博多湾沿岸説

 言うまでもなく、この地域は朝鮮半島に最も近いこともあり、弥生時代の出土品の宝庫です。

後漢書に書かれた金印が出土したのを始め、出土品の数や質は、枚挙にいとまがありません。弥生時代の日本の中心とも言える場所です。だからと言って、邪馬台国とは言えません。

 農業の視点から考察すると、爆発的な人口増加を促すだけの生産量が無いからです。

九州博多
博多湾沿岸説

博多湾
博多湾沿岸
博多湾砂質土
博多湾沿岸は砂質土。水田稲作には不向き。

 これは、現代の博多湾の様子です。弥生時代の海岸線は、JR博多駅付近だったようです。この地は、太宰府近くを源流とする御笠川による扇状地となっています。特徴としては、御笠川を除いて、ほとんどの川は源流から海岸までの距離が短く、砂やシルトといった粒の大きな地質です。

 くしくも2016年に起こった博多駅前道路陥没事故が、博多の砂で出来た地層を証明してくれました。この地質では、水田稲作には不向きです。もちろん、三日月湖跡のような水田にできる土地もありますが、多くの人々を養うだけの収穫量は期待できません。

博多湾は砂
2016年博多駅前道路陥没事故

 御笠川上流の峠を越えた筑紫平野は、水田稲作に適した広大な平地ですが、ほとんどがジャングルでした。まとまった米の収穫が期待できたのは、さらに東の日田盆地まで行かなければなりません。

 

  流通網の発達した現代の感覚で考えれば、博多湾周辺は商業都市として超大国だったと思ってしまいます。しかし、時は弥生時代です。道はけものみち、川は治水されていない暴れ川です。この地域だけで爆発的な人口増加があったとは、考えられません。

玄界灘小国
玄界灘沿岸は、みな小国が林立していた。

 魏志倭人伝には、邪馬台国は農業大国だったとは全く記されていません。しかしながら、通貨の無い弥生時代に、水田稲作という働く場所と食料が無ければ、超大国になれないのは自明の理です。また、博多は翡翠や瑪瑙といった高級装飾品の産地でもありません。商業活動・交易活動だけで超大国になれる時代ではありません。もちろん、魏志倭人伝を斜め読みして、北部九州全域を邪馬台国とし、その中心都市が博多だったと曲解する事もできますが・・・。

 博多湾に限らず、玄界灘に面した北部九州の海岸地域は、農業の点においては同じです。猫の額ほどの水田を作って生計を立てていました。水田地域ごとに小さな部族が林立していたと見られます。魏志倭人伝に記されている倭国大乱とは、北部九州の部族間対立を意味しているのではないでしょうか?