天皇家と深い姻戚も 藤原氏と敵対。尾張氏

 こんにちは、八俣遠呂智です。

東海シリーズの5回目。古事記や日本書紀という奈良時代の古文書には、東海地方に関する記述はあまり多くはありません。この時期に不破関や鈴鹿関という2つの関所が設けられている事から、近畿地方との関係はあまり良好ではなかったようですね? そんな中で唯一強力な豪族の存在が描かれています。尾張氏という氏族です。その名の通り尾張の国の豪族で、天皇家とは深い姻戚関係を持っています。今回は文献史学の視点から東海地方を眺めてみます。

 尾張氏とは古代氏族の一つです。

美濃や飛騨などに居住した後、尾張国造となりました。日本武尊(やまとたけるのみこと)の時代には、拠点を熱田神宮の南に移しました。日本武尊が東国征伐の際には尾張氏の娘・宮簀媛(みやずひめ)娶って滞在したとされています。

また、三種の神器の一つ・草薙神剣は熱田神宮に置かれ、尾張氏の後裔の宗族は熱田神宮大宮司を代々務めたとされています。

 天皇家との関係では草薙神剣だけではありません。多くの尾張氏の娘が天皇家に嫁いでいます。

第5代孝昭天皇の皇后であり第6代孝安天皇の母である世襲足媛(よそたらしひめ)、第10代崇神天皇の皇后・尾張大海媛(おわりの おおしあまひめ)、第15代応神天皇の皇后・仲姫命(なかつひめのみこと)は、いずれも尾張氏の系譜です。 ただしここまでは、実在性の疑わしい神話の天皇の時代です。

 尾張氏は実際に存在していた天皇の時代にも、皇后を輩出しています。

神話ではない実在性の確実な最も古い天皇は、第26代継体天皇ですが、ここにも尾張氏は登場します。

 越前の大王だった継体天皇は、畿内を侵略していますが、完全に征服するまでの正室は尾張氏の娘・目子媛です。彼女の長男は第27代安閑天皇、次男は第28代宣化天皇として即位しています。

 そのほかにも多くの皇族との姻戚関係を結んでいます。なんだかまるで藤原氏一族みたいですね?

 そんな華々しい系譜を持つ尾張氏ですが、記紀の上ではあまりパッとした存在ではありません。あたかも尾張氏の功績を隠蔽しているかのようにも受け取れます。

どうもこのあたりの事情も、記紀編纂時の実力者・藤原氏との確執があったから、なのではないでしょうか?

 考えうる最も大きな原因は、七世紀に起こった壬申の乱です。天智天皇亡き後の後継者問題を巡って、天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)とが戦った事件です。琵琶湖沿岸地域を中心に、畿内全域に戦いが及びました。結果は、大海人皇子が勝利して天皇に即位しました。天武天皇の誕生です。

 この戦いにおいて天武天皇を強力にバックアップしていたのが、尾張氏です。

壬申の乱の勃発時に天武天皇が砦を置いたのは、美濃の国・関ケ原です。まさに尾張氏の地盤であり、峠一つ越えれば琵琶湖に抜ける事ができる絶好の拠点でした。なお、琵琶湖側の米原や長浜あたりを地盤にしていた氏族・息長氏もまた天武天皇派でした。息長氏もまた強力な氏族で、邪馬台国・卑弥呼のモデルである神功皇后を輩出した事で有名ですね?

 このように、尾張氏や息長氏などの豪族のバックアップによって、天武天皇が戦いに勝利したという事です。

 一方藤原氏の方はどうだったかというと、日本書紀には明確な立場を記していません。あたかも傍観者のような立場です。しかしながら実際には、天智天皇派だったと見ます。それは、亡くなる前の天智天皇は、自分の息子である大友皇子が後継者になる事を望んでいましたので、藤原氏それに組していた事は間違いないでしょう。

 あまりにも有名な乙巳の変では、中臣鎌足と天智天皇が結託して蘇我入鹿を暗殺しています。大和王権の中で冷や飯を食わされていた藤原氏一族が表舞台に登場出来たのは、誰あろう天智天皇のおかげだったからです。

 壬申の乱では藤原氏は敗れ去ったという事であり、それを隠蔽する為に、日本書紀では立場を記さなかったのでしょう。そういう訳で、尾張氏とは敵対関係だったと見るのが自然です。

 戦いの後、天武天皇は新しい歴史書の編纂を命じました。そこで完成したが、「帝紀」や「旧辞」です。おそらくここには、自分の味方だった尾張氏や息長氏の活躍について、多くが記されていた事でしょう。ところが天武天皇亡き後に、これらの歴史書はなぜか失われます。それは、次に即位した持統天皇の存在です。

彼女は天武天皇の皇后であると同時に、天智天皇の娘です。壬申の乱では敗者だった藤原氏は、ちゃっかりと持統天皇の補佐役に居座り、天武天皇の死去と共に復活し、やがてヤマト王権の最高権力者へと上り詰めたのでした。

 そんな藤原氏が、天武天皇に都合のいいように書かれた歴史書をそのままにしておくはずもありませんでした。

「帝紀」や「旧辞」を滅失させ、さらに新たな歴史書を編纂しました。それが、「古事記」であり「日本書紀」なのです。

 そんな経緯で成立した記紀の中に、尾張氏や息長氏の活躍を賞賛する内容が含まれなかったのは、当然だったという事です。

 壬申の乱で協力関係にあった天武天皇と尾張氏との関係には、面白い事実があります。これは、前回の動画で紹介しました伊勢神宮のルーツとも繋がるものです。

 伊勢神宮のルーツは丹後の国・籠神社であり、主祭神の一人・豊受姫は丹後の国風土記に登場する羽衣伝説の天女です。また、伊勢神宮の近くの辰砂鉱山から産出された朱丹は、丹後半島の弥生墳丘墓から検出されています。

 伊勢神宮が日本海勢力、特に丹後の国との強烈な結びつきがあるのですが、天武天皇と尾張氏にも同じような事が言えます。

 さらには、熱田神宮に祀られている三種の神器の一つ・草薙剣は、神話ではありますが元々は高志の国の八俣遠呂智の物ですし、植民地だった出雲の国の須佐之男命に奪われたものです。

 どうも、東海地方と日本海勢力とは、切っても切れないとても深い結びつきがあったようですね?

この詳細は、次回にて。

 いかがでしたか?

古事記や日本書紀は、天武天皇の命で編纂が始まったとされています。しかし彼の存命中に成立したのは、帝紀や旧辞です。彼の死後20年以上経った持統天皇の時代に、ようやく成立した歴史書、古事記と日本書紀。これらが帝紀や旧辞と同じ内容だったと思いますか? 歴史は勝者によって書かれます。当時の実力者・藤原不比等の思惑が色濃く反映された歴史書、いや、歴史小説が古事記と日本書紀なのではないでしょうか?

東海地方はヤマタノオロチの遠縁か?

 草薙剣が愛知県の熱田神宮に保管されているのは、なんだか不思議ですね? 天皇家の三種の神器の一つが、なんで愛知県に? と誰しも疑問に持つのではないでしょうか? 

 もちろん、日本神話にはもっともらしいお伽話が綴られていますが、普通に考えればヤマト王権があった奈良盆地に在りそうなものです。しかも尾張氏という、どちらかと言えばマイナーな氏族の手によって東海地方で管理されていたのですから、ミステリーです。

 今回あらためてこの地域を考察していましたら、少しずつその理由が見えてきました。

弥生時代に先進的な鉄器文化を持っていたのは、丹後半島や北陸地方という日本海側地域でした。草薙剣は鉄剣ですが、これは八俣遠呂智という怪物の尻尾から出てきたとされています。八俣遠呂智は、ご存じのように高志の国・現在の福井県から出現する怪物です。

 そんな日本海側地域ととても強く結びついていたのは、近畿地方ではなくて、東海地方だったのだ。という事がよく分かってきました。