倭国の夜明け

 紀元前一世紀頃に高句麗に存在していた『四隅突出型墳丘墓』。

同じ時期に、日本の出雲(山陰地方)にも出現し、高志(北陸地方)へも広がっています。ところが、九州からは発見されていません。また、これと呼応するかのように、鉄器の出土数が、九州 → 出雲 → 高志 へと増加しています。

 これは、高句麗から追い出された豪族達が、出雲や高志の国へ「鉄」を携えて流れ着いたのではないでしょうか。鉄鉱石や石炭の大産地の高句麗と、邪馬台国・高志の国との関係を、『四隅突出型墳丘墓』の分布から推察します。

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四隅突出型墳丘墓の分布状況

  日本における四隅突出型墳丘墓は、出雲の国・山陰地方と、高志の国・北陸地方で発見されています。それぞれ、87基と14基が確認されています。

 まず、出雲から見ていきます。

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四隅突出型墳丘墓、出雲の様子

弥生中期後半の紀元前一世紀頃から、広島県や岡山県の山間部(備後・美作)にて出現しています。その後、島根県や鳥取県の日本海沿いに広がっています。

 この分布の推移は、在来勢力や農業の視点から見ると、説明が付くでしょう。

平野部の少ない出雲において、高句麗から漂流して来たばかりの人達に分け与える農地はありません。中国山地の、開墾の難しい土地へと追いやられたのでしょう。その地で勢力を整えた後、元々持っていた鉄器などの先進技術で、出雲平野などの開拓に尽力し、一大勢力となったのかも知れません。

 これは、出雲風土記の「国引き伝説」とも整合性が取れるでしょう。国引き伝説には、「志羅紀」、「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)、「古志」の四つの国の余った土地を引っ張って来て、出雲の国が出来上がった事になっています。このうち、

 志羅紀 → 新羅

 古志 → 高志

で明らかですが、「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)については諸説あります。これは単純に、北門という方角を考えれば、高句麗の人々が活躍したと考えるのが自然ではないでしょうか。

 また、平地の面積が少ない出雲ですので、元々住んでいる人の数が少なかったので、少人数のボートピープルでも、大きな勢力となり、多数の墳丘墓を造る事が出来たのでしょう。

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四隅突出型墳丘墓、高志の様子

 一方、高志の国・北陸地方へは、少し遅れて弥生後期の一世紀~二世紀に掛けて出現しています。越中・富山での発見が最も多く、10基が見つかっています。

 この場合も、出雲の国と同様に、在来勢力や農業の視点から見ると、説明が付くでしょう。

 高志の国の中心は、類稀な巨大淡水湖跡の沖積平野を有する越前・福井平野で、当時としては、日本一大きな水田地帯でした。ここには、既に、かなり大きな勢力が存在していたと考えられます。そこへ高句麗から漂流して来た渡来人達ですが、付け入る隙はなく、未開の地だった越中・富山に追いやられたのでしょう。

 もちろん、敵対していたわけではなく、鉄器などの大陸文明を受け入れた痕跡はあります。

 越前・福井県の小羽山30号墳は、高志の国の四隅突出型墳丘墓では最も規模が大きく、大きな箱型木棺の中に遺体が安置されていました。遺体の周りには、鉄製の短剣や、碧玉(へきぎょく)製管玉、ガラス管玉、ガラス勾玉など、豪華な副葬品が発見されました。

 新しい技術を持った渡来人には、優遇して高いポジションを与えたのでしょう。但し、墳丘墓の少なさから、出雲のように主要なポジションを高句麗勢で占められる事は無かったと思われます。

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四隅突出型墳丘墓 出雲と高志の違い

 出雲と高志にだけある四隅突出型墳丘墓ですが、これを両者の交流と捉える説があります。しかし、単なる交流ではなく、お互いに支配したり、支配されたりのライバル関係、あるいは、高句麗の異なる豪族が流れ着いたという可能性があります。

理由は、次の二点です。まず、

1.出雲と高志の中間地点、つまり、但馬から若狭の国の一帯は、四隅突出型墳丘墓の空白地域です。一切発見されておらず、関係が明確に分断されています。

2.第二に、四隅突出型墳丘墓の構造上の違いです。出雲の墳丘墓には、突出部に1メートルほどの石を使って貼石を施していますが、高志の墳丘墓には貼石を施していません。

 いずれにしても、邪馬台国の時代よりも前の時期に、高志や出雲に、高句麗からのボートピープルが漂着して、鉄器などの大陸の先進文明をもたらしていた事は間違いありません。

 当時は、高句麗の領土拡大期です。現在の北朝鮮の中国国境近辺まで勢力があった新羅を打ち破り、朝鮮半島を南下し始めた時代です。四隅突出型墳丘墓の原点の北朝鮮・慈江道(ちゃがんどう)に住んでいた豪族や、高句麗内部の抵抗勢力が、戦いに敗れて

日本海に逃れたのでしょう。日本海を漂流すれば、リマン海流と対馬海流で、出雲や高志に流れ着くのは自明の理です。

 中国大陸東北部の動乱という時代背景が、倭国の日本海側地域に鉄器をもたらし、弥生時代の日本の近代化への第一歩を踏み出させたのかも知れません。