邪馬台国? いいえ近畿は狗奴国です。

 こんにちは、八俣遠呂智です。

今回からは、邪馬台国比定地論争の大本命、近畿地方へ入って行きます。近畿地方と言っても、現代の行政区分で一括りにしてしまうのは危険です。それは弥生文化という点で、太平洋側と日本海側には、明らかな差異があるからです。奈良県の弥生遺跡からは全く鉄器が出土していないのは有名ですが、畿内説論者の中には、「日本海側の丹後半島からは大量の鉄器が出土している」などと、ヘンテコな言い訳をする輩も存在します。弥生文化の区分けはしっかりしなければなりません。

 近畿地方の弥生時代を考察するに当たり、まずはこの地域の定義から入ります。

現代では、兵庫県・京都府・大阪府・奈良県・滋賀県・和歌山県の、2府4県を指す事が多いようですが、古代の文化圏では、かなり異なる様相を呈していました。

 古墳時代からのこの地域の中心地は、河内平野や奈良盆地南部ですので、その文化的影響が及んでいる範囲をもって、「近畿地方」としました。

 具体的には、兵庫県南部、京都府南部、大阪府、奈良県、滋賀県、和歌山県、三重県北西部、および三重県南部です。

 奈良時代の行政区分では、播磨の国、淡路の国、山背の国、摂津の国、河内の国、和泉の国、大和の国、近江の国、紀伊の国、伊賀の国。となります。

 この中で、顕著な文化的差異が認められるのは兵庫県北部と京都府北部ですので、除外しました。すなわち、丹波・但馬・丹後の3国です。

 この地域は、魏志倭人伝に記されている「投馬国」です。

 ここは日本海に面している地域ですので、冬場に雪が多いという気象条件が異なるだけでなく、弥生時代の文化圏としても、太平洋側とは全くの別物です。

考古学的には、畿内とは比べ物にならないくらい豪華な弥生遺跡が発見されている地域です。奈良県などの近畿地方の中心部では、鉄器の出土がほとんどありませんが、この地の出土量は日本一多い、という極端な差があります。また、大型の方形周溝墓が築造されていたり、魏からの下賜品とみられる紀年銘鏡の出土が多いのも、この地域です。

 また、投馬国とは音韻的な一致もあります。これら三つの国は元々一つの地域で、「タニハ」または「タンマ」と呼ばれていました。投馬国と比定するには十分ですね?

 失礼ながら現代では、過疎化の進む寂れた地域ではあります。しかし、邪馬台国時代には日本列島で最も先進的な地域だったと言えるでしょう。

 なお、以前の動画「投馬国シリーズ」にて、13回に分けて既に特集していますのでご参照下さい。

 そのほか、兵庫県南部の播磨の国は吉備の国・岡山県と隣接している事もあり、古代には山陽道に含まれていましたし、淡路の国は四国に含まれていた時代もありました。

 この辺の区分はあいまいになりますが、出土する土器類からは近畿地方と見る方が自然に思えます。また、日本海側にある投馬国から鉄器文化が流出して来た経路が、すなわち「鉄の道」がこの地域である可能性があります。

 それは、但馬の国から播磨の国へ抜け出るには、中国山地を越えなければなりませんが、峠の標高は僅か90メートル程度しかありません。中国山地の中で最も低い標高です。文化の遮断は地理的条件が影響しますが、この地域は比較的文化が漏れ出しやすい地域だと言えます。

 古墳時代以降に、近畿地方が日本の中心地となったのは疑う余地はありませんが、その基盤となった大陸からの文化の流入は、この播磨エリアからというのが、一つの可能性です。

 淡路の国についても、播磨からの鉄の流れを示す弥生遺跡があります。それは、鍛冶場跡です。大和や河内という畿内の中心地からは、鍛冶場跡どころか、鉄器もほとんど出土がありませんが、この淡路島の弥生遺跡をもってようやく畿内への文化の伝来があったと考えられています。

 一方、東の方では紀伊の国の領域が、和歌山県のみに留まらず、三重県南部をも含んでいます。

日本神話に見られる神武東征において、神武天皇が紀伊の国の熊野を上陸して奈良盆地へ入ったとされています。

現代では三重県に属する熊野ですが、古代には紀伊の国に属しており、文化的にも近畿地方の一部だったと考えられます。

 邪馬台国時代の近畿地方は、文化的な見地からこの図のような領域だったと定義します。

良く知られているように、この地域は邪馬台国論争における比定地の第一候補となっています。

特に奈良盆地南部の巨大な拠点集落跡の纏向遺跡は有名ですね?

そこから出土する土器類は大量で、多彩です。また、この遺跡の中にある箸墓古墳を卑弥呼の墓である、とする説もありますね?

 残念ながら、私は畿内説を支持していません。理由はいくつもありますが、主なところでは、

・弥生遺跡の出土品の中に北部九州と繋がりのあるものが無い。

・瀬戸内海航路を古代の大型船が航行するのは無理。

・日本海航路を使っても、但馬・丹後・丹波という先進地域の強力な勢力に対抗できない。

・広大な水田適地が広がったのは四世紀頃である。それまでは淡水湖だった。

などがあります。

 また、纏向遺跡からは様々な土器類が出土していますが、鉄器の出土は全くなく、王族の存在を窺わせる威信財の出土が少ないのも特徴です。弥生文化としては、後進国とも言える場所です。

 先進的な日本海エリアとの文化の断絶が顕著な地域ですので、邪馬台国というよりもむしろ、敵国である狗奴国、という方が適格です。

 今後の動画でその理由も明確にしていきます。

 いかがでしたか?

現代の感覚からすれば、奈良盆地あたりが古代からの中心地であり、先進地域だった、と思ってしまいますね?

また、同じ近畿地方でも、日本海側はとても遅れた地域だったと思ってしまいますね?

しかし、冷静に弥生遺跡の価値を調査して行くと、それは全くの誤りである事に気づかされます。

古代の文化は、リマン海流や対馬海流に乗って日本海側に流れ着く。そしてずっと遅れて太平洋側に伝播していく。そんな当たり前な事が見えてきます。