なぜ殺された? 因幡の弥生人

 二世紀の青谷上寺地遺跡(因幡)の人骨には、殺傷痕のある人骨も発見されています。それらは、自然死した人骨と一緒に遺跡の中央部に埋められていました。

 全体の2%の110点で、数人程度ではありますが、女性や子供の殺害も確認されています。

弥生時代後期に於ける僅かな殺害人骨ではありますが、そこからは様々な可能性が見えてきます。

 今回は、この殺害人骨から想像できる当時の様子を、DNA鑑定結果や魏志倭人伝に記載されている風俗習慣などから推測して行きます。

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青谷上寺地遺跡の殺傷痕人骨

 この写真は、青谷上寺地遺跡から発掘された人骨です。額に孔が開いた頭蓋骨ですので、鋭い刃物で殺害されたのでしょう。このほかにも殺傷痕のある人骨は、110点もあり、男性ばかりでなく女性の骨もありました。さらに、10 歳程度の子供まで犠牲になっていることもわかりました。また、1 本の骨に数ヶ所におよぶ傷を受けたものもありました。凄惨な場面が目に浮かんできます。

 これらの人骨は、約 1,800 年前、すなわち邪馬台国時代のものと考えられます。

女・子供を含めた非情な殺戮、その理由を推測して行きます。

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処刑か? 戦闘か?

 可能性としては、大きく二つに分けられます。

・集落内での処刑による殺害

  すなわち、規律を乱した者を死刑にしたケースです。

・戦闘による殺害

  倭国大乱があったとされる戦いの時代ですので、色んな戦闘があったのでしょう。

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集落内での処刑

 まず、集落内での処刑による殺害の可能性です。

人骨の発見された場所が、集落の中心部だった事から推測されます。しかも、自然死した人骨と一緒に埋められていました。もし、戦いの中で殺害した敵の骨であれば、住民と一緒に埋めるはずはなく、海や川へ投げ捨てていた事でしょう。

 では、なぜ集落内での処刑に小さな子供や女性も含まれていたのでしょうか。

これは、魏志倭人伝の中の風俗習慣にヒントがあります。

 それは、「中国への航海で失敗した場合には、殺そうとする」という記述や、「法を犯すと、軽ければその妻子を没し、重ければその一族を滅する」とあります。掟はかなり厳しく、守れなかった者は、女や子供であろうと、集落内で処刑されました。その者たちの遺骨が、ほかの住民の遺骨と一緒に埋められていたとしてもおかしくはありません。

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魏志倭人伝の厳しい掟
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戦闘による殺害のケース

 次に、戦いによって殺害された可能性です。

この中でも二つのケースが考えられます。山間部の住民と平野部の住民との戦い、そして、因幡の国とその他の国々との戦いです。

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山地民族 対 平地民族 か?

 まず、山間部の住民と平野部の住民との戦いですが、前回の動画で考察した通り、高句麗からの渡来人達が山間部に逃れて、そこで縄文人達との混血が生まれました。その混血種族が、海岸部の平地へ移動した場合の争いです。平野部には、水田稲作の弥生人が住んでいました。平和的に融合すればよいのですが、古代は生きるか死ぬかの弱肉強食の時代です。土地の奪い合いという、種族間の凄惨な殺し合いがあったのかも知れません。また、魏志倭人伝の記載にある倭国大乱という時期にも相当しますので、各地であった争いの中の一つだったのかも知れません。

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因幡と他国との戦闘か?

 もう一つは、因幡の国とその他の国々との戦いです。

邪馬台国・高志の国によって出雲が支配されていたのは、古事記のヤマタノオロチ伝説の中で記述があります。高志の軍勢が、出雲の本拠地へ向かう途中で、抵抗する因幡の住民を惨殺したのか、あるいは、因幡の白兎伝説で考察したように、高志の軍勢に裏切り行為を働いた因幡の住民が殺害されたのか。さらに、その後に来た出雲の八十神によって、虐待され虐殺されたのかも知れません。

 いずれにしても、殺し合いが多かったとされる弥生時代ですので、いくらでも可能性は浮上してきます。

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不思議な日本語

 弥生人は現代日本人の確実なご先祖様です。青谷上寺地遺跡の人骨発見および、DNA鑑定からは、様々な想像を掻き立てられます。

 DNA鑑定結果については、弥生人が水田稲作文化を持った揚子江系の渡来人が主流だったとは、必ずしも言えない事が分かりました。

 殺害された人骨からは、当時の日本の厳しい規律社会や、部族間の激しい争いが目に浮かびます。

 一方、言語学という側面から見ると、日本語の語彙は中国中南部系、文法は北方アジア系、発音は南方アジア系、とされています。

 日本人は、ありとあらゆる人種が混ざり合って、一つの民族になったという、摩訶不思議な人種なんですね。

 因幡の国の考察でありながら、ずいぶん飛躍してしまいました。

しかし、弥生人とは?日本人とは?という原点に帰らないと、青谷上寺地遺跡の住民の人骨は語れないと思います。このような壮大なテーマを、ほんの数分の動画で解説するには無理がありますので、いずれ特集を組んで、再度、動画を作りたいと思います。

 次回は、このシリーズの主旨に帰って、弥生時代の出雲の様子を訪ねて行きます。因幡の国を旅立つと、次は伯耆の国に至ります。