魏志倭人伝は正しい⑥

  こんにちは。八俣遠呂智です。

  魏志倭人伝を比定地論争を抜きにして、フラットな状態で読んでみると、邪馬台国までの行路はとても正確で、各地の様子も的確に記されていることに、あらためて驚かされます。

 前回は投馬国から邪馬台国までの不思議な行路、「水行十日・陸行一月」について、正確な根拠がある事を示しました。

 魏志倭人伝の記述は、一見無意味に思える内容であっても、その裏にはしっかりした根拠が隠されています。

正しい610
行路

 魏志倭人伝を、奴国が博多湾沿岸地域だという前提に立って正確に読むと、この図のような行路が描けます。そして最終目的地・邪馬台国の場所は、越前から能登半島にかけてのエリアとなります。

 前回は、投馬国から邪馬台国への行路の「水行十日・陸行一月」について、明確な根拠がある事を示しました。すなわち、投馬国から邪馬台国へは沖乗り航法で10日、邪馬台国から投馬国へは小さな荷物を背負って陸路一月、という事です。

 これでひとまず、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの行路が、すべて理に適った正確な場所だと分かりました。

正しい620
但馬と越前

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに? いきなり。

 

B: 前回、質問に答えてくれなかったので、もう一回するね?

邪馬台国から投馬国までは、対馬海流に逆行するし、重い荷物がないから陸路を使ったのは、よく分かりました。じゃあ、、投馬国から北部九州に行くのは、どうしたのですか?

 これだって、東から西へ向かうから、対馬海流に逆行しているでしょう?

 

A: 良いところに気が付いたね?

北部九州から邪馬台国へは対馬海流を利用できたけど、逆は、かえって困難になりそうですね。

でもその心配はないんです。

 

B: なんで? なんで?

 

A: それは、航海方法が違うからです。小型の準構造船を使った地乗り航法を行っていたからです。

船団を組んで、海岸に沿うように、近い海辺を航海していたんです。これだと、海流の影響はほとんど受けません。主に潮の満ち引きという「潮流」の作用を利用します。潮目の良い時に船出をして、小まめに港に立ち寄らなければならないので、航海日数は多くなりますけどね。

 

B: どうして、地乗り航法だったと分かるんですか? 魏志倭人伝のどこにも書いてないですよ?

 

A: これは、考古学的な根拠です。投馬国・但馬の袴狭遺跡から出土した邪馬台国時代の線刻画です。この写真で分かるように、サメの口が開いたような船がたくさん並んでいるでしょ。これは外海を航海するための準構造船という小型の船です。こういう小型の船で船団を組んで、投馬国から九州方向へ向かったと考えられます。

 

B: なるほど? でも、それだと日本全国どこでも同じ航海方法だったんじゃないですか?

 

A: そうかも知れませんね。けれど邪馬台国時代の船団線刻画が見つかったのは、投馬国・但馬の袴狭遺跡だけです。しかも、日本で最も古い船団の絵なんですよ。

 

B: へー。可能性は高いですね?

じゃあ、話は遡るけれど、北部九州の不弥国から、邪馬台国の越前までは、どんな船を使っていたんでしょうね? 沖乗り航法だから、小型の船ではないですよね?

 

A: そうです。これは、大型の準構造船と考えられます。北部九州で徴収した大きな荷物を運ばなければならなかったからです。この根拠も考古学的なものです。

福井県の井の向遺跡から出土した銅鐸には、日本で最も古い大型の外洋船の絵が描かれていました。この絵は、邪馬台国時代の典型的な船として、本の表紙のモデルにもなっています。

このような大型の船を使って、不弥国から邪馬台国までやって来たのでしょう。

 

B: すごーい。投馬国も邪馬台国も、船についてのしっかりとした出土品があるんですねぇ?

 

A: そうよ。

正しい630
末蘆国

 話を元に戻します。

魏志倭人伝の記述をフラットな視点から読み返してみると、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの行路が、すべて理に適った正確な場所だと分かりました。

 ここで九州から振り返って、総括します。

 まず、対海国(対馬)、一大国(壱岐)を経て、九州島の最初の上陸地点は、末蘆国。これは佐賀県伊万里市あたりと考えられます。この地域一帯は、江戸時代までは松浦郡と呼ばれていましたので、音韻上の類似があります。魏志倭人伝には、海産物で生業を立てていたとの記述があり、リアス式海岸のこの地の風土との一致が見られます。農業を行える土地は少ないので、大きな面積の割には小さな国だったのでしょう。

正しい631
伊都郡

 次に到着する伊都国は、福岡県糸島市あたりと考えらえます。江戸時代までは怡土郡と呼ばれていました。この場所は入国管理局のような役割があったようです。この地で外国人の入国制限がなされていました。それは、壱岐から直接伊都国に上陸させずに、末蘆国に上陸させていたからです。末蘆国から伊都国へ行くには背振山地という険しい山があり、天然の要塞になっています。簡単には入り込めないようにしていたのでしょう。魏志倭人伝の末蘆国の描写や、伊都国の描写とも一致しています。

正しい631
奴国

 伊都国のすぐ隣に奴国があります。ここは、博多湾沿岸地域です。二万余戸という、この地域では最大の国です。中国・後漢の時代の金印が出土していますので、魏志倭人伝を読み込むためのベンチマークとなります。

この奴国に至るまでの行路、すなわち末蘆国~伊都国、伊都国から奴国では、方角が90°ずれていることが分かります。従って、その先の行路にもこれを当てはめて、方角を決定して行きました。

正しい633
不弥国

 すると、次の不弥国は、福岡県宗像市となります。これは、奴国から東へ100里で不弥国となっているところを、90°ずらしてみれば、丁度、宗像市エリアとなるからです。宗像は、古代海人族がいた場所ですので、その先の投馬国への長距離の船旅との整合性も取れます。

正しい640
投馬国

 不弥国から南へ水行20日で投馬国。この方角も奴国というベンチマークから90°を修正しますので、東へ水行20日となります。これは、対馬海流を利用した沖乗り航法が可能ですので、水行という大雑把な日程とも一致する航路になります。そして、但馬・丹後エリアが投馬国です。この地域は、北部九州を凌駕する弥生遺跡の宝庫ですし、音韻上でも、トウマ-タンマという類似が見られます。

正しい642
邪馬台国

 投馬国の次は、最終目的地の邪馬台国。南へ水行10日・陸行1月となっていますが、この方角も90°修正しますので東方向への水行となります。すると、水行10日での着岸地点は、越前から能登半島に掛けてのエリアとなります。ここからさらに陸行1月というのは、大きな矛盾がありました。そこで、陸行1月は、邪馬台国から投馬国への逆方向の日程だとすれば、あらゆる面で理に適う事が分かります。この詳細は、前回述べた通りです。

 これらのように、魏志倭人はとても正確であり、日本列島の形状や海流の影響など、細部に渡って一致が見られました。但し、これはあくまでも、奴国と言う場所が博多湾地域だったという大前提の上に成り立っています。方角を90°修正したのも、末蘆国~伊都国~奴国に到達する為でしたので、もし奴国が別の場所だった場合には、すべてが覆ってしまいます。

 方角が、九州島内でずれていた原因については、また別の機会に考察する事にします。