めるのは、七世紀の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を殺害するところからです。

突如現れた正義の味方・中臣鎌足として現れます。中臣鎌足はその後、藤原姓を貰い受け、朝廷の重臣として長く天皇家に仕える事になります。

 では、中臣氏とはどこから来たのでしょうか?

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藤原氏のルーツ2[邪馬台国]

 京都山科で、神事をつかさどる豪族だったという説や、中臣氏を祭る神社がある茨城県とする説などがあります。しかし、神社伝説は忌部(いんべ)伝説のように、ほとんどが後の時代に創作したものです。

 歴史を辿っていけば、藤原氏の祖先は、近江の豪族・近江毛野(おうみのけの)の可能性が高いでしょう。この豪族は北部九州や朝鮮南部の磐井一族で、継体天皇と共に西暦500年頃に畿内に入った豪族です。近江国を任されていました。

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藤原氏のルーツ3[邪馬台国]

 藤原氏が、天皇家の主要豪族になる前の六世紀の主要豪族は、蘇我氏、大伴氏、物部氏などです。

彼らは、六世紀に越前の大王・継体天皇が近畿を征服した際に、主要ポストについた豪族達です。

このうち、大伴氏と物部氏は近畿在来の古参の豪族です。蘇我氏については諸説あるものの、越前の若長宿祢を祖として、越前の大王に仕えた豪族と考えられます。詳しくは、私が以前に作成した動画、「邪馬台国の重臣 蘇我氏は渡来人」をご参照下さい。

 

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六世紀の主要豪族[邪馬台国]

 この時代は、越前からの渡来人を介して中国・朝鮮の最先端技術が大量に流入した時代です。それだけでなく、政治体制も刷新され、守旧派だった豪族はことごとく排除されました。彼らに入れ替わるように、越前や同盟国の北部九州勢力が主要なポジションに就きました。

 中臣氏(藤原氏)も、この時代に九州から越前との連合軍として継体天皇に仕え始めました。

ところが記紀には、この時代には登場しません。藤原氏だけでなく、九州の他の豪族も、一切登場していません。それはなぜか?

 

 単純な話です。九州豪族が冷遇され、中臣氏(藤原氏)もまた冷遇されていたからです。

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中臣氏一族の失敗[邪馬台国]

 九州勢力が冷遇された理由です。

 西暦527年に、北部九州で磐井の乱が勃発します。これは、継体天皇が磐余玉穂宮に遷都した翌年、つまり、近畿征服を完了してからすぐの事です。古代史に於ける最大の戦いで、北部九州と新羅が連合して起こした反乱です。越前と同盟関係にあった北部九州が、近畿征服後に何の恩恵にも預からず、不満が爆発したのではないでしょうか?

 これの鎮圧に向かったのが、九州系の中臣氏一族です。元々、磐井一族の流れをくむ近江毛野が、その役割を担い、九州や朝鮮へと向かいました。しかし、大失態を犯して大敗を喫してしまいました。

 倭国・日本は、この反乱の結果、朝鮮半島南部の利権を失う事になりました。

 この磐井の乱こそが、藤原氏が蘇我氏に対して怨念を持った根本原因と思われます。

九州系の中臣氏が、一族である近江毛野の失敗により、朝廷内での地位を落としてしまったからです。日本書紀・古事記にその事情を中臣氏の責任と明記していないのは、記紀編纂時の最高権力者が藤原氏だったからです。

 磐井の乱以降、皇室の主導権は、越前系の蘇我氏一族となり、九州系の中臣氏は冷遇される事になったのです。

冷遇6
蘇我氏の時代へ[邪馬台国]

 日本書紀によれば、蘇我氏一族は、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と、朝廷の最重要ポストを歴任し、大伴氏や物部氏などの主力豪族を失脚させたとしています。

 蘇我氏の独裁体制は、天皇をないがしろにした無礼な行いであり、これを征伐したのが藤原氏(中臣氏)だったというストーリーになっています。

磐井の乱以来、蘇我氏の独裁体制で冷遇され、辛酸を舐め続けた藤原氏(中臣氏)の怨念が、乙巳の変で蘇我入鹿の殺害へとつながったのでしょう。そして、蘇我氏一族の出身母体・邪馬台国を歴史から抹殺する手段を選んだのです。

 次回は、蘇我氏の出身母体の邪馬台国と、邪馬台国から出現した『謎の大王・継体天皇』に対する藤原氏の扱いについて検証します。