邪馬臺国は後漢書に書かれていた 魏志倭人伝だけじゃない倭国の記述

 こんにちは、八俣遠呂智です。

邪馬台国に関する記述があるのは、三世紀に中国で編纂された三国志の中の魏志東夷伝倭人条が最初です。いわゆる魏志倭人伝ですね? また、その後の中国正史とされている歴史書には、必ず邪馬台国に関する記述があります。内容としてはほとんどが三国志からの引用と見られていますが、僅かながら違いもあります。

 今回は、三国志の150年後に編纂された「後漢書」に焦点を当てます。

「邪馬臺国」、という漢字は魏志倭人伝の中には書かれていない事をご存知ですか? 正しくは「邪馬壹国」、となっています。「イチ」と書かれていた漢字を「タイ」という漢字に読み替えていたのです。

江戸時代の邪馬台国研究の先駆者・新井白石が、本来「ヤマイチコク」とすべきところを「ヤマタイコク」としてしまい、それがそのまま現代にまで受け継がれているのです。これは、新井白石が大和朝廷・天皇家に忖度して曲解した事によります。つまり、日本で最も古くから存在していた国は必ず「ヤマト国」でなければならない、という大前提で魏志倭人伝を解釈した事によって生じた齟齬なのです。

 もちろん根拠はありました。それが今回紹介する「後漢書」です。魏志倭人伝の記されている三国志よりも150年も後の5世紀に成立した中国正史ですが、内容は魏・呉・蜀という三国志よりも前の「後漢」の時代の歴史が書かれています。この中にも「倭人伝」があるのですが、内容はほぼ魏志倭人伝からの引用です。しかし、国の名称には「ヤマイチコク」ではなく「邪馬台国」と記されているのです。新井白石は、これをもって日本最古の国は「ヤマタイコク」である、と曲解したのです。

 「臺」と「壹」という漢字は、草書で書くと見分けが付かなくなる事から、魏志倭人伝の写本を繰り返す内に「邪馬台国」であるべきところを邪馬壹国へと書き間違えてしまった、という訳です。

 なお近年、ヘンテコな俗説も出ています。「壹」という字の部首には「豆」という字が含まれている事から、「壹」もまた「ト」と読む。だから「ヤマイチコク」ではなく「ヤマトコク」と読む。といった説です。しかしこれは、あまりにも素人考えのトンデモ説ですね。現代の中国には、北京語や広東語など20以上の主要言語がありますが、「イチ」を「ト」と読む言語は一つもありません。

 では邪馬台国と記されている後漢書とは、どういう書物なのでしょうか?

 後漢書は、西暦440年に范曄(はんよう)という人物によって編纂された中国正史の一つです。

魏・呉・蜀という三国志に登場する国々は、後漢という国が滅んだ後にに誕生しましたので、本来であれば後漢書の方が三国志よりも前に成立していて然るべきです。ところが150年も後という逆転現象が生じています。これについては、後で詳しく述べる事にします。

 後漢書の中にも同じような倭国日本に関する記述があります。ほとんどは魏志倭人伝からの引用と見られますが、僅かながら相違点も見られます。先ほど述べました「邪馬台国」と「ヤマイチコク」との違いもその一つです。また、倭国から魏の国へ朝貢したり、魏の使者が倭国を訪問したり、という記述は一切ありません。当たり前ですよね? いくら150年後に成立した書物とはいえ、後漢の時代から見れば魏の国は未来の国な訳ですから、まだ存在していません。魏志倭人伝からの引用とはいっても、その内容をしっかりと時代考証しながら、後漢の時代に合わせて編集した様子が窺えます。

 また、魏志倭人伝の内容以外にも、僅かながら倭国に関する記述があります。女王・卑弥呼が魏へ朝貢する前の時代の、倭国が後漢へ朝貢した記録です。博多湾の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印が、返礼品として倭国に渡ったものだとする説があるのは有名ですよね?

 具体的な記述としては。

建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見

「建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武は印綬をもって賜った。安帝、永初元年、倭国王帥升等が、生口百六十人を献じ、願いて見を請う。」

 とあります。

 西暦57年と107年の2回に渡って倭国から朝貢があり、最初の朝貢に対する下賜品として印綬を授けたとあります。卑弥呼がいた時代よりも200年ほど前の時代の話です。ここに記された印綬が志賀島で発見された金印である。とされています。但しこれはあくまでも説であり、この後漢書の記述を基に江戸時代に日本で作られたものである、という説も強力に燻っています。

 三国志の編纂者である陳寿も、後漢の時代に倭国との交流があった事を知っていました。魏志倭人伝の冒頭部分で。

漢時有朝見者。

「漢の時、朝見した者がいる。」

と一言だけ書いている事からも分かります。

先ほど述べましたように、後漢書は三国志よりも150年ほど後に成立したものですので、陳寿が後漢書を読んだわけではありません。後漢に関するほかの歴史資料からの引用でしょう。時代は違えど、三国志の陳寿も、後漢書の范曄(はんよう)も、元になる何らかの資料を読んでいた事によるものなのです。

 時代が交錯してしまいましたので、ここで年表を使って簡単に整理します。

後漢は西暦220年に滅亡しました。それまでに倭国から後漢へ2回、朝貢がありました。その後三国志時代となります。魏・呉・蜀の3か国はこの時代です。魏志倭人伝に記されいるのはこの時代です。しかし、西暦265年には中心国家だった魏が滅んでしまいます。魏志倭人伝を含む三国志は、西暦290年頃に陳寿によって成立します。また、後漢書は後漢が滅亡してから200年以上後の西暦440年に范曄(はんよう)によって成立します。

 三国志の元ネタは、魏書、呉書、蜀書というそれぞれの国で書かれた歴史書や、同じ時代に成立した魏略などを参考にしています。

 一方、後漢に関する歴史書は、東観漢記(とうかんかんき)という書物が存在していました。しかしそれは後漢がまだ存続していた時代のものでしたので、記述に偏りがあり公正さを欠いていました。その為に、長期間に渡って様々な歴史書編纂の試みがなされました。具体的には、

呉の謝承による『後漢書』、呉の薛瑩による『後漢記』、西晋の司馬彪による『続漢書』、などがあります。そして中国正史と認められた范曄(はんよう)による後漢書が成立したのは、後漢が滅んだ220年も後、三国志が成立した150年も後になってしまったのでした。

 もちろんこの歴史書は新たに執筆されたものではなく、元ネタは当然ながら東観漢記(とうかんかんき)や、その後の多くの後漢に関する歴史書からの引用だった事でしょう。

 そして、倭国日本に関する元ネタは、既に成立していた三国志の中の魏志倭人伝だった訳です。

また魏志倭人伝においても、東観漢記(とうかんかんき)などの歴史書は既に存在していましたので、冒頭部分で。

漢時有朝見者。

「漢の時、朝見した者がいる。」

という記述に繋がった訳です。

 このような経緯で成立した後漢書。そしてその中に記された邪馬台国。

内容としては、ほとんど魏志倭人伝と同じです。次回は、後漢書における具体的な倭国に関する記述と、魏志倭人伝との相違点について述べて行きます。

 いかがでしたか?

近世から現代に掛けての中国は、あまり見るべきところがなく、「後進国」という言葉がピッタリです。ところが古代中国は物凄いですよね? 日本にはまだ文字すら無かった時代に、多くの歴史書などの膨大な史料を残しただけでなく、様々な先進技術を発明して世界のトップを突っ走っていたのですから。また歴史書編纂も、王朝が滅んだ後に書かれたものを重視しているのは立派です。公正で客観的な視点からの歴史書になっています。