出雲開拓史

 出雲の国の農耕地の開拓には、邪馬台国・高志の活躍抜きには語れません。それは、出雲国風土記にも明確に記載されています。

 高志の国・越前で農地開拓を行った最先端技術集団が、出雲の国へやって来て、大いに活躍した様子が描かれています。

 また、出雲平野の各地にある「古志」という地名は、高志と同じ北陸地方を指す言葉です。高志の勢力が出雲の地へ殖民した名残りとして残っています。

開拓史10
北陸地方の基礎知識

 出雲の国の農地開拓には、邪馬台国・高志の国、つまり北陸地方が大きく貢献しています。具体的な事例を挙げる前に、高志の国の表記についておさらいしておきます。

 古文書での記載では、北陸地方を指す言葉が幾つかの異なる漢字が使われています。

 古事記・日本書紀・万葉集では、「高い志」

 出雲国風土記では、「古い志」

という当て字になっています。ともに発音は、「こし」で、北陸地方全域を意味しています。

 なお、飛鳥時代から奈良時代に掛けて行政区分を細分化するに当たり、「越」という漢字が使われ、越前・越中・越後と分けられたので、現代では、この漢字の方が馴染みがあるのではないでしょうか。

開拓史20
出雲国引き神話

 では、具体的な話に移ります。

出雲国風土記では、北陸地方を「古い志」という漢字を用いていますので、それに従って進めて行きます。

 まず、出雲国風土記の冒頭に、『国引き神話』があります。

これは、八束水臣津野命(やつか みず おみつぬの みこと)という神が、出雲を小さく作ってしまったと後悔し、遠くの四つの国々の余った土地を引っ張ってきて、つなぎ合わせたという神話です。

 もちろん神話ですので、実際に土地を引っ張って来るのは不可能です。四つの国々の勢力が集まって国造りを行った事を示唆しているのでしょう。

 四つの国々は、「志羅紀」、「北門佐岐」(きたどのさき)、「北門農波」(きたどのぬなみ)、そして「古志」です。

 以前の動画でも紹介しましたが、新羅と中国大陸東北部、そして古志という、日本海沿岸諸国が協力して出雲の国を作り上げたという事です。古志の国からは、対馬海流とリマン海流とを利用した日本海巡回航路で出雲にやって来たのかも知れません。

開拓史30
高志の活躍

 次に、出雲国風土記にある邪馬台国・古志の国から来た人々の活躍です。二つの伝承記述があります。【古志郷伝承】と【狹結驛(さゆふのうまや)伝承】です。

 古志郷伝承は、現在の出雲市古志町を中心とする一帯に伝わる伝承です。その地名の通り、大昔に古志の国の人達がやって来て堤を築くなど、農地開拓の為の治水工事を行ったそうです。そしてその工事が終わった後もそこに留まり、居住するようになったのだそうです。

 狹結驛(さゆふのうまや)伝承は、現在の出雲市下古志地域での伝承です。

古志の佐與布(さよふ)とその一族が、日淵川(ひふちがわ)に堤を築いて堰き止め、池を造って住み着いた、という伝承です。古志という治水工事のプロ集団が移住して、農地を拡大していた事を物語っています。

開拓史32
高志から来た人々

 これら出雲国風土記に記されている二つの伝承とも、近世までは古志郷と呼ばれていた地域です。

 弥生時代後期の多くの遺跡も見つかっていて、出雲国風土記の記述と、実際の集落が見事に一致している地域です。遺跡は、その地名の通り「古志遺跡群」と呼ばれています。環濠集落である下古志遺跡や古志本郷遺跡などからなり、出雲平野における大規模集落跡として知られています。

また、この遺跡群に隣接する西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)の四隅突出型墳丘墓からは、高志の国・越前の四隅突出型墳丘墓・小羽山30号墳と全く同じ成分の丹が出土しています。しかも中国東北部の丹です。

 見事なまでに、出雲国風土記の神話や伝承と、古志遺跡群からの出土品が一致しています。

 出雲の国・島根半島は、邪馬台国・越前によって植民地化され、近代化が推し進められました。

 これはあたかも現代における、大日本帝国と朝鮮半島との関係に似ています。後進地域の近代化を推し進め、大いに貢献した姿が同じです。

 似通っているのは、半島を植民地化して近代化した事実だけではありません。

 大日本帝国が戦争に敗れた後に「反日」という悪者扱いされたように、邪馬台国も後に「ヤマタノオロチ」という悪者扱いされています。

 この類似点については、次回に考察して行きます。