畿内説支持者に一筋の光 鉄の伝播はこのルート?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの28回目。今回は、兵庫県南部の播磨・淡路地域に焦点を当てます。この地域の弥生時代は、地理的に吉備の国・岡山県に隣接している事から、出土品の内容も瀬戸内海系の土器が多いのが特徴です。淡路島にしても、元々は四国地方に含まれていた場所ですので、「瀬戸内文化圏」と言って差し支えないでしょう。残念ながら、他の瀬戸内地域と同じように、目を見張るような弥生遺跡はありません。

 播磨の国と淡路の国は、現在の兵庫県南部の瀬戸内海沿岸地域に位置しています。

兵庫県はこれらの他に、摂津の国の一部と、日本海側の但馬の国、および内陸の丹波の国の一部から構成されています。現代の状況は、瀬戸内海側が人口が多くて賑わいがありますが、弥生時代には逆でした。但馬・丹波、および京都府に属する丹後の国、俗称で「三丹」と呼ばれる日本海沿岸地域の方が、はるかに賑やかでした。それは、考古学的な史料から明確に断言できる事です。

 もちろん、播磨や淡路にも多くの弥生遺跡が見つかってはいます。しかしそこから出土する遺物には、王族の存在を匂わす威信財の出土がほとんど無いのです。これは、隣に位置する吉備の国と特徴が似ており、人々の生活感のある土器類や青銅器はあっても、鉄器や宝石などはほとんど見つかっていません。

 そんな播磨・淡路ですが、一点だけ注目すべき事があります。それは、但馬から播磨・淡路へ抜ける道の存在です。但馬道とも呼ばれるこの道は、まず日本海側の豊岡市の円山川を遡ります。 そして日本海と瀬戸内海の分水嶺となって朝来市(あさごし)南部の市川を、今度は南へ向かって進みます。すると、瀬戸内海に面した姫路市に到着します。

 この但馬道の最大の特徴は、朝来市の分水嶺の海抜がたったの90メートルしかない事です。これは、中国山地を縦断する峠の中で最も低い標高です。そもそも「峠」という言葉が似合わない場所なのです。

 日本海側から瀬戸内海へ抜ける陸路にはこの他にも、出雲の国や伯耆の国から吉備の国へ抜けるルート。丹後の国から加古川を下って瀬戸内海へ抜けるルート、桂川を下って京都盆地へ抜けるルート、などがあります。それらの峠の標高も150メートル程度ですので結構なだらかです。しかし但馬道には及びません。

こんな山道であれば、手入れのされていない獣道であっても、比較的容易に移動が可能だったのではないかと推測できますよね?

 この但馬道が弥生時代において、近畿地方への先進文明の伝播に大きな役割を果たしたのではないのか? という想像力が掻き立てられます。

 実際に、近畿地方への鉄器の伝播はこの道を通ったのではないのか? という推測が一部の古代史研究家の間でなされています。

弥生時代末期、すなわち邪馬台国の時代の鉄器は、丹後半島からの出土量が日本一です。またそこからは、日本最古の製鉄所があった事を窺わせる「鉄滓」と呼ばれる出土品もあります。そんな先進地域である丹後の国から、但馬道を通って播磨の国、さらには淡路の国へと伝播した可能性です。

 淡路島の五斗長垣内遺跡は超有名ですね?

邪馬台国畿内説支持者にとって起死回生の、心の拠り所のような存在です。

弥生時代後期の鉄器の鍛冶場跡が見つかった遺跡です。

 2001年(平成13年)に発見され、2007年(平成19年)から発掘調査が実施されました。

遺跡は淡路島の西側海岸線から3キロの丘陵地にあり、東西500メートル、南北100メートル。弥生時代後期の1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在したと考えられています。

 鉄器製造施設跡が23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認されました。遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、切断された鉄細片など75点が出土しました。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては、最大規模です。また、住居は少なく鉄器製作に特化した遺跡である事が分かっています。

 丹後半島の奈具岡遺跡には遠く及ばないものの、近畿地方では琵琶湖畔・滋賀県彦根市の稲部遺跡にも匹敵する規模です。

 この五斗長垣内遺跡に「鉄」の技術を伝えたのが但馬道である。とする説が出てきたのは極めて自然です。中国大陸の鉄器技術が棒高跳びのように淡路島に伝播するはずもありませんし、淡路島周辺を見渡しても鉄器の出土がほとんどなく、空白地帯と言えます。出土が多いのは、北側の日本海地域だけだからです。先進地域から後進地域へと技術が流れて行くのは当然ですよね?

 この遺跡の発見をもって勢いづいたのが、邪馬台国畿内説支持者でした。奈良盆地や河内平野からの鉄器の出土がほとんど無かった為に、九州説支持者たちから散々吊し上げを食らっていましたので、ここぞとばかりに五斗長垣内遺跡を持ち出すようになった訳です。

 ただし、畿内説支持者にとってブーメランにもなってしまいました。以前には、「畿内に鉄の出土が無いのは酸性の土が多くて錆びやすいからだ。」とか、「畿内は鉄を使う機会が多すぎて遺跡として残らなかったのだ。」などと、トンチンカンな事を言っていたのですが、そういう言い訳が通用しなくなったのです。

 現時点では、相変わらず奈良盆地や河内平野からの鉄器の出土はありません。もはや、畿内説支持者の逃げ場はなくなったようですね?

 近畿地方の弥生時代の大きな鍛冶場跡は、この五斗長垣内遺跡と琵琶湖沿岸の稲部遺跡がありますが、どちらも日本海側から伝播してきたのは間違いありません。但し、その鉄器を使って奈良盆地の纏向遺跡あたりが繁栄したとは言えません。なぜならば、丹後半島の場合、奈具岡遺跡はその周辺に豪華な威信財の出土がありますので、強力な王族のお膝元で鉄器が作られていた事が分かります。古代社会では当然の「地産地消」です。邪馬台国・越前にしてもしかりです。林藤島遺跡周辺には、多くの弥生遺跡群が見つかっています。ところが、五斗長垣内遺跡にしても稲部遺跡にしても、奈良盆地からは遠く離れています。奈良盆地で鉄が使われていた、すなわち「地産地消」とは言えません。関係性が全く見えてこないのです。

 播磨の国と淡路の国の話に戻します。

五斗長垣内遺跡以外には、弥生時代の特筆すべき遺跡はありません。土器や青銅器の出土は豊富なのですが、瀬戸内海地域にありがちな、後進的な場所だったという裏付けにしかなりません。

地理的に吉備の国・岡山県や阿波の国・徳島県に隣接している事から、それらの地域から出土する品々によく似ているのです。

 同じ兵庫県の但馬の国は先進地域ですが、播磨・淡路とは明らかに文化圏が異なります。出品の状況から見ると、残念ながら但馬や丹後からの最先端技術の流入はとても少なく、限られていたようですね? 但馬道という平坦な抜け道はあっても、所詮は不便な陸路。頻繁に使われていた訳ではなさそうです。

 近畿地方への先進文明の流入は、前回までの動画で示しました通り、若狭湾から琵琶湖を通るルートがメインだったと見るのが自然でしょう。

 いかがでしたか?

但馬の天日槍は、日本書紀の上では播磨の国に突然出現したとされています。新羅の王子だと名乗りました。そして、淡路島に移住しますが、その後、畿内、琵琶湖、若狭湾を通って、但馬の国に定住しました。新羅は鉄の技術を持っていた国です。もしかすると、天日槍こそが、日本海側から淡路島へ、そして琵琶湖へ、鉄器製造技術を伝えた人物だったのかも知れませんね?

神話にも元ネタがあったとすれば、五斗長垣内遺跡と天日槍、何らかの繋がりがありそうですね?

兵庫県は但馬を軽視している

 兵庫県と言えば、県庁所在地のある神戸をイメージしてしまいます。まあ、人口の多い港町ですので当然ですね?

そして思い浮かべのは世界的に有名な神戸ビーフです。日本三大和牛の1つとされていますが、値段が高すぎて、私は一度も食べた事はありません。

 実はこの神戸ビーフ、神戸で生産されているのはありません。日本海側の但馬で生産・飼育されているものです。

なんか、但馬って可哀そう。但馬ビーフと呼び方に変更してあげればいいのにな、と思います。

 弥生遺跡にしてもそうですね。兵庫県の「推し」は瀬戸内海地域ばかりで、日本海側には無関心なようです。但馬の袴狭遺跡すらまともに取り上げていません。

 思えば、但馬・丹後・丹波って、兵庫県と京都府に組み入れられてしまったのが悲劇ですね。超個性的ですので、もっともっと注目されていい場所だと思います。