行路の一致 ①

越前については、これまで、

 

 1.巨大な淡水湖跡の大規模農業・超大国だった。

 2.輸出主力商品・翡翠の最先端加工地だった。

 3.卑弥呼時代の鉄器出土が全国最多である。

 

という事実を示しました。これらの事だけで、越前が邪馬台国だったと結論付けるつもりはありません。

 今回は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの行路と、越前までの行路を照合してみました。

 すると、見事に一致しました。

                 「結論ありき」なので、当たり前ですが・・・。

 

 魏志倭人伝の信憑性については、これまで色々と検証してきました。畿内説、九州説は、どちらも曲解が多く、行路をどうにでも解釈しています。「結論ありき」なので、仕方ありません。

 越前が邪馬台国であると仮定した場合、九州の東に位置しているので、必然的に畿内説と似たような解釈になります。

結論ありき
全ての説は、「結論ありき」の曲解だらけ。

 まず、不弥国(福岡県糟屋郡宇美町)までの行路は同じです。不弥国の次は、南へ海行20日とありますが、これは、東へ海行20日の間違いです。

 この地図は、15世紀の李氏朝鮮で作られたものです。大きな朝鮮半島があって、倭国・日本は、右隅に小さく描かれています。よく見ると、日本列島が九州を北にして、南にのびていています。この地図ですと、南へ向かうというのは、実際には東へ向かっていたという事になります。

 邪馬台国時代の中国は、優れた測量技術を持っていたようですが、それでも、辺境の地・倭国に対する認識は、この程度だったのでしょう。魏志倭人伝よりも前に描かれた地図ならともかく、1200年も後に描かれた地図がこのレベルですので、魏の時代の倭国に対する常識は、こんなもの、いや、遥かに、それ以下だったはずです。

古代地図
魏志倭人伝の1200年後も、倭国・日本に対する認識は低かった。

 さて、不弥国から東へ向かうには二つのルートがあります。瀬戸内海ルートと日本海ルートです。

 瀬戸内海は、内海なので波は穏やかですが、潮流の変化や、風向きの変化が激しく、稚拙な船や航海術で簡単に進める海ではありません。当時のレベルでは、関門海峡すら、通り抜けるのは至難の業だったでしょう。

 一方、日本海は冬の荒波のイメージが強いですが、対馬海流という潮流が西から東へ一方向に進む上に、農閑期の秋には西風が吹く割合が高く、航海のし易い海です。

 単純に考えて、日本海ルートを使うのが自然です。なお、瀬戸内海ルートは遣隋使の始まる七世紀頃までは、航海が困難だったようです。

日本海・対馬海流
九州から東へ行くには、日本海ルートが妥当。

 対馬海流は、時速2キロ程度で流れています。船の操縦をしなくても、一日10時間・漂流をしたとして、20日間で400キロ先・出雲付近まで進めます。これに、櫓をこぐ動力を加算して、時速5キロで東へ進んだとすれば、1000キロ先・能登半島まで進めます。気象条件、風向きなどの悪条件を差し引いたとして、大体、但馬の国・投馬国まで到達します。

海行20日で着く場所
対馬海流と少しの動力で、一日10時間・20日間の航海で、但馬国=投馬国へ到達する。

 次に、投馬国から水行十日、陸行一月で邪馬台国に到着するのですが、畿内説では、ここでも曲解しています。

 投馬を「つま」と無理やり読ませて、「いずも」に似た発音にさせているのです。そうしないと、陸行一月の辻褄が合わなくなるからです。中国に無数にある言語や方言の中から、都合の良い発音を引用したわけです。

 畿内説の場合、投馬国を出雲とし、そこを出発して10日の水行で但馬に到着し、そこから陸行一月で畿内に入るという算段です。無理がありますね。なんで、わざわざ陸地を一ヶ月も歩くのでしょうか?当時は、湿地帯や雑木林地帯だらけで、獣道程度の道しかありません。長距離移動は、船を使うのが普通でしょう。

畿内説の矛盾1
畿内説の行路は、曲解だらけ。

 単純に考えれば、若狭湾の小浜まで船で行き、なだらかな峠を越えて琵琶湖に出て、また船で畿内に入った方が、はるかに楽です。そうしてしまうと、陸行一月がなくなってしまうので、強引に曲解したわけです。

 このルートは、実際、遣隋使・遣唐使の帰りのルートとして使われていました。

小浜ルート
畿内へ行くには、陸行は必要ない。

 畿内説といっても、数え切れないほどの行程説があります。しかし、九州から畿内へ行くには、魏志倭人伝をいくつも曲解しなければなりません。

 越前までの行程を検証するつもりが、いつの間にか畿内説の行程批判になってしまいましたね。

 畿内説の矛盾点を挙げても仕方がないので、今回はこの辺までとします。