邪馬台国と女王国とは同じじゃないよ

 邪馬台国の比定地論争では、曲解がまかり通っています。とくに酷いのは、邪馬台国と女王国とを同じものと見なす曲解です。これは魏志倭人伝を自分の目で読んでみれば、明らかな違いが分かります。

 今回は、魏志倭人伝を曲解することなく読んで、邪馬台国と女王国との違いを明確にします。

 邪馬台国と女王国。その違いをご存知でしょうか? 

もちろんこんな事は、邪馬台国論争に興味の無い人たちにとっては、どうでも良い事です。

しかし、邪馬台国を真剣に突き詰めて行くならば、この違いをうやむやにしてはいけません。なぜならば、邪馬台国と女王国を同一視するという事は、特定の比定地に都合の良いように曲解されてしまう危険性がありますので、看過できない重要な問題です。

曲解の温床とも言うべきこの問題は、正しく理解しなければなりません。

 ではまず、魏志倭人伝に書かれている内容に素直に従って、邪馬台国と女王国との違いを示して行きます。

 魏志倭人伝はその名称の通り、古代の日本列島に住んでいた倭人や、倭国について書かれています。そんな倭国の中に、女王国という諸国連合国家がありました。女王国は30ヶ国以上も統括していましたので、巨大な国家だったと推測されます。これに含まれる主な国々には、名称だけでなく戸数や官名の記載もあります。また、倭国の中には女王国に属さない国々もありました。良く知られているところでは、女王国の南に位置している狗奴国です。狗奴国は女王国との争いが絶えなかった国とされています。また、九州の最初の上陸地点である末蘆国もまた、女王国には属していなかったと見られ、戸数は記されているものの官名は記されていません。

 では女王国に含まれる主な国々を列挙します。まず、伊都国です。これは九州最初の上陸地点の末蘆国から500里の場所にあり、ここより「女王国に属す」と明示されていますので、伊都国が女王国の最初の国という事になります。伊都国から先の行路を辿って行く国々は全て女王国に属しています。すなわち、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の順です。

 つまり、邪馬台国はどういう位置付けかというと、女王国に含まれる30ヶ国の中の一つに過ぎないのです。

 これは、官名や戸数の記載にも表れています。

伊都国は、官が爾支(ニキ)、副官が泄謨觚(セモコ)・柄渠觚(エココ)で、千餘戸。

奴国は、官が馬觚(マコ)、副官が卑奴母離(ヒナボリ)で、二萬餘戸。

不弥国は、官が多模(タモ)、副官が卑奴母離(ヒナボリ)で、千餘家。

投馬国は、官が彌彌(ミミ)、副官が彌彌那利(ミミナリ)で、五萬餘戸。

そして、邪馬台国は、官が伊支馬(イシマ)、次官が彌馬升(ミマショウ)、次官が彌馬獲支(ミマワキ)、次官が奴佳(ナカテ)で、七萬餘戸。

となっています。このように邪馬台国も他の諸国と同じように、淡々と官名や戸数が綴られているのです。但し、邪馬台国がほかの国々と明らかに違うのは、「女王之所都」女王の都する所、とありますので、ここが女王国の都であると分かるのと、他の諸国では副官が一人か二人しか記されていないのに対して邪馬台国では三人も記されている事です。

 このように、女王国と邪馬台国との違いは明らかでしょう。

  現代で例えるならば、女王国は日本列島全土を意味する日本国、邪馬台国は都を意味する東京都、という事です。そして、女王国のトップは卑弥呼であり総理大臣のような存在、邪馬台国のトップは伊支馬であり東京都知事のような存在という事になります。

 また、「卑弥呼は邪馬台国の女王」という言い方もまかり通っていますが、これも正しくはありません。それは、魏志倭人伝にはそのような描写がないからです。正しくは「卑弥呼は女王国の女王」あるいは、「卑弥呼は倭国の女王」となります。

  魏志倭人伝の具体的な記述としては、倭国の様子として卑弥呼が王となった際に、

「女子爲王、名曰卑彌呼」女子が王となる。名を卑弥呼という。

また、魏の皇帝から金印を賜った際の下りに、「親魏倭王卑彌呼」とあります。

さらに、女王国がライバル狗奴国と争う状況の記載に、「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男王・卑彌弓呼と和せず、とあります。

 これらのように、卑弥呼は邪馬台国のトップである「官」という役職ではなくて、諸国連合国家の女王国の女王という事になります。

 現代でも、日本国の総理大臣を、東京都の都知事と同じだとは、だれも思いませんよね。

このように、わずかな違いに思える事柄かも知れませんが、ここは非常に重要です。

それは邪馬台国論争において、邪馬台国と女王国を同一視する事によって、とても悪質な曲解がまかり通っているからです。

 最も悪質な曲解は、「帯方郡より女王国までは一万二千余里」と魏志倭人伝に書かれているにも関わらず、「帯方郡より邪馬台国までは一万二千余里」と勝手に解釈してしまう例です。こうしてしまうと、北部九州あたりが邪馬台国の場所となってしまいますので、明らかな誤りです。

つまりこういう事です。

 魏志倭人伝の記述に従って朝鮮半島の帯方郡から行路を辿って行くと、北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)までの距離の合計が10500里になるので、残りの1500里で邪馬台国に到着する、というヘンテコな理屈がまかり通ってしまうのです。

 これはいけません。魏志倭人伝にはあくまでも「女王国まで」12000里と記されている以上、これを「邪馬台国まで」12000里としてしまっては、曲解どころか作り話のレベルです。固有名詞を自分勝手に改変してはいけません。

 魏志倭人伝から読める「確かなこと」は、一つ一つ正確に捉えなければ意味がなくなってしまいます。

 では正確に行路を辿って、距離を計算してみます。帯方郡から北部九州に至るまでの個々の距離を合計した場合、最初の上陸地点である末蘆国までは10000里となります。さらにここまでで対馬の長さと壱岐の長さの合計1500里を加えると、11500里となります。

そして、この末蘆国から500里で伊都国に到着します。すると合計の距離がピッタリ12000里になります。まさに魏志倭人伝の記述どおりです。「帯方郡より女王国までは一万二千余里」。女王国の玄関口は伊都国という事になります。

 また魏志倭人伝には、伊都国から女王国に属するという記述もありますので、それとの一致も見られます。確実に言える事は、女王国の玄関口は北部九州にあった、ただそれだけの話であって、邪馬台国の場所が九州にあったという根拠には全くなっていません。

 このような、他の解釈の余地が少ない「確かなこと」を前提として、他の記述を解釈し考察するのが基本的な手順ではないでしょうか?

 それを、「女王国」と記載されているの「邪馬台国」と読み替えてしまうのは、言語道断です。

 こういった恣意的な解釈は、九州説支持者にとって心地よいので、残念ながら現在でも広く曲解が行われています。

 魏志倭人伝には、邪馬台国と女王国とを同義で使っている箇所は全くありません。完全に区別しています。というよりも、邪馬台国という言葉は、たったの一回しか出てこないので、女王国と同一視しようがないのです。

こういう他の解釈の余地がない「確かなこと」を勝手に読み替えてしまう行為は、素人の研究者だけでなく、古代史研究で日銭を稼いでいる輩にも多々見られるのは残念です。

 彼らの論調では、

「女王国は邪馬台国のことを指していると思う」とか、

「文脈から女王国を指す意味は、邪馬台国だと思われる」

とか調子の良い事を言っていますが、そんな情緒的で我田引水な思考では、到底邪馬台国を見つける事はできません。

 面白い事に、邪馬台国と女王国とを同じものとみなしたり、魏志倭人伝を曲解したりする輩は、必ずと言ってよいほど、「魏志倭人伝を素直に読む」と言っています。素直に読むって、固有名詞を改変したり文脈を恣意的に解釈したりする事なのでしょうか? そもそも歴史学というのは文献史学を基本にしていますが、こういう古代史研究家の論文を読むと歴史学界のレベルの低さが良く分かります。情緒的な文献史学では永遠に結論は出ないでしょうね?