弥生時代の文明の窓口 邪馬台国は近江?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの19回目。今回は近江の国です。日本一面積の広い湖・琵琶湖がある地域です。日本の長い歴史の中で、様々な重要な出来事が起こっている舞台です。しかし、大阪・奈良・京都に比べて少し印象が薄いですよね?

ただし、弥生時代末期の邪馬台国の時代には、案外強力な勢力が存在していたかも知れません。

今回は、近江の国のが文明伝来の窓口だった事を示して行きます。

 奈良盆地を中心に日本列島を見た場合、近江の国は、中国大陸からの文明が入って来る「窓口」でした。大陸から見れば近畿地方は内陸部の奥深く入った場所ですので、古代には「超後進地域」だったのはやむを得ませんが、飛鳥時代以降は日本の中心地になった場所です。その成立過程において重要な役割を果たした窓口が、近江の国だと言えます。

 古代の近畿地方を考える上では、まず、どこから最先端の文明が流入して来たかを考察する必要があります。あたり前ですが、中国大陸から棒高跳びのように近畿地方へ文化が入って来る訳はありませんからね? そんな中で、近江の国を通って入って来るルートが最も重宝されていた事は間違いないでしょう。

 では、古代日本における近畿地方への文明の流れを考えてみましょう。

大陸文明が入って来るルートには、大きく四通りあります。

 まず、北部九州から瀬戸内海を船を使って近畿地方へ至るケース。次に、出雲や伯耆の国から中国山地を越えて吉備の国に入り、そこから近畿地方へ至るケース。三つ目は、但馬や丹後の国から峠を越えて近畿地方へ至るケース。四つ目は、若狭湾の小浜や敦賀あたりから近江の国へ入り近畿地方へ至るケース。です。

 この内、北部九州から瀬戸内海を船を使って近畿地方へ至るのは非常に困難です。関門海峡や来島海峡をはじめとした世界屈指の潮流速度を持つ海峡が無数に存在している海域です。丸木舟のような小舟ならともかく、古代の稚拙な大型船で簡単に渡って来れるような場所ではありません。実際に考古学的にも、瀬戸内海の西のエリアには目ぼしい弥生遺跡が無い事から、その実態が見えてくるでしょう。

 出雲~吉備へのルートは、海抜200メートル以下の峠しか存在していない場所ですので、比較的容易に入って来れます。それを物語るように、吉備の国の弥生時代の特殊器台は、出雲地域の土器の影響が強く見られます。また古墳時代以降の話になりますが、たたら製鉄という製鉄技術も、出雲の国と吉備の国に共通した文化として残っています。

 出雲~吉備へ入って来た先進文明は、その後、瀬戸内の陸路を通って近畿地方へ入って行ったのでしょう。

近畿地方・河内平野から出土する土器には、吉備系の特殊器台が混ざっていますので、このルートからの文明の伝来が多少なりともあった事が窺えます。

 さらに、但馬や丹後の国から峠を越えて近畿地方へ入るのも容易です。こちらに存在する峠も100メートル級の低い海抜しかないからです。近畿地方で唯一の弥生時代の鍛冶場跡が発見されている淡路島の遺跡は、鉄器王国とも言える丹後半島の影響を強く受けたのは間違いなさそうです。

 また、文献史学上でもこの関係が見られます。神話ではありますが、新羅の皇子・天日槍です。播磨の国に出現して、のちに但馬の国へと移動しています。

 そして最も強力なのは、若狭湾から近江の国へ入り近畿地方へ至るルートでしょう。

そもそも古代の日本列島には、整備された道などはありません。街道が整備されたのは江戸時代になってからです。弥生時代に陸路で移動しようにも、獣道程度の道しかありませんでしたので、大きな困難を伴った事は容易に想像できます。長距離を移動するには必ずや船を使った事でしょう。

 そんな中でこのルートは秀逸です。中国大陸から対馬海流に乗って若狭湾に辿り着き、峠を一つ越えて琵琶湖に抜け出ます。そこからは再び船に乗って近畿地方に到着です。ほんのわずかばかりの陸路はあるものの、中国大陸からほとんど船だけで近畿地方へ到着できるというのは優れものです。琵琶湖という大きな湖が、中国大陸と近畿地方との懸け橋になっていたのは間違いなさそうです。

 文献史学的にも、先程の天日槍が通過したルートですし、彼と同一人物とされる都怒我阿羅斯等は若狭湾の敦賀に滞在しています。また、卑弥呼のモデルとされる神功皇后のご先祖様とされており、近江の国の豪族・息長氏(おきながうじ)のルーツにもなっています。

  琵琶湖の存在は、東海地方への先進文明の流れをも作り出しています。

琵琶湖東岸の米原から伊吹山の峠を一つ越えれば、そこは関ケ原です。古来から近畿地方と東海地方とを隔てる交通の要衝ですが、琵琶湖から見れば目と鼻の先ですよね? 中国大陸から若狭湾に入り峠を越えて琵琶湖。そして対岸の米原に上陸。峠を越えて関ケ原。大陸からみれば、奈良盆地なんかよりも東海地方の方が距離的に近くなります。

 東海地方の弥生時代も強力な勢力が存在していましたので、そこへの文明の窓口でもあったわけです。

 考古学的に、中国大陸との窓口だった事を如実に物語る遺跡が、琵琶湖北部の高島の地から見つかています。時代としては5世紀以降のものですが、朝鮮半島固有の床暖房・オンドルの遺構がこの地から発見されています。朝鮮半島北東部の沿海州あたりに住んでいた住民がリマン海流や対馬海流に乗って若狭湾に流れ着き、峠を越えてこの地に移り住んだのでしょう。なお、同じようなオンドル遺構は石川県小松市からも多数見つかっています。北陸地方や山陰地方といった古代の先進地域と同じように、琵琶湖の北部地域もまた、大陸文明の窓口だったと言えるのが、オンドル遺構から見て取れます。

 高嶋エリアが日本海地域と密接な繋がりがあった事を示す弥生時代の遺物もあります。墳丘墓は小規模ながら丹後・但馬と同じ方形周溝墓が作られている上に、同じ風習で被葬者が葬られているのです。それは、破砕土器の副葬です。

壊して砕いた弥生土器をお墓の中に埋めるのは、但馬・丹波・丹後という日本海側の先進地域にだけ見られる風俗習慣です。

 つまり、弥生時代の近江の国は、近畿地方というよりも、先進文明の但馬・丹波・丹後の文化圏に含まれており、魏志倭人伝によるところの「投馬国」の一部だった可能性があります。

 近江の国を語る上では、どうしても奈良盆地や河内平野を中心とする近畿地方がメインとなってしまいます。あたかも琵琶湖は通過するだけの場所というイメージになってしまいます。同じように東海地方への通過点とも思えてしまいます。しかしながら、弥生時代の遺跡の質、という点では決して奈良盆地や河内平野、および東海地方には劣っていません。むしろ優れていると言えます。特に琵琶湖南部の野洲川流域の弥生遺跡は注目に値します。この詳細については次回以降に述べるとしてます。

 さらに案外見過ごされがちですが、近江の国は巨大な水田適地でもあります。それは、琵琶湖という日本一巨大な淡水湖の存在が一つの要因です。もちろん古代に琵琶湖の水が引いていて水田地帯だった訳ではありません。弥生時代にも琵琶湖は存在していました。この地を水田適地にした理由はいくつかありますので、これも次回以降に述べる事にします。

 いかがでしたか?

今回は近畿地方の中心地が奈良盆地だったと仮定した場合の、通過点としての近江の国でした。しかし、弥生時代においては、この地こそが近畿地方の中心地だったのではないのか? と思える事実も多数存在します。実際に、「邪馬台国近江説」を唱える論者もいるくらい、弥生時代のこの地は注目に値します。ただし私の説を基準にした場合、近江の国は「狗奴国の中心地」となってしまいますが?

 邪馬台国近江説。つまり邪馬台国が現在の滋賀県にあったという説を、5年ほど前に読んだ事があります。よくある「オラが村の邪馬台国」というレベルのものでしたので、説得力はありませんでしたが、1点だけ、「なるほど」と思った事がありました。それは、狗奴国についてです。狗奴国は女王國のライバルなのですが、それがどこにあるかも重要ですよね。魏志倭人伝には、女王國の南、と書かれています。

 邪馬台国近江説では、狗奴国の場所を南の方角に当てはめて、「奈良盆地である」としていたのです。

いやぁ、これは素晴らしい発想です。奈良盆地は畿内説の本丸ですので、なかなかそういう発想はできませんでした。しかし言われてみればその通りで、女王國と狗奴国は、どちらも強力な勢力だったとすれば、奈良盆地が狗奴国だとしても、何ら違和感はありませんよね? 私も心のどこかで奈良盆地は古来から日本の中心で敵国ではない、という固定観念があったものですから、まさかそこが狗奴国とは? これは本当に目から鱗が落ちました。

 これを私の説に当てはめた場合はこのようになります。女王國は日本海沿岸地域、その都は越前。狗奴国は近畿地方となります。そしてその中心地は、もしかすると近江の国だったかも知れませんね?