古代船の壁 関門海峡

 前回は、豊前の国・宇佐について考察しました。残念ながら邪馬台国・宇佐説は、奈良時代の文献や神社伝承という情緒的な根拠しかありませんでしたので、可能性は低いという印象を持ちました。

 それに付随して、神武東征や熊襲征伐で当たり前のように往来している場所に、新たな疑問符が付きました。

 海洋交通の超難所・関門海峡です。

 そこは、古代の稚拙な大型船で簡単に往来できるような生易しい海峡ではありません。

 今回は、豊前の国から筑後の国に入るにあたり、北九州市を中心とする関門海峡地域の様子について考察します。

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北九州には弥生遺跡は少ない

 この地図は、北九州市を中心とする地域を拡大したものです。飛鳥時代の行政区分では、豊前、筑前、長門の三国となりますが、弥生時代にそのような区分はなく、文化的には一つの地域と見なされます。

 地形としては、山地が海岸線にまでせり出しており、平野はごくわずかです。現代で多少の平地があるのは、細長い洞海湾周辺地域です。近代になってから工業地帯として成長した地域ですので、沿岸部には大きな埋め立て地が広がっています。

 しかし弥生時代には、洞海湾周辺はほとんどが海の底で、農業が行える場所はほんのわずかでした。古代遺跡としては、縄文遺跡はいくつかありますが、弥生遺跡で特筆すべきものはありません。

 明治時代に八幡製鉄所という鉄の生産で、巨大都市となった場所ではありますが、弥生時代の鉄器の出土は、ほとんどありません。江戸時代以前には、「寒村」ともいえる寂しい場所だったようです。

 この地域で注目しなければならないのは、関門海峡です。日本海と瀬戸内海をつなぐ細長い海峡で、潮流のスピードが速く、方向の変化も激しい、海洋交通の難所です。

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関門海峡をいとも簡単に通過!

 関門海峡は、6000年前の縄文海進時に本州と九州が分断され、海峡が形成されました。潮流のスピードが速いことから、海底が深く削られて、縄文海進が終わった後も海峡として残りました。

 幅1キロ未満の狭い水路が5キロ以上に渡って続いています。

 この海峡の狭さ、潮流の速さ、および潮流の向きの変化により、日本で最も航海の難しい海域の一つとされています。

歴史上でも、この海峡の難しさを物語る事件が頻発しています。

 平安時代末期の壇ノ浦の戦いでは、関門海峡の潮流の変化を利用した戦いが繰り広げられ、優勢・劣勢が目まぐるしく入れ替わっています。

 安土桃山時代には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の時期に博多から大阪へ帰る途中、この海峡で船が座礁し大破しています。

 このような難しい海峡を、神武天皇や神功皇后は、文献史学上、いとも簡単に行き来しているのです。

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関門海峡は超難所

 もちろん、縄文時代の丸木舟や、小型の準構造船であれば、巧みに操縦して乗り切る事も出来たでしょう。ところが、古代の大型船は、潮流任せの漂流船のような代物です。関門海峡どころか、瀬戸内海という潮流変化の激しい海域を航海する事さえも、ほぼ不可能です。これについては、以前の動画「実証実験で分かる古代船の真の姿」にて考察していますので、ご参照ください。

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文献史学の欠点

 ところで、文献史学の欠点として、古代の歴史書には「時代考証」がなされていない事が挙げられます。

 現代人が歴史ドラマを作る場合、必ず「時代考証」を行います。例えば、500年前の室町時代であれば、その時代に無かった技術をストーリーに入れる事はしません。

コンピューターはもちろんの事、様々な家電製品、自動車・新幹線・飛行機などの交通機関、そんなものは室町時代のドラマに登場するはずがありません。

 ところが、奈良時代に書かれた古事記や日本書紀はどうでしょうか。その500年前の弥生時代の「時代考証」など、やっている訳がありません。船舶・航海技術にしても、奈良時代に普通に使われていた技術が、そっくりそのまま弥生時代にもあったものとして、ストーリーを描いているのです。

 こういうところが、「古事記や日本書紀は信用できない」と言われる一つの理由です。

 このように古代の歴史書を読み解く場合には、その時代の技術レベルをしっかりと把握しておく事も、非常に重要です。

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歴史の改竄

 話を戻します。関門海峡という潮流変化の激しい海を航海する事の難しさ、そして当時の稚拙な海洋航海技術から、文献史学上の出来事の時代が見えてきます。神武東征の元ネタはかなり新しい時代である事は間違いないでしょう。前回の動画で考察しました通り、神武東征は「藤原氏一族の東遷」であり、古墳時代後期頃と推測します。また、神功皇后は関門海峡を通ってはいないでしょう。宇佐神宮の主祭神を、どうしても応神天皇にしたかったが為に、あえて関門海峡を通って宇佐に立ち寄った事にしたのです。

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畿内説の矛盾

 関門海峡や瀬戸内海という潮流の変化の激しい海を航海する事の難しさからは、更にもう一点、真実が見えてきます。それは、邪馬台国・畿内説の矛盾です。

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租庸調はどうするの?

 もし近畿地方に邪馬台国があったならば、北部九州までを支配下に置いていないことには、魏への朝貢は行えません。その場合、近畿地方と九州・不弥国との間の航路が問題になります。

 畿内説論者の多くは、関門海峡を通る瀬戸内海ルートを主張しています。もちろんそのルートでも、丸木舟や小型の準構造船であれば、問題なかったでしょう。但し、租庸調の運搬はどうするのでしょうか。九州からの収穫物を小型船で、水浸しになりながら運搬していたとでも言うのでしょうか。

 当然ながら、九州から近畿への運搬は、租庸調の重い荷物ですので、大型船でしょう。大型船を使った場合、以前の動画「実証実験で分かる古代船の真の姿」で示しました通り、関門海峡はおろか、瀬戸内海を航海する事さえ不可能です。畿内説の瀬戸内海ルートは、いわゆるトンデモ説という事になります。

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租庸調はどうするの?2

 仮に、畿内説を日本海ルートとした場合ではどうでしょうか。この場合、対馬海流を利用して航海する事は可能ですが、どこかの港で荷物を下ろして、そこから弥生時代の道なき道、すなわち獣道を進まなければなりません。しかも大きな荷物を担ぎながら、何日も掛けて近畿の中心部まで運ぶのです。現実的ではないですね。

 このように関門海峡の航海の難しさは、邪馬台国・畿内説を完全に否定できるだけの根拠になり得ます。

 奈良時代の遣唐使船は100人乗りの大型船だったとの古文書の記録がありますが、それも怪しいですね。大阪の難波津から瀬戸内海を進んで北部九州に入り、朝鮮半島へと渡った事になっています。ところが大型の「構造船」や「帆船」が確立されたのは、室町時代からです。奈良時代には100人乗りの大型船を作る技術はありませんでした。これも文献上の創作に他なりません。

 古代に於ける関門海峡を航海する困難さは、文献史を鵜呑みにする事の愚かさを顕著に示してくれる事例となりました。

 次回は、北部九州を西へと進んで、遠賀川式土器で有名な直方平野に入ります。