魏志倭人伝 論争の先駆者たち

 邪馬台国の場所を推定する試みの歴史を紐解くと、古くは14世紀の鎌倉時代から始まっています。その後、18世紀に新井白石らによって体系化され、学問的な基盤が作られました。

その当時は、考古学的な史料が全く無かった時代ですので、文献だけに頼ったものでした。

現代でも、歴史学はもっぱら文献解釈が主流です。進歩がないですね。

 今回は、邪馬台国論争の歴史の中で、江戸時代までの諸説の概要をまとめます。

先駆者10
江戸時代まで

 邪馬台国論争の江戸時代までの歴史を、年表を使って示して行きます。

魏志倭人伝が著されたのが、三世紀。

日本最古の歴史書、古事記・日本書紀が、八世紀です。

日本書紀の中には、邪馬台国に関する記述はないものの、魏志倭人伝からの引用はあります。

その後、600年も経過してからようやく邪馬台国に関する意見記述が見られるようになります。

14世紀という室町時代に、公卿の歴史家である北畠親房が、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」という書物の中で記しています。

魏志倭人伝からは実に1100年も後という事です。

 さらに室町時代の僧侶・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)による「善隣国宝記」、江戸時代の国学者・松下見林の「異称日本伝(いしょうにほんでん)」などにも見られるようになります。

 そして、新井白石が「古史通惑問(こしつうわくもん)」などで、邪馬台国を学問として研究する対象としました。

 本居宣長も「古事記伝」にて、更に掘り下げて行きます。さらに、

 鶴峰戊申(しげのぶ)

 伴信友

 菅政友(すがまさとも)

などによって、邪馬台国論争が活発になって行きます。

先駆者20
日本書紀と魏志倭人伝

 日本書紀の中で、魏志倭人伝に関する記事が現れるものの、その内容に邪馬台国や卑弥呼という文字が出てくるわけではありません。神功皇后の摂政紀の中に、魏志倭人伝からの引用として、倭の女王が魏へ使いを送ったという記述があります。

 この事から神功皇后は、女王・卑弥呼をモデルとしており、神功皇后がが都とした「大和」こそが邪馬台国であるとして、畿内説の発祥となりました。現代においても、神功皇后は卑弥呼をモデルと主張する研究者は多く存在します。畿内説論者のみならず、神功皇后伝説の多い九州説論者にも見られます。

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都は敦賀

B: ちょっと待った!

 

A: なっ、なに?

 

B:このあいだの動画で、神功皇后が都としたのは、大和ではなくて、越前の敦賀だって言ってましたよね。

 

A: その通りです。神功皇后は、大和から敦賀へ都を移して、在位期間のほとんどをそこで過ごしています。もちろん、熊襲征伐や三韓征伐に旅立ったのもこの地からです。

 

B: ではどうして、畿内説の人達は神功皇后の都が大和だと言っているのですか?

 

A: 敦賀に移す前は、ほんの少しだけ大和が都でしたので、間違いではありません。

これだと女王の都は、近畿地方にあったと主張できますよね。

でもそれは、畿内説論者の結論ありきの主張なのです。

 越前・敦賀が都だと都合が悪いので、完全に無視しているのです。

 

B: なるほど!そういう事だったんだ。

 

A:  日本書紀を素直に読めば、邪馬台国は越前ですね。

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新井白石

 話を元に戻します。

 日本書紀以降、幾つかの文献に邪馬台国関係の記事が現れます。しかし、いずれも魏志倭人伝の簡単な紹介程度で,暗に卑弥呼は神功皇后であるとした日本書紀の受け売りの域を出ていません。

 本格的な邪馬台国の研究が始まったのは、新井白石からです。

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白石は忖度学者

 新井白石は、1716年に完成させた『古史通或問』(こしつうわくもん)において、「魏志倭人伝は真実である」と述べて、倭人伝に現れる倭の国々を実在の地名に比定して行きました。

 対海國を対馬、一大國を壱岐島、末廬國を肥前の國・松浦郡といった具合です。

現在でもほぼそうであろうと考えられている比定地は、彼が最初に著したものです。

 また、邪馬台国という読み方も、彼の手によるものです。魏志倭人伝の元になる中国で十二世紀に書かれた『紹興本』や『紹煕本』には、邪馬壹国としか書かれていません。ところがそれを、後漢書などに書かれた邪馬台国という読み方を用いたのです。

 これは、天皇家に忖度したものと見られます。日本で最も古い国家は、天皇を頂点とする大和王権でなければなりません。そこで「ヤマイチ」ではなく、「ヤマト」という発音に近い「ヤマタイ」、とした訳です。

 また、倭人伝に記されている年代や官名、風俗等についても考察しています。

新井白石よりも前の時代の歴史研究者たちは、「魏志倭人伝の多くの部分を伝聞である」として真に受けずに、省みられませんでした。白石はそこを、科学的・実証的に研究して行ったのです。

 この意味では、邪馬台国問題を初めて学問として研究する対象とした先駆者として、非常に重要な存在と言えるでしょう。

 なお彼もまた、卑弥呼は神功皇后であるとして、日本書紀以来の呪縛から抜け切れていません。しかしながら、今日私たちが邪馬台国論争を行えるのは、新井白石の功績があってこそです。

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比定地論争も

 新井白石はまた、現代に共通する火種も作り出しました。つまり、畿内説と九州説の両方を主張しているのです。

 はじめのうちは、邪馬台国は大和の國である、つまりヤマト王権の祖となる存在として、日本最古の国家が近畿地方に存在していたとしていました。

 ところがその後、邪馬台国は筑後の國・山門郡であるとしたのです。これもまた、天皇家に忖度した為と考えられます。それは、ヤマト王権の先祖である邪馬台国が、中国の下の立場にあったとすればそれは屈辱的で、あってはならない、という考え方に基づきます。つまりその時代に3回にも渡って中国・魏の皇帝に貢ぎ物を贈って、僕としての忠誠を誓っているからです。中国が上、日本が下、というのは天皇家のみならず、全ての日本国民にとって、あってはならない事です。それに気が付いたからでしょう。中国へ朝貢したのは北部九州の勢力の「ヤマト」だったと、後になって曲解したのです。

 このように、邪馬台国を学問として研究する対象とした先駆者であり、畿内説・九州説という、いわばどうでもいい比定地論争の火種を作り出した張本人が、新井白石という事です。

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本居宣長は恣意的解釈

 次の時代の登場する本居宣長も、新井白石の考え方を継承しています。白石が亡くなった5年後に生まれた江戸時代後期の人物ですので、彼もまた天皇家の顔色を伺っていた御用学者です。『古事記伝』を著し、邪馬台国研究を更に掘り下げています。

 彼は新井白石ほど魏志倭人伝を信用せず、中国の史書に対して多くの疑念を持っていました。倭人伝の多くの記事を、「これは間違い」、「これは一月ではなく一日の誤り」などとして、邪馬台国は筑後の國・山門郡にあると曲解しました。また卑弥呼は、熊襲の土蜘蛛・田油津媛が偽って、神功皇后の名を語るのに用いたものだとしました。

 このように邪馬台国を九州にあったと強引に曲解し、中国へ貢ぎ物を持っていたのは天皇家ではないとしたのは、新井白石と同じです。御用学者の面目躍如と言えるでしょう。

 ただし、このように自説に都合の良いように曲解する悪い癖は、現代にも受け継がれてしまいました。九州説支持者に多く見られる原文の恣意的解釈は、本居宣長に始まったと言えます。

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先駆者たち

 このように、新井白石は邪馬台国問題を初めて学問の研究対象とし、畿内説、九州説の端緒となり、本居宣長は魏志倭人伝を捻じ曲げて解釈する始まりとなりました。

 あらゆる意味において、新井白石と本居宣長の二人が邪馬台国研究の元祖と言えます。その後も二人の方法による邪馬台国論が、現代に至るまで延々と続く事になる論争の原点とも言えるのです。

 第二次世界大戦が終わるまでは、皇国史観の狭い視点で歴史が研究されました。時代背景を考えれば、新井白石や本居宣長が御用学者だったのは当然だったのです。彼らの説は、現代の物差しではあまりにも荒唐無稽ではあるものの、いまだに同じような解釈をする古代史研究家も少なからず存在します。いずれにしても彼らがいなければ、現在の楽しい邪馬台国論争は起こっていなかった訳です。批判するよりも、先駆者の功績に対して大いに感謝しなければなりません。