中臣鎌足が眠る墓 河内馬飼だった根拠

 こんにちは、八俣遠呂智です。

阿武山古墳をご存じでしょうか? 中臣鎌足の墓である可能性が非常に高い古墳です。

藤原氏の先祖を探る中で、近畿地方での地盤を北河内・摂津の国としましたが、この古墳の存在が一つの根拠になります。日向の馬飼職人だった藤原氏一族が、神武東征の行路で最初に上陸した地点。それは北河内であり、河内馬飼としてヤマト王権の成立に尽力。中臣鎌足はそんな場所に眠っているのです。

 邪馬台国が歴史書から消された理由について、記紀編纂時の実力者・藤原不比等の激しい怨念があったと推測しました。それは、邪馬台国からやって来た大王・継体天皇と蘇我氏一族に対するものでした。

 これまでの動画の中でここに至った経緯を示して来ました。再度、簡潔に概略を述べます。

 

 藤原氏一族のルーツは日向の国で天孫降臨した瓊瓊杵尊に随伴した天児屋命です。それ以外には目ぼしい先祖がいないという「どこの馬の骨」とも分からない氏族です。

 日向の国は馬の繁殖適地である事から、天児屋命という馬飼職人が5世紀頃に近畿地方にやって来た物語が、神武東征の元ネタであるという推論を立てました。そして、神武東征の最初の上陸地点である北河内は、馬飼職人・藤原氏の拠点となりました。

 その当時は巨大古墳の造成を行っていた河内平野が近畿の中心地でしたので、土木工事の動力としての馬の需要は大きく、馬飼ビジネスは大成功を収めました。さらに6世紀には、スパイとして日本海側の越前の勢力と結託し、ヤマト王権成立に大きく貢献しました。その日本海勢力こそが邪馬台国であり、継体天皇をトップとする蘇我氏一族でもありました。

 とこがその後、磐井の乱という九州での反乱鎮圧に大失敗を犯し、冷や飯を食わされるはめに陥ってしまいました。

藤原氏のご先祖様の悔しさは、想像を絶するものがあった事でしょう。そしてそれが、7世紀の乙巳の変での蘇我入鹿殺害、さらには8世紀の記紀編纂時での邪馬台国を消し去る暴挙へ繋がったのです。

 このストーリーは、もちろん仮説に過ぎません。藤原氏の系譜については、天児屋命などの細い細い糸しかありませんので、その中から歴史的事実を紡いで織り交ぜた推論である事は、言うまでもありません。但し、近畿地方に於ける考古学上の発見から、かなり太い糸も存在しています。藤原氏のご先祖様が北河内で馬飼職人をしていた事の一つの根拠になります。

それが今回の主題である、中臣鎌足のお墓です。

 この地図は、大阪府北部を中心とした地図です。河内馬飼が馬牧場を経営していたとされる北河内は、このエリアです。飛鳥時代の行政区分では「摂津の国」とされていますが、河内の国の北側に位置している事からこれまで北河内と呼んでいましたので、ここでもそれを通します。

 では、藤原氏の近畿地方での地盤はどこだったのでしょうか? 古事記や日本書紀などには明確に記されていません。

いくらなんでも、自らが一介の馬飼職人だったと言うはずはありませんよね? 馬牧場があった北河内が地盤だったと明記する必要もなかったでしょう。

しかしながら、藤原氏一族と北河内という場所とが、強い結びつきがあったと推測するに足りる文献史料、および考古学的史料が存在しています。

 文献史料は、「籐氏家伝」という奈良時代に記された藤原氏の歴史書です。ここには、日本書紀や続日本紀には無い歴史も記述されています。この中で、中臣鎌足は西暦645年の乙巳の変の前年に三島の地に隠棲していたとされています。三島とは、大阪府高槻市にかつて存在していた地名です。つまり、蘇我入鹿の暗殺という大事件を起こす前の年までは、北河内に住んでいた事になります。

 さらに669年に亡くなった際には、最初に京都・山科に埋葬され、その後阿武山へと改葬されたと伝えられています。阿武山もまた大阪府高槻市に存在しています。

 まさに、北河内です。

 考古学的な史料では、「籐氏家伝」を裏付ける古墳が発見されています。阿武山古墳です。権力の最高位だった事を象徴する豪華な副葬品と共に、被葬者の遺体も発見されています。中臣鎌足本人である事に、間違いはなさそうです。

この古墳の具体的な内容は別の機会に述べるとして、まずは位置関係を見てみましょう。

 この地図は、北河内の北部、大阪府高槻市を中心としたものです。

 阿武山古墳は、旧三島郡と呼ばれていた地域にあります。籐氏家伝に記されているように、乙巳の変の前年まで中臣鎌足が住んでいた地域です。 

 六世紀に河内馬飼が馬牧場を経営していた北河内。そして継体天皇を招き入れて最初に都を置いた樟葉野宮も北河内です。

 阿武山古墳は、現在は神社になっている樟葉野宮から西へ7km。継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳から北西へ1.5kmの地点にあります。

なぜ中臣鎌足がこの地に葬られたのでしょうか? なぜ京都・山科に葬られた後に阿武山に改葬されたのでしょうか?

その理由を文献史から見つける事はできません。

 しかしながら、継体天皇が最初に都を置いた樟葉野宮にほど近い今城塚古墳に眠っているように、権力者は生前に最も関係の深かった場所に葬られるものです。

 中臣鎌足にしても、乙巳の変の前の年に住んでいたのは北河内・三島であり、そこから彗星の如く現れた殺し屋です。元々拠点としていた場所へ、亡くなった後に戻されたと見て間違いないでしょう。

 これらの事から、藤原氏の近畿地方での地盤は北河内であり、そこで馬牧場を経営していたと見るのに、無理はありません。

 藤原氏一族のご先祖様は、六世紀の大和王権成立にスパイとして尽力した馬飼職人・河内馬飼首荒籠や磐井の乱で大失敗した近江毛野、荒籠の息子・河内馬飼首御狩です。彼らの拠点は北河内の馬牧場です。そこで冷や飯を食わされていました。邪馬台国出身の大王・継体天皇を恨みながら悶々としていた事でしょう。

 百年の時が流れ、天智天皇の邪な暗殺計画に加担して、殺し屋として復活した中臣鎌足。彼の遺体もまた、北河内に眠っています。皮肉にも、憎悪の対象だった邪馬台国の大王とは、わずか1.5kmしか離れていない場所に眠っているのです。

 いかがでしたか?

阿武山古墳の被葬者・中臣鎌足は、腰椎の骨折などの跡が見られるとの事です。暗殺されたのかも? 蘇我入鹿を殺害した日本で最も有名な殺し屋ですので、悲惨な最期を遂げたのかも知れませんね?

 それにしても、阿武山古墳と今城塚古墳。中臣鎌足と邪馬台国の大王。こんなに近くに眠っていたとは?

今回の検証で、あらためて驚かされました。