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コメント: 84
  • #84

    八俣遠呂智 (木曜日, 07 11月 2019 15:33)

    通りすがり様

     私は右寄りの脳みそなので、天皇制度大賛成で、2600年前の神武天皇から続いていて欲しいと、切ない願望を持っています。
     しかしながら「日本書紀」は、あまりにも残念です。矛盾の塊の歴史書です。

     神武東征は、在位期間、日向という小国の出自、瀬戸内海の航海、などなどに無理がありすぎます。但し、元ネタはあったと思います。
     私の考察は動画にしてまとめてあり、五か月後くらいに公開予定です。

    お楽しみに!

  • #83

    通りすがり (水曜日, 06 11月 2019 14:11)

    神武東征と邪馬台国との関係は、どのようにお考えでしょうか?

  • #82

    八俣遠呂智 (月曜日, 28 10月 2019 22:07)

    花屋様

     縄文時代は南方系、弥生時代は北方系という説に共鳴します。
    私なりの仮説ですが、
    「朝鮮半島と環日本海を支配していた南方系縄文人の男達が、北方系女性に種を撒き散らして混血が生まれた。その末裔が弥生時代に渡来人として日本列島に帰って来た。」

     弥生時代の状況を想像すると、この仮説がしっくりくるような気がします。

  • #81

    八俣遠呂智 (水曜日, 09 10月 2019 19:12)

    通りすがり様

    九州説支持者に限らず、全ての人に言えると思います。
    もちろん私もそうです。
    ただ、私が九州説を支持していた頃は、我田引水が異常に強かったです。(笑)

  • #80

    花屋 (木曜日, 03 10月 2019 17:51)

    縄文時代に来たモンゴル系はC1a1で、彼らは南方から来たと考えられます。
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97C1a1_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
    弥生時代に来たモンゴル系はC2aで、こちらが北方から来ました。

  • #79

    通りすがり (月曜日, 30 9月 2019 19:22)

    ヤフー知恵袋で諸説が飛び交っていますが、
    九州説支持者が面白いのは、自分の持論に合う部分は書物や年代を信じ、合わないところは切り捨てるとこですね。
    痛々しい。

  • #78

    八俣遠呂智 (木曜日, 22 8月 2019 09:15)

    零話さま:
    松本盆地も天然の良質な水田稲作地帯ですので、弥生時代には大きな勢力があったと思います。しかも、日本海側の高志の国(北陸)と対立していたのでしょう。
    翡翠鉱脈(糸魚川)との中間地点に強力な安曇一族を配置している事から分かります。
    海人族である安曇一族が、なぜ内陸部の安曇野にいたのか? という答えが、松本盆地の対抗勢力だったのかも知れません。

  • #77

    零話 (木曜日, 22 8月 2019 06:39)

    松本盆地が狗奴国だった可能性もあるんじゃないでしょうか?新潟から距離的に近いですし

  • #76

    八俣遠呂智 (木曜日, 01 8月 2019 20:14)

    「縄文人は、朝鮮半島と環日本海を支配していた。」
    と、私は思っています。
     白山と黒龍川、白頭山と黒龍江。
    縄文時代からの信仰かも知れませんね。

     ちなみに、現代の朝鮮半島に住んでいる人々は、北方の原始人が祖先で、弥生時代には、まだシベリアに住んでいたようです。魏志東夷伝の挹婁(ゆうろう)という民族の風俗・習慣が、現代の朝鮮人ソックリです。

  • #75

    Soft and Easy (土曜日, 27 7月 2019 17:28)

    卑弥呼の宗教を想像してみました。
    越前にも白山信仰があります。渡来の要因がないか、白山信仰と朝鮮でググッてみると見つけました。白頭山と黒竜江を神聖なものとする人々。巫女と牛の生贄の様式。九頭龍川はもとは黒竜川といいます。黒竜という日本酒も永平寺近くにあります。越前は牛の祭りを奈良時代に禁止された土地てす。後に渤海国を造った人々のものだそうです。白い山と黒い川、牛と巫女の共通、後に遣渤海使での交流。邪馬台国は白山を崇めていた?

  • #74

    八俣遠呂智 (日曜日, 21 7月 2019 13:57)

    ロボ様

    ご連絡ありがとうございます。
    「古代の超大国は、天然の水田稲作に適した土地」という仮説の、一つの根拠になりそうです。

  • #73

    ロボ (日曜日, 21 7月 2019 10:46)

    静岡大学農学部によると水田耕作が陸稲栽培から完全に取って代わったのはようやく安土桃山時代という研究結果が発表されてます。
    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=148777
    したがって水田地帯がなかなか普及しなかったのは鉄製農具や土壌だけでなく治水工事や整地作業がかなり面倒だったからと思われます。それと単位面積当たりの収穫量は江戸時代も弥生時代も、かそんなに違いは無かったという実験結果も発表されてます。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=205322

  • #72

    八俣遠呂智 (日曜日, 30 6月 2019 07:20)

    ミャグチ 様
     面白い解釈ですね。

  • #71

    ミャグチ (日曜日, 30 6月 2019 06:06)

    記紀の海彦・山彦物語を
    当て嵌めると、海彦が越前、山彦が大和、次男が出雲、神が九州北部と言う事でしょうか?

  • #70

    八俣遠呂智 (火曜日, 25 6月 2019 09:31)

    名無し 様
     まさに魏志東夷伝の弁辰での鉄取引が、現実味を帯びますね。

    等氏 様
     古代中国語は、客家語説のほか色々あります。しかし、一文字一発音が共通しています。九州島の三文字を「ヤマ」と読むには無理があると思います。何語説なのでしょうか?
     なお、ヤフー知恵袋はファンタジーとしては楽しめますが・・・。

  • #69

    等氏 (火曜日, 25 6月 2019 09:01)

    古代中国語では「九州島」を「ヤマ」と発音してたらしいですが本当ですか?ヤフー知恵袋でそう書いてる人がいました。

  • #68

    名無し (月曜日, 24 6月 2019 21:39)

    古代朝鮮の製鉄について考えるための検索をしました。「韓国の鉱業」でネット検索、田溶元投稿、1965年、日本鉱業会誌、で出てきました。
    結果は、全羅道の湖南炭田で無煙炭、慶尚南道蔚山や釜山界隈で鉄鉱山が見れます。
    くしくも日本が往来を深めたた半島南部製鉄原料がそろっている箏が分かりました、先生にはかも知れませんが、ご報告しておきます。

  • #67

    清隆 (月曜日, 24 6月 2019 20:39)

    邪馬台国であれば古事記だったかスサノオの狼藉で屋根馬の皮を織女に被せてほどを針でついて死んだとかの話昔読んだ本に中国に馬を槍で串刺しにして蛆を集らせる人の話が載ってた絹作り蛆がたかった馬足朽ちて落ちて脇腹剥き出しに成ると蚕字で見ればそうかな中国馬と言うと北部と言っても養蚕は四川省なのか

  • #66

    八俣遠呂智 (水曜日, 12 6月 2019 18:08)

    横浜中華街に住む客家系台湾人によれば、ほぼ「ヤマタイ」に聞こえる発音でした。彼によれば、客家語は体系化されておらず、華僑という長い分散の歴史の中で方言が多いので、絶対とは言えないとの事でした。呉音か漢音かといえば、漢音の部類だと思います。中原にいた民族なので、正統な古代中国語だと、私は思っています。
     卑弥呼については、一般論ですが、倭国での日巫女の発音を漢字化したのだと思います。

  • #65

    ミャグチ (水曜日, 12 6月 2019 17:52)

    邪馬台国を現代客家語ではなんと発音するんですか?呉音に近いんでしょうか?卑弥呼は巫女の蔑称なんですか?

  • #64

    八俣遠呂智 (水曜日, 12 6月 2019 15:32)

    Masa様

     私の説が間違いだったとしても、越前と出会えた事に満足しています。
    かつて九州説に固執していた頃よりも、はるかにダイナミックに古代史を考える事が出来るようになった気がします。

  • #63

    Masa (水曜日, 12 6月 2019 13:42)

    越前説を江戸時代の石高から思いつかれたのですね。まさしく後世のいろんなことにヒントが隠されているのは自分も強くそう思います。動画とか見せてもらって、今まで「点」であったものが「線」になって繋がりかけてます。継体天皇が越前から来たこと、松原客院・能登客院、越前が日本最古の製紙地域であること、天智天皇の大津宮・・・。
    邪馬台国について、様々な仮説を"減点法"で見ていくと、九州説は経済力(生産力)で、畿内説は鉄の出土の少なさから軍事力で、大きなマイナスポイントになりますが、越前説のマイナスポイントになるのは、どこまで本当なのか疑問である"魏志の記述"との整合性の部分だけのような気がします

  • #62

    八俣遠呂智 (月曜日, 10 6月 2019 11:59)

    Masa 様

     ありがとうございます。滅多に肯定される事が無いので、とても嬉しいです。
     Masa様は歴史に携われておられたとの事ですので、また別な視点から異なる説が出てくるのではないでしょうか。楽しみです。
     なお、私が越前説を思いついたのは、江戸時代初期の国別石高です。(筑前:52万石、越前:68万石)

  • #61

    Masa (月曜日, 10 6月 2019 00:34)

    初めまして。動画やHP,楽しく拝見させていただいてます。自分はずっと歴史に携わってきましたが、古代史には興味があまり向いてない人間でした。それ故に、変な先入観なしにシンプルに考えられる利点があるかな、と勝手に思ってます。邪馬台国については、まだ位置が特定されてない以上すべての説を「仮説」とすれば、「越前説」が目から鱗&一番説得力ある仮説と思いました。中国であれ、日本であれ、歴史書は時の権力によって都合よく書かれてるので、特に史料の少ないこの時代のことは、あまり文献だけに固執するのは「?」ということを差し引いて、強国や大国というものを考えた場合、その条件は、「軍事力と経済力」が最低必須条件、そして「外交力と情報力の後押し」というのはいつの時代でも同じだと思います。九州説には経済力(生産力)に疑問が、畿内説は鉄の出土数から軍事力に疑問がつきます。この2+2の条件を、福井は満たしていますね。外交面でも多くの人は今の感覚で北九州が有利と考えますが、行き来が便利ということは、逆から見ればいつも危機にさらされてることでもありますが、越前なら、航海技術があるなら、他国の妨害を受けずに安全に大陸との行き来ができます。越前がその国家が魏志で言うところの邪馬台国かどうかは別として、強大国家があったことは確かだと思えます。
    今まであまり興味がなかった古代史ですが、今、すごく興味持っていろいろ調べたりしています。貴殿のおかげです。ありがとうございます!

  • #60

    やしま (日曜日, 09 6月 2019 15:34)

    阿波には、弥生時代末期の顕著な、墳墓・遺跡・出土品が無く、鉄器出土もほんの僅かです。

    萩原墳墓群からは魏のあった狭西省産の丹、帯方郡があった平壌出土の画文帯神獣鏡と傷まで一致する兄弟鏡が出土してますが?

    また加茂宮ノ前遺跡では紀元前1世紀から鉄器を製造していたことが確認されている。
    水銀朱の精製も行われており出土品は50万点にも及ぶ。
    また漢鏡も発掘されていることから太平洋ルートが存在していたのだろう。

  • #59

    八俣遠呂智 (土曜日, 08 6月 2019 09:24)

    ナオヒコ様

    邪馬台国九州説に立てば、それも成り立つと思います。
    ただし、瀬戸内海航路が三世紀以前に確立されていた事が前提です。
    私の動画の中で、古代船に関する考察がありますのでご参照下さい。

    吉備の楯築墳丘墓のように、弥生時代後期の個性的な墳墓がありますので、何らかの勢力があった事は間違いないと思います。

  • #58

    ナオヒコ (土曜日, 08 6月 2019 09:01)

    中国の粱書では倭・文身国・大漢国・扶桑国の4つの国があったと指摘されてます。岡山県は九州南部を除けば西日本で唯一縄文系の多い地域です。瀬戸内地方は九州の植民地支配下にあり吉備国がその拠点だったんじゃないですか?

  • #57

    八俣遠呂智 (土曜日, 08 6月 2019 08:39)

    ナオヒコ様

     四世紀~五世紀は、日本史の空白期と呼ばれていますので、文献史学上は何もありません。
     記紀や出雲風土記に記されている「ヤマタノオロチ」、「オオクニヌシノミコト」などの神話を、この空白期の事件と仮定して、勢力図を描きました。
     この根拠は、現在作成中の動画で詳しく説明する予定です。(三ヶ月後くらいに公開予定)
     また、神武東征も同じ時期の出来事だと思います。理由は、瀬戸内海を航海する技術が、五世紀~六世紀にならないと確立していないからです。

  • #56

    ナオヒコ (土曜日, 08 6月 2019 07:30)

    4世紀〜5世紀の西日本の勢力図には、瀬戸内地方・四国・和歌山・三重が一つの連合体になってます。これは吉備国が狗奴国から紀伊半島南部を奪ったという事のようですが、神武天皇東征の結果、そうなったのでしょうか?その辺の経緯がよく分からないんですが。

  • #55

    八俣遠呂智 (木曜日, 06 6月 2019 08:03)

    名無し 様

    私の稚拙な動画をご視聴頂き、ありがとうございます。

     弥生時代の交易品は、資料が少な過ぎて特定が難しいですね。
    文献では、魏志東夷伝に記されている朝貢品や鉄の取引、程度しかありません。
    現物では、新羅の王墓から出土した糸魚川産翡翠くらいでしょうか。
     一般論ですが、丹(水銀朱:赤色顔料)、絹織物、翡翠硬玉などがあります。この内、丹と絹織物については、大きな疑問があります。その理由は、今後動画で説明したいと思っています。また、金の日本での採掘は、かなり後の時代ですので、交易品の可能性は低いと思います。
     製鉄については、これまでの動画で色々と考察していますので、ご参照下さい。
    丹後半島や北部九州で「鉄滓」が見つかっていますので、製鉄が行われていた可能性はあります。

     弥生時代の状況に想像を巡らせると、平和的な「交易」は、ごく僅かだったと思います。食うか食われるかの時代ですし、稚拙な造船・航海術では、頻繁には海を渡れなかったでしょう。
     中国大陸からのボートピープルや、日本から命がけで海を渡った倭寇の類が、「交流」と言えるものだったように思えます。

  • #54

    名無し (水曜日, 05 6月 2019 20:10)

    小生は、高志シリーズを繰り返し見させていただき感謝しております。
    古来の交易で日本からの輸出品は何であったのか興味があります。
    できれば、解明とご説明をお願い申し上げます。

    簡単には、勾玉でしょうが、それ以外に砂金などもあったのでしょうか。
    半島だけでなく、中国南朝、隋などとの交易の原動力を知りたいです。
    この関連で輸出品が少なければ、日本での製鉄事業が意外に早くから始まった可能性があります。
    製鉄は鉱石よりも燃料がかさばるので山中でやるために、遺跡の発見は難しいと思います。

  • #53

    八俣遠呂智 (日曜日, 26 5月 2019 08:07)

    evanjoyce様

    もちろん知っております。当ホームページの中でも触れております。
    重量としては、投馬国・丹後の奈具岡遺跡が一番です。
    邪馬台国時代に、鉄器の出土が皆無の近畿や、出土量が極端に落ちた九州と比較する材料としては十分です。

  • #52

    evanjoyce (日曜日, 26 5月 2019 08:01)

    福井市泉田町の1800年前の遺跡から2000点以上の鉄が出土してますが、内容は玉加工のための小さな工具やその破片であって、鉄製武器のような重いものは見つかってません。

  • #51

    八俣遠呂智 (日曜日, 19 5月 2019 20:32)

    名無し 様

    おっしゃる通りです。横手盆地も魅力ある沖積平野ですね。新潟平野のような「潟」だらけの平地よりも、農業生産は高かったと思います。
    高志(越)の国は、福井県以北の青森あたりまで含んでいたという説もありますね。
    水田稲作の伝来も、東北の日本海側は早かったようですし。

  • #50

    八俣遠呂智 (日曜日, 19 5月 2019 20:25)

    口金屋小紅 様

    いやはや、言葉を失います。
    越(こし)と呉(くれ)の地名の起源から学習されるとよいでしょう。
    こういう事を自信満々で書き込むとは・・・恐れ入ります(笑)。

  • #49

    名無し (日曜日, 19 5月 2019 20:20)

    秋田県の横手盆地は紀元前1世紀に淡水湖の水が干上がってますから、水田稲作には最適地の1つだったと思うのですが傾斜率が高かったんでしょうか?ヤマトタケルが九州から東北を統一したという伝説が残ってますから、邪馬台国(越前)が同じ日本海側の出羽国を植民地化したとしても不思議ではありません。

  • #48

    口金屋小紅 (日曜日, 19 5月 2019 15:48)

    残念です、、、、良いとこ行ってるけど間違い!記紀を読んでいませんね。根の堅洲国に追いやられた出雲族、倭朝廷の臣下です。八岐大蛇は蛇を崇拝する呉か越の一族でしょう。呉越同舟とは戦乱を逃れた呉と越の国の人が同じ船に乗り蓬莱(倭)に逃げることを指した四字熟語です。越前に関しては応神記の「都怒我阿羅斯等」を読めば判ると思います。ツヌガアラシト・・・ツルガ・・・敦賀。広島には呉があります。呉の人は瀬戸内海を越の人は日本海を東進したのでしょう。一度は記紀を読んで投稿しましょうね!

  • #47

    八俣遠呂智 (水曜日, 15 5月 2019 21:15)

    名無し 様

     九州説の定番ですね。私は元々、九州説(甘木朝倉)を支持していましたので、よく分かります。これに疑問を持ったのは、様々な理由がありますので、いずれ動画で説明するつもりです。
     世界四大文明は、畑作地帯です。この四地域に共通しているのは、連作障害の無い、特別な環境だった事です。
     水田稲作の米の優位性は、農業の専門書にてお願いします。

     筑紫平野が弥生時代から拓けていれば、間違いなく邪馬台国はそこにあり、現代でも日本の中心だと思います。

  • #46

    名無し (水曜日, 15 5月 2019 20:11)

    筑紫平野の面積は1200平方キロあります。鉄製農具が流入したのは2500年前ですから、700年かけて密林を全て伐採すれば、越前湖跡地の8.5倍の広大な畑作地帯が出現します。水田が無ければ大国出現は絶対不可能なんでしょうか?

  • #45

    八俣遠呂智 (火曜日, 14 5月 2019 05:48)

    evanjoyce 様
     但馬の客家語読みです。

  • #44

    evanjoyce (火曜日, 14 5月 2019 05:14)

    >>>>丹後・丹波・但馬の3地域が、飛鳥時代以前はまとめて『タンマ』と呼ばれていたそうですが、古代の地名の発音がどうやって分かるんですか?原始的なアイヌ語の発音でしょうか?

  • #43

    八俣遠呂智 (月曜日, 13 5月 2019 07:33)

    名無し 様

    中国の「越」の発音は「エツ」です。古代中国語でもそれに近い発音だったと思われます。
    一方、日本の越は「こし」です。これは、古事記、日本書紀、万葉集に書かれた北陸地方を指す「高志」、および出雲国風土記に書かれた「古志」が語源です。
     治水工事は、北陸地方(特に福井平野)が進んでいました。それは、縄文海進後に淡水湖となり、水引が早かったからです。一方、出雲平野は汽水湖となり、水引に時間が掛かりました。
     対馬海流に沿って、九州→出雲→古志と考えるのも無理はありませんが、私の動画を全てご覧いただければ、ご理解頂けると思います。

  • #42

    八俣遠呂智 (月曜日, 13 5月 2019 07:29)

    名無し 様

    都城盆地は広いですね。土も黒ボク土なので、畑作には最高の土地です。但し、火山灰が何度も降り積もった痕跡があり、古代での農業は安定しなかったと思われます。

  • #41

    名無し (月曜日, 13 5月 2019 07:06)

    都城盆地は豊岡盆地の9倍以上の面積が有ります。畑作であった事を考慮しても都城盆地の農業生産高は豊岡盆地の6倍くらいあったと思われます。

  • #40

    名無し (月曜日, 13 5月 2019 06:56)

    出雲国風土記に書かれてる古志とは中国南部にあった越という国じゃないんですか?なぜ弥生時代に出雲より先に越前で治水技術が普及始したと言えるんですか?

  • #39

    八俣遠呂智 (金曜日, 10 5月 2019 11:59)

    磯部達 様
     おっしゃる通りです。
    そんな当たり前な事より、古代中国語は何語だったかに、私は興味があります。今のところ、客家語説を支持しています。客家人は、世界に散らばった華僑の元祖でもありますし、「アジアのユダヤ人」と呼ばれていて、とても興味深いです。

  • #38

    磯部達 (金曜日, 10 5月 2019 08:00)

    魏に朝貢した和人卑弥呼達が漢字の読み書き出来ないはずは有りませんよ
    因って記紀編纂時には漢字は自由自在だったのでは勿論発音では秦王朝の
    発音、魏王朝の発音も出なければ朝貢も又できなかった筈ですね。

  • #37

    八俣遠呂智 (月曜日, 06 5月 2019 07:37)

    isamu adachi 様

     古代の大国の出現メカニズムと、水田稲作の基本的な知識から学習されるとよいでしょう。
     確かに、日本での水田稲作は山間部から始まりました。山で細々と農業をやって、大国が出現するとお考えですか?

  • #36

    isamu adachi (月曜日, 06 5月 2019 07:27)

    邪馬台国」が福井でも機内でも九州でも、何処でもいいんです。論拠の最大の弱点は。稲作は平地で無いと成立しないと考えてる点です。稲作の初めは、山間部の小川から水を引いて、谷間に平地を造て「棚田」から始まったとは考えられませんか。平地に水路を引くより、ず~と簡単に水を確保できるとおもいますが。山のほうが「動植物」の多様性もあり食料確保も容易かったと考えますが。平地の面積だけで文化を論じるのは無意味です。

  • #35

    中村敬 (日曜日, 05 5月 2019 17:37)

    これこそ邪馬台国は豊の国越からの渡来人、藤原氏一族(このときは賀茂一族といったほうがいい)は呉国からの渡来人で筑後にいたのだ。天武天皇に与して持統天皇の時代に奈良葛城に移っていった。