登呂遺跡 弥生の盟主も今は昔

 こんにちは、八俣遠呂智です。

今回からは東海地方の弥生時代を調査・考察して行きます。この地域は、現代では名古屋という大都会を中心として、とても発展しています。戦国時代には、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、などが出現しています。その為に、なんだか大昔から主要な場所だったような錯覚を起こしてしまいます。ところが実際には、東京や大阪がそうであったように、大した弥生遺跡も少なく、特筆すべきものはあまり多くありません。

 最初に、東海地方という定義から入ります。

現代の行政区分では、三重県、岐阜県、愛知県、静岡県の4県です。

飛鳥時代の行政区分では、紀伊の国・熊野、伊勢、伊賀、美濃、飛騨、尾張、三河、駿河、伊豆になります。

邪馬台国があった三世紀には、もちろんこのような行政区分はありませんでした。それでも、出土する土器から文化的に共通する傾向が見られますので、ざっくりとこの地域一帯を東海地方として考察して行きます。

 東海地方の弥生遺跡として、まず頭に浮かんでくるのは、静岡県の登呂遺跡ではないでしょうか?

私が中学生だった50年前には、歴史の教科書の弥生時代に関する項目で、最初に書かれていたのがこの遺跡だったと記憶しています。その理由は単純明快で、水田遺構が一番最初に見つかった場所だからです。時代としては、弥生時代後期の1世紀頃です。

 これはまあ、妥当なところですね?

弥生時代という時代区分が、水田稲作農業が伝播したという日本列島最大の革命ですので、その証拠が見つかったというのも、センセーショナルな事です。弥生式土器の名付け親になった東京の弥生町遺跡よりも、こちらの方がはるかに価値の高いものでした。

残念ながら現在では、日本列島各地から水田遺構が見つかっていますので、相対的に登呂遺跡の価値は下がってしまいましたね? おそらくもう教科書には載っていないのではないのかな?と思います。

 弥生時代の東海地方については、登呂遺跡以外にはあまりピンと来る遺跡はありませんね?

その最も大きな要因は、地形的な事です。広大な水田適地と言える場所が存在しないのです。それゆえに、古代に大きな勢力が出現できる環境ではなかったという事です。

これまで何度も述べてきました通り、奈良盆地や河内平野のような、古代に巨大な淡水湖が存在た場所ならば、それが干上がる事によって広大な水田適地が広がり、強力な勢力が出現しました。そういった土地が東海地方には無いのです。

 これを最も明確に表しているのが濃尾平野です。現代の日本列島で1,2位を争う有数の広大な平野で、農業生産高もトップクラスです。ところが、弥生時代にはほとんどが海の底、あるいは湿地帯でした。

これは河川の堆積作用による沖積平野すべてに言える事です。関東平野しかり、九州の筑紫平野しかりです。

長い年月を掛けて山々からの土砂が運び込まれて、沖積平野が形作られ、現代の広大な平野が形成されたのです。

 濃尾平野から見つかる弥生遺跡のほとんどは、現在ではかなり内陸部に入った場所にあり、それらの地が、弥生時代には海岸線だったという事になります。

 現代の巨大都市・名古屋のような繁栄は、弥生時代には無かったという事です。

 濃尾平野とよく似た構造の平野に、九州の筑紫平野があります。筑後川という大河の堆積作用によって形成された沖積平野です。ここもまた、現代でこそ広大な平野が広がっていますが、弥生時代にはほとんどが海の底や湿地帯でした。顕著な弥生遺跡は、吉野ケ里遺跡や久留米市、八女市、といった現代の内陸部に分布しています。当時はそのあたりが海岸線でした。邪馬台国九州説の本丸と言える場所ですが、農業生産力という点からは、全く話になりません。北部九州は朝鮮半島に近い「地の利」がありますので、出土品には個性的なものが見られますが、所詮は中継貿易地のような小さな集落が点在してしていたに過ぎず、大きな国の発生は有り得ません。

 なお、筑紫平野の海の底だった場所にも弥生遺跡は見つかっています。これは、台地や微高地といった局所的な話です。そういう場所は水田稲作には不向きで、海産物の狩猟で生業を立てていた小さな小さな部落です。

これをもって、「筑紫平野全域が海の底では無かった。」などと酷い曲解をする古代史研究家がいるのには、困ったものです。局所的と広域的、しっかりと見分けなければなりません。

 東海地方の話に戻します。

濃尾平野のほとんどは海の底でしたが、その他の地域も同じような事が言えます。弥生時代の海岸線は、現代よりもかなり内陸部にありました。ただし、愛知県東部から静岡県に掛けての地域は、台地状の地形になっています。なだらかな丘陵地が続いており、水はけの良い場所です。現代でもこれらの地域は、畑作農業が盛んである事からもわかりますよね?

 先ほどの登呂遺跡については、広域的には台地が続く場所でありながら、局地的に水田稲作に適した土地だったが故です。せっかくお米を作れる場所ならば、田圃にしてしまおう。といったところでしょうか?

畑作農業よりも稲作農業の方が何倍も効率よく生産できるのは当たり前ですので、土地を効率的に活用していた訳です。

 文献史学的にも、古代の東海地方を印象付けるものはありません。せいぜい初期の頃の天皇に娘を嫁がせていた「尾張氏」くらいでしょうか?

 これは、東海地方に強力な勢力が存在していなかったから? あるいは、農業生産力で劣っていたから? という事では無さそうです。

 私は、古事記や日本書紀が記された8世紀頃に、大和王権と東海地方とが敵対していたからだと考えます。

 奈良時代には、近畿地方と東海地方との間には、二つの重要な関所が設けられていました。古代三関(さんげん)の内の2つ。不破関(ふわのせき)と鈴鹿関(すずかのせき)です。現在の岐阜県関ケ原町と、三重県鈴鹿市に、それぞれ存在していました。また、もう一つは、越前との国境に設けられた愛発の関です。

 どういう訳か、近畿の西側地域との境には、このような関所は一つも設けられておらず、東日本との境界にだけ設置されています。

 これは、当時の実力者・藤原氏に敵対していた勢力が、東海地方や北陸地方だった事を明確に示しているのではないでしょうか?

そのような状況で記された古事記や日本書紀。そこに東海地方の記述が多くあるはずもありませんよね?

 この辺の詳細は、改めて考察する事にします。

 いかがでしたか?

邪馬台国論争で登場する事は全く無い東海地方。だからと言って、その当時、誰も住んでいなかったわけではありません。あまり有名ではありませんが、大規模な拠点集落もいくつか見つかっています。そこから出土する遺物は、決して奈良盆地に劣っているわけでもありません。どうしても東海地方は、中国大陸から見れば内陸部の奥地ですので、そんな場所に邪馬台国があったなどとは考え辛いのでしょう。そういう点では、近畿地方も同じですが?

古代の三角州は水田適地ではありません

 登呂遺跡や濃尾平野について考えていましたら、中学生時代の教科書を色々思い出しました。

登呂遺跡が書いてあった事だけでなくて、もう一つあります。それは、土地の成り立ちに関する記述です。たしか、

「扇状地は砂状の土で水はけが良いので、水田稲作には不向き」

「三角州は、粒子の細かい栄養豊富な土地なので、水田稲作に向いている」

という内容だったように思います。まあ、正しいと言えば正しいのですが。完全な誤りとは言えません。ただし三角州については、古代の状況からは単純に水田稲作に向いているとは言えませんので、付け加えておきます。

 三角州は、土の質という点からは申し分ありません。しかし、治水整備という点からは、古代には使い物になりません。

台風や大雨があれば、あっという間に洪水、陥没してしまいます。現代でこそ、上流地域に大規模なダムが造られたり、しっかりとした河川整備がなされているので、問題は少ないのですが、弥生時代にそんな物はありませんよね?

現代でさえも、濃尾平野や筑紫平野は、毎年のように大雨の被害が出ていますので、古代の頃なんてもう、お話にならないくらい、ほとんど人が住めないくらい、洪水だらけの土地だった事は容易に想像が付きます。

 濃尾平野である程度、治水整備がなされたのは、15世紀の室町時代だったとされています。丁度戦国時代前夜ですね? 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などが出現する前夜です。彼らは、濃尾平野の治水整備が進んで、農業生産が飛躍的に伸びたからこそ、出現できたとも言えますね?

 なお、エジプト文明が誕生したナイル川下流の三角州は、事情が異なります。

これはまた別の機会にお話しする事にします。