安芸・備後 最古の弥生墳丘墓

 こんにちは。ヤマタノオロチです。

山陽・四国シリーズの4回目。今回は、広島県、安芸の国・備後の国に入ります。

このエリアも、前回の周防の国と同様に、弥生遺跡という点ではあまりピンときませんね。瀬戸内海という難所を、古代の大型船で航行するのは困難だったからでしょう。九州からの文物の流入が遅れていたという事です。そんな中にあって、備後の国には、弥生時代に作られた日本最古の「あるもの}が存在しています。

 広島県は、現代では山陽地域の中心地であり、人口が最も多い場所です。広島平野に広がる街並みは、まさに「大都会」といえる威風堂々たる姿です。

しかし1800年前の邪馬台国の時代には、何もない場所でした。

奈良時代からの行政区分では、安芸と備後に分かれており、備後はそもそも吉備の国を三分割した内の一国でした。

どちらも古代にはほとんど特徴のない場所で、残念ながら、さほど目立った弥生遺跡はありません。

 農業の視点からこの地を眺めてみると、

広い天然の水田適地があるのは、西条盆地と三次盆地です。

 西条盆地は、瀬戸内海に近い東広島市のある標高約200mの盆地で、広島県内では最大の広さの盆地です。古代に淡水湖があった場所ですので平坦で水はけの悪い水田適地で、現代でも米作中心の穀倉地帯となっています。

 一方、三次盆地は、広島県北部の中国山地にある盆地で、こちらも古代には淡水湖があった水田適地です。標高は150mほどですので、沿岸部の西条盆地よりも低いという不思議な土地です。

 気候の面では、西条盆地は典型的な瀬戸内気候で降水量が少ないのに対して、三次盆地は日本海性気候で冬場の降雪はかなりの量に達します。古代の水田稲作の点では、豊富な水が得られる三次盆地の方が、優位性が高かった事になります。

 広島県・安芸の国と備後の国では、これら二つの盆地に弥生時代の勢力が存在していた可能性があります。実際に、弥生遺跡の分布もこの地域に集中しています。しかし残念ながら出土品は、土器類や竪穴式住居跡、土壙墓跡などの、日本全国どこにでもあるものばかりです。鉄器・青銅器などの金属製品、翡翠・碧玉などの宝石類の出土はほとんどありません。要は、一般庶民は住んでいても、王族と呼べるような強力な勢力にはなっていなかったという事です。

 そんな中で唯一、注目すべき弥生遺跡があります。それは、三次盆地から発見された四隅突出型墳丘墓です。

 四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期後半(紀元前二世紀)頃から出現する弥生時代の典型的な大型墳丘墓で、方墳の四隅がヒトデの足のように伸びているのが特徴です。山陰地方や北陸地方に多く発見されているものですが、その中で、この三次盆地で見つかったものが最も古いとされています。そして、この地域周辺だけでも9基もの四隅突出型墳丘墓が発見されています。

 弥生時代には、山陰地方や北陸地方の方が文明先進地域でしたので、三次盆地はその文化圏に属し、あるいはその起源となっていた可能性がありますし、そう主張する学者もいます。

 残念な事に、溢れんばかりの豪華な弥生の遺物が発見されている山陰地方や北陸地方に比べて、三次盆地の弥生遺跡はあまりにも陳腐です。この事からこの地が文化の起源だとするには、かなりの無理があるでしょう。また、三次盆地が四隅突出型墳丘墓の起源だとすれば、瀬戸内海地域にも同じような四隅突出型墳丘墓が見つかっているはずですが、現在のところ全く発見されていません。

 この事から三次盆地は、現代でこそ広島県に属していますが、弥生時代には日本海側の出雲の支配下に入っていたのではないか? と推測します。

 

 瀬戸内海地域での弥生遺跡から出土品を強いて挙げるとすれば、備後の国・広島県福山市にある御領遺跡から出土した土器に描かれていた大型船の線刻画です。時代としては、弥生時代から古墳時代のものです。瀬戸内海という大型船が航海するには困難な海では、古墳時代の6世紀頃からようやく船舶の行き来が可能になりましたので、その頃に描かれたものと推測します。

 邪馬台国論争では、畿内説を唱える論者の中に、投馬国を鞆の浦に比定する者がいました。北部九州から瀬戸内海を通って近畿地方に向かう場合、不彌國から水行20日に辿り着く、ほど良い距離にあり、しかも「トウマ」という音韻と「トモ」という音韻が似ている、というだけの安直な説でした。

鞆の浦とは備後の国・広島県福山市にある港町で、中世以降に交易が活発になった良港です。しかし、邪馬台国時代には何もなかった場所です。また、魏志倭人伝には投馬国は邪馬台国に次ぐ五万戸という超大国でしたので、それなりの穀倉地帯が必要です。しかし、鞆の浦にはそれはありません。

 現在では、弥生時代の瀬戸内海航路自体が完全に否定されていますので、鞆の浦を投馬国だという人はいなくなりました。邪馬台国論争が活発になり始めた明治時代には、瀬戸内海各地がよく論争のテーブルに載りましたが、思考力の足りない牧歌的な時代だったのですね。

 いかがでしたか?

現代の広島県、特に広島市は言うまでなく大都会です。しかし邪馬台国時代には海の底でしかありませんでした。

このエリアの先進地域は、三次盆地のような山陰地方に近い山間部だったのでしょう。出雲を始めとする日本海側の方が遥かに文明が進んでおり、そこから山を越えて文物が流れて来たのです。