大型船は無理 対馬海峡なめんなよ

 魏志倭人伝の倭国への航路では、対馬海峡を平気で渡っていますが、古代の大型船で可能だったのでしょうか。陸の民である中国人が簡単に渡れるほど、対馬海峡は易しくありません。

 前回は、古代中国の造船技術は、決して古代日本よりも優れていなかった事を示しました。今回は、古代船の実証実験結果がありますので、その内容から考察します。

1990年の「なみはや号」プロジェクトと、1975年の「野生号」プロジェクトでは、実際に古代船を復元して対馬海峡を横断しています。

 文献だけでは見えてこない現実が、そこにはありました。

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古代船の実験

 古代船による対馬海峡横断は、1990年に実証実験が行われています。大阪市主催の「なみはや号プロジェクト」です。大型の古代船を建造して、大阪港から韓国・釜山までを航海する計画でした。詳細は、以前の動画「実証実験でわかる古代船の真の姿」にて述べていますので、ここでは概要のみとします。

 まず結果は、大失敗でした。古代船を建造したものの、実際に海に浮かべてみると全く安定性が無く、数百キロの重りを船底に入れる事で、何とか転覆しない状態にできました。ところが、それによって船の重量が大きくなり過ぎて、人力の手漕ぎでは全く進まなかったのです。

 結局、写真撮影の時だけ漕ぎ手が乗り込み、それ以外は曳航(えいこう)してもらって釜山まで到着したというお粗末な結果に終わりました。つまり現代のディーゼル機関の船に、ず~っと引っ張ってもらっていたという訳です。

 そもそも、潮流速度が速く、潮流変化も激しい瀬戸内海は日本で最も航海の難しい海です。そんな海域を大型の古代船が行き来できるはずが無いことは、素人目にも明らかです。また、瀬戸内海よりは幾分易しいとは言え、沖乗り航法となる対馬海峡を横断するなど、狂気の沙汰だったのです。

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野生号の失敗

 古代船による実証実験は、1975年にも行われていました。角川書店の角川春樹社長が主宰した野生号プロジェクトです。これは、帯方郡(現在の韓国ソウル市)近郊から狗邪韓國(釜山市)まで南下して、対馬海峡を渡り博多まで航海する実証実験でした。この実験でも同じように手漕ぎの船でしたが、船の構造は丸木舟をベースにしない進化したタイプのものでした。この構造であれば船体の重量は抑えられるばかりでなく、安定性も確保できるので、格段に航海しやすくなります。ところが、この実験も惨憺たる結果に終わりました。釜山から博多港までは、なみはや号と同じようにディーゼル機関の船に、ず~っと引っ張ってもらってなんとか到着したそうです。

 ソウルから博多まで45日を要したそうですが、残念ながら途中経過の詳細は公表されていません。対馬海峡の横断が曳航だったという以外の情報はなく、ソウルから釜山まではちゃんと人力で漕いで移動したという証拠も残っていません。おそらく全区間を他の船に引っ張ってもらったのだと思います。プロジェクトは完全な失敗でしたので、公表したくなかったのでしょう。

 このように古代船による実証実験は、「大型船による対馬海峡横断は無理」という結論が導き出されました。

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対馬海峡の困難さ

 現代の実証実験では無理でも、古代人の野生の勘とも言うべき航海術をもってすれば、多少の可能性は残ります。自然条件の要素として海流の作用がありますが、そのほかにも、

・潮流

・風向き

・表層潮流

などがあります。

 潮流は、月の引力による潮の満ち引きですので、一日の内、一定時間は海峡横断に都合の良い流れが発生します。

 風向きは、当然ながら気象条件です。帆船を建造する技術が無かった時代ですが、船体に受ける風は追い風が良いに決まっています。船に限らず、陸上競技やスピードスケートなどでも、風向きが大いに影響していますので、自明の理ですね。

 表層潮流。これも風向きによるものです。風によって海の表面に流れが起こる現象です。

 これらの作用が最高の条件に達すれば、動力が無くても時速5キロほどのスピードは得られます。この条件が十時間続けば、対馬海峡50キロを渡り切れる事になりますが、果たしてそんなに長時間も好条件が持続されるかどうか?

机上の空論が大好きな文献史学者達は、可能だと断言していますが・・・。無理でしょう。

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大型船では無理

 これらの検証結果から、魏志倭人伝の行路で対馬海峡をどうやって渡って来たかを纏めます。

まず大型船についてです。

 動力は手漕ぎですが、ほとんど動きません。すなわち動力ゼロです。

潮流や風向きによっては、時速5キロ程度のスピードは得られます。しかし海峡の距離は50キロありますので、10時間継続はあり得ないでしょう。

 たとえ海峡を渡り切れたとしても、港に着岸するのは不可能です。なにせ人力ではほとんど動かない船です。港の岩礁にぶつかって大破するのは目に見えています。

 潮流に乗り切れずに、対馬海流に流された場合、自力で戻る事は出来ないので、山陰地方や北陸地方まで流されるか、あるいは海の藻屑になってしまいます。

 古代の大型船では、朝鮮半島から九州へ渡航するのは不可能でしょう。

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魏の使者は小型船

 現実的には、小型の丸木舟や準構造船で、少人数で渡航して来たと見るのが自然ではないでしょうか。現代のシーカヤックのように船体の軽い一人乗りの船であれば、時速10キロ程度のスピードは出せます。丸木舟はそれほど軽くはなく、物資を積めばかなり重くなりますが、時速5キロ程度のスピードは出せるでしょう。潮流や風向きなどの自然条件が最高であれば、合計時速10キロ以上のスピードが出せます。また、海流に流された場合でも、小回りが利きますので、なんとかリカバー出来ますし、港への着岸も容易です。

 魏志倭人伝に記されている一大国や對海国のように、これらの島々に住んでいた人々は、食料調達の為に頻繁に朝鮮半島や九州を行き来していました。彼らは玄界灘というこの海域を知り尽くした海の民でした。最高のコンディションを見計らって海峡を渡り切っていたのでしょう。それは大型の船ではなく、丸木舟の様な小型の船だったと思われます。

 魏の使節団が訪ねて来た際にも、彼らが水先案内人となって、彼らの小さな船で九州まで案内したのではないでしょうか。

 少し古い話ですが、騎馬民族日本征服説が一世を風靡した時代がありました。古代に新羅・高句麗の騎馬民族が日本列島を征服したとする説です。

 メルヘンとしては面白いのですが、馬を一体どうやって運んだのか? 海の民ではない騎馬民族が大型船を操れたのか? 現実的にはあり得ない話です。

 日本に馬が伝来したのはかなり遅く、五世紀頃とされています。それ以前には海峡は小型船でしか渡ることは出来ず、馬の輸入もままならなかったと見る方が、筋が通るでしょう。弥生時代には大型船の造船技術・航海技術ともまだまだ稚拙でした。

 魏の使者は、倭人の小船に乗ってやって来たのです。

 次回は、朝鮮半島南部に入ります。