直方平野から見える鉄器不要論

 水田稲作と遠賀川式土器の伝播には深い相関関係があります。弥生時代前期の水田遺構からは、必ずと言っていいほど、遠賀川式土器の出土があります。

 ところが、水田稲作と同じ時期に北部九州に伝来した鉄器とは、全く関係性が見られません。

 「鉄器が普及したから農地開墾が進んだ」

というのは、明らかに机上の空論です。

 今回は、直方平野をはじめとする天然の水田適地での鉄器出土状況から、弥生時代の水田開墾状況を推察します。

不要10
北部九州は大国ではなかった

 北部九州は鉄器伝来が早く、密林地帯の開拓・開墾や治水整備が進み、弥生時代の農業大国だった、と思われているのではないでしょうか。

 これに対する私の答えは、「No!」です。

以前の動画、「私が九州説をやめた理由」でも述べました通り、北部九州の農業生産は小さなものでした。鉄器があるからといって、簡単に開拓・開墾できるほど、水田開発は生易しいものではありません。明確な根拠として、遥か後世の江戸時代になってさえも、広大な平野を有する筑前の国は、わずか52万石の小国でした。この事実からも分かるでしょう。

 北部九州は、弥生時代初期から末期までの全期間において、鉄器出土のトータルは、数・量ともにダントツの一位です。それをもって北部九州が弥生時代において、

 ・実用的な鉄器が普及していた

 ・農耕地が広がった

と単純に考えるのは、あまりにも早計です。

不要20
水田遺構の鉄器

 日本列島における水田稲作の原型が作られた直方平野の場合にも、鉄器は使われなかったようです。農業に使われていた工具類は、石庖丁や石斧などの石器類です。この平野では、弥生時代の全期間を通しても、飯塚市の立岩遺跡の墳墓から出土した鉄戈(てつほこ)くらいで、農耕用の鉄製品の出土はありません。

 前回の動画で紹介しました青森県の砂沢遺跡や近畿地方の水田遺構群でも、鉄器の出土は全くありません。

 また、弥生時代末期の超大国で広大な水田稲作地帯だった邪馬台国でも、農耕用の鉄製品の出土はありません。邪馬台国での鉄器出土数は、弥生時代末期に限れば日本一多いのですが、それらは玉造用の鉄製工具類がほとんどです。さらに言えば、近畿地方では、ずっと後の古墳時代に入ってさえも、鉄器の出土はありません。

 これらのように弥生時代の水田稲作地帯は、鉄器による開拓・開墾によって農耕地が拓かれたのではなく、天然の水田稲作に適した土地だったという事です。

不要30
弥生の水田適地

 弥生時代に水田稲作が可能だった土地は、限られていました。以前の動画 「残念な農業 九州説の限界」で示しました通り、天然の水田適地は、湖の干潟、堤間低地、谷底低地、三日月湖跡に限られていました。これらは、水が引いたばかりで密林地帯へ変貌してしまう前の、平坦な沖積平地です。

 日本列島最古の水田遺構の菜畑遺跡(なばたけいせき)は谷底低地、板付遺跡(いたづけいせき)は堤間低地でした。

また、直方平野は湖周辺の干潟です。いずれも、開拓・開墾する必要もなく、そのまま水田稲作ができた土地です。

 青森県の砂沢遺跡や、近畿地方の水田遺構群も直方平野と同じく、湖周辺の干潟でした。弥生時代末期の邪馬台国は巨大淡水湖の水が引いた広大な干潟、さらに後の古墳時代・近畿地方も河内湖や奈良湖の水が引いた広大な干潟でした。これらはいずれも特別な農耕具で開墾する必要の無い、天然の水田稲作適地だったのです。

不要31
農業小国・九州

 一方で、北部九州の沿岸地域のほとんどは扇状地ですので大規模水田に適しませんし、筑紫平野は密林地帯でしたので大がかりな開拓・開墾が必要でした。大量の木々を伐採し、根を掘り起こし、土壌を改良し、農地を平らに整地し、畔を造り、川から水を引く。そんな大がかりな作業が、弥生時代どころか江戸時代でさえ簡単には出来なかったのは、容易に想像できるでしょう。ブルドーザーやパワーショベルが現れるのは、現代になってからです。牛や馬でさえ、古墳時代中期からです。

不要40
鉄器は普及せず

 北部九州の水田農業に過大なイメージや誤解を生んでしまったのには、もう一つの理由があります。それは、鉄器の普及状況です。

「紀元前三世紀に日本で最初に鉄器が伝来したから実用工具として普及した」、などという単純な話ではありません。北部九州での鉄器出土が多いのは確かで、地理的にも朝鮮半島に近いので当然です。しかし、一般庶民が一人一本ずつ鉄の斧や鉄の鎌を持てるような状況ではありませんでした。もし、それだけ普及していたのであれば、弥生時代に製鉄所が北部九州にいくつもあり、大量生産していたはずです。ところが、日本での製鉄所は五世紀頃にならないと姿を現しません。

 これは、製鉄所を持つ事が非常に危険でしたので、あえて日本国内に製鉄所を持たなかったのも一つの理由です。詳しくは、「恐怖の工場 古代の製鉄所」にて解説していますので、ご参照ください。

 つまり、弥生時代の鉄器はすべて輸入品であって、価値の高い威信財だったという事です。

 実用道具としては玉造用の工具として用いられていましたが、農耕具の普及はごくわずかだったと言わざるを得ません。

 このように、弥生時代においては、天然の水田稲作適地に農業が発展し、鉄器を使った開墾は、「焼け石に水」のようなものでした。

 なお、鉄器と同じ時期に伝来した金属に青銅器があります。こちらは弥生時代から日本国内で大量生産されています。その為、鉄器とは比べ物にならないほど多く出土しています。銅剣・銅矛・銅鏡などは、威信財としての役割でした。

 実用道具としては、柔らかい金属ですので全くの役立たずです。

 青銅器は、錆びる前は黄金色に輝いている金属ですので、鉄器よりも重宝がられていたのかも知れません。

 次回は、水田稲作発祥の地でありながら超大国になれなかった直方平野の、弥生時代の遺跡をまとめます。