三韓征伐は 実話だった②

 前回に引き続き、神功皇后の三韓征伐の信憑性について考察します。

 縄文時代からの環日本海地域の状況から、

   「日本海1000kmの大航海」

   「三韓征伐の目的・大義」

の二点について、筋の通った仮説が成り立ちました。

 今回は弥生時代の戦闘における、

   「大規模な軍団のリスク」

   「現地の土地勘」

についての疑問に対する解答を導きます。

 環日本海全域に縄文人が住んでいたという前提に立てば、これらもあっさりと筋道が通ると思います。

三韓210
三韓征伐の疑問点

 前回の動画では、三韓征伐における疑問の内、「日本海1000kmの大航海」と「目的・大義」について、考察しました。

 これらは、4000年前の縄文時代には日本海航路が拓けていた事や、縄文人が支配していた地域の「失地回復」という視点から、解明する事ができました。

 今回は、「大規模な軍団のリスク」と「現地の土地勘」という疑問について考察します。

この問題についても、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提に立てば、なんら問題なく解明するでしょう。

三韓220
軍隊の規模

 まず、「大規模な軍団のリスク」ですが、単純に考えて弥生時代に何万人もの兵力を中国大陸へ送り込む事は不可能だったでしょう。多くても、せいぜい五百人程度の軍隊が船団を組んで海を渡ったと見るべきではないでしょうか。それでも古代の事ですので、かなりの大人数の軍団です。

 そもそも、弥生時代後期の日本列島の総人口は、50万人前後のレベルだったと推測されています。当時の農耕地の規模から算出される人口ですので、妥当な数字だと思います。また、邪馬台国・越前の人口は、水田稲作の耕地面積から推察して、5万人程度でした。それでも当時としては、一極集中型の日本最大の人口密集地帯でした。その中から、中国大陸へ軍隊を派遣するには、働き盛り若い男達を駆り出せば労働力が減少してしまいますので、せいぜい500人程度の軍団だったと推測します。

 現代から見れば少ない人数と思えますが、当時としては、かなりの数です。500人もの軍団が1000キロの大航海をするのは至難の業です。まず、弥生時代の船は、20人乗りくらいの準構造船です。これは、福井県の井ノ向遺跡から出土した「大石銅鐸」に描かれた線刻画からの推測です。これに乗って日本海を渡るとなると、25艘(そう)もの大型船を作る必要があります。

 それだけならまだしも、兵站(へいたん)部隊が必要です。食料や水などの物資の配給、船の整備、上陸後の施設の構築や維持など、現代と共通する軍隊の基本的な構成は、弥生時代も同じだったでしょう。

 このように、500人程度の軍団を率いての三韓征伐は、果たして可能だったのでしょうか。

三韓230
上陸作戦

 倭国のたったの500人程度の軍隊だけでは、高句麗との戦いの結果は、明らかでしょう。

高句麗は、中国東北部という農業に適さない土地で、遊牧や狩猟で生業を立てていた地域です。そのため人口密度は僅かだったと考えられます。しかしながら、鉄器文化を持つ騎馬民族でしたので、船でやって来る500人程度の敵であれば、上陸さえ許さなかったでしょう。上陸が出来なければ、倭国の500人の軍隊は水と食料が底を付き、戦わずして全滅してしまいます。

三韓231
現地に縄文人が住んでいれば、軍隊の上陸は容易

 ここで、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提に立てば、全く違う展開が想像できます。4000年以上前から現地を支配していた縄文人の一部が、高句麗の圧力でボートピープルとなって日本への帰国を余儀なくされました。しかし、その大部分は現地に留まり、高句麗との小競り合いを繰り返していました。そのような状況の中で、神功皇后をリーダーとする500人の精鋭部隊が加勢したと見れば、どうでしょうか。中国大陸への上陸作戦は全く問題なく、食料や水の補給などの兵站(へいたん)部隊も必要なくなります。

 なによりも、強力なリーダーの出現によって、各地に点在していた縄文人集落が一致団結して、高句麗に対抗できるようになったのではないでしょうか。

三韓240
縄文人は沿海州の津々浦々まで知っていた

 もう一点の疑問、「現地の土地勘」ですが、これも何ら問題なく解決です。

もし、環日本海全域に縄文人が住んでいなかったならば、高句麗・新羅・百済と戦えるわけがありません。紙に書かれた地図など無い時代です。いきなり三韓征伐に行っても、どこに何があるのか、敵の本陣がどこであるか、全く分からないのでは、戦になりません。必ず現地の地理に精通した人々がいたはずです。

 これが、1000年以上も縄文人やその子孫たちが支配していた場所であれば、言うに及ばないでしょう。土地勘があるどころか、元々自分たちの土地です。海岸線の津々浦々だけでなく、山の中のありとあらゆる獣道も知り尽くしていた事でしょう。勢力拡大を図っていた高句麗に対して、地理的な優位性を持ち、さらに神功皇后の援軍を得て、一気に征伐したのです。また、朝鮮半島で反乱を起こした新羅や百済、そして北部九州の熊襲も、同じように現地の縄文人たちと神功皇后の連合軍によって征伐された、と見れば自然ではないでしょうか。

 このように、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提に立てば、三韓征伐に抱いていた疑問は全て解決です。

 神功皇后の三韓征伐については、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や梁職貢図(りょうしょくこうず)に、倭国の進攻があった事や、倭国の支配下に入った事を示す根拠があります。また、高句麗については、後の時代に倭国を撃退した記載のある好太王碑(こうたいおうひ)があります。これらの事から、倭人(縄文人)の土地だった朝鮮半島に、高句麗という異民族が侵略して、常に小競り合いがあった事が窺われます。そして、六世紀の磐井の乱や、七世紀の白村江の戦いで、倭人が完全に撤退したと思われます。倭人が撤退した後の半島は、高句麗の提灯持ちだった北方系原始人(朝鮮人)が、漁夫の利でちゃっかり住み着いて、自分たちのものにしてしまったのです。