邪馬台国の敗北・九州の台頭

 古事記の『ヤマタノオロチ伝説』について、越(高志)と出雲が対立するまでを検証しました。越の「ヤマタ」勢力に対して、出雲は、高天原(九州)の須佐之男命(スサノオノミコト)の援軍を得て戦いに挑みます。

 その結果は、言わずと知れた事。須佐之男命の大勝利でした。

 『ヤマタノオロチ伝説』は、越からやって来る怪物を退治する話ですが、この神話の裏に隠された当時の様子が垣間見られます。

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高志・出雲・北部九州の関係

 前回までに、越と出雲、そして高天原の関係を示しました。

 今回は、その続きです。『ヤマタノオロチ伝説』の要点を列挙します。

 高天原のスサノオノミコトと越のヤマタノオロチとの戦力格差は歴然としていました。九州のスサノオ勢力に比べ、越の ヤマタ勢力が遥かに強力でした。『戦力格差 スサノオ << ヤマタ』

 しかし、弱小戦力スサノオ勢力は策略を巡らせ、越のヤマタ勢力に勝利しました。『スサノオがヤマタに勝利する』

 スサノオ勢力は、この戦いで多くの戦利品を獲得しました。『越のヤマタ勢力の鉄の技術』と、『高天原による出雲の実効支配』です。

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八岐大蛇との戦力格差と、戦利品

 では、具体的な話に入ります。

まず、戦力格差についてです。高天原があった北部九州は、四世紀頃までは小国林立の地域でした。古代日本においての九州は、地理的に先進技術の玄関口ですので、中国や朝鮮から九州へ入ってきた文物は多数あります。しかし、農業の視点から見ると、大国が存在できる条件を満足しません。玄界灘沿岸の砂地の地質は、水田稲作には適していません。また広大な筑紫平野がありますが、下流部は、まだ有明海の海の底でした。甘木朝倉地域などの中流域は、ほとんどが密林地帯でした。

 鉄器の流入が早かったものの、装飾用が主で、開墾や農作業に鉄器が有効利用がされる事はありませんでした。必然的に小国林立となり、倭国大乱のような小競り合いの多い地域だったのです。

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北部九州の状況

 一方の越は、淡水湖跡の沖積平野で大規模農業を行っていたので、一極集中型の超大国になっていました。また、越への鉄器の流入は、九州よりも200年ほど遅いのですが、実用的な道具として鉄器が利用されていました。

 「スサノオ」と「ヤマタ」との対決は、弱者と強者の戦いだった事が分かります。

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高志の状況

 九州・高天原のスサノオと、越のヤマタとの実力差は歴然で、正面対決では勝ち目がありませんでした。スサノオは策略を巡らせて、越のヤマタとの対決に挑みます。

 元々、越の植民地の出雲と同盟関係だった高天原ですので、越としてはスサノオ勢力は格下の部下のような扱いだったのでしょう。スサノオ勢力の、ヤマタ勢力への丁重なもてなしに心を許して、大酒を飲んでしまい、酔っ払ってしまいます。泥酔状態となったヤマタにスサノオは襲い掛かったのです。

 

 この戦いで、スサノオがヤマタの尾を切り裂いた時に、スサノオの剣が欠けてしまいました。これは、ヤマタの尾の中には、鉄剣が入っていたからです。つまり、スサノオの軍勢は銅剣、ヤマタの軍勢は鉄剣を使って戦っていたという事です。普通に戦ったら、銅剣に勝ち目はありません。それでも、スサノオの「おもてなし」作戦が功を奏し、九州・高天原のスサノオ勢力の勝利に終わりました。この戦いは、九州・出雲の青銅器と、越の鉄器との対決だったとも言えます。

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須佐之男命(高天原)の勝利

 スサノオはこの戦いにより、多くの戦利品を手に入れると同時に、日本の勢力図が大きく変化しました。

  ①まず、スサノオは、出雲の娘を嫁にもらいます。これは、九州・高天原が、越に代わって出雲を支配したという事です。出雲の水田稲作に適した農耕地の獲得、朝鮮半島の鉄の輸入ルートなど中継貿易地としての出雲の権益を、九州勢力が獲得したのです。

  ②また、ヤマタから奪い取った鉄剣、すなわち越の鉄の技術も獲得しました。それまで、装飾用としてしか使われていなかった九州や出雲が、ようやく鉄の重要性に気が付いたという事です。ちなみに、ヤマタノオロチの尾から出てきた鉄剣は、現代にも受け継がれている天皇家の三種の神器の一つ、「草那芸之大刀」です。

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九州勢力(高天原)の勢力拡大

 須佐之男命の出雲支配が始まり、いよいよ九州勢力が全国に拡大して行きます。須佐之男命の息子の大国主命は、出雲を拠点として、全国を旅する神話や、国譲り神話など、様々な物語が「古事記」には記されています。

また越との関係は、大国主命が、越(新潟県糸魚川市姫川)の沼河比売と結婚している事から、越の翡翠の権益も取得した事が暗示されています。

 

 「古事記」には邪馬台国の記述はありません。但し、「高志之八股」(コシのヤマタ)の記載があります。遊び心のある古事記が、邪馬台国の記述を制限されていた中で、「越の邪馬台」を連想させるヒントにしたと思わずにはいられませんでした。『ヤマタノオロチ伝説』は、四世紀頃の、邪馬台国の終焉を物語っているのかも知れません。