陸行一月の意味

 前回は、魏志倭人伝の行路を辿って、投馬国が但馬国だったことが分かりました。

次は、いよいよ邪馬台国までの行路です。  魏志倭人伝には、投馬国から、

 

  「水行十日 陸行一月」

 

とあります。どういう訳か、ここだけ二種類の行程方法が示されています。

 ここでの一番の問題は、「陸行一月」です。 弥生時代の陸地は、湿地帯や雑木林だらけでした。 道は、獣道しかなく、陸地を一ヶ月も移動するには、相当な労力が必要です。しかも、馬も牛もいなかった時代に、移動だけでなく、交易の物資を運んだとは、極度の困難です。

 

 「奴隷に運ばせたんだろ!」

 

その一言で解決するには、陸行一月は奴隷にとって、あまりに過酷と言えるでしょう。

六世紀の行路
九州から近畿へは、日本海で船を使っていた。陸路はほとんど使われなかった。

 この図では、奈良時代の九州から畿内への実際の行路を示します。魏志倭人伝のように陸地を一ヶ月も移動する事の無い、船による移動でした。まず、日本海を対馬海流に乗って若狭湾の小浜まで行きます。そこから、陸地を歩いてなだらかな峠を越えて、琵琶湖の湖岸の高島に入ります。そして再度、船に乗って琵琶湖を南下して、畿内に至ります。これは、遣隋使や遣唐使の帰り道に使われていた一般的なルートです。このルートは対馬海流を利用した高速移動が可能で、物資を運ぶ奴隷たちの負担も軽減されますので、合理的な行路です。

 弥生末期の邪馬台国の時代にも、九州と近畿が結ばれていたとすれば、このルートが最も理に適います。

畿内説1
畿内説は、無理やり陸路を入れた。無意味な陸行一月。

 ところが畿内説は、魏志倭人伝の邪馬台国までの行路を作り出す為に、全く必要の無い陸路を組み入れています。不弥国から船で20日掛けて投馬国・出雲に到着し、さらに10日掛けて但馬に到着。そこから陸路一月掛けて、奈良盆地に到着するという理屈です。

畿内説2
瀬戸内ルートも、途中からなぜか陸路にした。無理がありすぎる。

 あるいは、投馬国・但馬まで20日掛けて到着し、さらに10日掛けて敦賀に到着。そこから陸路一月掛けて、奈良盆地に到着するという理屈です。琵琶湖という便利な湖がありながら、わざわざ陸地を歩かせるという、理解不能な曲解がなされているのです。

瀬戸22
瀬戸内海ルートは意味分かんない。

 また、瀬戸内ルートをとる論者は、鞆の浦(とものうら)、あるいは吉備の国まで船で20日掛けて到着します。そこから更に10日間船に乗る、または一ヶ月間、陸地を歩かせています。吉備まで船で来れたのなら、わざわざ陸路を使う意味が全くありません。「そのまま船で行けばいいのにね。」と思わせる不思議な行程を作り出しています。

 これらの陸地移動は、必要が無いばかりでなく、租庸調の重い荷物を運ぶには不可能と言わざるを得ません。

越前1
越前までは、投馬国から水行10日で到着する。陸行一月は?

 では、前回からの考察に戻ります。

 不弥国から船で日本海を移動した場合です。対馬海流の流速や、悪条件も含めて、二十日間程度で但馬の国に到達します。投馬国は但馬の国である事に間違いはないでしょう。さらに、但馬から七日程度で、越前の三国湊に到達します。そしてここから、越前の中心地に向かうには、九頭竜川と呼ばれる川を、上流へ25キロほど遡る必要があるので、三日ほど掛かります。投馬国・但馬から船を使って十日間で、越前の中心部に到着する事になります。すなわち、越前が邪馬台国であれば、魏志倭人伝の行路に一致する事になります。

 あれっ? 陸行一月は?

 ここからが本題です。

但馬から越前へは、船で移動しましたが、越前から但馬へは、陸路を使っていたのです。

往復行路
但馬 → 越前は、水行10日。 但馬 ← 越前は、陸行一月。

 これは、若狭湾を中心とした但馬の国から越前の国までの地図です。

 但馬から越前・三国まで船を使った場合の距離は、150キロ。これは、釜山-対馬 50キロ、対馬-壱岐島 50キロよりも、3倍も長い距離です。しかし、対馬海流の潮流と、西からの季節風の力を借りれば、一気に航海する事が可能な距離です。

 ところが、反対方向は非常に危険です。越前から但馬へ船で行くとすれば、東風を待ちながら、若狭湾を点々と進まなければなりません。

 気象条件が悪ければ、一ヶ月以上掛かってしまうでしょう。

西へ進む為に、航海の危険性と、時間の浪費が甚大です。

 それならば、たとえ獣道の陸路しかなくとも、その方が遥かに確実です。

往復行路2
西から東へは、重い荷物。東から西へは、軽い荷物。水行十日 陸行一月の理由が明確。

 越前から但馬までの陸地の移動は、湿地帯や雑木林地帯を抜ける事になります。これは現代人の想像を絶する過酷な労働です。

 それでも船を使わずに陸路を選んだもう一つの理由、そして最大の理由は、交易品の内容です。

 北部九州や朝鮮半島から越前へ運ぶ物資は、鉄や租庸調の重い荷物です。牛も馬もいなかった時代に、獣道しかない陸地を歩いて運ぶのは不可能です。船は絶対に必要です。さらに都合の良い事に、対馬海流は西から東へ流れています。

 逆に、越前から北部九州、朝鮮半島へ運ぶ物資は、翡翠、瑪瑙などの宝石類です。越前が、翡翠などの高級宝石の加工場だった事は、以前に述べた通りです。軽くても価値は非常に高い物です。これなら、たとえ獣道を歩いたとしても、負担になる荷物ではありません。

 対馬海流に逆らって東から西へ船で行くという、危険を冒すよりも、陸地を一ヶ月歩くほうが、はるかに理にかなっているという訳です。

 魏志倭人伝に記された二つの行路は、西から東へは船を使い、東から西へは陸地を歩くという、越前ならではの理に適った重要な意味だったのです。

 このように、越前の地理的位置を魏志倭人伝に照らしてみると、畿内説よりも遥かに理にかなった行路が描けます。

 畿内説の弱点は、行路をことごとく曲解しなければならない事です。

 ただし、魏志倭人伝の行路は信憑性が高いとは言えません。

この事実だけを持って、越前が邪馬台国だったと結論付けるつもりはありません。

 弥生時代末期に、農業大国で、翡翠などの宝石を作り、鉄器を用いていた。さらに、魏志倭人伝の邪馬台国までの行路と一致した。

 それだけの事です。