掲 示 板

コメント: 23
  • #23

    wajin128 (水曜日, 30 9月 2020)

    魏志倭人伝の「現代語訳」です。
     
    http://wajin3.sakura.ne.jp/3/000/newpage

  • #22

    田中 (土曜日, 19 9月 2020 00:50)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事とご推察申しあげます。
     さて、コロナウイルスで世界中が混乱になり、生活のスタイルの変化がおきています。
    既にご存じと思いますが、ビッグニュースです。京都府京丹後市で後期旧石器時代、約3万6千年前と推定される石器152点が上野遺跡で見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが17日発表しました。約3万年前の姶良カルデラ(鹿児島県)の噴火で出来た火山層と、約6万年前の大山(鳥取県)の噴火に伴って出来た軽石層の間から出土。さらに島根県・隠岐諸島産の黒曜石も5点出土しました。

  • #21

    ヒカル (水曜日, 16 9月 2020 03:45)

    ヒカルです、 何度か投稿して最後かもしれない投稿です。
    八岐大蛇さんには大きく細かく多くの歴史を聞かせていただきました。 感謝しています。
    日本の歴史の最も関心事であった邪馬台国の秘密がパソコン上からでありましたが知ることが出来て幸いです。 なかなか色んな考え方の文章を読むにつけ解らなかった古代王権の在所や流れ等々の歴史的事実の不快な所をズバリ解釈入り(科学的数学的裏付け)で答えている事がおそれいります。 私がパソコンで見た中で八岐大蛇氏がトップだと感銘しています、そして好きなのが伊賀出身のキリスト教牧師の久保有政氏が第二位で、三位に竹田恒泰氏となっていて八岐大蛇さんはダントツ一位の衝撃でした。 感銘します。
    最近の"邪馬台国は越前だった"の著書の酔生さんは知らなかったですが、書いてくれていた帯からですが越国から小越国へと移行した中で漢文が入ってきたというのは勝手解釈による酔生氏の酔った勢いが感じられていると思います。それは越国は漢民族ではなく別の言語を使っていたという事は情報化の今だから分かる事で・・・酔生氏のワンマンさが出ているうえに半分の真実性が消えてしまう感じなのです。それゆえ酔生氏をホオッテおくわけにはいかない怒りが私にも感じられます。
    確かに誰かを経由して邪馬壷国は鯖江の音感は認めたい事です。越民が福井へ入国前に立ち寄った出雲には、やはりその当時から指導する力が有った所で血なまぐさい銅剣を埋めて雪国地方に誘導したと出雲の過去帳に記載があると福井の歴史本に書かれてあったのを信じていますが、酔生氏の書き方解き方というのは半信半疑と見られてもショウガナイでしょう。
    【金冠・銀冠】
    魏志倭人伝の金印(親魏倭王)とナシメ氏の銀冠は何処に行ったのか、当然卑弥呼女王の代物で
    捉えるのなら卑弥呼の墓に埋まってしまっているものと捉えたいが、邪馬台国及び倭国の代物である捉え方であるのならば倭国の為 邪馬台国の為に利用されたのではと思われます。
    それらの流れで考えると二本松の王冠(金・銀)は引き延ばしてメッキ状にして張り合わせられた仏壇のように、金沢の金箔文化もこの頃からなのでは・・・・と感じてしまいます。
    漢民族に対抗するだけの越廼文化というのは中国の深さを感じざるおえない。福井の奥越へ行くと中国の越地方の住宅と似たものがたくさん有りコメ文化里芋文化となっています。

    私が好きな継体王の大和征服という捉え方ですが、継体王が天皇となり高志を出られて畿内で活躍後無用の長物となり高志に帰郷する時に揖斐川上流に桜を植えられたとされます。その桜を淡墨桜は蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。  
    継体天皇の始末の良さは格別で、それだけ余裕の生計が有ったのではと想わせる。

    コロナの影響で何事も悪影響が続いています、経済回復もままならない状態ですが先へ先えと進んで王手といきたいものです。 福井へキタときは一度連絡(0776-54-1059)いただければ丸山でも案内します、他も車で案内できます。 私自身九州の八女に短大を出て今は関東で車のドライバーなのですが定年までは此のまま関東で・・・・丸山の神社へ上る階段の自転車を思い出してくれれは、その近くなので丸山っ子でもあったので、今は地方が過疎化しているのは帰郷するたびに考えさせられています。

    では真夜中のメールでした。

  • #20

    ヒカル (土曜日, 08 8月 2020 18:43)

    福井県への陳情書の動画見ました。
    なかなか壁があるようですね・・・・、そのうち古代への回帰といいますか、古代人が生きながらえて今現代に繋がってきた経緯の大切さを感じていく大人が増えてくるとは思います。
    日本古代の食事法>
    古来から食は大切なものであって、食べる事で身を作り、衣服を着て、住まいを造成してきた。 縄文時代何万年から受け継がれている煮炊きの方法として、湯煎という煮物が塩や昆布やハーブ的な香辛料で煮物鍋が日本では中心の方法として縄文土器が発掘されています。
    日本では焼いたりレア肉を食べるというものは縄文時代には少なかった、なぜ鍋物的に食を採っていたのかは、呪術的な動植物を食する行動を罪穢れ的にもクリアーする必要性が有ったということ、ウイルスは目に見えない悪霊であり穢れであって煮炊きをして悪霊退散・疫病退散という手段で縄文時代は生き抜いてきた、生命を繋げてきた。
    今回のコロナ問題は古代の知恵泉が途切れているのではないのか、現代を蝕む根本は、古代を正面から見据えない、試そうとしない、発掘を学びの基本としない事がコロナ蔓延へと加速させているのではないだろうか・・・・・。
    弥生時代の食事法は、コメ・酒・梅、など進化を遂げていて、縄文食事法は土鍋に塩を入れて煮込んだ形だったが弥生時代になって焼き入れて食事する方法が増えてきた。
    煮炊きの大切さ>
    インデアンのジャーキーは油を落として赤肉だけになるまで干して食べた、イスラムでは14日のハウルと言われる日にちを経て肉は食される、日本では水と塩を鍋で煮て食べる、それぞれが何かを警戒し(雑菌かウイルスか悪霊)た食事法を行っていて、茅の輪・蘇・干し、などの形式も悪霊退散・ウイルス退散に重きを記したシステムだったのかもしれない。

    福井平野の食事法>
    この平野ではコメ文化なので米・酒・大豆・は欠かせない、魏志倭人伝にも似たような雰囲気はある。 コメ文化・餅文化・厚揚げ文化が何時からすり込まれ定着したのかは分からない。
    あるのは越という国を示す文字があるだけである。 冬は雪が二メートル~一メートル積もるのが福井県で冬場の動きは・・・ない。 その動きのない冬に知恵を絞って鉄器や玉造り・農作業道具などを生産し、生業とした。
    では日ノ御子と云われる人は冬の季節に何を思考していたのか、福井平野の南側にある文珠山は丸山の南に有って、その南に日野山といわれる古代の名の山があるが、その先の南の果てには狗奴国が有るという。 南に文殊というのはドウいう事か、それは南の地に知恵が隠されていたと勝手ながら推察する。 卑弥呼の存在も冬だけ親元の奈良の奥地へ墓参りだったのだろうか?、 それとも越前を捨てる為の行動があったのか、越前地方の文化は未だ"モノ"であり鉄・玉・船、等々の文化しかなく、神の社を見つめる機会は、卑弥呼の冬の行動だけが頼りだったのかもしれない。 よって三種の神器は何らかの平和を繋げる行いだったのだろう。
    越の文化を捨て九州高千穂に権力を移譲し、そして権力を移譲された日向の国が奈良を強大な大和国を再生し国を安定させた、のだろう。
    話は外れたけれど、福井平野の食事法は親鸞聖人が好きだった厚揚げを食べるのが今現在の食事法です。
    福井>
    むかし徐福が渡来し日本各地に福という名を残し渡来人が生きた証となる名前、福田・福島・福地・福山・・・等々の福の名は徐福一行の足跡と云われていますが、福井も拠点とした経緯は有ったのかもしれない。
    天皇の年齢について>
    故竹内宿祢さんがユーチューブで古代天皇の年齢を語っていたが、彼が語るには、春祭り・秋祭りを二年とする古代の習慣があったという、なので通常は60歳程度が古代の平均的天皇の年齢と語っていた。 なので卑弥呼と天照大神は同じ時代の人となるらしい。 ヒカルもそう思います。

    でわ

  • #19

    審議を追う (水曜日, 08 7月 2020 00:49)

    ヒカルの6度目の投稿です。
    コロナの災害中ですが、みなさん元気け。  
    母親から聞いた丸山情報>
    83才の母親曰く・・・10代で見た丸山山頂は、普通の雑ぎ林の山頂だったとの事。才 それは分かるが、何か・・何か土の盛り方という墓盛の様な形が有った雰囲気はなかったのか? と再度尋ねたが、再度 何も出張も窪みも無い山頂だったと言っていました。
    では、長年の風雨で岩が露出して磐座(いわくら)があるのが普通の山だと思い、岩の露出を聞いたが、返ってくる答えは普通の山頂だったと言っておりました。
    卑弥呼生い立ちから陵墓建設、そして御霊分け>
    卑弥呼に関して生い立ちや御霊分けなどは分かるわけはないが、他者の情報を聞いているうち、見ているうちに何かその当時の歴史に繋げたいという欲求から、エピソード(仮説)す。
     倭国大乱(146年~189年)後に女王となった卑弥呼の父は孝霊天皇(120年~211年)と思われる。孝霊天皇は鳥取県西部で鬼(出雲族)と戦っていた。孝霊天皇の皇女(四女)という立場で生まれているとすれば、直径でもないために豪族へ嫁がされ北陸の地へ豪族の妻として豪族を強くする立場として生きた。 孝霊天皇の鬼退治の若き先方隊として鬼を囲う神社を10以上作り鬼を降参させて国作りに関与、生まれは孝霊天皇の進出地の讃岐で水不足の為に池を作りも若き卑弥呼は経験させられています。(帝王学)
    そして越前へ、どういうことなのか未婚で80才まで邪馬台国の女王として暮らしていく。
    エピソードなので足しても引用してもいいのだけど、鬼退治をした時点で何らかの邪馬台国(豪族国)の王との接触とされるモノ…例えば鉄の矢だとか鉄剣とか米だとかの繋がりとして四女を嫁に出すという流れがあったのではないだろうか。
    そして早期に邪馬台国の王が死に女王として豪族の長として邪馬台国の女王となっていった。

    倭人伝の中の卑弥呼は、人前にはほとんど姿も見せず、そして南の勢力の狗奴国を相当嫌っていた(敵だとは言っていない)。 裏読みすれは天皇家系の繋がりがあるから時折 狗奴国へ御忍びで会議に出席して姿を見せなかったと理解すれば、南の狗奴国は脅威ではなく意見が合わない豪族の長としての立場だったのか。
    そして、
    そして死に至る円墳古墳は、身を豪族へ嫁いだ証として、愛した先死した王の下に円墳を作ったという事になる。  それから
    それから天皇家の御前会議なるものより、皇家の中で活躍の度が高い順番に選択された皇人は皇家名で天照王御神がダントツで選ばれた経緯から・・・・
    経緯から、身に着けていたモノが神を帯びたものであるとし、狗奴国へ闇に紛れて譲り受けた。 邪馬台国はゆっくりと衰退して倭国もゆっくり衰退していく。
    権力闘争に勝った天皇家(+狗奴国)は鬼退治程度の抗争劇を繰り返して現在の日本にしていった。 鬼は生かされて初めてオニイサンとして明るくなれるのかもしれない。

    今回は空想爆発で書きました、悪しからず。

  • #18

    wajin128 (月曜日, 06 7月 2020 04:05)

    【倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑】
    魏志倭人伝冒頭の文章ですが、ここに記載されている「倭人」の意味をご存じですか?。
    多くは「倭人」を古代日本の国名と考えている人がいますが、これは間違いです。
    例えば三国志に記載されている国名は「魏」「呉」「蜀」あるいは「濊 (ワイ)」「韓」といったように、すべて呼び捨てになっています。
    ところが「倭」だけは「倭人」と記載されています。
    漢文の基本文体は「主語」の後に「述語」を記載する約束になっています。
    つまり「倭人」は主語で、主語の後ろに「倭人」の意味を説明しています。
    古代中国では、当時の日本人を「倭」と呼んでいますが、全日本人の中の一部の人々を「倭人」としています。
    倭人は帯方郡 (現在のソウル付近) から見て東南の方角、大海の向こう (対馬海峡を渡った) 九州島の山間部に、国や村を築いている人々をいう、と定義しています。
    「為す」とは「築く」という意味です。

  • #17

    ヒカル (木曜日, 18 6月 2020 19:53)

    開けましてヒカルです。
    五度目の投稿となります。
    邪馬台国ワイド畿内説に朗報>
    『2020年の後半になって全国邪馬台国論争に大決着大宴会を・・・伊万里市高級ホテルより!!』
    なに、なんの集まり? 邪馬台国の新しい候補地・・・なのかなあ。
    誰がやるのかそんな宴会、邪馬台国論争に火に油を注ぐ様なことを考えの違う人々が集って集会をひらくなんて。  魏志倭人伝(遠い伝)が発見されて長い間日本は闇に霧にスモークに入り行き場を無くし、嘘八百が正当化されて無茶なノボリを並べて「いらっしゃいっしゃい ようこそcocoえ」なんて、きのう見てきたような嘘を言い放ち的な文化に違和感なく信じられてきた。
    そんな古代史の起点となっている魏志倭人伝のポイント(日本上陸地点)に全国の古代史文化人を一堂に集めて大宴会で『乾杯ーーい!!』
    この地は伊万里という所で、古代は倭の松浦水軍の港町とも言われていて、倭を守る国防の地という事で、卑弥呼(邪馬台国)はどうしたら隣国の侵略に防御が出来るのだろうかと・・女性の王として梅を頬張りながら道教思想から導き出していた。
    現在地は北松浦半島でありますから東松浦半島を見て行けば伊都国へ通じます。
    伊都国から東南行けばヌ国、ヌ国から東へ行けばフヤ国、それからフヤ国から南に斗馬国、そして邪馬台国と行けると記されている、最初の起点の90度ずれ続ける現象は戦国の世であるならば、方向音痴を修正できないまま記されてしまった事による。と。

    北松浦半島の大宴会会場では、東松浦半島との位置関係が、ゾワゾワ~~と騒ぎ出す始末・・・。 そんな中 安本ビテン氏の九州説からの挨拶に始まり各地域を代表して挨拶をし、空いた空間の中に「ここは北松浦ではない! 西松浦だ!!」と罵倒する人が現れ、「ここは昔から北松浦だ、東松浦が北松浦に変更するのが筋だ!!」とか、現代の若者は「松浦はもういい、全部アリタでいんじゃね!!!」と古代史を語る場に不似合いでもある。

    ・・・・・・そうだったのか・・・・・・・。
    そして大宴会は終わった・・・・。
    安本氏は言った「道を教えるときは、90度程度胡麻化すのが最良なのだろう。」

    https://www.youtube.com/watch?v=8dkxEWstqms

    という創作を書いてみました。
    次回は倭国を彩った人々を書きたいです。
    では。

  • #16

    ヒカル (火曜日, 16 6月 2020 21:07)

    ヒカルです、四度目の投稿です。
    母親から聞いた丸山情報>
    現在83歳の母親(長女)がいます、丸山貯水池を造成したときの年齢(64歳差し引き)19から20歳頃の時までは丸山の造成はされていなかったので、古から続く山の形状だったはずです。
    最近、そもそもの山の形状を思い出させて・・・絵にするように言ってあります。
    それと、石棺が神明神社の鳥居の脇にの安置してあった件ですが、母親に言わせれば手洗いの石だと言っていますが、手洗いにしては深めの石棺の様だったと・・私は想いつづけています。 どう処分されたのかは母親も私も判りません。
    町内会の神社清掃か神明神社の処分なのか、町内の御年寄りも数少なくなってきている現状に2~3人の80歳代となってきていて過去を知るのは居ないのが現状ですね。
    丸山と平岡山>
    丸山は50.5m、平岡山は25m、二つの山は福井市に向かうように並んでいて、平岡山は全部崩されて県立病院に代わってしまいました。 弁慶の落とした下駄の土と語られた歴史、そして羽柴秀吉・柴田勝家が上杉謙信勢を丸岡城や丸山から見ていた動き、さらに新田義貞軍らか城代わりに利用した一つの山でもありました。 町内にある願応寺は新田軍の一人武人が戦後始めたらしい。 安土・桃山時代には鯖江と福井市と丸山とに城郭候補を考えたとも聞きます。江戸時代には結城秀康(福井城)子安観音が丸山北側に有り結城家が現在も存在し、山の東側には蛇が多く私も小さい頃何度も見ました。 母親が言うには二次大戦の空襲の時に逃げる為の防空壕を作ってあったらしく、その蛇側の東側に造った様だ。
    あっ、そうだ丸山と平岡山の関係を語りたかったのだ・・・
    私の私論ですが何千年ではなく、何万年、何億年前に隕石が平岡山~丸山の延長した先の場所に落ちてその勢いで地上の山を崩して落ちてきた、そしてポツン ポツンと小山が出来たと思うのが一番の考えだと思います。 卑弥呼の時代に山を全部盛ったとかいう話は、所々にある岩を見れば誰も持ち上げたという理屈はできないとおもわれます。 まだまだ山を代用する時代だったのではとかんがえてしまいます。

    近所に居てもこの程度の見解しかできないのも、丸山の不思議なところでもあります。
    もっともっと手を加えて新たな丸山として整備される事を願って、四度目の投稿をさせていただきました。

    では。
    それと、次回はと古事記を書いた太安万侶と稗田阿礼と倭国の邪馬台国の地理的関係性・・・について投稿します。(次回のポイントは大野市の隣村に稗田村アリ、稗田村の隣に私の姉の亭主の河内村アリ、古事記を書けるのは元倭人の筋か・・・・。)

  • #15

    田中 (火曜日, 16 6月 2020 19:50)

    世界四代文明と言われますが、実は五大文明だったのでは?黄河文明は畑作農業でしたが、遠呂智先生が述べられる長江文明は稲作文明です。この長江文明が五大文明のひとつであったと思われます。古蜀国のイ族が栄えていた。ところが、漢武帝に攻められ、三国志の諸葛亮に攻められ、フビライに攻められ、「謎の民」とされている。古蜀国の末裔ではないかと言われているイ族です。顔も日本人に世似ていています。

  • #14

    ヒカル (水曜日, 10 6月 2020 01:01)

    ヒカル(男性)です。
    掲示板に三度目ですが書かせてもらいます。
    丸山情報> わたしが幼い頃から漬しんだ丸山と丸山周辺について早く知ってもらいたい事などわたし流に文章にしていきます。  この山は貯水池内に入れば北向きに貯水棟の長方形の建造物があります、高さは二階建て程度、その北向きに面して左右の階段が(宝塚劇場的な)貯水棟の屋上へ行けます。 そしてその北、50.5メートル下へ降りる階段が勝山街道へ降りていきます。 民間で現在の貯水池を説明できるのは近所の子供ぐらいでしょう・・・・。
    そして問題は、その貯水棟と北へ降りる階段の間にある"大きな岩"がある事です。 こんな岩は運べないのは当然ですし、私が小学生高学年の頃に山林伐採として(山のサイドは村の個々のモノ)サイドを残して刈り込んで(頂上から下まで)しまい西側(長本町)から見ると"禿げおやじ又はサムライ"と揶揄されていました。 その刈り込んだ浅くなった所を散策して、岩(割れた大きな岩)が有ったりしました。 そして北西にある願応寺の山側には脆く筋張った岩の崖と成っていて、丸山は半分は岩の転がっている含んでいる山だと分かります。
    朗報として、本来その様な山を墓地として整備するには苦労の少ない"国見山"的な墓地として利用するには鯖江・松岡などの山地利用と似ています。
    1962年生まれの私より5年前に完成している貯水棟ですから、私が12歳の年齢まで神社内に笏ダニ石棺が有ったというので16~17年有ったという事です。 貯水棟建設には山を平らにする必要があったのでしょう、大きな墓(棺は)壊さずに縁起物かバチに当たらない様として神社境内に置いたまま造成を急ぎし、残りの土砂を南東方面(本来ナダラカナ傾斜)へ流していった経緯がある様だ、東南は土ばかりだった・・・。 ですから金印・銀印鑑、紫の玉手箱等々は今現在ナダラカナ傾斜側に絡んで埋まっているのかもしれません・・・・・・かも  ・・・。
    もし、県を国を財閥を動かせないで終うのなら、最後の手段として、最高級の金属探知機で50センチずつ ずつ、丹念に3日がかりで探知するしかありませんね(笑)。
    最後に>
    最後に、これは偽物(金印)と笑ってすまされないように個人でやるものでは無いようです。大勢の承認で証明される大きな問題が絡んでいます。

    では。

  • #13

    田中 (火曜日, 09 6月 2020 17:25)

    今日は、史跡公園として整備されている今城塚古墳継体陵歴史館に行きました。円筒埴輪には大型船が描かれ、上部分に二本のマストと船尾に二個の錨綱を下した様子がヘラ描きされていました。円筒埴輪が沢山あるので、まるで船団のような感じがしました。
     寛政10年に先達の本居宣長さんが太田茶臼山古墳を継体陵とした為に(時代が合わない)、宮内庁は現在も太田茶臼山古墳を継体陵と認定した状態です。本当の継体陵は今城塚が定説です。阿武山古墳の麓まで行きましたがまで、辿り着くにはけもの道を通らないとダメなようで、軽装だったので、阿武山の住宅地から三島の町並みを一望して大織冠の目線を感じました。

  • #12

    発掘しよう (日曜日, 07 6月 2020 09:24)

    福井生まれ東京在住ですが、興味があります。これから、新幹線�ができ、観光の目玉になりそうです。浅水町出身ですが、普通に、丘から土器がでます。

  • #11

    墓堀ヒカル (月曜日, 25 5月 2020 06:14)

    墓堀ヒカル(歴史家)は丸山近辺に住むものです。
    投稿してもアップされていないので気になっています。 
    一年ほど前からこのページを愛視聴してきましたので完全に読み切っていると思っています・・。
    八岐大蛇様の計画は賛成、大賛成です!! 丸山二丁目に子供のころから住んでいる者として、この地域の歴史の曖昧(あいまい)さがあいまい随分気になっていましたが58歳になってこのページを読み更ける事で藻が晴れた気がしています。
    小さい頃に山の神社(神明神社由来)の境内の脇に有った笏谷石で作ったと思われる長方形の墓が有ったのを覚えています、墓は雨さらしになっていてそれから何年かは置いてありました。
    たぶん貯水工事で出てきた石棺を処分しようと神社の所へ置いたのではないだろうか・・。
    小さい頃は貯水池周辺でカクレンボしたり爆竹で騒いだり、神社の屋根裏へ忍び込んだり、と
    其の割には神明神社(丸山)の春と秋の小さな御祭の行事に禊払い的な正座をして神域での礼儀などなどをすることもありました。
    このページで感じたのは丸山神明神社建立以前の姿があったという実感、そして寺道場さんが纏(的)めた丸山町の歴史本を何度も読み返すと、山を通り抜ける道が有りそこで肉や物売りが住んでいたという文面にたどりつき、丸山周辺は泥沼が多く一つの小埜五郎島という環境で沼地泥濘を遠く四ツ井地区から藤島へ抜け通る小高い細道があったこと、その近くに私の田んぼが3反有りますが、その一角に塚田という田んぼが有って、幼いころ近所の教頭が三輪耕運機
    に乗って手に弥生土器を見せびらかしていたのを覚えています。
    ヤマタノオロチ様にとっては欲しい情報ではあると思います。
    私はメールアドレスが無いためにネットサーフィンして見ていたのです、なので近隣情報を
    知りたければ何時でも私が出せる情報は出したいとは思います。

    もし丸山古墳が・・・・であるとするならば、卑弥呼(倭国)から崇神天皇(大和国)までの流れを知りたいものです、解明したいものです。
    最後に、邪馬台国の南に狗ぬ国が有ったと聞きますが、クヌ国・・・宮内国、となると、天皇家に圧し潰された邪馬台国となりはしないか、倭国は続いていたでしょうが天皇家の巨大化が
    倭国消滅に・・・・・神話化・・・なっていった経緯が・・・・。

  • #10

    田中 栄一 (水曜日, 13 5月 2020 19:26)

    凄いです�かなりの前進だと思います。日本の史学会では、すんなりと受け入れは難しいと思います。あるいは無視。最初はみんなそうです。コペルニクス・ガレリオガリレイも最初はそうです。

  • #9

    八俣遠呂智 (水曜日, 13 5月 2020 12:54)

    【卑弥呼の墓 発掘プロジェクト】
    福井市議会議長の堀川秀樹様から、地元メディアに打診して下さる旨の連絡がありました。
    うれしい!

  • #8

    八俣遠呂智 (木曜日, 07 5月 2020 17:55)

    【卑弥呼の墓 発掘プロジェクト】
     福井県議会および福井市議会への、発掘許可を要望する陳情書を提出しました。
    今回で二回目です。
     内容は、「発掘計画」のページにワードファイルをダウンロードできるようになっています。
    お名前などをご記入の上、議会への提出をお願いします。

    前回に引き続き、皆さまのご協力をお願い致します。

  • #7

    田中 (金曜日, 01 5月 2020 23:30)

    八俣遠呂智先生
    「野だたら」を読ませていただいて思い出したことがあります。丹後半島のあしぎぬ温泉(第三セクターの浴場)に行く途中で小さな丘があり丸い穴が横方向に掘られて空いていました。その前は畑で二世紀の人骨が大量に見つかり、京都大学史学の方々が畑を掘り起こし調査をした後、
    畑にビニールを敷き、その上に土を戻して通常通り畑を使用している。と地元の人に直接聞いた事を思い出しました。

  • #6

    びー (水曜日, 29 4月 2020 02:59)

    古事記上巻に山陰や北陸は出て来ませんよね。どうして古事記の舞台だといえますか?

  • #5

    八俣遠呂智 (木曜日, 09 4月 2020 15:39)

    福井県の方からご指摘がありました。「丹生郡」は、現在も存在しているそうです。
    大変失礼しました。

  • #4

    八俣遠呂智 (木曜日, 09 4月 2020 11:11)

    名無し様

    当サイトをご覧頂きまして、ありがとうございます。
    最初に私の邪馬台国に対するスタンスですが、弥生時代の農業の視点を最重要視しています。
    文献史学では、だれでも自説に都合の良いように解釈してしまいますので、あまり拘りはありません。もちろん私も魏志倭人伝を解釈すると、我田引水になってしまいますので、予めご了承下さい。

    ◎イレズミは、南方系民族を祖先に持つ縄文人の風俗習慣です。縄文土器(土偶)に刺青が描かれています。縄文人は海洋系民族ですので、海産物を追って朝鮮半島や沿海州を含む環日本海沿岸地域に住んでいました。後の時代に、稲作文化と共に新たにやって来た長江系中国人(弥生人)ですが、彼らは縄文人の下の労働者だったのでしょう。
     YouTube動画:「水田の伝播は 縄文人が主役」
       https://youtu.be/sG6kOJ93ms0
    などで自説を解説しています。
     イレズミの風習は、弥生時代になっても組織の頂点の人々(縄文人)に残っていたと思います。日本列島南部(九州)だけの風俗習慣ではありません。

    ◎水銀朱は日本全国各地に鉱脈があります。「丹生」という地名が残る土地には必ず鉱脈があります。越前にも15年前までは「丹生郡」という地名が残っていて、水銀朱の鉱脈がありました。徳島は辰砂が豊富だと主張する方もおられますが、これは特殊な事例ではありません。

    ◎魏から下賜された銅鏡は、どこへ行ったのでしょうか? 謎ですね。
    近畿地方で豊富に出土している「三角縁神獣鏡」は日本国内産である事が立証されています。
    越前には、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡の出土はあります。

     以上、簡潔ですが私の解釈です。なお、YouTube動画で具体的な説明もしていますので、ご参照下さい。

  • #3

    名無し (木曜日, 09 4月 2020 10:09)

    私は、貴兄の邪馬台国Webをとても楽しく また興味深く読みました。
    越前説納得できます。
    魏志倭人伝に記述されている内容とさらにいくつかの懸案について教えていただきたくメイルいたしました。
    1.ハマグリを食べていた。
    2.銅鏡は見つからないのか?
    3.男に刺青の風習はあったか?
    4.水銀は産出されたのか?
    などです。
    宜しくお願い致します。

  • #2

    八俣遠呂智 (木曜日, 12 3月 2020 21:53)

    【卑弥呼の墓 発掘プロジェクト】
    今日、福井県議会議員のお一人から、当プロジェクトの要望書を読んで頂けたとの連絡がありました。
    ほんの一歩前進しました。

  • #1

    八俣遠呂智 (水曜日, 11 3月 2020 07:01)

    以前の書き込みを誤って消してしまいました。
    すみません。