魏志倭人伝は正しい⑧

  こんにちは。八俣遠呂智です。

 魏志倭人伝の記述に従って、邪馬台国までの行路を辿っています。前回は、倭人伝を曲解せずに、記述通りの方角を正確に進んでみました。九州島の上陸地点の選択肢が二つありますが、その内の伊万里に上陸するルートでした。残念ながら、行路の途中で諦めざるを得ない矛盾が生じてしまい、邪馬台国へは到着できませんでした。

 今回はもう一つの選択肢、宗像エリアでの上陸です。

正しい810
宗像

 魏志倭人伝に記された方角を修正せずに、正確に順を追って検証します。

壱岐から九州島に上陸するには、方角が記されていないので、距離的に伊万里、または宗像が想定されます。

 前回は、伊万里に上陸して、曲解することなく進んでみました。末蘆国が伊万里、伊都国が吉野ヶ里を含む広域エリア、奴国が八女・山門エリアとなり、順調だったのですが、不弥国が山の中という矛盾が生じてしまいました。この地から次の目的地・投馬国へ進むには、南方向へ水行20日となりますので、もはや不可能となってしまったのです。

 今回は、もう一つの可能性、宗像エリアへの上陸を検証してみます。魏志倭人伝を曲解せずに、正確に順を追って辿ってみます。

正しい820
海人族

 まずは九州島の上陸地点です。

一大国(壱岐)から末蘆国までは、方角は記されていませんが1000里ほどの距離ですので、福岡県宗像市と一致します。そこで末蘆国を宗像に比定して、邪馬台国までのルートを検証します。

 前回検証しました伊万里の場合は、江戸時代まで松浦郡と呼ばれていましたので、音韻上の類似点がありますが、宗像にそれはありません。しかしながら、古来から海を守る神様が祭られており、世界遺産にも登録されている土地です。古代・海人族の基盤となっていた場所でもありますので、九州島の上陸地点としては申し分ありません。 

 魏志倭人伝には、末蘆国からこの先、方角が記されていますので、正確に辿って行きます。

正しい830
直方平野

 末蘆国の次は、東南方向へ500里で伊都国となります。

宗像エリアから出発しますので距離的に、直方平野の南端にある田川市あたり、あるいは周防灘に面した行橋市あたりになります。

 直方平野は、遠賀川式土器で知られるように、弥生時代初期の標識土器が大量に出土した地域です。天然の大規模な水田適地がありますので、強大な勢力が存在していた可能性があります。

正しい840
宇佐

 伊都国の次は、東南方向へ100里で奴国となります。

これは、周防灘に面した大分県の宇佐市エリアとなります。

全国に44,000社ある八幡宮の総本社である宇佐神宮で有名な場所です。奈良時代に権勢を極め、その力は伊勢神宮をも上回ったといわれています。また、祭神として比売大神 (ひめのおおかみ)を祭っています。これは、宗像三女神とされており、末蘆国を宗像とすれば、この地との強い繋がりが感じられます。

 一方、比売大神 (ひめのおおかみ)を天照大御神や、女王・卑弥呼と比定して、宇佐こそが邪馬台国であると唱える研究者も存在します。

正しい850
国東半島

 奴国の次は、東方向へ100里で不弥国になります。

これに正確に進めば、国東半島(くにさきはんとう)の先端あたりになります。少しばかり曲解すれば、大分県杵築市の港になります。

 不弥国の次の行程が、南へ水行20日ですので、豊後水道に面しているこの地は適格な場所だといえます。さらに、20キロほど南にある豊予海峡は、速吸瀬戸(はやすいのせと)とも呼ばれる日本有数の潮流速度がある海域ですので、最適な潮流状態を待つ場所としても、適格と言えます。

正しい860
投馬国は宮崎

 九州島の地図で示しますと、このようになります。

 不弥国の次の投馬国は、速吸瀬戸(はやすいのせと)を越えて南へ20日間の航海となります。この海域は瀬戸内海に比べれば穏やかですが、海流が流れていないので、地乗り航法になってしまいます。人力による動力ですので、毎日、異なる港に立ち寄りながら南へ向かって行きます。

 どの程度のスピードで船が移動できたかは、想像するしかありません。例えば、1ノット(毎時1.85キロ)で、一日8時間移動したとすれば、20日間で300キロ程度になります。

国東半島から南へ300キロは、だいたい鹿児島県の大隅半島の先端あたりになります。

しかし、気象条件などを考慮すれば宮崎県の海岸線あたりになるかも知れません。

 このように、投馬国までの水行20日を、地乗り航法で進まなければならない時点で、このルートの可能性は非常に低いと言えるでしょう。それは多くの港に立ち寄らなければならないのに、魏志倭人伝にはそれらの記述がないからです。

正しい870
日向は邪馬台国

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 宮崎県って、日向の国でしょ? この場所を邪馬台国だと言っている人も多いんじゃないですか?

 

A: 確かにそうですね? 天照大御神が内陸部の高千穂にいたとか、神武東征の起点が日向だったとか、神話の多い場所ですね? それを根拠にしているようですね?

 

B: だったら、投馬国じゃなくて、邪馬台国の場所だと思うんですけれど?

 

A: そうね? いまは、魏志倭人伝の方角を正確に辿っているので、取り合えず投馬国を日向にしたけれど、解釈によっては邪馬台国を日向だとも言えるですよ?

 

B: えっ? どんな解釈ですか?

 

A: 放射説っていう、九州説を支持している人達が好んで使う曲解です。

 

B: あっ、榎一雄先生の説ですねぇ?

 

A: そうよ? 伊都国を起点にして、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と放射状に描かれているってやつです。

 

B: 九州説を正当化する定番ですねぇ?

 

A: 現在では、朝鮮半島の帯方郡を起点にする放射説に人気があるようですね? 

でも今回は、曲解無しに話を進めているので、この説明はまたの機会にするわね?

正しい880
榎一雄の曲解

 話を元に戻します。

末蘆国を宗像エリアとするルートでは、投馬国は宮崎県の海岸線になりました。これは、奇しくも、放射説を唱えた榎一雄の説と一致します。彼は、宮崎県西都市にある「妻」を投馬国と比定しました。彼の説では、邪馬台国の場所を筑紫平野の御井であるとしていますが、投馬国は遠く離れた宮崎県としたのです。根拠はいろいろと述べていますが、最も大きな柱は、投馬国を「つまこく」と読ませて宮崎県の「妻」としている事です。音韻の曲解では、無理がありますね。

 要は邪馬台国をどうしても筑紫平野にしたかった、ただそれだけだったようです。

正しい890
どこでもOK

 では、最後に投馬国の次の、邪馬台国です。南へ水行10日、陸行1月です。これを素直に受け入れれば、前回の伊万里ルートと同じように、鹿児島の遥か南へ行ってしまいますし、一ヶ月も歩ける陸地もありません。

 そこで、放射説を利用して、伊都国からの行路とします。すると、宮崎県から鹿児島県、あるいは、熊本県や福岡県、佐賀県など、どこでも有りになりそうですね。

 結局、魏志倭人伝に記された行路を、方角を修正せずに進んでいくと、どこにも辿り着けないか、どこにでも辿り着ける、という事になってしまいます。

 魏志倭人伝に書かれている方角が正確だとして、宗像を上陸地点として邪馬台国への行路を辿ってきました。しかし残念な結果に終わってしまいました。失敗の原因は、何と言っても博多湾沿岸地域が無視されてしまう事にあるように思えます。九州島内での弥生遺跡の豊富さではダントツの場所が、邪馬台国への行路に含まれなくなるのは、論外だと思います。やはり、方角の正確性よりも、「奴国は博多湾」という基準を設けて方角の曲解を行う方が正解だと思います。