神武東征 なぜ北部九州へ行ったのか?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

藤原氏の歴史は、神武東征という形を借りた天皇家の歴史です。5世紀頃に、日向の国の馬飼職人だった彼らは、近畿地方へと向かう事になりました。巨大古墳の造成で馬の需要が高まっていたからです。ところが、日向から直接近畿へ向かう事はせずに、まずは北部九州へと向かっています。何の意味があったのでしょうか? ポイントは、航海技術や造船技術という移動手段の進化だったと考えます。

 5世紀の古墳時代中期には、近畿地方で巨大古墳の造成が盛んに行われていました。これは、河内平野に存在していた巨大淡水湖が干上がった事によって天然の水田適地が広がり、水田バブルといういうべき未曽有の好景気が訪れていたからです。人口扶養力の高まりによって爆発的な人口増加をもたらし、近畿地方が日本の中心へと成長していた時代です。

 前方後円墳という規格化された大型古墳が日本全国へと広がって行ったのもこの時期です。もちろん、日向の国・宮崎県にもその文化が及んでいた事が、西都原古墳群から垣間見られます。

 そんな中で、日向の馬飼職人だった藤原氏のご先祖様たちは、近畿地方での商売を目論見ました。なぜならば、その当時の近畿地方では、まだ馬を活用しておらず、人力だけで巨大古墳を造成していたからです。「馬」という強力な動力を用いれば、土木工事の作業効率は飛躍的に改善されます。

 ところが、「馬」をどうやって近畿地方まで運搬するのか? という重大問題に直面したのでした。

 その当時の大型船は、近畿地方の舟形埴輪に見られるような稚拙なものでした。準構造船の形状はしているものの、安定性が悪く外海を航海できるようなものではありません。せいぜい、内海に浮かべて物資を運搬する程度のしろものでした。それを証明した実証実験結果があります。1990年に大阪市主催で行われた「なみはや号プロジェクト」です。舟形埴輪を10倍にして復元して、大阪湾から朝鮮の釜山までを航海するプロジェクトでした。結果は惨憺たるものでした。

海に浮かべてみると安定性がとても悪く、すぐに転覆しそうになりました。やむを得ず数百キロの重しを船底にいれました。ところが今度は船が重くなりすぎて、漕ぎ手がいくら漕いでも全く進みませんでした。進まないだけならいいのですが、全くの制御不能になってしまい、すぐに岩礁にぶつかって座礁してしまう危険性が発生したのです。

 結局、大阪湾から朝鮮の釜山までの全ての行程をディーゼル船に曳航してもらったという、情けない結果に終わりました。

 この実証実験のように、5世紀頃の造船技術はとても稚拙でした。さらに瀬戸内海は現代も古代も、世界屈指の困難な海域です。潮流変化が激しい上に、潮流速度もとても早く、お粗末な大型船では必ず座礁してしまう海なのです。「内海だから穏やかなはず」、などという牧歌的な海ではないのです。神武東征に書かれているように何の問題もなく海を渡る事はできません。ましてや、馬を船で運ぶなどとはもってのほかでした。

 そんな時代に、日向の国から近畿地方を目指した藤原氏のご先祖様は、北部九州の海人族を利用したのです。

日向の国と海人族との交流を物語る出土品が、西都原古墳群から見つかっています。最新鋭の大型船の埴輪です。

準構造船が進化したもので、船底の丸木舟は安定性が重視した形状になっていると同時に、その上に載る構造部は比較的軽くなるように設計されています。これですと、「なみはや号」と比べてかなり実用的です。

 それを証明した実証実験結果があります。2004年に熊本県宇土市が主催した「大王のひつぎプロジェクト」です。これは6世紀の継体天皇の時代に、熊本県で産出されるピンク石が近畿地方に運ばれていた事実を元に、古代船を復元して巨石の運搬を再現実験したものです。このプロジェクトで再現された古代船のモデルが、日向の国・西都原古墳群から発見された舟形埴輪なのです。近畿地方の舟形埴輪に比べて遥かに実用性の高いものでしたので、これをモデルにしたわけです。

 期待通り、復元された古代船は安定性に優れており、漕ぎ手の動力がしっかりと船に伝わって航行が可能でした。熊本県宇土市から20日間以上にも及ぶ航行の結果、無事に大阪湾にまで到達する事ができました。

 この大型船であれば、馬を運ぶことも可能だったでしょう。

 ただしプロジェクト結果を精査してみると、それほど簡単ではなかったようです。元になる舟形埴輪をそのまま復元した訳ではなく、現代の最先端技術を駆使して設計をし直した上に、接続部には現代の強力な金属を用い、高度な技術を持った匠の船大工が作り上げたものでした。それにも関わらず、航海の期間中には部品の欠落や、悪天候時や灼熱地獄の漕ぎ手のモチベーションの低下、などのトラブルが続出していた様子が、航海日誌に記されています。この航海日誌はインターネット上で公開されていますので、ご参照下さい。

 また海上交通の安全上、関門海峡や来島海峡などの潮流速度の速い場所では、海上保安庁のディーゼル船に曳航されていましたので、座礁する可能性の高い場所での航行は一切ありませんでした。やはり瀬戸内海は、現代人が思うよな穏やかで優しい海ではない事が、ここでも証明されました。

 これらの現代に行われた実証実験結果のように、古代の大型船の性能は非常に低く、何の困難もなく瀬戸内海を渡るのは不可能でした。

 そこで日向の国の馬飼職人だった藤原氏のご先祖様は、近畿地方へ移動するに際して、まずは北部九州の海人族を頼ったのです。宗像海人族をはじめとして、安曇氏、和邇氏、三輪氏などの日本書紀に記されている海の氏族たちです。

彼らは西都原古墳群から見つかった舟形埴輪のような最先端の大型船を建造する技術と、高度な航海術を持っていました。最初に北部九州へ向かったのはそういう理由です。そこで1年以上も逗留していますが、これは大型船の建造に時間が掛かったからかも知れませんね?

 このような経緯で神武東征の行路では、日向の国から一旦北部九州を目指し、そこから瀬戸内海を渡って近畿地方にやって来たとなっているのです。

 なお瀬戸内海については、縄文時代から丸木舟が航行してした事が分かっていますので、全く交通が遮断されていた訳ではありません。それをもって、弥生時代や古墳時代にも現代と同じように大型船が自由に航行していた、というのはあまりにも浅はかです。ここではあくまでも、大きな物資を運べる大型船での航海が難しかったことの考察でした。

 なお、考古学の上で明らかに瀬戸内海を大型船が航海したのは、先ほどの熊本県宇土市から運んだ阿蘇ピンク石が最初です。また文献史学上でも同じ時期です。継体天皇の時代に北部九州で起こった磐井の乱に、ヤマト王権は6万人もの軍勢を投入した事になっていますので、これが最初です。

 いずれにしても、5世紀~6世紀頃にようやく瀬戸内海に大型船が利用される事になったのは明らかですね?

これらの事から、神武東征、すなわち藤原氏のご先祖様の近畿地方への移動は、馬の繁殖技術と共に、5世紀~6世紀頃に起こった出来事と推定して間違いないでしょう。

 いかがでしたか?

馬飼職人だった藤原氏のご先祖様は、商売上手だったのでしょう。近畿地方に馬の需要があると見るや、そそくさと出かけて行って一儲け。さらに、北部九州で燻っていた宗像海人族などの、海の専門家たちも近畿地方へいざなうことになったのです。巨大古墳だけしかなかった文明後進国の近畿地方に先進文明をもたらしたのは、日本海側の継体天皇だけでなく、日向の藤原氏でもあり、北部九州の海人族だったのかも知れませんね?