超大国は豪雪地帯

 邪馬台国が越前にあった最大の理由は、巨大淡水湖が干拓されて、広大な水田稲作農地が広がった事です。弥生時代末期には、当時の日本では最大の農耕地帯となっていました。

 これは、近畿において河内湖と奈良湖が干拓されて、古墳時代を迎えた事と同じ理由です。

 越前は、古代において『高志』(越:コシ)と呼ばれていた文化圏に含まれます。高志には、越前のほかに、越中、越後があります。

 今回は、古代日本の主役だった『高志』文化圏の、弥生時代末期の様子を調べました。

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高志の国の構成[邪馬台国]

 高志とは、古代において北陸地方の総称でした。現在の、福井県、石川県、富山県、新潟県を指します。奈良時代に、地方行政区分を細分化するに当たり、高志から越に改名されて、越前、越中、越後に分けられました。さらに、平安時代には越前から、能登と加賀が分割されました。

 高志の国々は、

1.冬場の気候が似ている。つまり豪雪地帯という共通点があります。

2.弥生時代の土器は、北陸系と呼ばれる同じ特徴があります。

3.弥生時代の墳丘墓には、四隅突出型墳丘墓の北陸式という同じ特徴があります。

4.翡翠や瑪瑙などの宝石の原料が豊富で、弥生時代には宝石加工の中心だったという共通点があります。

 古代日本においては、『高志』という一つの大国だったと考えられます。

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高志の農業[邪馬台国]

 農業の視点から見ると、現代では越後・新潟『米どころ』というイメージがありますが、古代においては、かなり違っていたようです。

 開墾用の鉄器の無かった弥生時代においては、越前・福井平野が突出した米どころでしたが、そのほかの地域の農業生産は、あまり多くはありませんでした。それは、それらの地域には巨大淡水湖が無く、河川の堆積物による沖積平野だったからです。平野部のほとんどが密林地帯で、容易に水田に開墾できる状態ではありませんでした。当時の一般的な平野だったと言えます。この理由は、私が以前に作成した動画「後進国・近畿が日本の中心となった単純な理由」および「謎を解く鍵は巨大淡水湖」にて解説していますので、ご参照下さい。

 福井平野は、類まれな巨大淡水湖跡の沖積平野でしたので、特殊だったと言えます。これにより、一極集中型の広大な農地を持つ越前は、必然的に高志の中心となりました。

 現在の人口分布では、福井県は非常に人口が少なく、目立たない存在ですが、古代に於いては中心的な存在でした。

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高志の産業[邪馬台国]

 弥生時代の高志の産業は、なんと言っても『宝石』の生産です。

翡翠や瑪瑙の原石の産地があるだけでなく、それらを加工して勾玉や管玉などの宝飾品に加工する技術を持っていました。

 翡翠の産地は、越後・新潟県糸魚川の姫川流域と、越中・富山県のヒスイ海岸です。ここは、フォッサマグナが走っている地域で、地中から翡翠の原石が湧き出る場所です。東アジアでは、唯一この地域だけで産出される貴重な宝石です。

 一方、瑪瑙の原石は全国的に分布していますが、特に石川県、富山県で特に多く産出されています。

 また、これらの原石を加工する『玉造り工房』も、弥生時代中期頃から高志の国に集中して存在し、遺跡が発見されています。

 これまで何度も紹介した、福井県の『林・藤島遺跡』は、卑弥呼時代の鉄製工具を用いた画期的な玉造り工房です。

 通貨の無かった時代において、高志の国で生産される宝石類は、諸外国との交易における重要な資源だった事は間違いありません。

 高志の国は、弥生時代の古代史では、注目度の低い地域でした。

大陸文化の玄関口は北部九州だけという先入観、「北陸は雪国」という閉ざされたイメージが先行して、高志に着目する学者や歴史研究家がいなかったからでしょう。

 また、翡翠の産出地が越後、越中周辺である事が分かったのが1935年頃、越前の林・藤島遺跡が発見されたのが1999年、と現代に入ってからです。このような大発見が多いにも関わらず、邪馬台国・畿内説、九州説に凝り固まった研究者が多く、未だに注目されているとは言えません。但し、今後も大発見があるのは、この地域で間違いないでしょう。

 次回は、高志の国が北部九州を介さずに、直接大陸文化が入って来た窓口だった事を、史実や日本海の特性から考察します。