神功皇后は卑弥呼

 古事記・日本書紀などに登場する神功皇后。彼女の功績は、邪馬台国の卑弥呼や壱与と共通する部分が多く、時代的にも似通っています。

 神功皇后の伝説は、日本国中にあります。特に、活躍の場だった北部九州には至る所に伝説が残っています。

 神話や伝説ですので、明確な根拠はありませんが 邪馬台国の時代に大活躍した女性ですので、一考の価値はあるでしょう。

 今回は、この神功皇后が邪馬台国の女王だとした場合、どこに住んでいたかに焦点を当ててみました。

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神功皇后は、明治時代に、お札・切手・教科書教材になっていた。

 現代では、あまり有名では無い神功皇后ですが、明治時代には、お札や切手に肖像画が描かれ、国定教科書にも武勇伝が紹介されていたほどの女傑です。当時は、知らない人がいないくらいの超有名な人物です。

 まず最初に、記紀に記された神功皇后の時代と功績の概略を紹介します。

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神功皇后の時代と系譜

 記紀によれば、神功皇后は三世紀から四世紀に活躍した人物とされています。丁度、邪馬台国の卑弥呼や、卑弥呼の宗女・壱与が活躍した時代です。

 神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たるとされています。高志の国(越前)に出自のある謎の大王・第26代継体天皇は、応神天皇の五世孫に当たるとされています。

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神功皇后の実績:熊襲の反乱と三韓征伐

 神功皇后の功績は、まず九州南部で勃発した熊曾(くまそ)の反乱を鎮圧します。さらに、朝鮮半島にも侵攻して百済・新羅・高句麗を支配下に置きました。これが、神功皇后の三韓征伐と呼ばれる功績です。この戦の最中でも、彼女のお腹の中には、第15代応神天皇を身籠っていたという伝説をもつ女傑です。

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神功皇后の出身地は、高志の国・越前だった。

 記紀の中で、神功皇后が現れるのは、仲哀天皇が角鹿(現在の福井県敦賀市)に角鹿笥飯宮(つぬがのけひのみや)を建てて移り住んだところからです。

 仲哀天皇は、それまでは畿内でほかの妃と結婚して一緒に住んでいたにもかかわらず、角鹿にいた神功皇后のもとに移り住んだようです。

 神話とは言え、近畿に住んでいた天皇が、妾のいる日本海側に移住してしまうとは、面白い話です。

 さらに不思議なのは、神功皇后が「角鹿」という高志の国・越前の最大の港に住んでいた事です。

 古代において、高志と近畿地方とは敵対関係で、邪馬台国と狗奴国の関係でした。近畿から角鹿に入るには険しい峠があり、古代から愛発関(あらちのせき)という関所が設けられるほど、高志(越前)と近畿との交流は制限されていました。

 近畿勢力の天皇が日本海側に住まいを建てるとすれば、敦賀ではなく、遠敷郷(現在の福井県小浜市)でしょう。ここは古来より高志の国ではありません。若狭の国です。同じ若狭湾にある敦賀と小浜ですが、意味合いが全く違います。

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神功皇后の出身地の謎

 敦賀は、古代においては、高志の国の北方との交易の港だったのに対し、小浜は、出雲や九州との交易の港でした。熊曾(くまそ)の反乱を鎮圧するために北部九州に向かう為の拠点にするにしても、小浜の方がはるかに便利です。近江の国・滋賀県高島から緩やかな峠を越えるだけなので、古来から近畿と小浜の交流は盛んです。さらに、遣隋使・遣唐使時代には、留学生の帰還港であり、九州・朝鮮・中国との窓口の役割も果たしています。

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神功皇后は、卑弥呼だった。

 九州へ向かうにしても、敦賀からならば数日掛けて小浜に着き、さらに西へ向かう事になります。なぜ、そんな手間を掛ける必要があるでしょうか?

 単純に考えて、神功皇后は、邪馬台国のある越前の女王だったと見るのが自然でしょう。すなわち卑弥呼か、あるいは卑弥呼の宗女・壱与でだったと見るべきです。

 高志の国・越前の邪馬台国が、卑弥呼や壱与の時代に、出雲を支配し、北部九州や朝鮮半島に影響力を及ぼしていた事を、神功皇后という名を借りて神話化したのです。

 高志の国・越前の支所である角鹿(敦賀)に角鹿笥飯宮を建てて、九州・朝鮮征伐に向かったという事です。

 魏志倭人伝には、卑弥呼は引きこもりの老女で、子供がいなかったとされています。一方、神功皇后は活動的で、応神天皇を産んでいます。これを考慮すると、神功皇后は卑弥呼の宗女の壱与をモデルにしているのかも知れません。

 いずれにしても、時代と地理的関係から、神功皇后の神話は、越前に邪馬台国があった事の一つの根拠となります。

 また、神功皇后の六世孫に当たる継体天皇が、神話ではなく、越前に出自があるのは確実ですので、今生天皇が卑弥呼一族の子孫である事は間違いなさそうです。