邪馬台国時代の土器

 弥生時代初期の遠賀川式土器が日本列島に広がり、水田稲作文化と共に各地で個性的な土器が作られるようになりました。時代ごと、地域ごとに、「標式土器」と呼ばれる様々な様式・型式が誕生しました。

 三世紀には、「庄内式土器」と呼ばれる完成形の弥生土器に発展し、次の古墳時代の土師器へと繋がって行きます。

 今回は、邪馬台国時代に標準的に製作・使用されていたと見られる庄内式土器に焦点を絞って、考察します。

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庄内式土器

 この地図は、大阪湾周辺の拡大図です。

 邪馬台国時代、すなわち三世紀ごろに作られた近畿地方の典型的な土器は、この地域から出土しました。庄内式土器と呼ばれています。「庄内」というと山形県を思い浮かべてしまいますが、全く関係ありません。大阪府豊中市の、庄内小学校の校舎を建設するために土取りをしているときに、偶然、たくさんの土器が土の中から姿をあらわしました。その場所にちなんで付けられた名称です。

  大阪府豊中市は、淀川水系の下流域にあり、弥生時代には大阪湾に面していたエリアです。また、近畿地方が日本の中心地となる水田適地の下地となった巨大な淡水湖が3つ、この地域にはありました。

この場所で見つかった土器の特徴が、弥生時代から古墳時代へと移り変わる中間期のものだったので、大きな注目を集めました。まさに邪馬台国があったとされる時代の土器です。

 なお、考古学上の年代推定である「編年」に基づいているので、かなりの誤差があり、邪馬台国時代ではなく四世紀以降のものだと主張する学者も多数いることを付け加えておきます。

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尖がって

 庄内式土器の特徴が最もよく表れる煮炊き用の甕形土器をみてみましょう。

この写真のように、底の形が尖りぎみで、底にも煤(すす)がべっとりと付いています。これは煮炊きをする時に、土器を台のようなものに載せて浮かし、土器の真下で火を炊いたことを示しています。

 庄内式以前の弥生土器は、甕の底の部分は、①の様に平たい構造をしていました。それが②の様な尖がった底の形式となり、さらに古墳時代には、③の様に細長い構造の甕となりました。

 この様に庄内式土器は、弥生時代の平底から古墳時代の丸底へという、移り変わりの中間の特徴を示しています。

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土器の進化

 製作工程での特徴も二つ見られます。

1.土器の表面を刻み目のついた板(タタキ板)で叩きながら形を整えている事と、

2.内側が驚くほど薄く削ってあることです。

 庄内式土器のタタキ目は、それ以前の土器と比べて、叩き目がとても細かいのが特徴です。また、ケズリは土器の厚さが1ミリ~2ミリしかないこともあります。

 なお、形の上で平底から丸底になった事や、これらの技術についても、近畿地方が最初というわけではありません。やはり北部九州地方が起源のものです。九州が始まりですが、進化したのは他の地域だったという事です。

この形状や製法は、対馬海流に従って、出雲(山陰地方)や高志(北陸地方)へ伝わり、近畿地方へ伝来したと見られます。あるいは、出雲から中国山地を越えて、瀬戸内の吉備へと伝わり、さらに近畿地方へと伝来した可能性もあります。

 製法という観点からは、弥生時代中期の典型的な土器である石川県の小松式土器からの影響を強く受けているようです。

 いずれにしても、近畿地方が日本の中心地となった古墳時代に先駆けて、庄内式土器という形で集大成が迎えられたと言えるでしょう。

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胎土の産地

 庄内式土器に使われている胎土の場所は、ある程度特定されています。

大阪の河内平野と奈良盆地を隔てる生駒山地の西側の土です。これは、弥生時代末期から古墳時代に掛けて、近畿地方に起こった「水田バブル」とも言える状況と適合している事が分かります

 弥生時代後期までは、河内平野には巨大な淡水湖が存在しており、水田適地は湖畔の僅かな土地に限られていました。それば弥生時代末期には、この巨大淡水湖の水が引き始め、このエリアに天然の水田適地が広がり始めました。

やがて河内平野は、広大な水田適地となり、日本有数の穀倉地帯となって、古墳時代という黄金期を迎える事になります。百舌鳥古墳という巨大な古墳群が、この河内平野の西側の上町台地に作られた事からも、当時の「水田バブル」の様子が窺えます。

 庄内式土器は、こういった水田適地の広がりとともに人口が爆発的に増え、生駒山地の使って大量の土器が生産されるようになったのでしょう。

 なお、その後奈良盆地南側にも存在していた巨大淡水湖の水が引いていき、そこにも広大な水田適地が広がる事になります。そして布留式土器という古墳時代に始まった土師器の典型土器がこの地で生産されるようになりました。

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水田適地

 河内平野で大量生産されるようになった庄内式土器は、近畿地方周辺各地への搬出も確認されています。淀川水系だけでなく、奈良盆地や、琵琶湖沿岸地域からも、生駒山地の胎土を使った庄内式土器が発見されています。また、東海地方の弥生時代末期の標式土器も、庄内式土器の影響を受けているようです。

 この事実は、天然の水田適地の広がりによる近畿地方の国力増強と、庄内式土器の広がりに一致が見られという事です。農業生産が爆発的に増えれば、国力が増し、次第に周辺諸国を圧倒する国力を持つようになったという事です。

その意味でも、庄内式土器の生産と周辺諸国への搬出は注目すべきものがあります。

 ちなみに、北部九州各地にも庄内式土器が発見されているとされています。博多湾沿岸の早良平野にある西新町遺跡などです。これをもって、邪馬台国時代に近畿地方が北部九州を支配下に置いていた、とする説を唱える論者もいます。

 私は、これを完全に否定します。論拠については、また別の機会に述べる事にします。

 弥生時代末期、すなわち邪馬台国時代の典型的な土器である庄内式ですが、生産技術が近畿地方で育まれたわけではありません。個性的な土器で有名な吉備式や、先端技術を持っていた小松式などからの技術流入があってこそです。

 近畿地方は、古代においては裏日本です。表日本の日本海側に先端技術が芽生え、時間差を置いて近畿に入って来たのです。これは、弥生時代の鉄器の出土が、近畿地方ではほとんど無いことからも自明でしょう。古墳時代という黄金期を迎える事が出来たのは、あくまでも巨大淡水湖の水引きによる、水田適地拡大のおかげです。