弥生時代の後進地域 哀れ瀬戸内海

 こんにちは。ヤマタノオロチです。

 瀬戸内海地域は、現代でこそ多くの大型船が行き交い、海上交通の大動脈になっています。いや現代に限らず、1300年前の奈良時代には既に、近畿地方と九州地方を結ぶ重要な交通路になっていました。では、邪馬台国があった1800年前はどうだったのでしょうか?

 瀬戸内海沿岸地域は、顕著な弥生遺跡が少ないという、いわば、弥生の空白地帯です。そうなってしまった原因の一つに海上交通があります。今回は、現代人の思い込みで判断してはいけない瀬戸内海航路の困難さという視点から、考察します。

 山陽・四国地方の弥生遺跡は、吉備の国・岡山県を除いて、特筆すべきものはありません。もちろん各地で生活用の土器類は豊富に出土していますので、弥生時代にこの地に人が住んでいなかったという訳ではありません。要は、「王族」と呼べる強力な勢力が存在していた事を立証する「威信財」の出土が少ないのです。

 これは前回の動画でも指摘しましたように、天然の水田適地がこの地には少ない、というのが大きな理由です。

しかしそれだけではありません。同じように水田適地の少ない北部九州では、多くの威信財の出土があります。これは明らかに、北部九州の地の利、すなわち朝鮮半島に近いから、という理由が考えられます。

 一方、山陽・四国地方ではそうは行きません。

北部九州に入って来た先進文明は、瀬戸内海という世界屈指の困難な海域を渡らない事には、伝播しません。

  もちろん、縄文時代以降、瀬戸内海各地には海の漁を生業にしていた人々が住んでいたでしょうし、自然が引き起こす潮流変化も熟知していた事でしょう。また、中世の村上水軍のように瀬戸内海の水先案内人として役割を果たした人々もいた事でしょう。

しかし弥生時代の彼らは、あくまでも丸木舟や小型の準構造船を操る漁民でしかありません。

 その時代には、当然ながら帆船などはありませんし、10人乗り、20人乗りという大型の船を建造する技術もありませんでした。たとえ建造できたとしても、操縦の困難な稚拙な船でしかありませんでした。

 そのような時代だったが故に、瀬戸内海での大型の船の往来はほとんど無く、その帰結として、山陽・四国地方への先進文明の伝播は非常に遅れ、取り残されてしまったのです。

 その顕著な例が、考古学的で証明する事ができます。瀬戸内海地域とは対照的な日本海地域との比較が最も分かりやすいでしょう。

日本海側は現代でこそ船の往来が少ない閑散とした海域ですが、弥生時代にはそうではありませんでした。冬場の荒波以外は非常に穏やかな海なので、古代の大型船での航海も容易な上に、西から東へ一方向に流れる対馬海流という便利な乗り物もありました。

瀬戸内海のようにいちいち潮目を見ながら少しずつ進む必要がなく、沖乗り航法を使って夜間でも航海が可能です。

その結果が、豊富な弥生遺跡に顕著に現れています。出雲平野から出土した青銅器類の数は日本一ですし、鉄器についても邪馬台国時代に限れば、丹後の国(京都府北部)の出土量が日本一ですし、数では越前の国(福井県北部)が日本一です。

また、翡翠、碧玉、瑪瑙、ガラス玉、といった宝石類の出土も豊富です。

 瀬戸内海地域の陳腐な弥生遺跡とは、雲泥の差と言えます。

このように、山陽・四国地方が弥生時代にとても遅れた地域だった原因は、天然の水田適地が少なかったという理由だけではなく、瀬戸内海が簡単に往来できる海ではなかったという事も、大きな理由だったのでしょう。

 瀬戸内海には多くの島々があり、それらを通過する場所すべてが「海峡」といえる潮流速度の速い難所です。そもそも「瀬戸」という言葉は「海峡」を意味しており、「瀬戸際」という熟語がよく使われる事でも分かる通り、とても危険な場所を指しています。

 潮流速度が特に早い場所を挙げると、一位・鳴門海峡・10.5ノット、二位・来島海峡10.3ノット、三位・関門海峡・9.4ノット、などとなっており、世界屈指の早さです。しかも双方向に潮流が変化します。そのほかにも、明石海峡、速吸瀬戸、大畠瀬戸など、ありとあらゆる海域が困難です。瀬戸内海は「海」というよりはむしろ、速い潮流が行ったり来たりする「水路」と言える場所なのです。稚拙な古代の大型船では、確実に座礁します。

 こんな瀬戸内海航路を、大型船が行き来するようになったのは、いつ頃からでしょうか?

考古学的にはっきりしているのは、六世紀中ごろからです。それは、大阪府高槻市にある今城塚古墳というお墓から、熊本県宇土市産の石棺が発見されているからです。これは、第26代継体天皇の時代に、肥後の国・熊本から瀬戸内海を通って巨大な石を持ち帰ったと推測されています。磐井の乱という古代史最大の反乱が九州で勃発し、それを収めた戦勝記念だったのでしょう。、

 現在のところ、瀬戸内海航路を大型船が通った痕跡は、六世紀以前には見当たりません。さらにそれよりも300年も前の邪馬台国の時代には、小舟が行き来する程度で、大型船はほぼ不可能だったでしょう。

 なお、六世紀の古代船の実証実験は、2005年に熊本県宇土市が主催して行われています。最先端技術を駆使して古代船を復元して、熊本県から大阪府まで実際に航海しています。結果としては、大阪府にまで辿り着きましたが、実際の航海日誌を見ると、かなりお粗末なものでした。現代の最先端技術を駆使してさえも、瀬戸内海は簡単に渡れる海ではなかった事が実証されています。

 ちなみに、邪馬台国九州説を唱える論者には、ヤマト東遷説なる九州の邪馬台国が近畿地方へ移動したという荒唐無稽な説を唱える輩がいます。しかも瀬戸内海を渡ってです。どのような古代船で瀬戸内海を渡ったのか、ご教授願いたいものです。

 また、記紀に記されている神武東征が事実だと主張する輩もいます。これもよく知られているように、紀元前に神武天皇の軍隊が瀬戸内海を渡って来た事になっています。さてさて、これも科学的に立証できるものでしょうか?

 なお、私は神武東征は実際に起こった事だと思っています。しかし、時代は造船技術が進化した六世紀、すなわち磐井の乱と同じ時代だと推測しています。丁度、越前の大王だった継体天皇が近畿地方を征服したのと同じ時期に、日向の国にいた豪族が近畿地方にやって来た話だとすれば、辻褄が合います。

 いかがでしたか?

瀬戸内海地域は、弥生時代はとても遅れた地域でした。吉備の国・岡山県の個性的な弥生文化は、瀬戸内海を渡って来たというよりもむしろ、日本海側の出雲から山を越えてやって来たと見る方が自然でしょう。また、近畿地方に伝わった弥生文化も、日本海側の若狭湾から入って来たと考えます。

記紀が編纂された奈良時代には、瀬戸内海信仰がありました。神武東征の影響でしょうか? 権勢を誇った宇佐神宮の影響でしょうか? そんな事を根拠に弥生時代を考えてはいけませんね?