日本最初の水田 直方平野

 関門海峡のある北九州市地域から西の方角へ進むと、直方平野に入ります。ここは、日本海側各地に多く見られる湖が干上がった沖積平野です。平坦で水はけの悪い、天然の水田稲作適地です。

 この地域は、日本列島で最初に大規模水田稲作が始まったとされる場所です。出土した土器は「遠賀川式土器」と呼ばれ、弥生時代前期の土器の総称となっています。水田稲作が日本列島に広がっていくのと歩調を合わせるように全国に拡散し、水田稲作伝播の指標とされています。

 今回は、弥生時代の起源とも言える直方平野を中心に考察して行きます。

直方10
直方平野の古代

 これは、北九州市を中心とした地図です。前回の動画で紹介しました関門海峡や洞海湾があり、その西側に直方平野が開けています。

 直方平野は、福岡県直方市を中心とする平野で、中心部を遠賀川が流れる東西3~8キロメートル、南北20キロメートルの細長い平野です。元々、汽水湖や淡水湖だった場所なので、河床勾配(こうばい)が緩やかな上に、粒子の細かい沖積平野ですので、水田稲作を行うには最高の土地です。

 北部九州の中では、福岡平野の扇状地や、洪積層の筑紫平野よりも遥かに上質な水田地帯です。

 但し、これは現代の話で、弥生時代にはまだほとんどが湖の底だったようです。水田稲作を行えたのは、湖畔の限られた場所だけでした。

直方20
直方平野の成り立ち

 この直方平野の成り立ちは、以前に紹介した出雲平野や新潟平野とよく似ています。

縄文海進時に、現在の平野部分は海の底となりました。その時期に、対馬海流によって水の出口が砂礫層で塞がれました。縄文海進が終わった後も、海水と淡水の混ざった汽水湖として、水が残ってしまいました。水田稲作に適した土地は、この汽水湖周辺の干潟でした。遠賀川式土器が出土したのは、立屋敷遺跡です。この遺跡に限らず、干潟エリア全域に日本最初の水田稲作地帯があったと考えられます。

 しかし、運の悪いことに、この平野の中央を流れる遠賀川の河口は極端に狭く、平野の河床勾配が緩やかな為に、古代から明治時代に至るまで、幾度も水没していたようです。これは、この地域の対馬海流の潮流速度がとても速く、砂礫層がすぐに積み上がって河口を塞いでしまったからです。つまり、何度も湖に逆戻りしていたという事です。

 そのため、弥生時代の農業は、平野の広さの割に、安定した収穫を上げられるだけの農耕地は存在していませんでした。

直方21
何度も水没 直方平野
直方30
直方平野の構造

 直方平野の構造を、邪馬台国・福井平野との地層の断面比較で示します。

 直方平野の場合、縄文海進に伴って出来た沖積層の湖底は、海面よりも低かった為に、海水が引いた後も、淡水が混ざり合う汽水湖となりました。当然ながら、完全に湖の水が引くのには、時間が掛かりました。河川の堆積による湖底の上昇や、人工的な埋め立て工事が必要でした。しかも直方平野の場合、河口の海域に潮流速度の速い対馬海流が流れていた為に、出口が塞がれ易く、簡単に湖に逆戻りしてしまったのです

 一方、邪馬台国の場合は、縄文海進に伴って出来た沖積層の湖底は、海面よりも高くなり、海水から淡水への変化が早く、水引も早く起こりました。また、河口の海域に流れる対馬海流は、比較的速度が遅く、直方平野ほど簡単に出口が塞がれる事はありませんでした。

 直方平野は、日本列島で最も古く、天然の良質な水田稲作地帯でありながら、超大国が出現する事はありませんでした。

 それは、湖底の高さ、河口を流れる海流の速さなどの、ほんの僅かな違いだった事が分かります。

直方40
直方平野 江川

 余談ですが、直方平野には面白い川が流れています。「江川」という細い川です。この川は、遠賀川と洞海湾を結んでいる運河のような川です。運河は人工的に作る川ですが、この江川は自然が作った川です。

 この地域の洪水の歴史の中で、遠賀川の河口が塞がれて、直方平野が湖に逆戻りした際に出来た川のようです。逃げ場を失った湖の水が、この江川を通って洞海湾に流れ込んだのが始まりです。

 現代でもこの川は残っており、水源の無い両側に河口があるという珍しい川です。

遠賀川の水位が高い場合は洞海湾へ流れ、洞海湾の水位が高い場合は遠賀川へと流れているのです。

 自然が作った奇妙な川、海峡のような川なので興味をそそられました。

 直方平野は、日本列島で最初に水田稲作が始まった可能性が高いのですが、水没し易く遺跡として証拠が残った事も一因です。いずれにしても、貴重な「遠賀川式土器」と共に、水田稲作が北部九州から始まった事に疑う余地はありません。そして、日本列島全域に広がって行きました。

 また鉄器も、弥生時代初期という同じ時期に北部九州に伝来しています。

次回は、これら三点の分布状況や、列島各地にどのように広がったのか、そして、邪馬台国が出現した弥生時代末期までの様子を、洞察し推理して行きます。

 私の持論ですが、稲作文化が入って来る前から日本列島に存在していた「縄文人」、彼らこそが稲作文化を拡げた主役だったと思っています。