渡来人との共存

 因幡の国の弥生遺跡・青谷上寺地遺跡は、現時点(2019年6月)で、最も注目されている遺跡です。それは、弥生時代中期から後期の人骨のDNA鑑定結果から、渡来人系の殺害遺骨である事が分かったからです。

 しかし、そもそも弥生人とは、渡来人と縄文人との混血では?

との疑問を持たざるを得ません。

 そこで今回は先ず、「弥生人とは?」という基礎的な定義を再確認します。そして、青谷上寺地遺跡の渡来人については、次回以降に順序立てて追求して行きます。

共存10
日本人の起源

 現代の日本人の原型である弥生人は、日本で稲作が始まった時代の人々を指します。

それまでの日本列島に住んでいたのは、狩りや木の実採取で生計を立てていた縄文人です。彼らは、DNAにバラツキの少ない純粋な単一民族でした。それに対して、弥生人は縄文人のDNAが主体ではありますが、日本周辺地域の色々な人種のDNAが複雑に組み合わさっているそうです。

 簡単に説明できる類のものではありませんが、ここでは、ザックリと紹介します。

 稲作の始まった3000年前頃から、周辺の民族が徐々に日本列島に流れ着くようになり、人種の坩堝となりました。そして混血が進んで弥生人、すなわち現代の日本人の原型が形作られたという事です。

 混ざった人種を大まかに分類すると、稲作を伝えたとされる中国揚子江流域系、古代中国の中心だった黄河流域系、モンゴル・満州などの北東アジア系、朝鮮半島系、北方民族のシベリア系、東南アジア系、ミクロネシア系、そして、元々いた縄文人です。

 2000年前には、それらの融合が進んで弥生人が確立されたようです。

共存20
アメリカは人種の斑

 現代のアメリカ合衆国に似ているようですが、全く違います。アメリカは人種の坩堝と言われていますが、異民族が斑模様に住み分けているだけです。

 元々アメリカインディアンが原住民でしたが、ヨーロッパ系白人が中心となり、アフリカ系の黒人奴隷と共に発展しました。そして中南米からの移民、アジアの移民、アラブの移民、インドの移民などが入り込みました。それらの人種は、混血が進んで融合したわけではなく、同じ民族同士がそれぞれ固まって住んでいるのが実体です。

 日本人のように色々な民族が同じ場所に住み、混血が進み、DNAが絡み合って弥生人という新たな人種が生まれたのとは、全く違います。

共存21
人種の坩堝

 数千年前の人類は、今よりも遥かに秩序の無い時代ですので、異民族の対立は起きて当然で、殺し合っていたのが当たり前でした。もちろん日本でも、弥生時代には殺害された人骨が出土していますので、多少の対立はあったようです。しかし、他の国々の民族対立に比べれば、殺害遺骨が少なく、極めて平和だったのでしょう。多民族の血が見事に混ざり合って調和した不思議な人種が弥生人、という事です。

共存30
DNA鑑定

 そんな弥生時代に、殺害された大量の人骨が発見されたのが、因幡の青谷上寺地遺跡です。2018年に人骨のDNA鑑定が始まったばかりで、まだ詳細が公表されていませんが、2019年6月時点で分かる範囲で、当時の状況を推測し仮説を立てて行きます。これについては、次回の動画にて紹介します。

 今回は、因幡の古代史が、白兎の神話と弥生遺跡が混在していますので、一度、時代の順序を整理しておきます。

共存40
因幡の歴史

因幡の国の弥生時代後期から古墳時代に掛けての出来事です。

この時代には、すでに弥生人のDNAが確立していました

二世紀頃に、因幡の国へ新たにやって来た渡来人たちが、青谷上寺地遺跡で殺害されました。また、邪馬台国・高志の国が出雲の国の植民地支配を始めたのもこの時代です。

三世紀には、卑弥呼や壱与が、魏への朝貢しています。邪馬台国の最盛期です。

四世紀頃に、ヤマタノオロチ伝説にあるような戦いがあり、邪馬台国・高志が出雲から撤退しました。撤退の過程で、因幡の国で起こった事件が「因幡の白兎」の神話となりました。

 次回は、青谷上寺地遺跡の渡来人殺害の謎についてです。

 青谷上寺地遺跡の渡来人殺害が起こった時代は、出雲地域の四隅突出型墳丘墓が山岳地帯から平野部に降りてきた時代です。また同じ時期に、邪馬台国・高志の国が出雲の国を植民地化した時代でもあります。そして、日本海側各地への渡来人の来航は、弥生時代から近世に至るまで断続的に続いています。

青谷上寺地遺跡という一箇所だけの事例から、当時の様子を窺い知るには、多少の無理がありますが、墳墓の分布や勢力図、そして農業の視点も織り込みながら推理して行きます。