掲 示 板

コメント: 60
  • #60

    田中 (木曜日, 14 10月 2021 17:09)

    八俣遠呂智先生
     コロナによる影響で社会が一変しましたが、お元気でご活躍の事と推察致します。
     さて、大阪府高槻市は13日、継体天皇の墓(6世紀前半)とされる今城塚古墳で太鼓形埴輪が,
    3基分のたたく面や胴の一部が復元できた。と発表されました。
     太鼓形埴輪は宮崎県百足塚古墳(6世紀中頃)での出土がこれまで唯一の例でした。群馬県伊勢崎氏では、今城塚と同時期にあたる6世紀前半の太鼓をたたく人物埴輪が見つかっています。
     今回、出土したのは古墳を囲む内濠と外濠の間にある「埴輪祭祀場」と呼ばれる区画で、これまでに230基以上の埴輪郡が見つかっています。太鼓形埴輪が出土した周辺には、儀式をつかさどる巫女や、両足のかかとをつけてあぐらのように座る楽器演奏時の姿勢(楽坐)をした人物の埴輪もおかれていました。埴輪群は、大王の遺体を祀った「殯の宮」の儀式を再現したものと思われます。太鼓3基の内2基は、全体の大きさは不明ですが、面の直径が23.4cm、21.2cmと判明しました。面に張る革を留める「鋲」とみられる直径~2cm突起があり、木の
    胴に牛や馬の革を張った太鼓がモデルと見られています。
     今城塚古墳は墳丘長181mの前方後円墳で出土品の年代などから継体天皇の墓であることが学界で確実視されていますが、陵墓に宮内庁が指定していないので調査が今も続けられています。大王の政治や日常生活に音楽が根付いていたことを伺わせます。
     コロナに気をつけてお身体にきをつけて益々の研究を充実させて下さい。
                       以上報告です。

  • #59

    岳騨ヒカル (木曜日, 14 10月 2021 03:46)

    どうもー、ヒカルです。
    早速ですが、
    文献史学からの考察でもありますが、ミステリーチャンネルの富士吉田さんのYouTubeから
    2日前に飛騨王朝を纏めているようなのであっぷしときます。
    https://www.youtube.com/watch?v=ShsyzPPmWp4&t=52s

    高天原・邪馬台国・神様・・・等々の呼び名は、高原川・山(八馬、耶麻、山大、山台など)・上方様、の伝搬の後の言葉となった感じがしております。 八ッ駕岳は八つの高山を表わしているもので、富山平野(神通川)からは北アルプスの八つの峰が見えています。
    20日で投馬国~ 10日で投馬国~邪馬台国へ水行する、20日陸行の行程も可能。
    邪馬台国の範疇は北陸・美濃山間部も含まれていた様で、米どころ(黄泉の国)の地域には山間部で採れた山芋・自然薯・椎茸・笠・草履・干肉・木の実・etc、が米と取引されていて、生計を成していた様で、海産物・米・豆・干魚というのは黄泉の国の食生産物だったのでしょう。
    邪馬台国の範疇以外の諏訪や南美濃などには別文化が・・・美濃物部や諏訪縄文などが色濃く存在していて、ト祈祷などの動物骨の亀裂による占いがアルプス構造線には盛んであったと考古学では語られています。 卑弥呼のト占いなどは縄文スタイルの最西端なのかもしれません。 
    身の皮に蚊やダニや昆虫が付かないように工夫されてきた経緯から、何かを皮膚に着けていれば蚊やダニは来ないものであるという知恵が結果的に赤色顔料となっていった様で、最初はドクダミの葉のエキスを液体にして塗り込んでいた程度だったが、フラバンジェノールの様なフランスの松の幹細胞から塗り込んだもので透明感を得たのであって、最初は汚い色の樹皮が皮膚に塗りこまれていたようだ。 渋く漢方薬は皮膚にも練りこむじだいだった。
    口内は外皮に近い内皮と言われていて、口内殺菌や食事後の渋茶は名残でしょう、けれど最近は水やジュースで食後が終わっている現状に、ウイルス・細菌の体内侵入の危険を誘発させている切っ掛けとなっているようだがね。
    <飛騨王朝の分身たちの仮の住まい>
    最近エクアドルの金版が掘り起こされたようで、そこに書いてあった文字は解読できない宇宙文字として理解不能としていたが、ある日本人が出雲の神代文字で解読できるとして簡単に解読している。 弥生縄文時代と古くなるほどに歴史は読めなくなりますが、地の果てまでも行動する人々は我々定住民との根本的に違いが理解しにくい。 古事記・日本書紀でも簡単に場面が1000キロ先へ飛んでいたりする事も、だが、根本的に教育の違いによる行動の違いへと発展していくのでしょう、が、地球を一周しないと大人にはなれないという教科書が有れば、それは、その様に行動するだろうが・・・・・・・。
    まあ、天孫族というのはソンな教科書が有ったのだろうと、しか、うま、理論的に理解される。
    福井平野の稲作地も河川の氾濫(降雨と雪解け水)と海水浸入による地域というのは弥生末期には既に満ちていたと思われます。 現に福井市周辺の町名ですが、舟寄地区・春江地区、岡保地区・芦原など海水と真水のあるような名が目立つのです。
    もともと天孫族というのは商売を通して社会支配を考える集まりで、農漁業生産からの社会支配とは行動範囲が全く違いを見せている。国家づくりも天に通じるスタイルと地に通じるスタイルとでは腰の位置が違いすぎる。
    わたしは地に通じるスタイルが嘘の無い純粋であると思うのだけれどね。

    今日もこの辺で !
    では。

     

  • #58

    竹南方 (火曜日, 21 9月 2021 23:23)

    こんばんわ、ヒカルです。
    最近はふるしょうさんのYouTubeにはまっていて見ごたえありますね。対面形式なので対話しながら的な感覚でストップさせながら再生・停止、とじっくりと視聴しております。
    古事記・日本書紀・三国志、等々の時代考証が難しくて、ふるしょうさんの様にパソコンに資料が満載させているのは新しい発見があるのかもしれませんね。

    <地図をなぞって日本古代史を考える>  この人、ふるしょうさんのYouTubeは見ごたえがあって面白いので報告します。 特に狗奴国は神武が天皇に成る前の熊野の地で戦闘準備期間が、魏志倭人伝の倭人の章・・・の邪馬台国の南に狗奴国あり官はクコチヒコとあるが、その神武の集団がまさに狗奴国だったと。 確かに九州勢力や北九州や広島・岡山に滞在し軍の拡大が有ったのだろうと伺えますね。 越前と滋賀(伊勢遺跡)、奈良纏向遺跡を考えれば・・・各地の壷などが出てきますが九州地方の壷は出てこないらしく、卑弥呼(邪馬台国)が魏への忠誠を選択した事と、神武が東征して熊野まで来て居た事はツジツマが合う。
    ただし安本ビテン氏の天皇年数二倍説(神武天皇の即位年を紀元150年)を受け入れたという前提が必要だが・・・・。
    ふるしょうさんが語っていたのかは分からなくなったが、紀元前660年に神武即位とした理由は釈迦や孔子などを越えたかったという単純な動機があったものとも言われている。

    ・・・・・
    <日本の泥水地の歴史>
    日本の歴史というのは大きな大きな流れからならば、大きな意味で解るのですが、集約して一期間を知るのには発掘が欠かせないと思われます。高台の考古学ならば発掘に時間は必要ないですが、平野部というのは土砂の流入が大きなネックであって、丸山地区の田んぼを一㍍掘り起こすと緑色した粘土層がビッシリと埋まっております。この粘土層は堤防の無い河川時代の
    泥水の結果というのは明らかなのです。 ですから安易な低地の集落はというのは数多くの洪水による泥水の積み重ねが過去の遺物を隠しているのですよ。
    いずれにしても、私の田んぼの塚田の遺物は掘り起こしてみたい気ではいますが、仕事に追われてチャンスが廻ってこないのが現実です。丸山の水源地の周囲の盛土などを金属探知機で回ってみようかと、も、おもっていますが。
    最近、誰かのYouTubeだったのですが、中国史の魏(曹操) ~ 普(司馬懿)に移譲されて国名が変わった場合には一旦金印を返還するという事なので、親魏倭王の金印は日本国内には存在しないとも言われているらしい。が。


    では。


  • #57

    竹南方 (火曜日, 14 9月 2021 22:57)

    9月も中旬ですね、どうもヒカルです。
    コロナの影響はまだまだですが、みなさん元気で過ごしているようですね。
    みなさん と言っても、会ったことも無いうえに一般的に読書家でもあるという事だけが繋がっているようなものですが、言葉があれは案外ツナガリも確定している様なものです。・・
    さて邪馬台国ファンにとっての関心事は、やはり女王として一時的にも君臨した卑弥呼の事だろうと思います。 いろんな角度から様々な文献から多くの主張から邪馬台国の卑弥呼を考えるに、なぞ解明したいにも関わらず、出てくる答えは・・・宇宙の謎と、答えは堂々巡りの壊れた AI とでもいうのか、やみ雲の世界と言ってもイイだろう。
    やみ雲というのは気質にはある。 金の使い道がヤミクモニなるとか、やみくもに運転していたら民家に辿り着いたとか、二人の仲が闇雲になって見えなくなるとか、だ。
    せめて彼女(女王卑弥呼)の片鱗でも明確な名の書かれた勉強机や御皿や衣装などが出て来てくれれば、文献上の指定地よりも格段に推定度がアップします。 どうかひとッ、考古学的な調査を優先して発掘一番という旗印のもとスタートしてもらいたいものです。

    <丸山古墳>
    この地域は福井平野の真ん中にある事から、アクセスしやすいという事なので福井古代歴史民衆博物館として水源地を利用するべく開発し、新しく保ち、まあるく、長もち本として新築維持、そして世界に開けた優しい文化会館として卑弥呼真衣(舞い)を毎年執り行い、県知事・総理大臣・天皇・チンピラ・サラリーマンを集め、天岩戸開ける儀式を電電太鼓を掻き鳴らす360度のパノラマから巨大な宇宙船からみのもんた、身が持たないのでここまでにしておきます。
    身近な我々にとっては蝉の鳴き声、鳥のさえずり、木々の息吹という自然が身近にあるのは大変な喜びでもあります。 50年前に丸山が材木を売った地主がいて禿山にナッタころの事を思い浮かべると、時代は複雑になったなと思います。 しかし単純な所に解決策というのが転がっているのかもしれません、例えば
    例えば、木の中身は甘いものです、が木の皮膚は苦く成っていて虫やウイルスを入れないようにしています。 栗の実は美味しいですが栗の皮膚は苦くてトゲトゲで鳥でも食べれません。
    そうです渋皮や赤色顔料というのは日本脳炎やウイルスの侵入を妨げてくれる天然の素材だったのです。より虫刺されやダニによる皮膚炎、そしてウイルスによる人体えの攻撃も渋皮・朱液は防いでくれています。個人的には墨液もダニやウイルスには効果が大きいと思いますが・・・。

    <踊るアホウ、に、見るアホウ、同じ阿保なら踊らなければ損損>
    四国の徳島に伝わる現在最高の伝説となっている阿波踊りですが、阿保踊りではないので勘違いで理解されていると思います。 四国の住人に成るくらいのハイペースで四国ユーチューブを見聞してきましたけれど、邪馬台国四国説だけは何かしらのオブラートに包み入れて吐き出した食べ物のように原型が何なのか見えてきません、四国も一時代の期間に文化が育ったようなものはあるのでしょうが、イザナギから神武東征までの宇津々は感じられるにしても、元々倭国の争そいごととは無縁の相争わない衆族の感じかするのは私だけでしょうか・・・。
    考えてみてください、四国の太平洋側に玄関を持たなくても、太平洋の内浦である日本海側こそが自然を巧みに取り入れた知恵の宝庫となりはしないか、四国は二名島と言われており伊の国と予の国とあったので、淡路・二名島と国の始まりを歌っているようですね。
    しかしですよ・・・・
    しかし、魏志倭人伝に七万余国とあるように7×5=35万人を擁する人口を抱えていた現実から、徳島吉野川にはその責任は果せていなかったという四国説ストップ!! という結果しか生まれない事となる。 そして酒を飲むとある、米の酒というのはある程度米作りが進化しないと生まれてこないものであって、雪解け水か巨大墳墓にある水瓶が夏場のコメの成長を促進させるもので夏枯れする吉野川であっては満更良いコメも育たないのである。 コメは元来淡水平野でしか作れないものであるという事。
    我々北陸人は南の阿波踊りに踊らされている現状が有る、北陸の雄の星稜×和歌山の簑島との一戦は良い例だ。 踊らされてしまった星稜はファーストミットにも玉が入らなくなって堅くなった身では踊りは踊れない、終いには逆転されたのだ。
    転機を待って身を保つという基本に則れば何時かチャンスは音ずれるのである。
    耳を澄ませ・・音が変わった! チャンス到来ということとなる。

    今回は自分自身への説教でもあり、空海と最澄との戦いを具現化するこだわりでもあり、未来永光の物語の終着点でもあり、終着点は鑑真でもあるのだから・・・

    それでは。

  • #56

    竹南方 (金曜日, 09 7月 2021 00:20)

    どうも、ヒカルです。https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zpyvT5f91fs&feature=emb_logo
    7月となって線状降水帯が明日の天気を怖がらせています。 山陰あたりがヤバいみたいで、コロナと同じ様に大雨が過ぎていくのを待つ、だけでしょうね。
    最近ハマっているのは、古事記徳島説を深読みしたせいか、徳島にもイザナギ~から~神武東征までの期間の天孫族の期間が有ったものと理解するようになりました。 三村氏のYouTubeを何度見ただろうか・・・、魏志倭人伝からの卑弥呼は少し無理している気がしますので、そこは省かせてもらいたいものですが、何せ、阿波踊り(踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿保なら踊らにゃ・・・・)を材料に天孫族の存在を解いているのは素晴らしい勢いが感じられました。
    だだ、以前に私の説(書所から)でのイザナミの存在は越前に有ったように思えるのですがね。
    <天皇家の移動系譜>
    現在の天皇の活動場は東京であり、その前は京都で、奈良周辺を移動し、その前は空白の150年、その100年間は徳島美馬中心に国生み期間となっていて、その前、卑弥呼の頃は越前というか徳島にはイザナギが徳島の同じ天孫族に単身降りて行った・・・、イザナギとイザナミは本来の文化の違いによる別れをしてしまった事の結果、イザナギの国生みを徳島を中心に拡大していくこととなる。淡路島・四国の二名島・九州島・などなどを生みだしていった。
    では越前の資料として白山中宮神社にイザナギとイザナミの足跡がオシテ文字資料に有るらしく、ここでヒルコや淡島を生み悩んでいた事でもあるから、飛騨という天孫族の集団が何らかの天皇家の成り立ちを感じる・・・。
    徳島美馬には5万戸の住まいが有ったとは考えにくい、今現在は徳島と福井は人口も似ていて、過疎化も似ている様だが。
    <イザナミから卑弥呼へ改名か>
    イザナミとイザナギの離婚は案外早かったような気がします。 同じ天孫族の身の上だから似ている様だが笑いの国と寡黙な国との根本的な身に溜まったアカは簡単には結び付かない、というか寛容な国と雪国との隔たりは、結果、離婚を招き、天孫族ではありながら二人の道は邪馬台国と狗奴国という違いに至ったのでは? と思うのです。

    <オリンピック>
    九州には(宮崎)、五色人神社があるらしく、五輪の書の宮本氏も意識したのかもしれませんが、当時でも肌の色が異なる存在は強かったのかも知れません。

    まだまだコロナの空気は減りませんから、くれぐれも焦らず騒がず、清潔第一にした生活を心がけましょう。 神社の手水鉢は10代崇神天皇が発明したらしく、殺生による罪穢れなのか手を洗うという行動はコロナを衰退させるものなのかも知れません。

    では

  • #55

    竹南方(ユーチューブ) (日曜日, 13 6月 2021 22:08)

    どうも、ヒカルです。
    6月中程となりオリンピックも近く明るい矢柱が天から差してきている気がします。 
    お元気ですね、絶賛ユーチューブ見ています。 一つ一つ塗りつぶしている研究に頭が下がる一方ですね。 邪馬台国と女王国は同じではないとする考え方に、やっと理解できた想いです。
    邪馬台国から21カ国めに奴国を女王国の尽きる所としている事が筋立てて見えるようです。
    途中に21カ国の途中の邪馬国という邪馬台国では無い近い国が有りますが・・・これは出雲あたりなのでしょうか ? 、邪馬台国の支店のような邪馬国・・・・。
    <四国ソロモン秘宝伝説>
    剣山に秘宝在りという文章から 一度は見たりチェックする事となるのですが、日本には、倭国には多くの部族や地域の国が有った様だと思います。 まあ、それ以前の倭国には100くらいの国が有った様だから、女王国が30カ国程度という事なので絶対的に倭国を支配したというわけではないようですね。  其の中で四国(徳島)に集った人々はいったい狗奴国とどういう関係をモッていったのだろうかと・・・・。
    最近ハマっていてなかなか抜け出せないのですけれど、ただ、ただ五万余戸数を理解すれば邪馬台国では無いと答えは出るのです。
    <卑奴母(ひなもり)>
    卑奴母(ひなもり)という官がいます、卑奴母を漢文から要約すると・・卑弥呼は奴国の母となるようですね。 奴国から女王とするべく米作地帯の越前に根を下ろして、邪馬台国をマトメて安定させて、そして女王国の範囲を約30カ国まで広めたのだろうと思います。
    倭国の統一の寸前までこの体制を維持しつつ、他の倭人地域との連盟を模索する。
    <京都大学出身安本美典氏>
    安本さんの仁徳天皇以前の天皇年齢二分の一説。 この説はオロチ先生の農業米生産穀高比例説と似ていて、納得させられていて真実だと考えさせられました。
    安本氏の講習演説を見ていまして、千年が五百年しか進んでいなかった事に、越廼国の季節感というのが越年読み(春と秋を二年とした)を生んだのか、中国(シナ)の越国からの渡来民による年数えが仁徳天皇あたりまで数えられていたのか・・・、西暦が無い為にそのように数えてしまっていたのか、舎人親王・稗田のアレ・太安万侶、等は、いえいえオオキミ内の歳読みは二倍にする習慣が、何故か数えられていた、とする安本氏の第一の邪馬台国探索の大きな大きな証明として安本氏を美典として評価されているみたいです。
    しかし、それに留まっていては進歩が無く、怪しい古代研究家の大頭ダイトウを許してしまう事となっていく暗黒の御手前理論が蔓延ってしまう。ハビコッタ御手前理論は、暴走を重ね、神尾冒涜するのか、それとも笑ってすますのか、ナンデ そんな小さな事象まで・・・、わかるのじゃーと言いたい気持ちがぁ、神尾です。(笑)

    <飛騨王朝伝説>
    縄文時代はアマリ文化流入としては無かったように思います、やはり米作により人口が増えだす頃からが文化が築かれていった事は誰しも感じているのでしょう。 その縄文文化の中に逸早く卵巣に入る精子の様に辿り着いた地、それが飛騨山地だった様に思える。 対馬海流に乗り丹後・越前を経て宝来山に着き、そこから大きなアルプス山脈の麓まで辿り着いた。 二艘三艘の大きな船で着いたという伝説が有るようでトミー一族とか・・・、そして彼らは神通川を南下し飛騨の地で天然温泉に足を奪われる、また縄文人の生活スタイルを取り入れ(郷に従う)て一神教の神を表わす前の段階として、巨石文化を残すこととなる。 縄文海進が終わりかけた頃に飛騨を降りる事となる、天然温泉は有れど食料事情が良くなく、寒冷では種族(天孫族)の身体までも子孫までも・・・・降りる事となる。山本・山下を先頭に暖の取れる食料の確保できる場へとチームを作り種族の証明書となる石材を胸に翳し、子孫存続に命をかける。のである。
    <饒速日の命(ニギハヤヒ)>
    この男は直接に天孫から降りてきた様で、関西に住み関西で偽名多く、偽名を創る事で天孫族の御方様の正統性を伝播していく。


    今日もこの辺で。




  • #54

    ヒカル (日曜日, 02 5月 2021 20:57)

    どうもヒカルです。
    五月の連休です。 いかがでしょうか、相変わらずペースがある
    八俣遠呂智先生ではありますね。
    われわれ凡夫からしたら頭があがらないですね。
    という事で、考古学や科学的または実証的根拠からの知恵に乏しい者にとっては、魏志倭人伝や古事記・日本書紀などの文献からとなりますが・・・今回も、感じるものがあったので・。

    <黄泉の国という表現について>
    黄泉の国と表現された意味合いについて死の国と和訳されていますが、いやいや、古事記からはそう理解されているようですね。 黄泉国=死の国 と定着しています。 怖いというしかないような国とされています。  しかし、どうでしょうか、黄色い稲穂の多い国と読み返せばだが、理解不能な稲穂だらけという見方をされていた人々の集団(天孫族)の見分で書かれている書物が古事記・日本書紀の当時の見方だったとしたら、そこに死も含めた事件(天災)も含めて"黄泉"と呼ぶ様に漢文大和へと移行する過渡期の表現として"黄泉の国"を利用したのではないだろうか。 と思うようになりました。
    かつてマルコポーロは日本の第一印象を・・「黄金の国ジパング!!」と言っています。

    <イザナギがイザナミの神社を余生の淡路島から渡、美馬市に伊邪那美神社を中州に創る>
    これは離縁した理由が想像できる。 それは君の居る場所は河の中州なのだと・・・イザナギは元妻の意地に対してのササヤカナ反抗として中州に宮を建て祭ったのではないだろうか。
    水害や天災の多い土地に縛られるのは"もういいよ"と無言の祭りを似た地で供養したのであろうと、思われます。
    この時代には越前の地も入植できる場所は、危険地帯は多く広いが、扇状地や川下というのは失敗しやすく二重の苦しみに出会という、因果な所で、当時の河川というのは竜に例えられるほど手の付けられない制止させれない災害を繰り返す事があったからだ。
    天孫族は山から下りてきただろうから、平野部の思ってもみない災害を一度は出会ってしまうものなのかもしれない。
    <イザナギ・イザナミが国を見下ろす天の浮橋に立ち・・・>
    天の浮橋 = 二本松山古墳の端に立ち と漢文の無い時代の平仮名もどきで語った言葉を古事記にしているからか、そこから見下ろす入植地は塩水と河川と沼地で有った様で、そこから始まる二人の旅路はアッケなく一代半で終わりを告げる。 同じ天孫族の散らばった地へゆくゆくは辿り着き、別れ、時が過ぎ、妻の出身地の島根に葬り、イザナギは淡路に引きこもる。

    ・・・・・
    なぜ北陸越前へ入植したのか? それはやはり、黄色い米・麦というのは害の少ない食べ物だと理解されていたからではないだろうか。 四国の讃岐うどんの始まりはイザナギが苦労の末広めた食べ物では? と感じるのは私だけだろうか。 米よりも麦の栽培の危険度が少ないのは陸麦栽培として成り立つからだろう。
    畿内では三輪そうめんが活動期となるのもこのころからだろう。


    今日もこの辺で・・。






  • #53

    hayachan (土曜日, 24 4月 2021 10:41)

    次の2点に疑問があるのですがご教示願えませんか?
    1. 九州に上陸してから奴国に行くまではやけに詳しいのに、20日も掛かるというのに邪馬台  国までの途中経過(経由地)が全く書かれて無いのはどう考えられますか?
    2. つまびやかでないその他の傍国はどこに比定されますか?

  • #52

    ひかるチャンネル (月曜日, 05 4月 2021 18:39)

    ヒカルです。
    おしんの橋田さんが亡くなられたそうです。
    95歳まで生きるというのは、おしん一筋の精神があったのだろう。
     帰省一週間を過ごしました。 老夫婦(私の)が車を廃車したので、徒歩とタクシーで買い物をするという状況なので心配してました。 80歳済んでいるのでやはり心配で、帰省を長くしました。
    そんな中で、丸山淵の西片面を歩いてきました。 
    【亀石型横穴蓋】
    神社の昇り階段の下から願応寺の間の山側に四角い井戸のマスが有ったので(昔から)眺めていましたら・・・・その奥の雑木林の地ズラに岩が有ったので眺めていました、何か楕円形の形状していたので亀の甲羅を大きくしたような岩だなと・・・・思いました。 岩の材質は"サザレ石"の様で、君が代を思い出して、いたんです。 が、またフト、井戸と丸いサザレ石のコンビネーションが坑道の蓋と感じ得ました。
    地べたに平行してある坑道であるならば・・・・ひょっとして奴婢百人の坑道(墓)だとしたら、扱いやすい坑道となりはしないか、と思った次第です。
    <貯水棟の秘密>
    丸山の山側の廃屋が有りますが、近ごろ不動産屋(アイフル)に売ったのか、そこには住まない地主が不動産屋に任せたようで調査していました。なぜ住まないのか? 村内には住みずらい、のか、それともヘビが出るからなのか? 廃屋になって20年以上ですから、売るタイミングだったのか・・・。 ヘビでしょう。 わたしの自宅まで時折姿をみせるヘビは穏やかだが夜の動物の鳴き声というのはヘビが小動物を飲み込む時の喘ぎ声だったのか、よく聞こえてくる。
    餌の無い季節になると私の家まで出てくる様だ。
    守り神なのか厄介な動物なのか、貯水池が廃墟になった理由が少しずつ見えてきたが、まさかヘビが貯水棟にトグロを巻いて住んでいるとしたら・・・。

    福井県に帰って福井の番組見ていると、歴史に対しては余り熱心ではなく、米・家・仕事、と現実的な視点が強く、県が主催する"越前時代行列"ではミスお市の方、が福井のミスコンとなっていて柴田勝家役のタレントが気になる程度の歴史思考で終っている。 何故に朝倉氏・新田義貞氏というのは主役に成れないのか・・・・それは負け戦的な戦歴が越前の歴史となっている中、お市の方は三姉妹を生み江戸幕府の礎となった所に福井県民の心があるのだろう。
    漢文と平仮名からが歴史の始まりが強く、言葉が無かった現れない現状に奈良時代の繋がりからが歴史を感じさせる事柄が多いのだろう所が歴史の始まりであり全ての福井県の物語となっている。 魏志倭人伝の雰囲気には酒文化や敬老文化や料理文化が進んでいる景色があるが文化を持った渡来人は雪国ではなく雪の積もらないラインに多く移り住んだ気がしてならない。
    雪のある時期というのは精神統一が損なわれるので文化祭的には遅れてしまう結果となっているような気がする。 ただ、生活文化は進展する発展する気配を感じるが・・・。

    きょうはこの辺で、ん
    ところで、丸山墳墓の突破口は県や市の文化部の力による様な気がしているのですが、卑弥呼にに関しては宮内庁は関わっていないのが筋なので、宮内庁を意識するのは神社の境内だけにので、其処だけ残して県や市は調査発掘と貯水棟の解体を進めるべきだ!!。 竹田恒泰氏さんは邪馬台国卑弥呼を‥‥『だれ? それ、日本の歴史には・・・無いから、どっかに王が、たくさん王は居たからね列島には。』と、ユーチューブでは言っていました。

    では。





  • #51

    田中 (木曜日, 01 4月 2021 19:00)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事お慶び申しあげます。
     コロナ第四波に入り、社会が一変しておりますが、産業革命以来の構造変化の過度期の場に我々は存在して次なる港を目指しているのでしょうか。
     さて、箸墓古墳(神話によると、ヤマトトトヒモモソヒメ)は、「国立歴史博物館研究報告Radiocarbon -Dating the Appearance of kofun」炭素14年代法で箸墓古墳が完成したのは西暦240~260年と考えられる。という研究は確かなのでしょうか?魏志倭人伝では、卑弥呼が没したのは西暦247年頃です?。この年代を意識した邪馬台国近畿説の発表ですね。陵墓ですので宮内庁が比定していますから考古学者も立ち入りは出来ない制約がありますね。
     名古屋大学と樫原考古学研究所共同で宇宙線ミューオンで箸墓の埋葬空間を確認しようとしていますね。箸墓の埋葬者解明は古代史関係者皆が望んでいると思います。
     ヤマトの墓は元々、方形周溝墓で4m=12mの墓でしたが唐子・鍵遺構のように建物は大きかったので、水運にも都合の良い奈良が交易場として合意ができていたのでしょうか。
     三世紀~四世紀に中央集権国家の原型が成立したと考えられています。しかし、真実は常に少数説である事は歴史が証明しています。
     お身体に気をつけて益々のご精進を祈念致します。

  • #50

    ひかるチャンネル (日曜日, 21 3月 2021 22:24)

    ヒカルです。

    気になる事があったので・・・。
    丸山墳墓としている丸山において、墳墓としての道具・材料・人材は不可欠だと思われます。
    道具は鉄製のスコップは作れたでしょう、そして人材は当然揃ったでしょう、・・・しかし・・
    材料はいったい何処から取り入れ運んだのだろうと、思いました。
    材料(石材) ? となると、丸山一帯は泥で埋もれている地域なので、遠く九頭竜川だったり、シャクダニ石材地だったりと、ずいぶん離れているように思う。 という事は、丸山墳墓に選定された時には石材の事も考えられていた筈だと・・思いました。
    ・・・・・考えてみました、長い時間。
    ふと、そういえば、丸山の北西の崖は何の理由からか、墳墓用の石材として丁度イイ大きさであり形が積み上げやすい平板なモノだったと思い出しました。  ああ、これは作業効率といい絶好の墳墓作りとなるだろう、と思いました。
    だから幼い頃から平板型の崖の崩れ方といい、何かの作業場の気配を感じていたのは間違いのない事実です。願応寺の山側の崖が削り取られて、トラック5杯分の石材(崖石)が無いような気がしていました。1800年前の事だとしても可笑しくない事実だと思います。

    ああそうか。

    今回は、石材が有るから墓を造ったという順番に考えてみました。

    今回も、あくまで自説からですが、考えてみました。
    では。

  • #49

    ヒカル (月曜日, 15 3月 2021 06:34)

    こんにちはヒカルです。
    YouTubeでプロレスを好く見ています、天竜が大好きで突っ張る天竜に外国レスラーも動きが止まっている時、タケミカズチがタケミナカタを諏訪湖へ飛ばしたという伝説を描いてしまいます。 レスラー天竜は丸山墳墓と言われる上流の町勝山市出身なのです。

    <乙巳の変>
    イッシの変が起きたのは皇極天皇の在位中です。乙とはオッス!! ありがとう ごくろう という意味が有り、そして巳とは の意味であるから、乙巳とは御疲れ交代します、の意味としての事変ということで理解されて国史に書かれている様だ。
    <イザナミの墓を造った天照大御神>
    スサノオが起こした事件は天変地異による邪馬台国崩壊を語っているとするならば、田の畦を壊した件・牛が機織り小屋に流れ込んだ件・食堂の女を殺した件、などは黒竜川の氾濫を示唆している様子であって川の水流氾濫によって失われた田畑は取り返しのつかない状態と化し、イザナミの死後に天照大神は洞穴に住まわれて現状を取り戻す事ができなくなって終いました。 そんな中で埋葬を考えるのですが・・・・卑弥呼(イザナミ)と奴婢百人を同時埋葬墓という形で低い場所からの入り口を設け、埋葬する。 そして、この地と決別の儀が滋賀県守山の地で執り行われ(伊勢遺跡)、天照大神は父親(イザナギ)の指導の下へと進展していく。
    イザナギは性格上"暗い所"、"湿った所"、ヘビ、殺し、などが好きではなく、自然から排除したいと思っていたようで、妻のイザナミとは許容量が違っていた、夢に見るのは常日頃得体のしれないものであったに違いない、間違いない。。。

    皇極天皇の御世になると倭国の存在・イザナミの存在・九頭竜川の氾濫頓死、等々を神話化して消し去ろうと・・・・最後の権力者である蘇我氏との乙巳の変をして終う。 国権の仲間の命まで取ってしまった結果と成って、その歴史(倭国・氾濫都村消滅・イザナミの道程)をアル程度消していく作業が必要と成っていったのである。 結果として、神話にして供養できたとは思えるが、蘇我氏の首は日本中を舞っているかもしれない。

    <奈良時代>
    大きく示す良い時代・・・・。
    田畑を洪水から守るための方策として、ダム建設・・・当時は湖水・ため池建設であったのだろうが、古墳時代には実行されてきて、飛鳥・奈良へと確信されてきて安定し、平安遷都へと繋がっていく。

    きょうも長ったらしくコメントしましたが、あくまでも自説なので、そのへんよろしくお願いします。 座りっぱなしは穴の血管を潰しているので歩くようにしましょう。

    では。

  • #48

    ひかるチャンネル (日曜日, 28 2月 2021 12:48)

    こんにちはヒカルです。
    マイペースですが今回も奇想天の想いで歴史文献を読んでみました。
    今回は約80台の歳で死んでいった卑弥呼が、卑弥呼子(男王)・狗古智卑狗(官)の組織と対峙したという記紀神話文献から関係性が相似している気がしましたもので・・・。
    <イザナギとイザナミの夫婦の関係が卑弥呼子と卑弥呼との関係と似てる似てない !!??>

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kobayashi_Izanami_and_Izanagi.jpg
    天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。イザナギとは夫婦となりオノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
    火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチはイザナギに殺された。 カグツチの亡骸は熊野や島根に埋められた。
    死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。 イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミとイザナギは離縁した。
    ・・・・・・・・。
    この後、イザナミは黄泉の『 主宰神 』となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。 
    <黄泉津大神としての主宰神>
     直接に死去したとは表現されていない。「神避り」の解釈を巡っては、天皇の「崩」に対応する神の死の表現とする説や、死を意味するのではなく元いた場所から離れていくことを表すとする説、死を表す文脈にあって、異なる神格への変化を含んだ、黄泉国への移動の表現とする説などがある。(国学院古事記の説明より)
    と、する国学院の説明からすると・・・・・イザナミは身が死んではいないが黄泉と云われる国に居座ってしまった、という事になると想う。

    <ハラミ山(原目山)に16歳から其処に住まわれた天照大御神>
    これはホツマツタエからですが、天照大御神が全国行脚(あわ歌・田作り・生活等)する父母の不在中でしょうが、高天原から高臨して天津国に来て育った場所とされている。
    ・・・・・
    原目山でしょう!!。


    今回は記紀文献から考察しました。
    丸山墳墓は天照大神よりも母親のイザナミの方が可能性が有る気がします。
    イザナミの亭主への裏切りにより名も無き神社は増大したのは良かったことだと思います。
    こうなったら・・・
    こうなったら世界中に、たとえばアイダホ神社とかカレー神社とかジャーキー神社・石油神社・天安門神社・地中海神社・あっふりか動物神社・唐辛子神社・島唄神社・アサイー神社・
    とか、鶴瓶神社・アザラシ神社・・・・・・・・・・・・・・・等々の名も無き神社が増えたとしたらイザナミのお蔭だとなります。 ね。

    では。 そうだチャンネル登録お願いします。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=5&v=zpyvT5f91fs&feature=emb_logo

  • #47

    八俣遠呂智 (木曜日, 25 2月 2021 09:57)

    山口哲也さま
    魏志倭人伝シリーズで述べていますので、ご参照下さい。
    https://www.youtube.com/playlist?list=PLrCGq8HwIwxYL2T5zgZuVG1kfs-abekNN

  • #46

    山口哲也 (日曜日, 21 2月 2021 23:09)

    追伸
    ⑤奴国の比定地を博多の金隈遺跡とお考えでしょうか?しかし、奴国の中心地はむしろ当時の青銅器生産の一大拠点である、須玖岡本遺跡付近と考えるのが一般的です。そうすると、伊都国の真東に位置しますが?
    ⑥方位が90°ずれて記載されたことの妥当性は?なぜ、朝鮮半島→対馬→壱岐→末盧は、45度のずれなのか。むしろ、全て45度のずれ(私は30度と考えていますが、これもどのポイントを取るかで違ってきます)と考える方が一貫性があるのではないか?
    以上質問の追加です。

  • #45

    山口哲也 (日曜日, 21 2月 2021 20:58)

    八岐遠呂智様の「邪馬台国と女王国は同じじゃないよ!」動画を拝見しました。
    「悪質なる曲解」に対する嫌悪の気持ち、よくわかります。
    原文に忠実に読むべきとのご意見全くごもっともです。
    そこで、質問です。
    ①女王国に統属=女王国の一部という見解のようですが、女王国との主従関係との見方の可能性はないでしょうか?
    ②末慮国=現在の伊万里市である根拠はありますか?
    ③対馬から壱岐が45°方位がずれているとし、伊万里から伊都国は方位が90°ずれているとしているが、では、その後行程がすべて90°ずれるとする根拠は?
    ④③の方位のずれは、魏志韓伝においてもいえるずれなのか?
    以上が、この動画を見ての疑問です。
    ちなみに、私の見解はこれらの点で異なりますので、ご質問差し上げています。
    ぜひともご見解をお願いいたします。

  • #44

    藤原 (金曜日, 12 2月 2021 00:32)

    弥生時代のはじめから日本列島は「ヒムカイの国:ヒッタイト」の植民地となった。
    神武帝の東征により首都を任那から大和へ移動し、統制力の弱まった満州地域で上づ国(高句麗)が関東軍と同じ原理で暴走し独立した。高句麗が宗教的、言語的にみて朝鮮族ではなく、日本民族であることはあきらか。
    卑弥呼は伊勢の斎王:いつきの「ヒメミコ」を事情を知らぬ中国人が名前と勘違いしたもの。
    瀬戸内は軍事目的のため平安時代にいたるまで外国船の通航が禁じられていた。したがって、日本海か太平洋にでて伊勢湾からはいるしかない。太平洋航路をとる場合、九州の東か西を「南下」し黒潮に乗り伊勢湾の「鳥羽:投馬」から上陸、神宮近辺をとおり大和にはいるのが自然なルートだとおもう。
    「倭人伝」に伝わる倭人の風俗はヨーロッパ西アジア系であるはずの日本民族というより、渥美半島周辺を拠点とし朝廷につかえた海洋民族である安曇族の風俗と考えるべきだ。

  • #43

    藤原 (金曜日, 12 2月 2021 00:12)

    日本神話は日本だけで考えてはいけません。ヨーロッパの成立と並行して起こったものです。
    神武東征と同じころゲルマン系の祖であるチュートン(にしうど?)人の中央ヨーロッパ西征がおこります。
    戦前の地政学者マハンはチュウトン系のなかに米英独とならべて日本も入れていますし、人種差別主義者ヒットラーも日本文化のなかに典型的アーリア文化をみとめています。
    メルカトル図法の錯覚で日本文明と西アジアヨーロッパとの関係を無視していることで戦後古代史の矛盾が解決できないのだと思います。
    高天原:コーカサス、葦原中つ国:アッシリア、ヒムカイの国:ヒッタイト帝国、天孫降臨:東亜細亜東征、神武東征:瀬戸内征服大和遷都とかんがえるのが普通です。
    軍事大国倭国は朝鮮の原住民に軍事技術をおそわって成立したなどありえないことですし、縄文人の血は日本人の血の1割程度、天から降りてきたなど考えられない以上、言語、宗教の酷似したヒッタイトが移動したとかんがえるべきです。
    人種は、神話が象徴する通り国つ神との数代の混血によりまったく変わるはずです。
    白人からモンゴロイド+アイヌへ。
    ちなみに、ヒッタイト初代皇帝は「ハツシル」、神武崇神両帝の名「ハツクニシラス」とおなじ意の称号とおもいます。

  • #42

    ヒカル (水曜日, 10 2月 2021 21:45)

    こんばんわ、加~賀ヒカルです。

    陳情書(五回目)という話を聞いていました。 なかなか答えを出してくれない民主主義的政権の人々も経済的な潤い一番としているのは分かりますが・・・、例えば星稜高校の松井を生んだ監督の山下さんは言っています・・「花よりも花を育てる土に成れ。」 良い言葉です。 長打やホームランを打ってスターに成るな、と、打てる人に繋げて時を待て、と。
    しかしながらヤマタ先生の地道な御努力で、霞が晴れてきているような感じもしております。

    古代史に関心のある人の集まりならイザ知らず、世間的にも古代歴史は戦国時代で止まっている社会ですので、仕方ないのでしょう。  それと、邪馬台国卑弥呼の言葉もあの頃から見れば徐々に関心の薄れた古代史部位となっている気もします。
    それでも、私や 遠呂智さんにとっては大切な日本人のアイデンティティー(完成・感性)なので譲れないものでもありますね。
    <打開案>
    無いですね。  ・・・  ただ民衆や権力が動かないのであれは、残るは丸山墳墓の若干の検閲者である神明神社(伊勢系)への申し送りというか、神社本庁への丸山墳墓解明の手掛かりとなる新神社建設計画(神明)の陳情と、蛇退治と、水源地敷地の国家プロジェクト(卑弥呼と100人の護り墳墓館)の推進をご提案・・・・・。
    OK となれば、
    となれば民衆も権力役人も誰も言えないスムーズ進行していけるのではないでしょうか。

    昔、30年も前の事、近所の土建屋の社長は「あの山の土を取ってしまって家建てよう~さ。」と人前で言っていたのを思い出す。  信仰心の薄い人ならではの発案に思える。

    <裏日本の最高の活用術>
    日本海側というのは山口県北部から北海道まで雪という残雪によって閉ざされてきた地域であって、其のことが人口減の要素となっている部分がある。 人が居なければ文化も墓も衰退していくのは目に見えている。 その衰退を止めようと試みても、雪というのは寒さを連れてやってくる。
    イタリア半島には良い答えがある。
    イタリアは小国家の集合体としてローマを支えている様で、小国家の尊厳を第一にして価値を高めて文化・産業・商業を造っているとの事で、その地へ行くとアマガキが有ったり、ある地域に行くとバカンスの巨大な街と造られているという。
    日本もそういった地域というか小国家的に老後の聖域として居住して一つの部位だけでなく三っ揃った小国家観光地として作り変える必要に迫られていると思う。
    ただ、爆弾を抱えたランボー者が小国家(観光地)の一等地に陣取り居座られても、困るのだが。

    <ホツマツタエの旅>
    ホツマツタエのYouTubeを聞いていたのですが、ホツマツタエの不信感を3つほど・・・
    ①  大田田根子が紀元300年頃に漢字の流入に対して過去の歴史をホツマ文で残した事。
    ②  天照大御神が女神ではなく男神としている事。
    ③  ヤマトタケルが全国行脚で「外国人の流入に不安を感じる」と歴史残せと、自らは白鳥となって飛んで行った。

    ホツマツタエというのは紀元300年頃の天孫皇族の天皇主義を朝廷の長と位置付けて権力も政治も笑いもスポーツも取り入れて大きくなあれと念じ続け、神武東征という降臨先の少数で偽書を行動をし、皇王家という日本や世界の豪族(王)には無い政治体制を大きくしていく。
    ホツマツタエには飛騨王朝や邪馬台国は描かれていなくて卑弥呼が死んで60年後なので大田田根子も巨大な倭国の存在も天皇家系の飛騨王朝から、も欠けているのは必然だろう。
    ただ、歴史の匂いは神功皇后や邪馬台国卑弥呼や菊理姫やイザナギなど鹿の骨で明日を占った部分など、飛騨に神物語の始まりは感じているのが、わたくしの現状です。

    天皇在位24年(平均)で考えれば紀元300年の崇神天皇からの天皇称名の始まりを正しいとして
    仮定することでアメミヨヤの降臨からミナカヌシ→クニトコタチ と10代後に神武天皇という天皇制を敷いたという事ですから、今から2000年頃に渡来したアメミヨヤ(天中主の神)さんが御中主の神に神主義を伝授して日本列島に神社の発展に進化する。
    だけど渡来したアメミヨヤ(天中主の神)は飛騨の山中を彷徨った後にアモトへ帰ってしまわれたらしい。 アモトとは? アメミヨヤとは誰なのか?  という問題は残るが、晴れて日本列島には神という存在で「清潔・正しく・美しく」という種を播かれていったのは正解だったといえる。
    長ったらしく書きましたが、今の私の頭の中はコウナッテいます、悪しからず、まあ、歴史をやると古代になれは尚更なのかもしれない。

    ではまた。

  • #41

    日賀ヒカル (日曜日, 24 1月 2021 09:35)

    こんにちわヒカルです。
    まだまだコロナ時下ですが気お付けたいものです。 またまたユーチューブで見つけた論者を紹介したいと思いますので、地固めとしての情報としてもらいたいものです。

    BC1200年頃から中国大陸の動きは危険地帯へ少しずつへんかしていきました。
    邪馬台国の倭人の繋がりだろう倭人が、長江中流域で発生?して安全な地を求めて往くこととなって神尾氏の最初のユーチューブが良いと思ったので投稿します。

    倭人について>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=2&v=nklALU50qvA&feature=emb_logo
    倭人は呉の民となった>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=3&v=nklALU50qvA&feature=emb_logo
    倭人は呉の滅亡で北へと逃亡した>
    https://m.youtube.com/watch?v=DsavxLqHCN4&feature=emb_logo
    倭人は日本列島へとやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=uvJAfGIbx3E&feature=emb_logo
    越人は朝鮮半島馬韓へとやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=0AB2OCvS_dA&feature=emb_logo
    楚人は朝鮮半島辰韓へとやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=mwluUI1nL-c&feature=emb_logo
    楚人は朝鮮半島辰韓にやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=mwluUI1nL-c&feature=emb_logo
    秦の始皇帝の中国統一>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=14&v=mXPh9E74NF8&feature=emb_logo
    徐福一行・・千人一行の来日>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=iqWFngwMQbI&feature=emb_logo
    漢帝国の朝鮮半島への進出>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=3&v=nGrhlBna55U&feature=emb_logo
    楽浪郡と真番郡>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=me8WciaHe40&feature=emb_logo
    楽浪海中に倭人あり>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=3&v=Lt6475dWyoM&feature=emb_logo

    日本列島へ流れてきた渡来人も最初は縄文生活と変わりのない生活を強いられたと思いますが、携えてきた文化は伝え残したいものであって文化程度が高いレベルであれば尚更に権力闘争へと繋がっていくものでしょう。
    縄文時代から ~ ~ 、倭人の拡大進出、呉人の分散進出、越民のひなんによる進出、楚人の韓南拠点による列島進出、秦滅亡による秦氏の進出、・・・・弥生時代古墳時代というのは複雑多岐にわたる列島への進出があったのだと神尾氏は述べています。
    この辺りが解りやすく解説してくれたので好意をもっています。 倭人の位置関係が分かったような気がします。
    倭人の東への流れも日本海の対馬海流は冬の荒波以外は易しかった様で日本海側への倭人の広がりは宮城県の仙台へも広がった感じがします。
    BC600年時代の渡来人の中にスメラ系の集団が列島へ来たのは倭人・呉人・越人・楚人・秦人の何処の国に含まれていたのかは分からないが、先ずは九州の地、出雲中国・北陸・四国の地に渡来進出してきたのは当然の成り行きとなっていたろう。

  • #40

    ヒカル (日曜日, 17 1月 2021 04:24)

    ヒカルです。
    福井へ二度目? ですか、冬はカニですが三国海岸方面が良いかも。
    福井といえば、勝山太夫の考案した勝山掛けは巷では有名です、勝山には勝山大仏座像は日本一であって奈良の大仏座像は二位、鎌倉大仏は三位となっています。 古事記の泉平坂とは勝山市の平泉寺社の大きな坂道だと感じております。 

    <ヨシテ文字系ホツマツタエの文献ユーチューブ>
    ヨシテ文字系ホツマツタエの文献を読み解く努力がされているらしい、中で、卑弥呼に関しているだろうと思われる部位です。ワカヒメ・セオリツヒメが記紀に外されている理由までは分からないが、天皇家の男性系列(Y染色体)から外れた営みに関しては書かれないのは分かる気が。・・
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=9&v=NgBmLXBH6Ok&feature=emb_logo
    イザナミ・イザナギが最初に子を産んだ地の兵庫県の西宮、幼少を過ごしたヒルコ(ワカヒメ)は育った西宮神社から住吉大社を起こした金崎氏(わかの名人)に拾われて成人となりイザナミの娘のヒルコ(卑弥呼)は紀州に居た、その時にオモイカネ命に見初められてアプローチする。 その答えは・・・

    きしいこそ つまおみきわに ことのねの とこにわきみお まつぞこいしき(卑弥呼)
    なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねを おとのよきかな(金崎氏)

    と廻り言葉でヒルコと金崎氏は答えて、オモイカネ命と縁を結ぶ。 そして越前へ嫁いだヒルコはヒミコと名を整えて、魏志倭人伝の卑弥呼へと繋がっていく。
    <奴婢100名と共に・・・>
    約、80歳の齢となっていた元皇女卑弥呼、魏への朝貢や狗奴国(宮内国)との不和、臣下(倭人)との疑心、大きな倭国の長として共立された女王として最後の時期をどう過ごすべきか・・・・、卑弥呼は答えを出す。  下戸以下の奴婢たちへの想いを込めて、陵墓建設の場面には忠誠の奴婢100人を抽選(あみだくじ)で入墓していいとする。 国を治める為に奴婢たちが法を犯してしまった事の責務が卑弥呼にはあったのではないだろうか。短い魏書から読み解くには、単純に卑弥呼の気持ちから想い興せばだが、その方がシックリくる様だ。
    たとえイザナミ・イザナギから外れた皇族であっても神官の立場からも、五段階の人種差別のある時代に王と君臨しても直せない習慣というモノに対して不義を感じていた卑弥呼は最後の最後になって答えを出した、それが奴婢百人と共に埋葬されるという反抗精神でもあったのだろう か。 奴婢が生き埋め的に読み取る人も多いが、忠誠奴婢100人は後々に陵墓へ埋葬されたという意味として理解は可能である。

    ヤマタノオロチさんも二礼二拍手一礼を見せてくれました。 有り難い有り難い。
    これで掘ってくださいとまでは言わないかもしれないが、出入り口のパスワードをそろそろと
    夢の中で答えてまいりましょうと、言ってくれている気がしてならない。

    では。

  • #39

    ヒカル (金曜日, 15 1月 2021 22:31)

    こんにちはヒカルです。
    コロナ抑制の為に おぉ~いお茶濃い をのど元でうがいをする様に飲んでます。のどに溜まったウイルスは95パーセント落ちるようです から。

    <ホツマツタエ(秀真伝)>http://www.woshite.com/page1.html
    この伝記は滋賀県高島の とある蔵から出てきたオシテ文字による文字で書かれていて、記紀の信頼を高めている書としている。 フトマニ文字といいカタカムナ文字、オシテ文字といい、総称して神代文字とされるらしいが、平仮名文字カタカナ文字の前身でもあるので時間をかければ理解し読み解いていけるものらしい。 あわ(淡)のうた、があるらしいが、あわという言葉は飛騨王朝の高天原にある・・池で始めて歌われたと伝わっているらしく、いときょう氏によると、古代文字の源泉は縄文時代から脈々とあったという。 らしい。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=7&v=R2B2Sf5c_IU&feature=emb_logo
    この国の成り立ち、この国の行事、その時代の事象が書かれているというものですが、その中で天照大御神(男性)が食に関して語っている部位で・・・
    ダイコン・海藻・ショウガを最も大切な食べ物としていて富士の下で採れる菊は長命薬として食べていると書いてあるらしく、天照大御神の存在でさえ分からないはずなのに、ホツマツタエによると事象までもが解るという。

    まあ、神代文字の使い手たちは漢字文字の使者に押されて消えていった経緯はあるのだろうが、卑弥呼時代 倭国時代というのは丁度その過渡期であったのか日本海側の文明だったからか、分かりずらい環境となっていて解明には埋まってしまった泥土の除去から始めるしかないと思われます。 現在の10倍もの発掘費用で何かしらの文字文献や文字石碑や生活道具などが発掘されることを願っています。 1メートルの泥土はとても厄介な気はします。

    あいうえお とは母音(女音)で あかさたなはまやらわ とは子音(男音)と言われていて、文字による歴史解明が続けば日本の歴史も埋もれていた魂が蘇える気もします。

    <不彌国(宗像)から但馬(投馬)の地へ20日で実証船旅>
    火野正平さんが自転車で旅をする番組がありますが、丸木船のスピードで対馬海流の流れるスピードで20日で走り切ってもらいたい お手紙 を送ろうかなと思っています。
    あと、但馬から歩いて邪馬台国越前まで30日を歩いて走破して老後の足しとして体力維持を祈願してもらいましょう、火の招へい氏に、。 本当は火野正平氏のエゴで走破するより、見たいのは火野正平氏の魂のエキサイトであるから、江戸から京都まで道路が整備されていた時代で11日半の日にちが必要だったらしく、整備されている現代なら酒を飲みつつ歩いてもらうのは簡単なものだ。国家費用が動く時に成れば、火野正平氏も声が掛からないと思われるから、今が絶好のチャンスだ!!。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=9&v=WjgZX4_gUb4&feature=emb_logo

    また、おもしろい話が浮かべは書かせてもらいます。
    では。



  • #38

    ヒカル (日曜日, 03 1月 2021 22:10)

    2021年 1月3日 夕刻
    ヒカルです。
    また、緊急歴史解釈をユーチューブからです。

    西山恒之氏
    https://m.youtube.com/watch?v=WGMaFELBVYw
    西山恒之氏は、
    大倭国(邪馬臺国)は出雲、邪馬台(女王国)国は九州北部 と主張されているのですが、邪馬一(いち)国と邪馬臺(だい)国の関係性の親戚関係としては越前と飛騨王朝とがオーバーラップして面白く感じていますので、投稿します。

    邪馬一(いち)国<女王国> と 邪馬臺(だい)国<大倭王> とは親戚的な関係であって、けっして同じ場所に在るものではない。 と西山氏は述べています。 
    中国歴史書籍からの引用が多く、島根地方出身のせいか中国地方の捉え方というのは難解で80パーセントはコジツケの様な気がします。
    しかし、本居宣長からなどの歴史家は邪馬台国の台の字に対して、魏志倭人伝(陳寿)の間違いの元として捉えていたのですが、西山氏は漢字の扱いは間違ってはいないとしている事に、親近感という真実性が有るような気がします。

    私見としては、邪馬いち国には邪馬だい国の支店を置いたとする。 大倭王(飛騨・白山)の筋である卑弥呼が越前に居を構えていたという私論としては待ってましたという意見だと思います。 では何故に卑弥呼が女王と成れたのか・・・米 鉄文化 造船 を早急に進歩させた越前の権力者に嫁いだからなのではないか? 女王として共立されてからは飛騨の上方様を大倭王の地位に認めたからなのではないか。 ・・・

    大和の宮造りに移行してからは飛騨王朝の政治も大和向きとなっていったと思われる、何故なら越前を流れる黒竜(九頭竜川)は百年に一度は大水害を起こすらしく、その田畑は鉄器や装飾類以上に大切なベースだからだ。  水害整備のされた20世紀・21世紀でも足羽川の決壊というのは生々しいからだ。

    しかし、しかし邪馬台国論争というのは300年続くのは分かるような気がします。
    いろんな解釈をしてもウナズケルのは言葉数の多さにも原因があるのかな・・・。
    伝説の碑と建立出来るだけでも幸福と言える。

    では。

  • #37

    ヒカル (土曜日, 02 1月 2021 15:13)

    明けましておめでとうございます。 ヒカルです

    ビック安本氏は弱くなっている様ですが、弱い時程、ビックに名っている時であります。
    安本氏の目の付け所は、すごいですね。

    <金銀錯嵌珠龍文鉄鏡>
    https://livedoor.blogimg.jp/kurofune8/imgs/4/b/4b235f91.jpg
    崇神天皇の皇子の娘御子と結婚した景行天皇、この時に美濃に行幸した時に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を携えてきた景行天皇の妻(皇后)の持ち物であったとするならば、日田の地は飛騨(美濃一帯)との関係性が出てくる。 という事は、飛騨王朝の降臨政策の柱ともいうべき"筑紫の日向(日子)の橘"だったのではないか、と、降りてきました。

    筑紫の日向(日子)の橘とは日子山だったのかもしれない。 日子という意味は、天照大神の子という意味ではなかったか。そして日子山には、忍穂耳命という天照大御神の長男が祭神されている。 この山には、大己貴命や宗像三神までもが祀られていて、天孫降臨神話は、この日子山だった可能性があります。

    結果・・・卑弥呼所有の鏡という事であり、卑弥呼の弟(崇神)所有となり゛、その最高の鏡が崇神の娘へと引き継がれ、景行天皇の皇后と成り日田に降臨妻となりし住まわれ゛ヒダ゛つながりから考えると最高のカガミ(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)は日田の地に持ち運ばれた様だ。

    ヒダ王朝側の視点であるので、トンチンカンと思われますが私論公論として悪く思わないでください。 ヒダの降臨は主軸(スメラ系)だけでなく他にも降臨多数であって、三種の神器の伝説があるかぎり火の国伝承は続くと思います。 火の国伝承とは人類が生活をし出す頃から始まった!! たき火神事(どんど焼き)に由来します。
    日本列島に降りてきた外来人がこの国の素を大事にし神事にまで高めた゛蔡゛という習慣は神社の主を成し火そのものが生命の煮えたぎる湯から穢れや悪霊や垢を取り去り文化国家のあけぼのとして捉え、見据えて神社体制を整えていったのではないだろうか。
    まだまだ世界には湯焚神社が足りません。 まだまだ湯焚神事が足りないと思います。
    世界の小さな宗教施設でも湯焚神事が行われる事を願って、今年の干支"うし"にちなんで牛歩していきましょう。 

    邪馬台国が滅んで縮小していく最大の原因は、寒さや狗奴国によるものと噂されますが、本当のところは自然災害(一番怖い)による河川の水害による破壊・泥土だったのではと考えたいです。遷都を考えるスメラ系の人々の決起は計り知れない行動だったのでは・・と思います。


    立場上、南無阿弥陀仏 ! と唱えて今年の始まりとします。






  • #36

    ヒカル (木曜日, 31 12月 2020 18:13)

    12月31日
    ヒカルです。
    休みが多くて今日も降りてきたものが・・・。
    <どうする邪馬台国論争>
    邪馬台国論争も佳境に入ってきた気がします。
    これまでの邪馬台国総論を支えた安本氏の所属するチーム邪馬台国連絡協議会はどういった行動を執るのが適正か的確な道を辿るはずでしょうから、チームの行方はリンク先の最後の最後尾のホームページである͡八岐大蛇ページが救いとなってくるのは間違いない。
    https://m.youtube.com/watch?v=U5b_dkVn_tg&feature=youtu.be
    https://yamataikokunokai.com/index.htm(邪馬台国の会&連絡協議会)
     安本氏 「揚子江の流れは、ある場所では南に向かう、ある場所では東から西へ向かい、突然に北に向かい続け、そして東へ向かうが、大きく見れば西から東へ向かう大河であると、毛沢東の言葉を引用してですが、邪馬台国の解明も紆余曲折しながら答えが先に待っているはずだ!!」。
    邪馬台国の会&連絡協議会というのは資金が潤沢なのだろうか・・・、その資金と第一党の邪馬台国総論の会としての立場を何か前向きな援助としてでもいいから 資金援助すべき時がきているように思うのは私だけだろうか。 おしん世代でもあるのだから、ここは信じて投棄先として覚悟して資金を練り出す捻りだす総チャンスにきている(カッコイイ)。

    <火だ王朝から分派した竹内文・上ッ文・秀真伝・等々・・・>
    長い長い時代を細々く山の神として生きていた天孫族。
    天孫族というのは水のキレイな、湿地ではない、農産可能な、場所に住み着く民族性なのだが、いずれ寒さによる飢え稗により高天原を降りなければ民族の明日はない状態化し、プライドによる天孫族の明日を憂いたスメラ一族は言葉を発する。
    「天孫族の国民よよく聞け !  我々の前に降臨する者モノよ、いずれ降臨先崎で出会う天孫族同士が居たならば、天日鞭・勾玉などを見せ合えば天孫族の証と成ろう。 仲良くするがよい。   もしも天孫族で無い民族・集簇・鬼族・食族・・・であったならば鳴動神事(100
    度殺菌鍋)でもてなすが良い。      以上が降臨に際しての注意である。  天孫族万歳!! 天孫族万歳!! 。」
    と、オリテきました。

    <丸山古墳の工事資料>
    いやぁ、とても深く書かれてあるものですね。 しかし工事関係者の努力も浅いもので、古墳とは微細なものでもあるので、工事に入る前に文化庁へ連絡するべきだったのだろう。
    とはいってもマダマダ余地はあるのでしょう。 神社を置いている神明神社は天照大御神が祭られているから、神社の祭壇には何かしらの意味があるのだろうか・・・。
    この丸山の神明神社の親元は松岡町室の明神社だろう、地鎮祭の時もこの神社の宮司が来ていた経験からですが。神明神社自体が伊勢神宮の子分の神明神社というのは最近知りました。
    三つ巴の論争になったとしても古くなった水源地やヘビの巣と成っている事も整備してもらいたいし、古墳が有るとするならば古墳の復活と供養と祭政を考えてもらえれば近辺に住む者として感無量、感嘆となります。




  • #35

    ヒカル (日曜日, 27 12月 2020 00:20)

    12月26日  
    ヒカルです。
    細川先生の先生口撃は大したもので邪馬大国そのものです。 感謝 感謝!!。
    孫正義氏の新陳代謝のように夜を照(世を照らす)らす行動そのものです。
    <観光>
    菅公・慣行・感光・勘考・漢口・・・・観光と同じ "音" で考えれば同じ意味に近いもので、とても良い傾向となる言葉だと思われます。  へたな浅い知恵で箱物を造ってしまう前の観光を造っていくべきなのは観光の目的とも言えるでしょう。
    裏日本(日本海側)の観光地として有名なのは出雲・兼六園・弥彦神社・舞鶴・かに域、など多くあるが日本列島から見ると無いに等しく、無いというよりも北朝鮮が共産化している異常による日本海の側の活発化が進まない上に、過去の文化が見えなくなっていく年月も大きな負の経済となっていってしまっているのだと思います。 日本海の穏やかさ(冬だけは寒荒波)というのはもったいない財産だと思われますし、スキーなどのスポーツだけではなく老後の避暑地としての雪かきなども長寿への住環境となっていて、バイキンやウイルスが地に水に流れていきやすく沈んでくれるというメリットや、農産物の豊富さなど、いろいろ考えていくと日本海側の計画がカスミから少し見えてくる、いやいや光ってくるような気がします。
    観光にはハッキリした歴史観を取り入れるという事で、的屋が生まれ健全商売が増え都市も潤ってくるのですから、まず、先ず適当な歴史と文化を見詰めていきたいものだ。
    違っていてもいいんです、九州には九つの邪馬台国候補があるらしく、それも文化です。箸墓だけでなく日本列島に100の邪馬台国が生まれてもいいでしょう。

    <天皇家の流れ>
    旧約聖書のイザヤ書には、東へ行け東の行きつくところの山にシオンの・・・・・飛騨に流れ着いた少数のトーラー持参のイスラエル人たちは、高天原として小さい文化を。BC2600年頃から始める。
    天之御中主神(アメノミナカヌシ)高御産巣日神(タカミムスビ・高木神)神産巣日神(カムムスビ)から始まりスメラの始まりとなる。 飛騨に文化を伝えて縄文から弥生へ移行し、未だ飛騨の山奥に出ないままに居たが、弥生期になるとコメ文化が隆盛を成してきた、ので。その米の生産地へ弟子入りする。高天原(飛騨)~ 天津国(越前)へと第一次降臨した。 その国は越前平野であって、伊邪那岐・伊邪那美あたりから天照大御神あたりまでは越前に居を降ろしてスメラの文化を継承していた。 そして卑弥呼(天照大御神)死を過ぎてから天孫族の文化は高千穂や奈良(大和)へ再度降臨し、国つ神(天孫族の本拠の山本・山下の降臨)国との接触し本格的に奈良に居を大々的に移して大和政権を運営する。
    越前時代に学んだ事が良かったのだろう、天孫族(スメラ一族)は日本全国に的屋商売の神社を多く建立してヤクザへも救いの手を差し伸べた政治を、祭りごとを営む。 
    祭り事は大繁盛して大和政権の柱となり、そして日本統治へと向かう。

    天孫族の意味合いからすればスッキリと腑に落ちる話ではあるが、九州説・畿内説 などから言えばつまらなくなるのは必至だ。
    文化の交差点となる地であれば残すべき歴史は大切にしたいものでしょう。

    ただ天孫族というものの本質が何なのかは判然としないが、清く・正しく・美しく の三柱を怠った村・町は消えて(近寄らない)いっている現状があるのは天孫族の怖い考えとして捉えていいと思う。
    福井県も日本も整理整頓を怠らないように世界の模範として生きていくべきかもしれない。
    清潔に手を洗い・マスク着用・美センス は21世紀先も必要だという事だろう。

    史論ではなく私論ですが、
    のりきれ紅ショウガツ、オショウガツ !!
    今日もこの辺で。

  • #34

    ヒカル (日曜日, 20 12月 2020 02:47)

    12月19日
    弥生時代には全国に様々な形態の 国・王朝・地域・信仰共生域、などが何十か国も存在していたのでしょうね(笑)。
    こんにちはヒカルです。 
    邪馬台国というのは山大国と簡略して伝えていたとするのならば、白山信仰域と理解すれば分かりやすい国名だろう。しかし国というには範囲は掴めないものだ。
    今回も私想定による自由解読を決行します。

    <飛騨王朝について>
    福井(越前)からは白山山脈系を越えた所に、山岳が囲む大きな盆地に高山市があります。 その地には王朝があったというので、ユーチューブにより調査しました。
    ・・・・・・・  ・・・なになに、記紀神話である始まりから大和遷都に至るまでの記紀の歴史が口伝として伝承され最近2000年を過ぎた頃に口伝を一冊の本にした人が公表したとある。
    私も今、これらの事を検証中なのですが・・、なにやら白山信仰やククリ姫だけでは説明のできない事柄がもう一つ在るような気になっています。 高層出雲社殿の建立といい飛騨地方には質実剛健な建築物が並んでいるのを見てしまうと、寒い寒冷な冬で閉ざされる山岳だけに眼中に無かった飛騨地方とは。
    基本的に皇尊(スメラミコト)を生んだというか創造したというのか天皇家の筋を生んだというのか、各地に山本・山下を派遣し本家と分家を創造して上方様(うえかた)を本家としてスメラを飛騨(高天原)に置いたという。 理に適う話ではあるが、なんとも・・、都度都度に軍隊がサポートして派兵したとして、高山(飛騨)から多くの兵が集まって中つ国へ向かう(例えば出雲)としても大変な行程となっていると思うが、たとえば橿原の宮の近くに飛騨村がある様に、越前に飛騨村(出張所)があるのならば船団を組んで水平に軍隊派兵は可能だろう。
    しかし飛騨王朝伝説に越前が少しでも口伝されていないというのは、いささか眉唾の伝承なのだろう。 後乗せを感じる。
    飛騨王朝を感じさせる話として、戦後に熱田神宮の剣をアメリカ(GHQ)の監査の為に飛騨一位神宮に一時隠して置いたという話があるのが飛騨王朝伝説を裏付ける何かが有る。

    しかし私にとってコメ文化圏でなければ、その当時人口も増えないし、産業も花開かないし、ましてや軍隊も作れないと思う。ということは百歩譲って飛騨王朝に上方様があっても、実質として越前米作地帯に何らかの本部出張所が在っての出雲出兵だったのではないのかと思う。
    それが卑弥呼・天照大御神・重金命・建御雷神・手力の命・天鈿女美子などなどが越前で結び付いて、天照大御神は重金命と結婚していたと飛騨王朝説では語られているから、重金命は越前の王様的な立場で天照大御神はそこに嫁いだ形で生活の基盤を考えてしまう。
    天津国というのは高天原から見れば息の届いた範囲として天津国と見れれば良いのかも・・。

    <越前の特性>
    この地域というのは海面から10m程度と超水平な平野部が鯖江地域までえぐっています。
    早く言えば"水の都"となると思う、冬の積雪は夏まで川は枯れにくく、田畑の水分で夏までも
    蒸し暑く蒸し風呂状態が続く。 そんな水の都としてのイメージが湧いてこない越前地方は何か水の都としての苦労が足りないような気がする。
    福岡県には柳川川下りなるものが有るし、京都には高瀬舟だったり、関東には様々な川下りなる船旅が楽しめるようだ。 敦賀には日本海フェリーがあるが三国には無い。
    足羽川や日野川を整備して三国へ下る川船をいただきたいものだ。
    しかし現代では堰きも多く橋の形態によっては通行不可となるだろう。
    福井のイメージアップはヤハリ古墳観光を主に自然・うまいもの・やさしいふれあい、という事に尽きると想う。
    水の都という意味では富士山信仰や御嶽山信仰よりも豊富な水脈があるのは間違いなく、白山の水脈というのは枯れない川という信仰にほかならないようだ。

    ではまた。


  • #33

    ピカル (土曜日, 12 12月 2020 13:23)


    昭和・平成でも地名改変がありまして、多くの過去帳は消え失せてホコラか石碑にしか残らないという現状に、歴史は遠く遠くへとなっていくのだろうけれど何かの痕跡は見え隠れする。こんにちは、ヒカルです。

    今回も昨晩に続き、倭の邪馬台国内の風景を感じさせる何かを発見したと思うので発表させてもらいます。 
    https://map.yahoo.co.jp/address?ac=18201&az=MjY3&lat=36.05783&lon=136.26403&zoom=15&maptype=basic
    (殿下町の離れ区域の疑問)
    https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/18B0100017.html(殿下村)
    https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/18B0100016.html(天津村)
    https://pbs.twimg.com/media/DO3F7n2UMAAjIXA.jpg(天津神力)
    丸山町の隣村の今泉、その今泉町の隣村の殿下町の地盤は花野谷遺跡(多くの白玉首飾り)に近い場所に離れ殿下町の不思議・・・。 川面が荒川から真っ直ぐに玄関にとどいている様式の神殿があったのではないかと勝手に想像しました。
    昔は丹生郡だったが福井市に編入する前は天津村となっていて、その山辺には殿下村がありました。 たぶんに中流域というのは小舟の出入りには津郷よかった良かったのだと思われます。天皇家の祖先が天照系ならこの様なルートで弥生時代末期へ、そして天孫降臨へと歴史をつなげていったのではないでしょうか・・・あくまでも白山信仰は別の集団であって土着信仰のそれを学ぶ為に舞い降りた土地だったのかも・・・と思ってしまう。
    越廼村(改名) → 殿下村地区(福井市に編入) → 福井県丹生郡天津村 (福井市に編入)

    はっきり言って天皇系は中国に居た景教系で景教は西アジアからであり、西アジアの以前はヘブライ(消えた12部族の̚カド族)だったと誰か(久保有政氏)の影響から理解してます。
    福井市清水町は菅笠が特産品となっている理由は旅人でもあったという事でしょう。
    落合神社の発祥も丹生郡であって、それから皇族が古神道を取り入れ天皇の系譜が生まれていったのではないでしょうか。正式な文書には四国系奈良物部王朝と結び付いて王政ではない皇統治と変化していった。
    皇統治は曲がりなりにも2600年が過ぎたという、その前は縄文土器文化という鍋煮文化が1万年以上続いており縄文統治は誰が統治するべくもなく、神託に依存し神を壊せば不敬罪として神罰の対象となる。 みなさん鍋煮(塩・昆布程度)で野菜や穀類や肉類を高温殺菌して雑菌ウイルスの消えたものをポン酢で食べましょう。 ウイルスが人体混入し飽和してくると簡単に別のウイルスを引き込みやすくなります。

    今日も持論展開の珍島物語でした。

  • #32

    ヒカル (金曜日, 11 12月 2020 22:46)

    12月11日 
    ヒカルてす。 コロナ下で仕事も削減されて時間があるので試行錯誤で空想中なのですが・・・誤字や誤文が迷惑の無いように気楽に読んで貰えればイイです。
    しかし記紀は読みずらいのこの上ないですね。
    <古墳盗掘について>
    私の母親が戦時中に空襲を避けるために丸山の部分(諏訪神社祠の北西部分)に防空壕の穴に入ったとの事です。 深さを聞いたのですが・・ 深いか浅いか記憶にないけど穴に入ったとの事です。  丸山の脇周辺にはヘビがよく出没して困っているとの事ですが、石灰を播いたり工夫をして防いでいる様で最近わたくしの家に現れたようで石灰粉を余計に播くように伝えてあります。 なかなか厄介な守り蛇神が取り巻いているようですね(笑)。
    <天照大御神である場合の宝物>
    この場合天孫降臨で消えたモノは三種の神器
    天照大御神の子である天忍穂耳命、天忍穂耳命の子邇邇藝命へ勅令が下った。
    邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。
    さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。
    天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。 邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。

    三種の神器は天照大御神の生存中の最宝物品だったので日向の国へ云ってしまったし、日向の降臨伝説が嘘であるならば・・・狗奴国へ戦利品として奪われてしまったと考えられる。
    と理解するならば、丸山古墳に残された宝物品(卑弥呼周辺)は祭祀用土器や金印・銀飲・などと化粧用品・衣装・椅子・スプーン・箸・防蚊薬・小さなヒスイ・メノウ・ロウソク・茶碗、等々の小物などが箱詰めとなってあるという事だろう。

    <天照大御神(白山信仰域の名前)と卑弥呼(邪馬台国女王での本名)>
    白山信仰の拡大の為に一肌脱いだ卑弥呼は孫(まご)を九州南部へ派遣する。信仰と権力とが入り混じった考えのもと卑弥呼は言う{「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」}と。
    現在の日本国の国旗とは白をベースに天照太陽が真ん中にあるのは偶然とは言えない気がする。必然だったのか。 白山菊理姫神社(白山王朝)と天皇家との接点は菊・白・天・王・太陽
    なんとなく感じる。
    <北陸地方の食生活と似た食品>
    さて、このような騒動(岩戸が暮れ)になったのは、もとはといえば須佐之男(すさのお)が原因です。神々は須佐之男の処分をどうするか相談いたしました。そして、二つの刑を決められたのです。
    ひとつは山のようにたくさんの物品を差し出すこと、ひとつは須佐之男の髭と手足の爪を切り、けがれを払うというものでした。 神々は、それらをとどこおりなく済ますと須佐之男を放しました。大騒ぎも静まりようやくひと息ついた神々は、空腹を覚えたので食べ物の神おほけつ姫(大宣都比売)に、おいしい料理を作ってくれるように頼みました。
    おほけつ姫は、はな、くち、大きなお尻から食べ物を取り出してごちそうを作る不思議な女神です。そこで、さっそくはりきって料理に取りかかりました。
    まず、おしりから、五色のお米をとり出してご飯を炊きました。また、おしりから里いもを取り出して口に放り込み、ぐちゃぐちゃとよく噛んで、それをよだれのように垂れ流し、おいしそうなとろろ汁を作りました。鼻からは、あずきや栗をまるで鼻くそのようにほじくり出して、ぐつぐつと煮込んでいます。
    ほんとうに楽しそうに歌を口ずさみながら、美味しいものをつくろうと一生懸命です。
    偶然通りかかって、その光景をのぞき見ていた須佐之男は、
    「おえっ。なんと汚いことをするやつだ。あれを食べろというのか!」
    と言うなり駆け寄り、大きなお尻のおほけつ姫を剣で切り殺してしまったのでございます。
    殺されてもさすがに食物の神様です。死体からは食べ物がどんどん出てきます。
    頭から蚕が、目からは稲が、耳からは粟が、鼻に小豆、ほと(女陰)に麦、尻に大豆が生じました。死体に成ったこれらを、宇宙を創造された造化三神の一人、かむみむすひの神が採って、種とされました。それがいまわたしたちの食べている五殻と養蚕の起源ということでございます。
    このおほけつ姫さまは、阿波の国(徳島県)の神山町にある、上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)の御祭神としてお祀りされています。
    さて、堪忍袋の緒が切れた神々は、またもや乱暴を働いた須佐之男を、ついに高天原から下界(中つ国)へと追放しました。
    権力系だけで育った人は"穢れ"や"清潔"や"美"が不足していて何らかの神門に入らなければならない運命を辿っていっている、スサノオも次第に厚生し由り強い権力者と成っていった。
    <荒川の舟場跡での別れの見送り>
    邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。
    さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。

    なんでも繋げて試行錯誤してみました。(笑)
    ではまた。

  • #31

    ヒカル (水曜日, 09 12月 2020 23:00)

    12月9日

    5日間で田舎に帰ってきました。 ちょうど福井県議会ライブ中継を見る事ができました。
    パソコンでも見れるのでしょうけど、家族と丸山古墳という議会のテレビ音声で、80代の老夫婦がくぎ付けとなっていました。 私もです。

    時間があったので前から気になっていた荒川について、爺さんが語るには…・隣村の下中町(旧名)、北今泉・東今泉には"舟場跡"が有ったというので、ピンときまして、荒川を下る小舟が存在していたというので、東今泉へ行ってきました。    ・・・おぉ ありました!!。
    米を運び、海産物や肥料を購入する商いが成立していた様です。 実に良い発見だと思われます。 船着き場というのは私が知る限り、船橋地区(森田)・舟寄地区(丸岡)・足羽川(福井市)に有ったぐらいだと感じていました。まさか荒川中流域にあるとは、やはりそうだった。
    <白山白ら姫神社>
    2100年前に船岡山に神社を誰かが創ったとあり。泰澄大師は700年頃に白山頂上に神社を置いたとされ御祭神のククリ姫は伊邪那岐・伊邪那美のケンカの仲裁をした人とされている。
    どうしても、白山信仰の巫女・神官などなどの物語が多分に古事記・日本書紀には引用されているきがしてならない。丁度 西日本には白山信仰が手薄だった様で、天下った気配がある。
    八幡神社信仰は秦氏の紀元後からなのでその当時は白山信仰は絶大の勢いがあった様だ。
    どうでしょう。

    今日もこの辺で。

  • #30

    田中 (月曜日, 07 12月 2020 11:13)

    ・12月7日、福井県議会ライブ中継を視聴していました。
     短い質問時間の中で、細川かをり議員は慣れたもので簡単明瞭に、鉄器出土、林藤島遺跡や翡等々要領良く質問されていました。教育長からは、福井市を通じて県に上がってくれば、昭和29年建設の貯水池がある、いわゆる丸山古墳についての話し合いが行われる。という事でしたが、所有権者が許可をしないと駄目ですが、凄い前進だと思います。日本の原点が福井にあるということが、一歩、現実味を帯びて来たと感じました。

  • #29

    八俣遠呂智 (金曜日, 04 12月 2020 06:01)

    【卑弥呼の墓が議題にのぼります!】
    福井県議会12月定例会一般質問において、細川かをり議員が質問します。
    地上波およびインターネットで生中継されますので、是非ご視聴下さい。
     予定日:2020年12月7日(月)午前10:00~
     地上波: 福井テレビ(FTB ローカル局)
     インターネット:福井県議会ページ (世界中で生中継!)
    https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/036050/shitsumon-chukei/shitsumon-chukei.html

  • #28

    ヒカル (金曜日, 04 12月 2020 03:24)

    12月3日

    https://m.youtube.com/watch?v=s8M21r5e5ms
    11月20日頃の細川かおり先生の現在の行動力(ラジオ最後部に古墳の夢語る)・・・。
    細川先生は大変に権力と文化と食欲に長けた人だと思います。 細川先生の御磁力で暗い地に光を差し込んでもらえれば嬉しい人は多いと思います。ただ古臭いものには興味の無い人もいます、でも古くて新しい文化としてほしいものです。

    <高天原を治めるために天照大御神には米倉と手仕事を>
    古事記より  禊払い後の子供たち・・・託すもの

    ・・・ そしてさらに、左目を洗った時に誕生した神が、天照大御神あまてらすおおみかみである。
    次に、右目を洗った時に誕生した神が、月読つくよみ命のみことである。
    次に、鼻を洗った時誕生した神が、須佐之男すさのお命のみことである。
    八十禍津日やそまがつひから、須佐之男すさのおまでの十柱の神は、体を洗い清めることによって誕生した神である。
    このとき、伊邪那岐いざなきはとても喜んで、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」
    と命じて、ただちに首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしながら、天照大御神あまてらすおおみかみにお授けになって言った、「あなたは高天原たかまのはらをお治めなさい」
    そして、その御首飾りの珠たまの名を御倉板挙之神みくらたなのかみという。
    次に月読つくよみ命に向かって、
    「あなたは夜の世界をお治めなさい」と命じた。
    次に須佐之男すさのおに、
    「あなたは海原をお治めなさい」と命じた。

    <淤能碁呂島>
    ここに、天つ神一同のお言葉によって、伊邪那岐いざなきと伊邪那美いざなみの二柱の神に、
    「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」
    と仰せられ、神聖な矛を授けて御委任になった。
    そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子はしごの上に立たれ、その矛を刺し下ろして掻き回された。
    潮をゴロゴロとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。
    これが淤能碁呂島おのごろしまである。
    二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。

    私見>  淤能碁呂島というのは伊邪那岐いざなきと伊邪那美いざなみが生んだ島ではなく、もともと在った島で、周りの水分が抜け落ちていく様子がうかがえます。 この地域に住み始めたのが伊邪那岐いざなきと伊邪那美いざなみであるとするならば最初に生んでしまった蛭子や淡島は失敗した。 なので高天原へ昇って「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神あまつかみの所に行って申しあげよう」と言って、ただちに一緒に高天原たかまのはらに上って、天つ抻あまつかみの指図を仰がれた。 とある。
    高天原はこの地より高い所に在ると考えれば・・・白山信仰の地の神託か、別な天皇族の神託なのか・・・・。
    日本には・・・神社があるが一番多いのは八幡神社・白山神社・御嶽神社等々の数ではダントツであるが、この地(福井)には白山信仰が有った様で、・・・そこで天つ神あまつかみの命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、
    「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。
    と天津神(白山縄文信仰)から神託を受けていた感じもする。
    その後、先代 先々代と家系から伊邪那岐の知るところの日本地図を頭の中で統一していくオボロゲな感情が、古神道に従属した天・家の始まりの物語なのかもしれない。 ただ、
    天・家の先代が高天原たかまのはらに現れ出でた神の名は、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ、次に高御産巣日神たかみむすひのかみ、次に神産巣日神かむむすひのかみである。この三柱の神は、すべて単独の神として出現した神であり、姿形を現わされなかった。 とあるから何処から来た一人神なのかは謎だと思います。

    ひとり語りも
    今日はこの辺で。
    次回は月読みの命と瀬尾理姫の同一について。





  • #27

    ヒカル (火曜日, 01 12月 2020 11:48)

    12月01日 火曜日 

    秋も終わり日は短くなってる今日このごろです。
    福井県内の邪馬台国のポイント地として私が気になっている所を詳解します。

    <元伊勢の点在ルートの一つの福井県大野郡伊勢地区>
    この地を何度か訪れた事があります。 グーグル地図で見れますけれど、現在はナニモ無いのですけれども其の昔"42社の神社が在ったらしく、九頭竜川の上の上の天上の広場と言っていいくらいの場所に42社が有ったと言われています。 崇神天皇五年、疫病が起こり宮中に有った"天照大神"と"倭大國魂神"の御霊を崇神天皇の娘の豊鍬入姫命に託して途中から倭姫に託して82年間も各地をさ迷う。  三重県の伊勢に天照大神の御霊の選定地とする前に倭姫一行が選定地としてこの地に何年間も滞在した様です。
    84年間も彷徨い、"天照大神"と"倭大國魂神"を祭る神社を29か所も作り結界(権力のネットワーク)としての卑弥呼~台与~崇神へと神による統治を行い、伊勢神宮の天照へとつながっている。

    福井平野~大野盆地~泉村~~伊勢地区 へと九頭竜川を昇って行くと42社もの神社を置いたという意味があるのだろうか・・・・この地は豪雪でもあるから限界でもあったのだろう。

    <丹巌洞>
    この洞窟は卑弥呼の前の代から在ったであろうと思われます。 この洞窟は福井の青石の取れる採掘場で足羽山の西壁に有って、今はレストランであり江戸明治時代の秘密の社交場として利用されている様で動画でも紹介されています。 この洞窟に籠る事は可能だったのではないかと思います、鉄器がある時代ならばあの笏谷石は成型が自由だと思います。少し行けば足羽川・荒川へ繋がっています、緩やかに。
    https://www.bing.com/videos/search?q=%e4%b8%b9%e5%b7%8c%e6%b4%9e&FORM=HDRSC3
    <戦国武将の朝倉一門>
    邪馬台国とは時代が浅いですが、朝倉家滅亡(信長侵攻)の時でした、朝倉義景当主は東の大野へ逃げて其処で自害する。 しかし生き残っている一門とその家族は小舟を用意して、足羽川から西へと流れに沿って九頭竜川、そして三国湊へと出て、北前船で毛利家へ逃げていったというから、未だ室町幕府の守護大名として逃げる場所を考えていたのはあるらしい、あったという。 福井の平野部の河川は緩やかで平面に近いのが良かったのだろう。
    <大野笠>
    笠縫村という村では編み笠を作っていたみたいで、思わぬ雨には傘が必要な事は多いが、この時代では編み笠は重要なアイテムであって重宝されていた様で、大野笠もこの土地では有名になるくらいのモノだったと、大野笠という名称が今現在伝わっています。
    <大野城>
    福岡県に大野城という山城がありますが、倭国の繋がりから邪馬台国から城壁工(大野出身)を派遣して作らせた倭国の城だったのでは? と、疑問が出てきました。 福井の大野は中流の盆地で河川に行けば城固めの石も多く、現在でも住まいの石は城壁の様に石積が施されていて、石組み工が盛んな地帯だと思います。
    <太平記のシーン>
    太平記の最後のシーンで越前の多くの山城に逃げ延び新田一門は最終的に国見山の北隣の高須山に陣取り、足利勢(朝倉等々)が取り囲む中で持久戦に持ち込まれてしまっていた。 何日も食料が無いままに持久戦になって食料は尽き果てて、飼い犬も限度にきていた。 その時犬は走った。 犬は斬られるが、また夜が明けようとした時、新田のサムライ太刀どもは高須山を駆け下り東国がある日の出る方角に向かって走り出した。 九頭竜川を渡り沼地や田畑を飼い犬と共に走り切り、当主の死体が転がる藤島地区を抜けて古市地区を北に向かう、浄法寺山系の支流の川の谷に逃げ込む、そこは岩屋観音と云われる磐座があり、その谷の奥に逃げ込む。
    足利勢はゆっくりと捜査に山狩りをする、が、その時、三余人のサムライが犬を先頭にして九頭竜川河原まで威嚇して落ち武者となって多くの弓で射掛けられて、最後の新田一門だったのである。
      わん   わん わん   ぶぶぶぶぶ~~
    飼い犬はかいほうされた様だ。    太平記より

    太平記と古事記は感情先行で楽しく読めました。
    今日はこの辺で。

  • #26

    ヒカル (月曜日, 23 11月 2020 05:53)

    11月23日月曜日  05:30
    ・・・(ヒカル改め)

    掲示板の掲載ありがとうございます。
    丸山の中まで見えるような話を絵を見るにつけ、少しずつ心の中で、早く開かれて"供養"できる環境をととのえてあげたいなぁ、と思います。 と同時に神社が建立された場所には鳳凰が飛来する為の好物を種を播いてあるようにも感じます。
    すでに卑弥呼の供養は神社形式で済んでいるのかもしれません。神明神社の歴史とイワレヲ知りたいものです。

    <卑弥呼と奴婢100余人>
    当時・・・卑弥呼の最終時には魏への朝貢のなかで、影と成っている人々が日本へ流れて来ている人々がいると思います。 呉が奈良地方まで流れてきたでしょうし、公孫氏が滅亡し帯方群まで支配が及んでいたそうで、日本列島へ逃げ延びる公孫氏交戦士などが入りずらい倭国ではなく南廻りで日本の中央勢力?へ逃げてきた人々もいたでしょう。大きな魏への対抗勢力ですから戦闘能力は"A"エース級でしょう。 それら緊急渡来人も生活に追われているうちは良い子のだけれど、先頭渡来人のギラついた眼は隠せない・・・・。
    倭国の邪馬台国の存在を知ると、魏への朝貢以下倭国の対応が腹立たしく思われていた気配が、卑弥呼子など準勢力の名の中で、感情を移入させてきた感がある。 と、推察していくと邪馬台国(女王国)が魏とともに強く成れば、せっかくの日本への渡来も台無しで、調査され削除は繰り返されるだろう・・・と、公孫氏の緊急渡来人は強かったのである。
    彼らは倭国の中心を調べに調べる。倭国の大きさから全体に戦闘を仕掛けるのではなく、女王の住む地域に限定したシノビ的戦闘集団を作ることに卑弥呼子を持ち上げ、突如に!! 越前地方に乱入かオゴソカに忍んで来たのである。 百四人と卑弥呼を謀殺に及んで魏のつながりを断つ事に成功する。 それから先は闇の150年と云われる解らない時代に入っている。
    歴史書は書く!! 子への伝承はするな!! 神社継投は残すな!! などなどの歴史真っ暗の中に入っていく傾向があるのです。 そんな中、幼少であった台与は"見ていた!!"!!、未だ倭国が存続の中ではあったが台与も狗奴国内の天皇家との関わりの中で仲哀を婿入りさせて倭国を存続させようとする。  そして、公孫国=朝鮮、への敵意の証を盾てる為に船出する。
    神功皇后の伝説へと繋がっていく。

    あくまで小説です、私説です。

  • #25

    ヒカル (月曜日, 16 11月 2020 04:07)

    11月16日月曜日 深夜 02:00

    ヒカルです。
    卑弥呼の墓2,3,4と連ねてこられて大変な努力をされている姿に感動しています。
    "確定"したという表現へ移行している以上、私もそれを押す為の、私の記憶から支えたいという気持ちが、またパソコン投稿をする気持ちにされました。
    <私の丸山の記憶>
    小学生の頃から丸山神明神社への春・秋祭りへの参加と神官の祝詞を聞いたりお神酒・供え物、菓子を頂き、当時の丸山町という村の習慣という形式を体感していました。 小学生後半になって近所の仲間と山の中を散策・遊びする事が多くなり、貯水棟エリアへ当然足を踏み入れ、カクレンボ・鬼ごっこ・スキー・戦争ゴッコ等々の遊びをしている中で、神社の脇に置いてあった棺か手水鉢が気になっています、・・・そして山の崖側・蛇側・赤土崖側・カブトムシ側・階段側、と視点の小さい小学生でもあるから、見るモノは総て大きく感じたのでしょう。 ある時、神社の裏路地を登り始めたら、巨大な鳥が羽根を広げて道の真ん中に居るではないですか、化け物的に後ずさりしたが、少し萎んだので鳥を見つめたら鳳凰という�鳥が(今となっては)後ろを守る様にトウセンボ、結局頂上には登らなかった記憶が蘇えってきました。
    高坏(タカツキ)を丸山頂上から出土されている様ですが、その流れで言えば私も小学生6年頃でしょうか、貯水棟エリアの外郭2メートル付近の表土から現代の物品とはいえないコインの欠片かガラス製の破片か古代木片だったか、なんだか古い小さな奇妙ものを拾って皆に見せた記憶があります。 
    <丸山の形状>
    丸山の形状というのは全体の形状ではなく、古墳を創った形状のところであるのですが、最近気になっている事ですが、"勾玉"、勾玉の形状に似ているというか、勾玉の頭の穴が御墓の位置だとして神社へ下り西へ下る、という形状が・・・・。 勾玉はそれ以前の形状なのでそれ以上に語ることはないですが。
    <丸山釜山遺跡>
    酒生遺跡が南に有りますが、ここの場所には古墳時代でしょうけれど法隆寺の様な五重塔が聳えていたらしく、ただ足羽川扇状地でもある為に、土砂や泥土が流れ込み台無しになっている現状が発掘されています。 丸山釜山遺跡も何百年は存在していたのでしょうが、九頭竜川(黒竜)も扇状地である藤島から新保・開発へと泥流が流れ込み現在では弥生時代の遺跡は地下一メートルは掘らないと出る遺跡ではないものと思われます。 以前書いたのですが、私の田んぼの塚田という一角がありますが、その塚田でも80センチ以下に何かが有るのはわかっています。ゴリゴリ ゴリ と音が皿が何かが有るようです。(30年前から土を掘り起こしたい想い。)しかし今は30センチ盛られて田んぼをフラットにした父親の経緯が・・・。
    チャンスがある米を刈り取り以降の台風の無い10日間でなんとかしたい。
    <楼観御殿>
    原目山・花の谷遺跡と丸山との真ん中に荒川が流れていますが昔は吉野川と言われています、吉野山から流れている川で九頭竜川と足羽川を結ぶ様に穏やかな流れの川で流通に利用されていたのはあるでしょう。 古くは吉野川と言ったが、大変荒れる川として荒川という名になったとされる。 問題は低地である福井平野でも小高い丘か山側のヘリに住む縄文・弥生と移行する中、より平野部へ移行するのですが、荒川(吉野川)の蛇行する平野部で選り小高い丘は楼観城郭御殿の選定となるとしたらそれは何処かということになると思われます。
    わたしは原目山側・花の谷側に楼観城郭御殿が有ったのではと思います。なぜなら卑弥呼の墓は別ですが奴婢100人を埋めることは住まいの身近かな場所ではなく福井平野一帯から見え隠れない 場所 が墓地選定とされてはないのだろうか。
    荒れる・安らぐという対語としての荒川と安川は何やら気になる。

    さて、今回の高坏の具体的文様が私にも何かしらの天地創造を想わせるものであったのだと、深く感心しました。しかし天と地の中間にある四角い穴と丸い穴は何を語っているのでしょうか・・・・陶工の感情を読むには何だか深い理想が表現されているのでしょう、古事記の創生記を読み返してみようと思います。
    では。





  • #24

    田中 (日曜日, 15 11月 2020 18:58)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事と思います。
    11月14日に、大阪府立弥生文化博物館の学芸課長の「弥生農耕、近畿における始まり方」の見解を拝聴してきました。
     その中で、「遠賀川系土器の東進」をお話しされましたが、何故か、青森県まで一気に広がったのが不思議。と述べられていました。八俣遠呂智先生の日本列島環縄文人による津軽海峡の活用ですね。
    コロナに気をつけてお元気で過ごして下さい・

  • #23

    田中 (土曜日, 24 10月 2020 19:21)

    八俣遠呂智先生
    お元気でご活躍の事とご推察申しあげます。
    国指定史跡の田能資料館に行きました。昭和40年9月、尼崎市、伊丹市、西宮市三市共同による
    工業用水配水場建設工事現場から偶然に大量の弥生土器が発見されました。碧玉管玉、白銅製釧、銅剣鋳型等です。人骨は木棺墓(成人)、甕棺(幼児)の両方がありました。屋外は、復元した円形平地住居、方形竪穴住居と高床倉庫が書く棟です。ここで、弥生農耕の水田稲作を主テーマとしている大阪府立弥生文化博物館のご招待券を頂き、入館料650円が無料で入館出来ました。二階建ての鉄筋コンクリート造りの立派な建造物で、弥生土器や木製道具、ご飯を炊いた土器が展示されていましたが、1階の出口付近で卑弥呼の想像立体像があってバックに、魏志倭人伝を映像で映して非常に迫力がありました。邪馬台国近畿説なのだと思いました。11月4日に「弥生農耕 近畿における始まり方」を学芸課長の三好様が解説されるので申し込みをしました。コロナウイルスに気をつけて益々の研究を楽しんでください。

  • #22

    田中 (土曜日, 19 9月 2020 00:50)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事とご推察申しあげます。
     さて、コロナウイルスで世界中が混乱になり、生活のスタイルの変化がおきています。
    既にご存じと思いますが、ビッグニュースです。京都府京丹後市で後期旧石器時代、約3万6千年前と推定される石器152点が上野遺跡で見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが17日発表しました。約3万年前の姶良カルデラ(鹿児島県)の噴火で出来た火山層と、約6万年前の大山(鳥取県)の噴火に伴って出来た軽石層の間から出土。さらに島根県・隠岐諸島産の黒曜石も5点出土しました。

  • #21

    ヒカル (水曜日, 16 9月 2020 03:45)

    ヒカルです、 何度か投稿して最後かもしれない投稿です。
    八岐大蛇さんには大きく細かく多くの歴史を聞かせていただきました。 感謝しています。
    日本の歴史の最も関心事であった邪馬台国の秘密がパソコン上からでありましたが知ることが出来て幸いです。 なかなか色んな考え方の文章を読むにつけ解らなかった古代王権の在所や流れ等々の歴史的事実の不快な所をズバリ解釈入り(科学的数学的裏付け)で答えている事がおそれいります。 私がパソコンで見た中で八岐大蛇氏がトップだと感銘しています、そして好きなのが伊賀出身のキリスト教牧師の久保有政氏が第二位で、三位に竹田恒泰氏となっていて八岐大蛇さんはダントツ一位の衝撃でした。 感銘します。
    最近の"邪馬台国は越前だった"の著書の酔生さんは知らなかったですが、書いてくれていた帯からですが越国から小越国へと移行した中で漢文が入ってきたというのは勝手解釈による酔生氏の酔った勢いが感じられていると思います。それは越国は漢民族ではなく別の言語を使っていたという事は情報化の今だから分かる事で・・・酔生氏のワンマンさが出ているうえに半分の真実性が消えてしまう感じなのです。それゆえ酔生氏をホオッテおくわけにはいかない怒りが私にも感じられます。
    確かに誰かを経由して邪馬壷国は鯖江の音感は認めたい事です。越民が福井へ入国前に立ち寄った出雲には、やはりその当時から指導する力が有った所で血なまぐさい銅剣を埋めて雪国地方に誘導したと出雲の過去帳に記載があると福井の歴史本に書かれてあったのを信じていますが、酔生氏の書き方解き方というのは半信半疑と見られてもショウガナイでしょう。
    【金冠・銀冠】
    魏志倭人伝の金印(親魏倭王)とナシメ氏の銀冠は何処に行ったのか、当然卑弥呼女王の代物で
    捉えるのなら卑弥呼の墓に埋まってしまっているものと捉えたいが、邪馬台国及び倭国の代物である捉え方であるのならば倭国の為 邪馬台国の為に利用されたのではと思われます。
    それらの流れで考えると二本松の王冠(金・銀)は引き延ばしてメッキ状にして張り合わせられた仏壇のように、金沢の金箔文化もこの頃からなのでは・・・・と感じてしまいます。
    漢民族に対抗するだけの越廼文化というのは中国の深さを感じざるおえない。福井の奥越へ行くと中国の越地方の住宅と似たものがたくさん有りコメ文化里芋文化となっています。

    私が好きな継体王の大和征服という捉え方ですが、継体王が天皇となり高志を出られて畿内で活躍後無用の長物となり高志に帰郷する時に揖斐川上流に桜を植えられたとされます。その桜を淡墨桜は蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。  
    継体天皇の始末の良さは格別で、それだけ余裕の生計が有ったのではと想わせる。

    コロナの影響で何事も悪影響が続いています、経済回復もままならない状態ですが先へ先えと進んで王手といきたいものです。 福井へキタときは一度連絡(0776-54-1059)いただければ丸山でも案内します、他も車で案内できます。 私自身九州の八女に短大を出て今は関東で車のドライバーなのですが定年までは此のまま関東で・・・・丸山の神社へ上る階段の自転車を思い出してくれれは、その近くなので丸山っ子でもあったので、今は地方が過疎化しているのは帰郷するたびに考えさせられています。

    では真夜中のメールでした。

  • #20

    ヒカル (土曜日, 08 8月 2020 18:43)

    福井県への陳情書の動画見ました。
    なかなか壁があるようですね・・・・、そのうち古代への回帰といいますか、古代人が生きながらえて今現代に繋がってきた経緯の大切さを感じていく大人が増えてくるとは思います。
    日本古代の食事法>
    古来から食は大切なものであって、食べる事で身を作り、衣服を着て、住まいを造成してきた。 縄文時代何万年から受け継がれている煮炊きの方法として、湯煎という煮物が塩や昆布やハーブ的な香辛料で煮物鍋が日本では中心の方法として縄文土器が発掘されています。
    日本では焼いたりレア肉を食べるというものは縄文時代には少なかった、なぜ鍋物的に食を採っていたのかは、呪術的な動植物を食する行動を罪穢れ的にもクリアーする必要性が有ったということ、ウイルスは目に見えない悪霊であり穢れであって煮炊きをして悪霊退散・疫病退散という手段で縄文時代は生き抜いてきた、生命を繋げてきた。
    今回のコロナ問題は古代の知恵泉が途切れているのではないのか、現代を蝕む根本は、古代を正面から見据えない、試そうとしない、発掘を学びの基本としない事がコロナ蔓延へと加速させているのではないだろうか・・・・・。
    弥生時代の食事法は、コメ・酒・梅、など進化を遂げていて、縄文食事法は土鍋に塩を入れて煮込んだ形だったが弥生時代になって焼き入れて食事する方法が増えてきた。
    煮炊きの大切さ>
    インデアンのジャーキーは油を落として赤肉だけになるまで干して食べた、イスラムでは14日のハウルと言われる日にちを経て肉は食される、日本では水と塩を鍋で煮て食べる、それぞれが何かを警戒し(雑菌かウイルスか悪霊)た食事法を行っていて、茅の輪・蘇・干し、などの形式も悪霊退散・ウイルス退散に重きを記したシステムだったのかもしれない。

    福井平野の食事法>
    この平野ではコメ文化なので米・酒・大豆・は欠かせない、魏志倭人伝にも似たような雰囲気はある。 コメ文化・餅文化・厚揚げ文化が何時からすり込まれ定着したのかは分からない。
    あるのは越という国を示す文字があるだけである。 冬は雪が二メートル~一メートル積もるのが福井県で冬場の動きは・・・ない。 その動きのない冬に知恵を絞って鉄器や玉造り・農作業道具などを生産し、生業とした。
    では日ノ御子と云われる人は冬の季節に何を思考していたのか、福井平野の南側にある文珠山は丸山の南に有って、その南に日野山といわれる古代の名の山があるが、その先の南の果てには狗奴国が有るという。 南に文殊というのはドウいう事か、それは南の地に知恵が隠されていたと勝手ながら推察する。 卑弥呼の存在も冬だけ親元の奈良の奥地へ墓参りだったのだろうか?、 それとも越前を捨てる為の行動があったのか、越前地方の文化は未だ"モノ"であり鉄・玉・船、等々の文化しかなく、神の社を見つめる機会は、卑弥呼の冬の行動だけが頼りだったのかもしれない。 よって三種の神器は何らかの平和を繋げる行いだったのだろう。
    越の文化を捨て九州高千穂に権力を移譲し、そして権力を移譲された日向の国が奈良を強大な大和国を再生し国を安定させた、のだろう。
    話は外れたけれど、福井平野の食事法は親鸞聖人が好きだった厚揚げを食べるのが今現在の食事法です。
    福井>
    むかし徐福が渡来し日本各地に福という名を残し渡来人が生きた証となる名前、福田・福島・福地・福山・・・等々の福の名は徐福一行の足跡と云われていますが、福井も拠点とした経緯は有ったのかもしれない。
    天皇の年齢について>
    故竹内宿祢さんがユーチューブで古代天皇の年齢を語っていたが、彼が語るには、春祭り・秋祭りを二年とする古代の習慣があったという、なので通常は60歳程度が古代の平均的天皇の年齢と語っていた。 なので卑弥呼と天照大神は同じ時代の人となるらしい。 ヒカルもそう思います。

    でわ

  • #19

    審議を追う (水曜日, 08 7月 2020 00:49)

    ヒカルの6度目の投稿です。
    コロナの災害中ですが、みなさん元気け。  
    母親から聞いた丸山情報>
    83才の母親曰く・・・10代で見た丸山山頂は、普通の雑ぎ林の山頂だったとの事。才 それは分かるが、何か・・何か土の盛り方という墓盛の様な形が有った雰囲気はなかったのか? と再度尋ねたが、再度 何も出張も窪みも無い山頂だったと言っていました。
    では、長年の風雨で岩が露出して磐座(いわくら)があるのが普通の山だと思い、岩の露出を聞いたが、返ってくる答えは普通の山頂だったと言っておりました。
    卑弥呼生い立ちから陵墓建設、そして御霊分け>
    卑弥呼に関して生い立ちや御霊分けなどは分かるわけはないが、他者の情報を聞いているうち、見ているうちに何かその当時の歴史に繋げたいという欲求から、エピソード(仮説)す。
     倭国大乱(146年~189年)後に女王となった卑弥呼の父は孝霊天皇(120年~211年)と思われる。孝霊天皇は鳥取県西部で鬼(出雲族)と戦っていた。孝霊天皇の皇女(四女)という立場で生まれているとすれば、直径でもないために豪族へ嫁がされ北陸の地へ豪族の妻として豪族を強くする立場として生きた。 孝霊天皇の鬼退治の若き先方隊として鬼を囲う神社を10以上作り鬼を降参させて国作りに関与、生まれは孝霊天皇の進出地の讃岐で水不足の為に池を作りも若き卑弥呼は経験させられています。(帝王学)
    そして越前へ、どういうことなのか未婚で80才まで邪馬台国の女王として暮らしていく。
    エピソードなので足しても引用してもいいのだけど、鬼退治をした時点で何らかの邪馬台国(豪族国)の王との接触とされるモノ…例えば鉄の矢だとか鉄剣とか米だとかの繋がりとして四女を嫁に出すという流れがあったのではないだろうか。
    そして早期に邪馬台国の王が死に女王として豪族の長として邪馬台国の女王となっていった。

    倭人伝の中の卑弥呼は、人前にはほとんど姿も見せず、そして南の勢力の狗奴国を相当嫌っていた(敵だとは言っていない)。 裏読みすれは天皇家系の繋がりがあるから時折 狗奴国へ御忍びで会議に出席して姿を見せなかったと理解すれば、南の狗奴国は脅威ではなく意見が合わない豪族の長としての立場だったのか。
    そして、
    そして死に至る円墳古墳は、身を豪族へ嫁いだ証として、愛した先死した王の下に円墳を作ったという事になる。  それから
    それから天皇家の御前会議なるものより、皇家の中で活躍の度が高い順番に選択された皇人は皇家名で天照王御神がダントツで選ばれた経緯から・・・・
    経緯から、身に着けていたモノが神を帯びたものであるとし、狗奴国へ闇に紛れて譲り受けた。 邪馬台国はゆっくりと衰退して倭国もゆっくり衰退していく。
    権力闘争に勝った天皇家(+狗奴国)は鬼退治程度の抗争劇を繰り返して現在の日本にしていった。 鬼は生かされて初めてオニイサンとして明るくなれるのかもしれない。

    今回は空想爆発で書きました、悪しからず。

  • #18

    wajin128 (月曜日, 06 7月 2020 04:05)

    【倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑】
    魏志倭人伝冒頭の文章ですが、ここに記載されている「倭人」の意味をご存じですか?。
    多くは「倭人」を古代日本の国名と考えている人がいますが、これは間違いです。
    例えば三国志に記載されている国名は「魏」「呉」「蜀」あるいは「濊 (ワイ)」「韓」といったように、すべて呼び捨てになっています。
    ところが「倭」だけは「倭人」と記載されています。
    漢文の基本文体は「主語」の後に「述語」を記載する約束になっています。
    つまり「倭人」は主語で、主語の後ろに「倭人」の意味を説明しています。
    古代中国では、当時の日本人を「倭」と呼んでいますが、全日本人の中の一部の人々を「倭人」としています。
    倭人は帯方郡 (現在のソウル付近) から見て東南の方角、大海の向こう (対馬海峡を渡った) 九州島の山間部に、国や村を築いている人々をいう、と定義しています。
    「為す」とは「築く」という意味です。

  • #17

    ヒカル (木曜日, 18 6月 2020 19:53)

    開けましてヒカルです。
    五度目の投稿となります。
    邪馬台国ワイド畿内説に朗報>
    『2020年の後半になって全国邪馬台国論争に大決着大宴会を・・・伊万里市高級ホテルより!!』
    なに、なんの集まり? 邪馬台国の新しい候補地・・・なのかなあ。
    誰がやるのかそんな宴会、邪馬台国論争に火に油を注ぐ様なことを考えの違う人々が集って集会をひらくなんて。  魏志倭人伝(遠い伝)が発見されて長い間日本は闇に霧にスモークに入り行き場を無くし、嘘八百が正当化されて無茶なノボリを並べて「いらっしゃいっしゃい ようこそcocoえ」なんて、きのう見てきたような嘘を言い放ち的な文化に違和感なく信じられてきた。
    そんな古代史の起点となっている魏志倭人伝のポイント(日本上陸地点)に全国の古代史文化人を一堂に集めて大宴会で『乾杯ーーい!!』
    この地は伊万里という所で、古代は倭の松浦水軍の港町とも言われていて、倭を守る国防の地という事で、卑弥呼(邪馬台国)はどうしたら隣国の侵略に防御が出来るのだろうかと・・女性の王として梅を頬張りながら道教思想から導き出していた。
    現在地は北松浦半島でありますから東松浦半島を見て行けば伊都国へ通じます。
    伊都国から東南行けばヌ国、ヌ国から東へ行けばフヤ国、それからフヤ国から南に斗馬国、そして邪馬台国と行けると記されている、最初の起点の90度ずれ続ける現象は戦国の世であるならば、方向音痴を修正できないまま記されてしまった事による。と。

    北松浦半島の大宴会会場では、東松浦半島との位置関係が、ゾワゾワ~~と騒ぎ出す始末・・・。 そんな中 安本ビテン氏の九州説からの挨拶に始まり各地域を代表して挨拶をし、空いた空間の中に「ここは北松浦ではない! 西松浦だ!!」と罵倒する人が現れ、「ここは昔から北松浦だ、東松浦が北松浦に変更するのが筋だ!!」とか、現代の若者は「松浦はもういい、全部アリタでいんじゃね!!!」と古代史を語る場に不似合いでもある。

    ・・・・・・そうだったのか・・・・・・・。
    そして大宴会は終わった・・・・。
    安本氏は言った「道を教えるときは、90度程度胡麻化すのが最良なのだろう。」

    https://www.youtube.com/watch?v=8dkxEWstqms

    という創作を書いてみました。
    次回は倭国を彩った人々を書きたいです。
    では。

  • #16

    ヒカル (火曜日, 16 6月 2020 21:07)

    ヒカルです、四度目の投稿です。
    母親から聞いた丸山情報>
    現在83歳の母親(長女)がいます、丸山貯水池を造成したときの年齢(64歳差し引き)19から20歳頃の時までは丸山の造成はされていなかったので、古から続く山の形状だったはずです。
    最近、そもそもの山の形状を思い出させて・・・絵にするように言ってあります。
    それと、石棺が神明神社の鳥居の脇にの安置してあった件ですが、母親に言わせれば手洗いの石だと言っていますが、手洗いにしては深めの石棺の様だったと・・私は想いつづけています。 どう処分されたのかは母親も私も判りません。
    町内会の神社清掃か神明神社の処分なのか、町内の御年寄りも数少なくなってきている現状に2~3人の80歳代となってきていて過去を知るのは居ないのが現状ですね。
    丸山と平岡山>
    丸山は50.5m、平岡山は25m、二つの山は福井市に向かうように並んでいて、平岡山は全部崩されて県立病院に代わってしまいました。 弁慶の落とした下駄の土と語られた歴史、そして羽柴秀吉・柴田勝家が上杉謙信勢を丸岡城や丸山から見ていた動き、さらに新田義貞軍らか城代わりに利用した一つの山でもありました。 町内にある願応寺は新田軍の一人武人が戦後始めたらしい。 安土・桃山時代には鯖江と福井市と丸山とに城郭候補を考えたとも聞きます。江戸時代には結城秀康(福井城)子安観音が丸山北側に有り結城家が現在も存在し、山の東側には蛇が多く私も小さい頃何度も見ました。 母親が言うには二次大戦の空襲の時に逃げる為の防空壕を作ってあったらしく、その蛇側の東側に造った様だ。
    あっ、そうだ丸山と平岡山の関係を語りたかったのだ・・・
    私の私論ですが何千年ではなく、何万年、何億年前に隕石が平岡山~丸山の延長した先の場所に落ちてその勢いで地上の山を崩して落ちてきた、そしてポツン ポツンと小山が出来たと思うのが一番の考えだと思います。 卑弥呼の時代に山を全部盛ったとかいう話は、所々にある岩を見れば誰も持ち上げたという理屈はできないとおもわれます。 まだまだ山を代用する時代だったのではとかんがえてしまいます。

    近所に居てもこの程度の見解しかできないのも、丸山の不思議なところでもあります。
    もっともっと手を加えて新たな丸山として整備される事を願って、四度目の投稿をさせていただきました。

    では。
    それと、次回はと古事記を書いた太安万侶と稗田阿礼と倭国の邪馬台国の地理的関係性・・・について投稿します。(次回のポイントは大野市の隣村に稗田村アリ、稗田村の隣に私の姉の亭主の河内村アリ、古事記を書けるのは元倭人の筋か・・・・。)

  • #15

    田中 (火曜日, 16 6月 2020 19:50)

    世界四代文明と言われますが、実は五大文明だったのでは?黄河文明は畑作農業でしたが、遠呂智先生が述べられる長江文明は稲作文明です。この長江文明が五大文明のひとつであったと思われます。古蜀国のイ族が栄えていた。ところが、漢武帝に攻められ、三国志の諸葛亮に攻められ、フビライに攻められ、「謎の民」とされている。古蜀国の末裔ではないかと言われているイ族です。顔も日本人に世似ていています。

  • #14

    ヒカル (水曜日, 10 6月 2020 01:01)

    ヒカル(男性)です。
    掲示板に三度目ですが書かせてもらいます。
    丸山情報> わたしが幼い頃から漬しんだ丸山と丸山周辺について早く知ってもらいたい事などわたし流に文章にしていきます。  この山は貯水池内に入れば北向きに貯水棟の長方形の建造物があります、高さは二階建て程度、その北向きに面して左右の階段が(宝塚劇場的な)貯水棟の屋上へ行けます。 そしてその北、50.5メートル下へ降りる階段が勝山街道へ降りていきます。 民間で現在の貯水池を説明できるのは近所の子供ぐらいでしょう・・・・。
    そして問題は、その貯水棟と北へ降りる階段の間にある"大きな岩"がある事です。 こんな岩は運べないのは当然ですし、私が小学生高学年の頃に山林伐採として(山のサイドは村の個々のモノ)サイドを残して刈り込んで(頂上から下まで)しまい西側(長本町)から見ると"禿げおやじ又はサムライ"と揶揄されていました。 その刈り込んだ浅くなった所を散策して、岩(割れた大きな岩)が有ったりしました。 そして北西にある願応寺の山側には脆く筋張った岩の崖と成っていて、丸山は半分は岩の転がっている含んでいる山だと分かります。
    朗報として、本来その様な山を墓地として整備するには苦労の少ない"国見山"的な墓地として利用するには鯖江・松岡などの山地利用と似ています。
    1962年生まれの私より5年前に完成している貯水棟ですから、私が12歳の年齢まで神社内に笏ダニ石棺が有ったというので16~17年有ったという事です。 貯水棟建設には山を平らにする必要があったのでしょう、大きな墓(棺は)壊さずに縁起物かバチに当たらない様として神社境内に置いたまま造成を急ぎし、残りの土砂を南東方面(本来ナダラカナ傾斜)へ流していった経緯がある様だ、東南は土ばかりだった・・・。 ですから金印・銀印鑑、紫の玉手箱等々は今現在ナダラカナ傾斜側に絡んで埋まっているのかもしれません・・・・・・かも  ・・・。
    もし、県を国を財閥を動かせないで終うのなら、最後の手段として、最高級の金属探知機で50センチずつ ずつ、丹念に3日がかりで探知するしかありませんね(笑)。
    最後に>
    最後に、これは偽物(金印)と笑ってすまされないように個人でやるものでは無いようです。大勢の承認で証明される大きな問題が絡んでいます。

    では。

  • #13

    田中 (火曜日, 09 6月 2020 17:25)

    今日は、史跡公園として整備されている今城塚古墳継体陵歴史館に行きました。円筒埴輪には大型船が描かれ、上部分に二本のマストと船尾に二個の錨綱を下した様子がヘラ描きされていました。円筒埴輪が沢山あるので、まるで船団のような感じがしました。
     寛政10年に先達の本居宣長さんが太田茶臼山古墳を継体陵とした為に(時代が合わない)、宮内庁は現在も太田茶臼山古墳を継体陵と認定した状態です。本当の継体陵は今城塚が定説です。阿武山古墳の麓まで行きましたがまで、辿り着くにはけもの道を通らないとダメなようで、軽装だったので、阿武山の住宅地から三島の町並みを一望して大織冠の目線を感じました。

  • #12

    発掘しよう (日曜日, 07 6月 2020 09:24)

    福井生まれ東京在住ですが、興味があります。これから、新幹線�ができ、観光の目玉になりそうです。浅水町出身ですが、普通に、丘から土器がでます。

  • #11

    墓堀ヒカル (月曜日, 25 5月 2020 06:14)

    墓堀ヒカル(歴史家)は丸山近辺に住むものです。
    投稿してもアップされていないので気になっています。 
    一年ほど前からこのページを愛視聴してきましたので完全に読み切っていると思っています・・。
    八岐大蛇様の計画は賛成、大賛成です!! 丸山二丁目に子供のころから住んでいる者として、この地域の歴史の曖昧(あいまい)さがあいまい随分気になっていましたが58歳になってこのページを読み更ける事で藻が晴れた気がしています。
    小さい頃に山の神社(神明神社由来)の境内の脇に有った笏谷石で作ったと思われる長方形の墓が有ったのを覚えています、墓は雨さらしになっていてそれから何年かは置いてありました。
    たぶん貯水工事で出てきた石棺を処分しようと神社の所へ置いたのではないだろうか・・。
    小さい頃は貯水池周辺でカクレンボしたり爆竹で騒いだり、神社の屋根裏へ忍び込んだり、と
    其の割には神明神社(丸山)の春と秋の小さな御祭の行事に禊払い的な正座をして神域での礼儀などなどをすることもありました。
    このページで感じたのは丸山神明神社建立以前の姿があったという実感、そして寺道場さんが纏(的)めた丸山町の歴史本を何度も読み返すと、山を通り抜ける道が有りそこで肉や物売りが住んでいたという文面にたどりつき、丸山周辺は泥沼が多く一つの小埜五郎島という環境で沼地泥濘を遠く四ツ井地区から藤島へ抜け通る小高い細道があったこと、その近くに私の田んぼが3反有りますが、その一角に塚田という田んぼが有って、幼いころ近所の教頭が三輪耕運機
    に乗って手に弥生土器を見せびらかしていたのを覚えています。
    ヤマタノオロチ様にとっては欲しい情報ではあると思います。
    私はメールアドレスが無いためにネットサーフィンして見ていたのです、なので近隣情報を
    知りたければ何時でも私が出せる情報は出したいとは思います。

    もし丸山古墳が・・・・であるとするならば、卑弥呼(倭国)から崇神天皇(大和国)までの流れを知りたいものです、解明したいものです。
    最後に、邪馬台国の南に狗ぬ国が有ったと聞きますが、クヌ国・・・宮内国、となると、天皇家に圧し潰された邪馬台国となりはしないか、倭国は続いていたでしょうが天皇家の巨大化が
    倭国消滅に・・・・・神話化・・・なっていった経緯が・・・・。