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コメント: 16
  • #16

    ヒカル (火曜日, 16 6月 2020 21:07)

    ヒカルです、四度目の投稿です。
    母親から聞いた丸山情報>
    現在83歳の母親(長女)がいます、丸山貯水池を造成したときの年齢(64歳差し引き)19から20歳頃の時までは丸山の造成はされていなかったので、古から続く山の形状だったはずです。
    最近、そもそもの山の形状を思い出させて・・・絵にするように言ってあります。
    それと、石棺が神明神社の鳥居の脇にの安置してあった件ですが、母親に言わせれば手洗いの石だと言っていますが、手洗いにしては深めの石棺の様だったと・・私は想いつづけています。 どう処分されたのかは母親も私も判りません。
    町内会の神社清掃か神明神社の処分なのか、町内の御年寄りも数少なくなってきている現状に2~3人の80歳代となってきていて過去を知るのは居ないのが現状ですね。
    丸山と平岡山>
    丸山は50.5m、平岡山は25m、二つの山は福井市に向かうように並んでいて、平岡山は全部崩されて県立病院に代わってしまいました。 弁慶の落とした下駄の土と語られた歴史、そして羽柴秀吉・柴田勝家が上杉謙信勢を丸岡城や丸山から見ていた動き、さらに新田義貞軍らか城代わりに利用した一つの山でもありました。 町内にある願応寺は新田軍の一人武人が戦後始めたらしい。 安土・桃山時代には鯖江と福井市と丸山とに城郭候補を考えたとも聞きます。江戸時代には結城秀康(福井城)子安観音が丸山北側に有り結城家が現在も存在し、山の東側には蛇が多く私も小さい頃何度も見ました。 母親が言うには二次大戦の空襲の時に逃げる為の防空壕を作ってあったらしく、その蛇側の東側に造った様だ。
    あっ、そうだ丸山と平岡山の関係を語りたかったのだ・・・
    私の私論ですが何千年ではなく、何万年、何億年前に隕石が平岡山~丸山の延長した先の場所に落ちてその勢いで地上の山を崩して落ちてきた、そしてポツン ポツンと小山が出来たと思うのが一番の考えだと思います。 卑弥呼の時代に山を全部盛ったとかいう話は、所々にある岩を見れば誰も持ち上げたという理屈はできないとおもわれます。 まだまだ山を代用する時代だったのではとかんがえてしまいます。

    近所に居てもこの程度の見解しかできないのも、丸山の不思議なところでもあります。
    もっともっと手を加えて新たな丸山として整備される事を願って、四度目の投稿をさせていただきました。

    では。
    それと、次回はと古事記を書いた太安万侶と稗田阿礼と倭国の邪馬台国の地理的関係性・・・について投稿します。(次回のポイントは大野市の隣村に稗田村アリ、稗田村の隣に私の姉の亭主の河内村アリ、古事記を書けるのは元倭人の筋か・・・・。)

  • #15

    田中 (火曜日, 16 6月 2020 19:50)

    世界四代文明と言われますが、実は五大文明だったのでは?黄河文明は畑作農業でしたが、遠呂智先生が述べられる長江文明は稲作文明です。この長江文明が五大文明のひとつであったと思われます。古蜀国のイ族が栄えていた。ところが、漢武帝に攻められ、三国志の諸葛亮に攻められ、フビライに攻められ、「謎の民」とされている。古蜀国の末裔ではないかと言われているイ族です。顔も日本人に世似ていています。

  • #14

    ヒカル (水曜日, 10 6月 2020 01:01)

    ヒカル(男性)です。
    掲示板に三度目ですが書かせてもらいます。
    丸山情報> わたしが幼い頃から漬しんだ丸山と丸山周辺について早く知ってもらいたい事などわたし流に文章にしていきます。  この山は貯水池内に入れば北向きに貯水棟の長方形の建造物があります、高さは二階建て程度、その北向きに面して左右の階段が(宝塚劇場的な)貯水棟の屋上へ行けます。 そしてその北、50.5メートル下へ降りる階段が勝山街道へ降りていきます。 民間で現在の貯水池を説明できるのは近所の子供ぐらいでしょう・・・・。
    そして問題は、その貯水棟と北へ降りる階段の間にある"大きな岩"がある事です。 こんな岩は運べないのは当然ですし、私が小学生高学年の頃に山林伐採として(山のサイドは村の個々のモノ)サイドを残して刈り込んで(頂上から下まで)しまい西側(長本町)から見ると"禿げおやじ又はサムライ"と揶揄されていました。 その刈り込んだ浅くなった所を散策して、岩(割れた大きな岩)が有ったりしました。 そして北西にある願応寺の山側には脆く筋張った岩の崖と成っていて、丸山は半分は岩の転がっている含んでいる山だと分かります。
    朗報として、本来その様な山を墓地として整備するには苦労の少ない"国見山"的な墓地として利用するには鯖江・松岡などの山地利用と似ています。
    1962年生まれの私より5年前に完成している貯水棟ですから、私が12歳の年齢まで神社内に笏ダニ石棺が有ったというので16~17年有ったという事です。 貯水棟建設には山を平らにする必要があったのでしょう、大きな墓(棺は)壊さずに縁起物かバチに当たらない様として神社境内に置いたまま造成を急ぎし、残りの土砂を南東方面(本来ナダラカナ傾斜)へ流していった経緯がある様だ、東南は土ばかりだった・・・。 ですから金印・銀印鑑、紫の玉手箱等々は今現在ナダラカナ傾斜側に絡んで埋まっているのかもしれません・・・・・・かも  ・・・。
    もし、県を国を財閥を動かせないで終うのなら、最後の手段として、最高級の金属探知機で50センチずつ ずつ、丹念に3日がかりで探知するしかありませんね(笑)。
    最後に>
    最後に、これは偽物(金印)と笑ってすまされないように個人でやるものでは無いようです。大勢の承認で証明される大きな問題が絡んでいます。

    では。

  • #13

    田中 (火曜日, 09 6月 2020 17:25)

    今日は、史跡公園として整備されている今城塚古墳継体陵歴史館に行きました。円筒埴輪には大型船が描かれ、上部分に二本のマストと船尾に二個の錨綱を下した様子がヘラ描きされていました。円筒埴輪が沢山あるので、まるで船団のような感じがしました。
     寛政10年に先達の本居宣長さんが太田茶臼山古墳を継体陵とした為に(時代が合わない)、宮内庁は現在も太田茶臼山古墳を継体陵と認定した状態です。本当の継体陵は今城塚が定説です。阿武山古墳の麓まで行きましたがまで、辿り着くにはけもの道を通らないとダメなようで、軽装だったので、阿武山の住宅地から三島の町並みを一望して大織冠の目線を感じました。

  • #12

    発掘しよう (日曜日, 07 6月 2020 09:24)

    福井生まれ東京在住ですが、興味があります。これから、新幹線�ができ、観光の目玉になりそうです。浅水町出身ですが、普通に、丘から土器がでます。

  • #11

    墓堀ヒカル (月曜日, 25 5月 2020 06:14)

    墓堀ヒカル(歴史家)は丸山近辺に住むものです。
    投稿してもアップされていないので気になっています。 
    一年ほど前からこのページを愛視聴してきましたので完全に読み切っていると思っています・・。
    八岐大蛇様の計画は賛成、大賛成です!! 丸山二丁目に子供のころから住んでいる者として、この地域の歴史の曖昧(あいまい)さがあいまい随分気になっていましたが58歳になってこのページを読み更ける事で藻が晴れた気がしています。
    小さい頃に山の神社(神明神社由来)の境内の脇に有った笏谷石で作ったと思われる長方形の墓が有ったのを覚えています、墓は雨さらしになっていてそれから何年かは置いてありました。
    たぶん貯水工事で出てきた石棺を処分しようと神社の所へ置いたのではないだろうか・・。
    小さい頃は貯水池周辺でカクレンボしたり爆竹で騒いだり、神社の屋根裏へ忍び込んだり、と
    其の割には神明神社(丸山)の春と秋の小さな御祭の行事に禊払い的な正座をして神域での礼儀などなどをすることもありました。
    このページで感じたのは丸山神明神社建立以前の姿があったという実感、そして寺道場さんが纏(的)めた丸山町の歴史本を何度も読み返すと、山を通り抜ける道が有りそこで肉や物売りが住んでいたという文面にたどりつき、丸山周辺は泥沼が多く一つの小埜五郎島という環境で沼地泥濘を遠く四ツ井地区から藤島へ抜け通る小高い細道があったこと、その近くに私の田んぼが3反有りますが、その一角に塚田という田んぼが有って、幼いころ近所の教頭が三輪耕運機
    に乗って手に弥生土器を見せびらかしていたのを覚えています。
    ヤマタノオロチ様にとっては欲しい情報ではあると思います。
    私はメールアドレスが無いためにネットサーフィンして見ていたのです、なので近隣情報を
    知りたければ何時でも私が出せる情報は出したいとは思います。

    もし丸山古墳が・・・・であるとするならば、卑弥呼(倭国)から崇神天皇(大和国)までの流れを知りたいものです、解明したいものです。
    最後に、邪馬台国の南に狗ぬ国が有ったと聞きますが、クヌ国・・・宮内国、となると、天皇家に圧し潰された邪馬台国となりはしないか、倭国は続いていたでしょうが天皇家の巨大化が
    倭国消滅に・・・・・神話化・・・なっていった経緯が・・・・。

  • #10

    田中 栄一 (水曜日, 13 5月 2020 19:26)

    凄いです�かなりの前進だと思います。日本の史学会では、すんなりと受け入れは難しいと思います。あるいは無視。最初はみんなそうです。コペルニクス・ガレリオガリレイも最初はそうです。

  • #9

    八俣遠呂智 (水曜日, 13 5月 2020 12:54)

    【卑弥呼の墓 発掘プロジェクト】
    福井市議会議長の堀川秀樹様から、地元メディアに打診して下さる旨の連絡がありました。
    うれしい!

  • #8

    八俣遠呂智 (木曜日, 07 5月 2020 17:55)

    【卑弥呼の墓 発掘プロジェクト】
     福井県議会および福井市議会への、発掘許可を要望する陳情書を提出しました。
    今回で二回目です。
     内容は、「発掘計画」のページにワードファイルをダウンロードできるようになっています。
    お名前などをご記入の上、議会への提出をお願いします。

    前回に引き続き、皆さまのご協力をお願い致します。

  • #7

    田中 (金曜日, 01 5月 2020 23:30)

    八俣遠呂智先生
    「野だたら」を読ませていただいて思い出したことがあります。丹後半島のあしぎぬ温泉(第三セクターの浴場)に行く途中で小さな丘があり丸い穴が横方向に掘られて空いていました。その前は畑で二世紀の人骨が大量に見つかり、京都大学史学の方々が畑を掘り起こし調査をした後、
    畑にビニールを敷き、その上に土を戻して通常通り畑を使用している。と地元の人に直接聞いた事を思い出しました。

  • #6

    びー (水曜日, 29 4月 2020 02:59)

    古事記上巻に山陰や北陸は出て来ませんよね。どうして古事記の舞台だといえますか?

  • #5

    八俣遠呂智 (木曜日, 09 4月 2020 15:39)

    福井県の方からご指摘がありました。「丹生郡」は、現在も存在しているそうです。
    大変失礼しました。

  • #4

    八俣遠呂智 (木曜日, 09 4月 2020 11:11)

    名無し様

    当サイトをご覧頂きまして、ありがとうございます。
    最初に私の邪馬台国に対するスタンスですが、弥生時代の農業の視点を最重要視しています。
    文献史学では、だれでも自説に都合の良いように解釈してしまいますので、あまり拘りはありません。もちろん私も魏志倭人伝を解釈すると、我田引水になってしまいますので、予めご了承下さい。

    ◎イレズミは、南方系民族を祖先に持つ縄文人の風俗習慣です。縄文土器(土偶)に刺青が描かれています。縄文人は海洋系民族ですので、海産物を追って朝鮮半島や沿海州を含む環日本海沿岸地域に住んでいました。後の時代に、稲作文化と共に新たにやって来た長江系中国人(弥生人)ですが、彼らは縄文人の下の労働者だったのでしょう。
     YouTube動画:「水田の伝播は 縄文人が主役」
       https://youtu.be/sG6kOJ93ms0
    などで自説を解説しています。
     イレズミの風習は、弥生時代になっても組織の頂点の人々(縄文人)に残っていたと思います。日本列島南部(九州)だけの風俗習慣ではありません。

    ◎水銀朱は日本全国各地に鉱脈があります。「丹生」という地名が残る土地には必ず鉱脈があります。越前にも15年前までは「丹生郡」という地名が残っていて、水銀朱の鉱脈がありました。徳島は辰砂が豊富だと主張する方もおられますが、これは特殊な事例ではありません。

    ◎魏から下賜された銅鏡は、どこへ行ったのでしょうか? 謎ですね。
    近畿地方で豊富に出土している「三角縁神獣鏡」は日本国内産である事が立証されています。
    越前には、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡の出土はあります。

     以上、簡潔ですが私の解釈です。なお、YouTube動画で具体的な説明もしていますので、ご参照下さい。

  • #3

    名無し (木曜日, 09 4月 2020 10:09)

    私は、貴兄の邪馬台国Webをとても楽しく また興味深く読みました。
    越前説納得できます。
    魏志倭人伝に記述されている内容とさらにいくつかの懸案について教えていただきたくメイルいたしました。
    1.ハマグリを食べていた。
    2.銅鏡は見つからないのか?
    3.男に刺青の風習はあったか?
    4.水銀は産出されたのか?
    などです。
    宜しくお願い致します。

  • #2

    八俣遠呂智 (木曜日, 12 3月 2020 21:53)

    【卑弥呼の墓 発掘プロジェクト】
    今日、福井県議会議員のお一人から、当プロジェクトの要望書を読んで頂けたとの連絡がありました。
    ほんの一歩前進しました。

  • #1

    八俣遠呂智 (水曜日, 11 3月 2020 07:01)

    以前の書き込みを誤って消してしまいました。
    すみません。