人口爆発は起こらない 地形的不利

 こんにちは、八俣遠呂智です。

日本全国の弥生文化を巡る旅は、山陽地方や四国地方へ入って行きます。この地域では吉備の国(岡山県)の個性的な弥生土器が有名ですね。しかしそのほかには特に有名な遺跡もなく、弥生文化の空白地帯とも言える地域です。邪馬台国論争でも、ほとんどテーブルに載る事はありません。

 今回は、古代国家成立の基本である農業の視点から、この地域を見つめてみます。

 今回からは、中国地方の山陽道と四国地方について考察して行きます。両者は異なる文化圏ですが、どちらも顕著な弥生遺跡な少ない場所ですので、一括りで進めて行きます。

 まずは弥生時代の農業を、地形的な観点から考察します。

 瀬戸内海の沿岸地域は、現代でもあまり大きな平野はありませんが、弥生時代にはさらに狭かったようです。それは河川による堆積物で広がった平地だからです。長い年月を掛けて徐々に広がったものですので、1800年前の邪馬台国の時代には、まだほとんどが海の底や湿地帯でした。

 主な平野では、広島平野、岡山平野、讃岐平野、徳島平野、高知平野、松山平野、があります。

いずれも、河川によって形成された沖積平野、扇状地、人工的に造成された干拓地からなっています。従って弥生時代には、大きな勢力が出現できるだけの農業生産力はありませんでした。

 この地域である程度の農業生産があったと考えられるのは、備中の国・総社盆地、美作の国・津山盆地、備後の国・三次盆地、安芸の国・西条盆地、周防の国・山口盆地です。

 いずれも小規模の盆地ではありますが、淡水湖跡の沖積平野で天然の水田適地ですので、弥生時代には小さいながらも人口爆発が起こった事が想像されます。古代においてはこれらの地域が、山陽道の中心地としての役割を果たしていた事でしょう。実際に、弥生遺跡が豊富に発見されているのもこれらの地域です。

 四国については、残念ながら局地的で小さな水田適地はあるものの、大きなものはありません。水田稲作という見地からは、特筆すべき場所は皆無ですので、弥生時代に人口爆発が起こった場所はないでしょう。それを証明するように、四国には顕著な弥生遺跡はありません。もちろん、生活用の弥生土器の出土はありますが、強力な豪族の存在を裏付けるような威信財の出土はなく、弥生の空白地帯とも言える場所です。

 四国の弥生時代は、高地性集落と呼ばれる高台に小さな集落が点在していました。これは、平地での食料調達がままならなかったので、山間部に引きこもって焼畑農業が行われていたようです。焼畑農業は縄文時代から行われていた手っ取り早い農業ですが、生産効率が悪い為に、大きな人口を賄える力はありません。四国では実際に、ほんの数百年前の江戸時代でさえも、山間部で焼畑農業が広く行われていた事実があります。人口扶養力の無い農業では、強力な勢力の発生は望めません。

 山陽地域の天然の水田適地だった場所の話題に戻ります。

総社盆地は、良く知られているように古代における瀬戸内海地域の中心地でした。その当時の岡山平野はほぼ海の底だった為に、総社盆地のあたりが瀬戸内海に近い場所でした。ここは、楯築遺跡に代表される弥生時代の大規模墳丘墓や、ユニークな形をした様々な土器類が出土しています。また、古墳時代に入ってもその勢力は衰えず、前方後円墳の最大のものは、近畿地方に次ぐ大きさを誇っています。この地に強力な王族が存在していた事は間違いないでしょう。山陽・四国地域の弥生時代を考察するならば、吉備の国だけを見ればよい、と言っても過言ではないほど、この総社盆地の古代遺跡は突出しています。

 その他の水田適地、津山盆地、三次盆地、西条盆地、山口盆地でも、興味深い弥生遺跡は存在します。これらの詳細は、順次、動画で紹介して行く事にします。

 山陽地方・四国地方を俯瞰した場合、弥生時代の様子は「ショボい」、というのが実感です。四国地方にはほとんど取り上げるべき弥生遺跡はありませんし、山陽地方でも、吉備の国くらいで、あとは取り立てて優れたものはありません。同じ中国地方でも、山陰地方、すなわち日本海側の出雲から丹後半島にかけては、絢爛豪華な弥生時代の遺物が数多く見つかっています。それと比較すると、天と地ほどの差があります。

 現代でこそ、山陽と山陰、つまり太陽と日陰というネーミングがされている地域ですが、古代においては明らかに太陽が山陰、日陰が山陽地方だったと言えます。

 こうなった理由の一つには、瀬戸内海という世界屈指の困難な海域が影響していたと思えます。これまでも何度も指摘してきた内容ですが、次回の動画において改めて瀬戸内海を航海する事の困難さと、弥生時代の文明の伝来に及ぼした影響を考察します。

 いかがでしたか?

瀬戸内海は穏やかな海で、気候も良い。古代においても明るく輝く太陽のような場所だった。と思っていませんか?

この地域の邪馬台国時代も輝いていた。と想像していませんか? それはとんでもない誤解です。瀬戸内海は、いわば悪魔の住む海です。1800年前の弥生時代の稚拙な造船技術で、大型の古代船が平気で往来できるような生易しい場所ではないのです。

次回は、瀬戸内海の困難さを改めて考察します。