墳丘墓と野だたら製鉄

 出雲の国の弥生時代の典型的な墳墓として、四隅突出型墳丘墓があります。これは、出雲と高志にだけ存在している事から、高句麗からの渡来人たちが、日本海を渡って流れ着いて、広がったものと考えらます。その時代において、鉄器文化を持つ渡来人たちの活躍が、鉄器の流通に大いに貢献したと思われます。実際、弥生時代後期の日本海側地域からの鉄器の出土量が、九州を凌駕している事実とも整合性が取れます。

 今回は、この四隅突出型墳丘墓の出雲における分布と同時に、奥出雲で数多く発見されている「野だたら」との関係について考察します。

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墳丘墓の分布

 四隅突出型墳丘墓は、山陰地方と北陸地方だけに見つかっている高句麗に起源を持つ墳丘墓です。山陰地方では、八十基ほどが見つかっています。

 その中で、最も古いものは、紀元前一世紀頃の備後の国・広島県の三次盆地(みよしぼんち)の中で見つかっています。初期の頃は、広島県北部や岡山県北部といった山間部で広がりを見せていました。

 そして、一世紀頃から出雲や伯耆を中心にとした山陰地方の沿岸部へと広まって行きました。この分布の時代的な流れは、高句麗からの渡来人達の移動が大きく影響しているものと思われます。

 騎馬民族・畑作民族の渡来人たちは、山陰地方に流れ着いた後に、山間部に追いやられました。そこで畑作農業を行いながら、在来の縄文人たちと交わって勢力を拡大して行きます。やがて、日本海沿岸地域へと勢力を伸ばして海岸部へと、向かって行きます。平野部で水田稲作を行っていた弥生人たちとは、交流あるいは戦いがあった事でしょう。そして、水田稲作の優位性を知り、定住するようになりました。各地に大きな集落が出来、その主力となったのは、高句麗系の渡来人たちでした。

それゆえに、出雲の国の沿岸地域にも四隅突出型墳丘墓が広がったのでしょう。

 この詳細は、青谷上寺地遺跡から発見された人骨のDNA鑑定結果などから、考察しました。以前の動画をご参照下さい。

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弥生墳墓の分布

 今回は、出雲の国・島根半島に焦点を当てて、四隅突出型墳丘墓の分布を示します。

西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)と荒島墳墓群では、特に多く見つかっていて、規模の大きな墳丘墓も数多くあります。

 まず、西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)は、島根県出雲市大津町にある弥生時代後期から古墳時代前期の墳墓群で、国の史跡になっています。32基の墳墓のうち、6基が四隅突出型墳丘墓です。最大の墳墓で、一辺の長さが約50メートルあります。

 次に、荒島墳墓群です。

島根県安来市(やすぎし)にある古墳群で、中海に面する丘陵上に位置しています。

この東側の塩津山墳墓群には、大型の四隅突出型墳丘墓が2基あり、一辺が60メートルほどの大規模墳墓です。

これらの大型墓の被葬者は、限られた地域を支配したのではなく、その平野周辺に影響力を及ぼしたものと推測されます。この地域での有力王族が存在していたのでしょう。

 このように弥生後期には出雲の西と東に大きな政治勢力が形成されたものと考えられます。

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古墳時代の先駆けか?

 四隅突出型墳丘墓の造成は、弥生時代後期です。ここで使われた最先端の土木技術が、後の近畿地方での古墳造成へと繋がって行った可能性があります。

 墳墓の規模としては、古墳時代前期の規模に近く、墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらせ、当時としては、もっとも進んだ技術が駆使されています。また、山陰地方一帯という広い範囲で、同じ形という規格化が進んで行った事も特筆すべきでしょう。

 また、近畿の古墳造成の幕開けとしては、出雲と近畿の中間にある吉備の国の存在も気になるところです。それは、吉備の楯築墳丘墓が、出雲の四隅突出型墳丘墓とほぼ同時期に存在しているからです。楯築墳丘墓は四隅突出型墳丘墓とは全く異なる形をしていますが、埋葬施設が同じような構造の木槨墓(もっかくぼ)で、出土した土器の中に吉備と出雲の相互交流を窺わせる特殊器台・特殊壺などが大量に発見されているからです。

この事から、中国山地で始まった四隅突出型墳丘墓の造成が、日本海側と瀬戸内海側で分化して、それぞれ発展して行ったのでしょう。

 そして、吉備の国の墳丘墓が、次の時代に近畿地方で始まる前方後円墳などの古墳時代へと発展して行ったのではないでしょうか。

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野だたらは各地にある

 四隅突出型墳丘墓と関連して、奥出雲の「野だたら」も注目すべきでしょう。

野だたらとは、たたら製鉄の小規模なもので、出雲の山間部のあちこちで発見されています。新しいものは、江戸時代に使われていたのが確認されていますが、古いものは、ほとんどが時代を特定できていません。古墳時代頃からではなかろうかというのが、現在の一般的な見解です。弥生時代には、日本のどこにも、製鉄が行われていなかったと考えられています。

 しかし、四隅突出型墳丘墓との関係を照らし合わせると、弥生時代に「たたら製鉄」が始まっていた可能性も否定できません。それは、高句麗からの渡来人たちは、鉄器文明をいち早く手に入れていた民族ですので、出雲で製鉄を開始した可能性があります。現在のところ、「野だたら」の時代を確定できるものはありませんが、この墳丘墓との関係が見出されれば、弥生時代まで遡ることが出来るのではないでしょうか。

 日本での最古の製鉄所は、現在のところ五世紀~六世紀とされ、確実な弥生時代の製鉄所は発見されておりません。

 しかしながら、北部九州、奥出雲、丹後半島での鉄滓(てっさい)の出土から、弥生時代には始まっていたとする説も、根強くあります。

 特に出雲に関しては、鉄器文化の高句麗系渡来人の影響だけでなく、邪馬台国・高志の国が支配していた地域だった事もあり、いち早く製鉄が行われた可能性があります。

 次回は、出雲の国の次の時代、すなわち古墳時代の様子を調査・考察します。