古墳時代の輝き 出雲大社

 これまで、古代出雲の中心地である島根半島を調査してきました。邪馬台国時代の弥生後期には、大量の銅剣・銅鐸の出土や、弥生集落跡、墳丘墓などがあり、大国が存在していた事は間違いありません。但し、農業の視点から見ると、出雲平野の大部分は汽水湖に覆われていたので、農耕地が非常に狭く、強大な国力があったとは思えません。

 古代出雲が最も輝きを見せるのは、干拓工事が進んだ古墳時代と考えられます。その象徴的な存在が、出雲大社です。

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大国主命は古墳時代

 出雲の国で最も有名な場所は、出雲大社でしょう。

島根半島の西の端の、島根県出雲市大社町に位置しています。古代より杵築大社(きずきたいしゃ)と呼ばれていた神社ですが、明治時代に現在の名前に変更されました。

 日本神話などに多くの伝承が語られていて、創建は、神代の昔とされています。つまり、時代を特定できないほど昔からあったという事です。

 記紀や出雲風土記に記されている大国主命神話に、壮大な建築物の行(くだり)がある事から、現実に紀元前の神代の昔から存在していた、と主張する歴史学者も少なくありません。

 具体的な神話では、「出雲の国譲り」です。大国主命が、出雲を高天原の神々に譲り渡す条件として、高天原に建っているのと同じ様な豪壮な宮殿を建てる事を要求し、高天原もこれを了承するという内容です。この神話が紀元前とすれば、まさに神代の昔です。

 では実際にそんなに古いのでしょうか。

私は、日本の歴史の空白期と言われる四世紀~六世紀頃、つまり弥生時代よりも後の、古墳時代と推測しています。

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出雲大社は古墳時代

 その理由としては、次の二点です。

出雲平野の農地が拡大した時期が古墳時代、そして、ヤマタノオロチから大国主命に連なる時期も古墳時代だからです。

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弥生時代の出雲大社の場所は陸の孤島だった
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古志の国の力で、平野が広がりました。

 まず、出雲平野の拡大期です。以前の動画でも紹介しました通り、弥生時代には宍道湖が西へ広がっていただけでなく、西側にも神門水海(かんどのみずうみ)という大きな汽水湖が存在していました。出雲平野は、現在の四分の一以下の広さで、しかも完全に水の引かない湿地帯だったようです。

 出雲風土記によれば、高志の国から来た人々によって干拓工事・治水工事が行われて、農耕地が広がって行きました。これは、実際に存在している古志遺跡群から、弥生時代後期である事が分かります。

 出雲大社のある位置は、弥生時代には神門水海(かんどのみずうみ)の北側の狭い場所でした。ここには、特筆すべき弥生遺跡はなく、陸の孤島の様な、人々が集まれる場所ではありませんでした。

 古墳時代の四世紀~六世紀頃に、ようやく干拓が進んで農耕地が広がり、出雲大社の場所周辺にも、人々が集まれるようになりました。

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出雲大社に纏わる歴史

 次に、大国主命神話です。記紀や出雲風土記で多少の違いがありますが、大きな流れとしては、次の通りです。

1.まずヤマタノオロチ神話で、高志の国が、出雲の国を植民地支配していました。

2.そこへ高天原のスサノオノミコトが現れ、高志のヤマタノオロチを撃退して、出雲の国を手に入れます。

3.スサノオノミコトの子孫である大国主命が、全国平定の旅へと向かいます。

 出雲風土記と古志遺跡群から、高志の国が出雲を植民地支配して開拓していたのは、弥生時代の一世紀~三世紀と推定されます。

この高志勢力が撤退したのは古墳時代の四世紀~五世紀。さらに、大国主命が旅に出た時代は、それよりも後の時代。五世紀~六世紀という事になります。

つまり、スサノオノミコトから大国主命の神話の時代は、四世紀~六世紀頃と推定されます。

 このように、大国主命の神話が実話を元にして作られたとすれば、出雲大社の創建も同じ時代であり、古墳時代と見るべきでしょう。

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出雲大社は中継貿易地のシンボル

 では、なぜ出雲大社の様な巨大な木造建築物が、古墳時代に建てられたのでしょうか。一般には、単なる巨大神殿だったという程度にしか捉えられていません。

 私は、それとは異なる見方をしています。

 古代出雲の役割は、中継貿易地だったと推定します。中国大陸や朝鮮半島からの文物を、邪馬台国や投馬国という超大国へ運ぶ為の中継地点としての役割です。巨大な建造物は、航海する船の目印としての灯台や、来航する船を遠方から見つける為の物見台の役割だったと考えます。

 邪馬台国・高志の勢力を追い出し、独立国家となった出雲の国ではありますが、農耕地の狭さから、依然として国力は弱く、超大国に頼らざるを得ない状況だったのです。

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出雲は旧宗主国である高志の国の力で成長した

 これは、現代の日韓関係に似ています。朝鮮半島がアメリカ合衆国の力で日本から独立したものの、自力では国家運営できなかった姿です。世界で最も貧しい地域だった朝鮮半島は、旧宗主国・日本の援助を受けて、国家としての体を成すレベルにまで、成長できました。

 古代出雲も同じです。高天原の力で独立したものの、自力では国家運営できず、宗主国だった邪馬台国・高志の力を借りて、一人前に成長したのでしょう。

 古墳時代の六世紀初頭には、邪馬台国・高志の大王が狗奴国・近畿を征服しました。第二十六代継体天皇です。これは、越前の農業生産力や、大陸からの先進文明を一早く取り入れた事から、至極当然な流れでした。この越前への先進文明の中継地点として、古代出雲の役割は重要でした。

 その後、飛鳥時代の蘇我氏と藤原氏の対立によって、邪馬台国・高志は歴史から抹殺され、出雲や九州が歴史の主人公となって、現代に語り継がれています。

 この辺の事情は、以前の動画で解説していますので、ご参照下さい。