冷遇された藤原氏 河内馬飼と近江毛野

 こんにちは、八俣遠呂智です。

前回までに、藤原氏の先祖は日向の国の馬飼職人であり、神武東征という形を借りて近畿地方へやって来た氏族である、という推論を立てました。それは神代の昔の出来事ではなく、航海技術が進化した5世紀頃であると考えられます。

近畿地方に馬が伝来した時期は、考古学的にも文献史学上でも、まさにこの時代です。そして、実質上の大和王権の成立に大きく関与したのが、馬飼職人でした。

 古墳時代中期、すなわち5世紀頃の近畿地方では河内平野を中心に巨大古墳の造成が行われていました。これは、かつて存在していた巨大な淡水湖の水が引いて、広大な水田適地が広がった事によります。人口扶養力が大いにに高まり、人口爆発が起こり、この地が日本の中心地へと成長して行ったのでした。

 これに目を付けたのが、日向の国で馬飼職人をしていた藤原氏の先祖です。古墳造成の土木工事に「馬」を活用して、一儲けしようという算段だったのです。

 日向の国からの行程では、直接近畿地方へ向かえばいいようなものですが、なぜか、北部九州へ向かっています。それは、馬を運搬するための大型船を調達する必要があったからです。当時の造船技術では、瀬戸内海という世界屈指の困難な海域を渡れるような大型船は作れませんでしたが、北部九州には、海のプロフェッショナルがいました。宗像海人族をはじめとする海の氏族たちです。彼らの協力の元に、馬飼職人・藤原氏は、瀬戸内海を渡って近畿地方へと馬を運ぶ事ができたのでした。これが、初代天皇の歴史とされている神武東征の元ネタです。時代は神代の昔などではなく、5世紀頃の事です。

 では実際に、近畿地方に馬が伝来したのはいつ頃の事でしょうか? 考古学的な視点と文献史学的な視点の両方から、まさに5世紀頃とされています。

 考古学的には、4世紀の古墳に無かった馬具類が、5世紀の古墳には、突如として大量に副葬されるようになっています。また、馬型埴輪が埋められるようになったのも、同じ時期です。明らかに5世紀に入ってから近畿地方に馬の伝来があったことを物語っています。

 一方、文献史学上でも、やはり5世紀頃となります。それは、馬飼職人の存在が記されているのが、まさにその時代だからです。日本書紀によれば、河内馬飼(かわちうまかい)と倭馬飼(やまとうまかい)という二つの馬飼集団がいたとされています。どちらも5世紀頃から出現し、それぞれ河内の国と大和の国を拠点として馬の飼育・繁殖を行っていたとされています。当時の巨大古墳の造成に活用されていた「馬」を生産し、豪族たちに貸し出しを行って、利益を上げていた下賤の者の集団です。

 このように、近畿地方に馬が伝来したのは、5世紀頃で間違いありません。そして、馬を持ち込んだ集団が、繁殖適地である日向の国の馬飼職人だったと見るのに、無理はないでしょう。

 藤原氏の先祖は、河内馬飼(かわちうまかい)です。6世紀の継体天皇によるヤマト王権成立と、その後の磐井の乱の大失敗に大きく関わった馬飼職人でした。

 その当時は、主に河内の国の西側にある上町台地に巨大古墳が造成されており、中心地は奈良盆地ではなく河内平野でした。彼らは、河内平野北部から淀川下流域にかけての地域に牧場を持っていたとされています。

 馬飼職人という身分の低い下賤の者ながら、政治状況には精通していたとみられます。それは、古墳を作ろうとする豪族たちに馬の貸し出しを行っていましたので、どの地域にどの豪族が存在し、その力関係や懐具合など、様々な情報に通じていました。さらには無意味な巨大古墳を作る事で疲弊した一般民衆の心情をも知り尽くしていた事でしょう。

 そんな河内馬飼だからこそ、古代史の影のキーマンになっていったのです。

 6世紀に入ると、河内馬飼(かわちうまかい)に転機が訪れます。近畿地方に反感を持った勢力がこの地を征服しようとする機運の高まりでした。特に、農業生産で近畿地方を圧倒的に上回る北陸地方の越前は、強力な勢力でした。しかし越前は国力こそあるものの、日本海側の冬場の悪天候という自然条件に問題を抱えていました。農閑期の冬場に晴天が続いて土木工事が行える太平洋側の土地は、喉から手が出るほど欲しかったに違いありません。

 ここで、河内馬飼(かわちうまかい)は、諜報機関の役割を果たします。越前勢力に対して、近畿地方の状況を逐一報告して、征服する機会を伝えていたのです。日本の歴史上、最も古い最初のスパイ、という事になります。その当時の馬飼職人の統領だった河内馬飼首荒籠は、このような役割を果たしていた事が、日本書紀に記されています。

 やがて越前を発った大王は、河内北部の樟葉宮に都を開きました。まさに河内馬飼首荒籠が馬牧場を開き、拠点としていた場所です。この地で、巨大古墳の造成にうつつを抜かしていた河内勢力と対峙し、同時に、筒城宮(つつきのみや)や弟国宮(おとくにのみや)という淀川水系の要所要所に都を遷しながら地盤を固めて行きました。最終的には、当時はまだ淡水湖が広がっていた未開の土地、奈良盆地に都を遷し、まったく新しい王朝が誕生したのです。これがヤマト王権の誕生です。

 日本書紀では神武天皇が橿原の地に都を開いたとされていますが、これは藤原氏による創作に過ぎません。実際には、越前の大王が橿原の地に開いた磐余玉穂宮が最初です。

 なお越前の大王は、日本書紀では第26代・継体天皇とされています。

 このように、藤原氏の先祖の馬飼職人、河内馬飼(かわちうまかい)は、ヤマト王権成立に重要な役割を果たしたスパイでした。この時期にはまだ、継体天皇との関係は良好でした。しかし、後に決定的な亀裂が生じてしまいます。北部九州で勃発した磐井の乱が原因です。

 以前の動画「邪馬台国を消した藤原氏⑦:うだつの上がらない下積み時代」で示しましたように、近江毛野という人物が大失敗した戦いです。

 継体天皇が奈良盆地南部へ都を遷した翌年に、北部九州・磐井勢力が起こした反乱で、朝鮮半島の権益を広げようと目論んで、近江毛野という人物を九州へ送ったものの、返り討ちに合ってしまった事件です。大失敗を犯したこの近江毛野こそが、藤原氏の先祖である可能性が高いとしました。

 今回紹介した河内馬飼(かわちうまかい)もまた、この磐井の乱に近江毛野と共に出兵しています。九州・日向の地からやって来た馬飼集団が、九州や朝鮮への出兵を命じられたのは当然でしょう。

 残念ながら、近江毛野を頭とする馬飼軍団は、大敗北を喫してしまいました。

 なお、継体天皇のスパイの役割を果たして大活躍した人物は、河内馬飼首荒籠。磐井の乱で大失敗を犯した人物は、その息子とみられる河内馬飼首御狩(かわちのうまかいのおびとみかり)。と日本書紀には記されています。

 継体天皇によるヤマト王権樹立に大きく関与した河内馬飼でしたが、すぐに大失敗を犯してしまい、その後はずっと組織の末端で冷や飯を食わされる事になってしまいました。これが中臣氏、のちの藤原氏一族の陰の歴史だと推測します。一方で、継体天皇と共に越前からやって来た蘇我氏の方は、組織の中枢に居座る事になったのです。

 この辺の事情が、後に乙巳の変、すなわち中臣鎌足による蘇我入鹿殺害事件へとつながる布石になったのでしょう。

ヤマト王権樹立に尽力しながらも、あまりにも酷い扱いを受けた藤原氏一族。彼らから見た邪馬台国は、憎悪の対象であり、歴史書から消して当然の国だったという事です。

 いかがでしたか?

馬という強力な武器をもってしても、馬飼職人は所詮は下賤の者でした。いくらスパイとして大活躍したとしても、その後の大失敗で冷や飯を食わされた藤原氏のご先祖様。そんな怨念が、後の蘇我入鹿殺害や、邪馬台国を歴史書から抹消した意識の源泉だったのではないでしょうか? 次回は、これまで考察した藤原氏の出自と、邪馬台国を消し去った経緯についての、総集編です。