世渡り上手な 日本を作った氏族

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 邪馬台国が奈良時代の古事記や日本書紀に登場しないのは、なぜでしょうか?

500年も経過していたから、忘れ去られたのでしょうか?

いいえ、そんな事はありません。実際に日本書紀の神功紀には、魏志倭人伝からの引用があり、倭国が魏へ朝貢を行った事を認めています。では、なぜ?

 それは当時の権力者の思惑が働いたからでしょう。それは誰? そう、新興勢力の藤原氏一族です。

 日本書紀によれば、

七世紀の飛鳥時代に権勢を誇っていたのは、蘇我入鹿です。天皇をも蔑ろにする逆臣だったと、日本書紀には記されています。この不届き者を暗殺したのが、藤原氏一族の先祖・中臣鎌足です。

彗星の如く現れたスーパーヒーローとして、小学校や中学校の歴史教科書に登場しますね? そしてほとんどの日本人はそれを真実として信じ込んでいます。それは悪い事でも間違っている事でもなく、実際に世界最長の王族である天皇家が現代まで存続できたのは、藤原氏一族の功績だと言っても過言ではないほど、日本国にとって重要な役割を果たしてきた氏族です。

 邪馬台国論争を語る上では、中臣鎌足の息子である藤原不比等の存在、すなわち古事記や日本書紀が書かれた奈良時代に権力の頂点に上り詰めた時代背景を考察しなければなりません。

 しかしそれを考察する前に、ここではまず、藤原氏一族がいかに現代にまで生き延びる事が出来たのか? 言い換えれば天皇家がいかに現代まで存続できたのか? という視点から見てみましょう。

 藤原氏の絶頂期は、平安時代です。10世紀の藤原道長の時代には、その娘たちを天皇に嫁がせ、強力な姻戚関係を持ち、皇室を意のままに動かしていた時代です。皇室というよりも、日本列島を意のままに動かしていたという方が正しいでしょう。藤原道長は、自らの歌の中で得意げにこう歌っています。

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」。

この時代、日本列島は藤原氏の私物と化したと言っても過言ではなく、その後もしぶとく生き残って行く事になりました。

 鎌倉時代以降は武家政治となりましたので、一見すると藤原一族を中心とする貴族政治は没落したかのように思われます。また、この時期からは、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなくなりましたので、藤原氏の存在が希薄になったかのような印象を受けてしまいます。ところが実際には、藤原という姓ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、ちゃっかり皇族・華族の全般に姻戚関係をはびこらせていたのです。

 また、強力な武士や新興勢力に対しても、娘をどんどん嫁がせて親戚となっていましたので、水面下では日本列島全域で藤原氏の勢力は盤石となって行きました。

 室町時代や江戸時代あたりは、藤原氏を中心とする華族の受難の時代で、天皇家を含めてとても貧しい時代を過ごしていました。それでも王政復古という名のもとに天皇が君主に返り咲いた明治時代には、再び藤原氏の時代となりました。

藤原氏は天皇に最も近い一族でしたので、華族の筆頭に持ち上げられ、以後、新たな門閥、閨閥(けいばつ)を再構築し、日本社会に隠然たる影響力を及ぼす事になりました。恐るべきことに、藤原の血脈は、政界、官界、経済界、学界と、現代日本の中枢の隅々にまで親戚関係を張り巡らせていったのです。

 これらの藤原氏一族による姻戚関係の拡大による地位の盤石化は、藤原氏にだけメリットがあった訳ではなく、中世の武家社会でも、現代の政界・経済界においても、華族と親戚関係になるというは、一種の「箔が付く」ことになります。当然ながら、お互いにメリットがあったという事です。

 長い長い日本の歴史の中で、皇族・貴族・華族というのは、一種の最高級ブランドですので、誰しも羨み、憧れる存在だという事です。決して、藤原氏のずる賢さだけではありません。

 少し脱線しますが、藤原氏にあやかりたいという気持ちほ、一般庶民も同じです。よく知られているところでは、苗字に「藤」の文字が使われている事です。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤などは、本来藤原氏とは無関係であった一般庶民が、藤原氏にあやかりたいという思いから付けられた苗字ですね?

 自分の祖先が、藤原氏であったならば誇らしい気持ちになるからでしょう。その気持ちは、よく分かります。

脱線ついでに、これとよく似た例があります。田舎の方へ行くと、先祖自慢は「平家の落人」となります。自分は、本来こんな田舎に住んでいる家系ではなく、平安時代に権勢を誇った平家の末裔である、と自慢したい訳です。

 誰しも立派な家系の末裔であってほしい、という願望があるのですね?

ちなみに私は違います。奈良時代に遡りますが、ご先祖様は卑しい「奴婢」だったそうです。

 話を元に戻します。

これらのように、藤原氏一族は、1200年前から今もずっと日本社会の中心に君臨し続けている氏族です。

ところが不思議な事に、乙巳の変で彗星の如く現れた中臣鎌足以前の系譜は、なんともショボいものなのです。

蘇我氏一族の系譜が、超名門なのとは対照的です。

 これが様々な憶測を呼んで、歴史作家たちによって、色々なファンタジーが描かれています。よく目にするのは、藤原氏渡来人説です。百済や新羅あたりからやって来た一族が中臣氏である。という説に人気があるようですね?

けれども、何の根拠もありません。

 私の場合は、これまでに何度も動画で取り上げてきましたように、藤原氏の祖先は、日向の国の騎馬民族です。

今後、何回かに分けて、藤原氏一族の系譜について、考察して行きます。

 いかがでしたか?

藤原氏一族については、今上天皇にもしっかり藤原氏の血が流れていらっしゃいますので、あまり批判的な内容を言うのは本意ではありません。しかし、飛鳥時代には蘇我氏の血も天皇家には入っていますし、血生臭い歴史も数多くあります。また、藤原氏千年以上の権力者の期間には、蘇我氏以上に天皇を蔑ろにした事実も数多くあります。

 素晴らしい日本という国を作り上げた一族であると同時に、あまり肯定したくない氏族。

 この不可解な一族について、さらなる

詳細を考察して行きます。