往年の比定地 吉野ヶ里

 九州最大の弥生集落・吉野ヶ里遺跡の発見は、古代史ファンのみならず全ての日本人の邪馬台国ロマンを掻き立てました。環濠集落、無数の土器片、美麗な管玉、頭部を失い、あるいは幾本もの鏃を射込まれた人骨たち、そして朱塗りの甕棺に有柄銅剣を抱いて眠る「王」。

 さらに魏志倭人伝の記述通りの楼観・城柵跡が発掘されるにつれ、邪馬台国論争に終止符が打たれたものと、誰しも疑いませんでした。

 最近ではすっかりこの熱も収まりましたが、依然として高い人気と支持を誇っていて、多くの古代史ファンを引き付けています。

今回は吉野ヶ里遺跡のアウトラインと、現在の立ち位置をまとめてみました。

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第三位の広さ

 古代史に興味の無い人でも知っている弥生遺跡・吉野ヶ里。集落の面積規模では、奈良県の纏向遺跡、鳥取県の妻木晩田遺跡に次いで第三位ですが、知名度では、おそらくダントツの一位ではないでしょうか。

 国営の吉野ヶ里歴史公園として非常に良く整備されていますので、多くの人が訪れて、弥生集落を体験できるのが理由の一つです。

 所在地は佐賀県南西部、脊振山地(せふりさんち)南側の丘陵地帯に立地しています。南側の筑紫平野に大きく開けた地形となっていて、広々とした水田稲作地帯を見下ろしています。

 発見は1986年で、飲料水メーカーの開発工事に先立って行われた調査の際に見つかりました。発見当初は、「邪馬台国の場所が確定!」とセンセーショナルに報道されて、一大ブームを巻き起こしました。その後、考古学会が邪馬台国畿内説を支持していることもあり、ブームは下火になりましたが、現在でも多くの研究者がこの地を邪馬台国と比定しています。

 ちなみに、吉野ヶ里とならぶ北部九州の代表的な拠点集落には、平塚川添(ひらつかかわそえ)遺跡があります。実は、吉野ヶ里の開発をあきらめた飲料水メーカーが、別な場所の開発を行ったのですが、その際に発見されたのが平塚川添遺跡だったというオチがあります。

 古代史ファンにとっては幸運、飲料水メーカーにとっては不運でした。

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知名度第一位
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海産物豊富

 吉野ヶ里遺跡の周辺は、現代でこそ広大な水田稲作地帯が広がっていますが、弥生時代には、まだ有明海が迫っている海岸線でした。有明海は、満潮干潮時の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持っています。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れていたこと、貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられています。

 弥生時代という水田稲作の時代ではありましたが、小高い丘陵地であるこの地域は、水田稲作に適した土地ではありません。水田適地は海岸線の湿地帯の干潟に限られ、広大な農耕地は広がっていませんでした。現に、吉野ヶ里遺跡の環濠集落内では、水田遺構は全く見つかっていません。食料は主に、畑作農業の収穫物や、有明海の魚介類だったようです。

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多くの出土品

 吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構です。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠が作られ、V字型に深く掘られた総延長2.5キロメートルの濠で囲まれています。その面積は40ヘクタールにも及びます。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていて、見張りや威嚇のための物見櫓が複数置かれています。

 建物の遺構では、竪穴住居はもちろん、位の高い者が暮らしていたとみられる高床住居や、祭祀が行われる主祭殿、斎堂なども見つかっています。

 お墓では、住民や兵士などの一般人の共同墓地だと考えられる甕棺、石棺、土坑墓。そして、集落の首長などの墓ではないかと考えられる、大きな二つの墳丘墓も発見されています。

 発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとます。

 出土品では、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土しています。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがあります。また1998年には、九州で初めてとなる銅鐸が遺跡の周辺部で発見されています。

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往年の比定地

  吉野ヶ里遺跡が発見された1980年代には、「邪馬台国の場所 確定!」と大々的にマスコミにもてはやされました。すべてのテレビや新聞・雑誌が報道して、かなり過熱気味だった印象が残っています。

 現在でも吉野ヶ里説を支持する人は多いのですが、畿内説に押され気味ですね。

衰退してしまった理由は様々ですが、一時期のブームの反動が原因のようです。

まず、

1.邪馬台国時代よりも古い遺跡 だとする説

 これは決して正しくはありません。吉野ヶ里の最盛期はまさに邪馬台国時代です。周囲を囲む環壕エリアが拡がり建物が巨大化したのが、その時代だと分析されているからです。遺跡の出現時期が、弥生時代前の縄文時代から綿々と続いているので、それを利用して反対派の畿内説論者が「吉野ヶ里は古すぎる」と捲し立てたからのようです。

2.金印の出土が無かったから

『魏志倭人伝』に記されている金印か銀印がでてくるかも知れないと期待していたのに、それが出てこなかったからというものです。決定的証拠が出なかったので、しだいに熱がさめてしまったということです。長く研究を続けていた学者たちは、そう簡単には自説を曲げる訳にはいかなかったのでしょう。

3.水田遺構が無いから

 これは説得力があり、致命的です。実際、吉野ヶ里の食料は畑作物と海産物が主体でした。立地条件が砂質で水田稲作には不向きな土地でしたので、縄文時代から続いていた食生活から進化がありませんでした。当然の帰結として人口密度は低く、集落内の人口はわずかで、せいぜい1000人程度、周辺地域を含めても5000人くらいの人口しかなかったと推定されています。

 これでは魏志倭人伝の最大の国・邪馬台国では有り得ませんね。

  吉野ヶ里遺跡は、古墳時代の始まりとともに、環濠には大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまいました。集落はほぼ消滅して離散してしまったのです。

  また、高地性集落も消滅します。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからです。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれました。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになったのです。

 吉野ヶ里は、山門、八女と同じように有明海沿岸地域に見られる「対抗勢力」の一つだったのではないでしょうか。

 次回からは、玄界灘沿岸地域に戻ります。