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コメント: 73
  • #73

    ひかる (土曜日, 27 8月 2022 04:57)

    夏の終わりの季節である晩夏となっています。
    ひかるです。 ひさしぶりです。

    <奥目玉置工事(おくめだまおくこうじ)>
    山本浩二・玉置浩二・仲本工事、などetc すべての進歩は"工事"による新しい発見と発現に
    あるのではないか・・・・・・・・という気持ちが高ぶっているのであります。
    古代を掘りあてたいと願う政治家の出現を待つしかない、資金が大問題だから。
    こういう時は無神論者のヒトラーが居たらいいのに、なんて、なんでもかんでも神が宿るからなんて言っていたら地球上は墓で埋もれてしまうかも。

    農業の担い手も減り、白米の需要も減り、海面上昇という現象による土地利用の改善の必要性、そして高台住居の増大、漁獲量の増大と魚屋さん減少とのズレ、etc 様々な見直しは世界的に必要に迫られてきている。 宗教家の意見の様ですが・・・ではなく、世の中にはウイルスが有る世界だと理解していれば、必然的に各個人の防衛生活が必要なのであるという真実。
    わたしは有るがままの天然渋みを身に入れる事で、ブドウの渋皮・栗の渋皮・柿渋皮、などの
    様に守られる身となれるのだという神話を手に入れた近況です。
    身に皮膚に虫や菌が付くのは渋みの無い生活を取り入れ過ぎた現代人の病だろう・・・。
    であるから崇神天皇の頃に疫病が流行り、3分の2の人が亡くなったという歴史文献からの話だけれど、崇神朝の頃には奈良の中部一帯に疫病を抑えるモノが導入されたと想像できる。それは、青柿から採れる柿渋の薬、そして身の浄化吸収される三輪そうめん食、その近くにある玉置神社は何を祭るのか・・・・。木造住宅の基礎部分に柿渋を塗る習慣から、根本的に始まった疫病対策だった。
    <崇神天皇>ミマキイリヒコとか別名があるが幼名だろうと思いますが、卑弥呼と一人の弟?が出入りしていた名がミマキ氏と書かれているため、卑弥呼政務宮殿の出入り可能なミマキは邪馬台国の地位としてはナシメ氏と同格か・・何者だったのか。大和朝廷が活動する200年前の上古時代の天皇家は様々な国に身を置く存在の商売人だったのだろうか?。
    崇神天皇は神武天皇と同じ名前の不思議と、消えた150年の日本の歴史と、卑弥呼の存在地、
    などはこれからも日本国の謎なのである。
    <エジプト18王朝アクエンアテンとモーセ物語の類似性>
    モーセ物語はアクエンアテンの逃亡によりイスラエル建国へ繋げた歴史がモーセ物語として聖書に書き込まれたらしい。 アクエン18王朝は19王朝に攻め入られてシナイ半島、エルサレムへの逃亡物語なのか・・・。
    エジプトの帆船は富山の日本丸と重なるものがあるのか。 ・・・・・・
    にしても、石川県羽翆市のモーセの墓は18朝アクエンアテンの墓という事に成る。まあ、権勢を失った後の墓なのだから価値はないけれども、アテン信仰(一神教)を日本列島に持ち込んだ事(3400年前)は縄文時代の変化をもたらしたのか。 そしてアテン(太陽信仰)信仰は神通川を坂登り飛騨地域に一神教の元井を祖を築く、飛騨朝は神代から上古時代を経て寒冷に見舞われて、山を降臨する事となり、降臨時代は歴史は消えていた様だが、崇神天皇頃から奈良中部地方に多くの飛騨朝は降臨し続けて、大和へ変貌する。大和朝廷へ権力が伴う形と成って以降、農地改革(平野部の溜池の造成)が主ではあったが、発案した天皇家の立場の為か、止め池には大きな墓を陵墓を造る事で天皇家、天皇制(アテン神)の立場は揺るぎないものへと安定した神

    アテン信仰は太陽神の一神教なので、アメン信仰(多信仰)とは相いれないものかと思うが、日本列島の太陽信仰は多信仰の長としてしる事に中和していると言える。

    <それぞれの邪馬台国>
    ミステリー事件簿さんからの邪馬台国茨城説
    https://www.youtube.com/channel/UCu1V6f3eqvCfy6fxUb_hO3g
    歴史マニアさんの邪馬台国西鹿児島説
    これは川合陵神社をそれとする考え方
    https://www.youtube.com/watch?v=aVGXtCvcV_A

    ミステリー事件簿さんは北松浦半島と東松浦半島を90度の間違いを指摘していた人なので、気にはしていた、が・・・・。
    歴史マニアさんのYouTubeも最後まで拝見しました、が、・・・・・。

    最近はこんなもんです。
    では





  • #72

    ひかる (日曜日, 05 6月 2022 21:09)

    ヒカルてす。 
    6月、初夏です。 鮎解禁でもあります。 ご無沙汰しています。
    世の中の動きが理解しずらいぐらいに動いている様ですが、私の歳ではアマリ関係がないようです。
    しかし、少しでも理解したい社会情勢などなど、努力を怠らずに努力したいものです。
    下のYouTubeアドレス動画は、最近見ていて気になったのでアドレスをアップしました。
    スライブと言う方向性・・・
    https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI

    <魏志倭人伝の邪馬台国の風習と雰囲気について>
    人は皆ハダシで居る様だ !! 明らかな状態を語っているようですね。 この状態は赤道直下の裸族を想わせる様ですね・・。
    農作業というのは様々な風体(ふうてい)があるでしょうが、邪馬台国で最も大きな仕事というのは平民であれば家族全てに言えますが、泥田や泥畑に入って農作業しなければならないという当たり前の風体(ふうてい)があるのに気が付きました。
    それは田興し・田植え・畦作り・草取り 等々の作業には"はだし"が必然的に必要な状態なのだと気が付きました。
    現代では農作業用の長靴や足袋を履いて農作業をしますが、当時の弥生末期時代にはそんなものは無かったと思います。
    それはゴムというモノが存在しなかったと思われるからです。 靴があるとしたら下駄の様なモノだけだったろうと思われるからです。 田畑に出かけるだけで泥は跳ねているし、いちいち泥を洗う程の事ではないという理由がう裏付けされる事かと。
    いまだに縄文的な生活水準の多い中で、稲作文化という一番厄介な努力が は だ し という状態を、陳寿の"皆裸足"という文面に落ち着いたようだと感じる。

    <天然の柑橘があるのか>
    この件に関しては・・・・越前海岸の南面にはミカンが作れるそうで、当時から有ったのかは分からないが、水田の多くは水を田んぼに、水田に引いているので、8センチの水溜まりなのであり、超浅いミズウミであるから、春夏と水田の水温が上がり、何が起こるのかといえば、関東のビル放射熱と違い、蒸せる夏になるのは水田地帯・盆地には起こっている現象で・・・とても暑く蒸し暑いという特有の・・・現象になっているのでございます。
    で、柑橘が取れるのか? という疑問に対してですが、中国では橘というのは桃・ミカン類・栗・ドングリ・椎の実・、ブナ林が有れば実になるモノは多いはず。 米の種を持ってくる以上、何らかの実も持って来ているとは思う。 以上

    <天の鳥舟・天の岩船 という表現に含まれる古代舟の様式>
    天の鳥舟・天の岩船という言葉が古代に語られていたようですが、三角形の帆と四角い帆という二種類の小型帆船は有った様だと思われます、が、イカダ・丸木舟・竹制舟、などの縄文期でも帆というものは�っていたとも思いますが、弥生期にはどの程度帆船がはったつしていたのかは、残されていないので分からないとはいえます。
    海洋民族との交流が成り立つのなら、山岳の木材というのは発展性は有ったように思える。
    衣食住が満ち足りた弥生期には、船舶は重要な投資品目として第一に造船製造に躍起になっていた時代だったのだろうと、思えてならない。
    <干飯の威力>
    これは、玄米を蒸して干して出来る主食となる食料で、イタリアではパスタ、フランスではフランス堅パン、アメリカではコーンフレーク、インドではナンパン、などの携帯食料となるもので、私も体調不良の時には3日連続に玄米を炊きます。
    腸が整調されて疲れが取れるものです。
    <通貨とおぼしきモノ>
    確かにヒスイ・メノウ・などの製品は通貨の価値はあったのでしょう。 住宅建築や石積み等の作業に対して備蓄米の報酬は考えられる事ですが、豪族が生まれるまでは通貨という概念が成り立たない様でもあり、隣国や外洋や他国への進出が増加する事で通貨的な共通の価値モノが考えられていったのはあるだろう。  ヒスイに関してですが、糸魚川へヒスイ採りに行った事がありますが、ヒスイというのは硬度6.5の球面とするには最終硬度なので成形が容易ではないのを覚えています。 鉄で削っても削れませんし穴を開けるのは何か月も必要とのこと。 そんな労力がアルのならば、米作りでの労役の方が楽に生きていけると思います。 それならば鉄による貨幣的なモノへの移行が通貨として進んでいったのは歴史の流れという事ですか。
    ただ、物々交換も現代でもある様に、大半は通貨貨幣というシロモノは持てる時代じゃなかったという事でしょう。

    <弥生末期の食事情>
    縄文時代から 100度シ~という土鍋による煮込み料理は有ったので、それを越える料理が並んでいたのは間違いないだろう。それまでの主食であるドングリ・シイの実・栗の実・イモ類・そばの実 などはポン酢で食べていた様にも思えます。しかし
    肉類も100度殺菌による食事法を大切にしていた縄文時代、弥生期には鉄鍋が出来るようになって鉄板焼きの時代にも成っていった様ですから、油に関してもゴマ油・菜種油・えごま油と、作られてくる時代変遷期をむかえて、油に関しては冷凍庫でも固まらない荏胡麻油などの油脂が作られていただろうと、三内丸山遺跡から荏胡麻が作られていたというから、揚げ物はあっただろう弥生期。

    少し長くなったようなので、今日はこの辺で。





  • #71

    ヒカル (金曜日, 22 4月 2022 00:21)

    ヒカルです。
    今日も投稿欄に日々研鑽というか感じた事を投稿します。
    八岐大蛇様のYouTubeも快進撃だと感じます。

    <弥生期・飛鳥期・大和期の越前地方由来の人々 ①>
    倭国の範疇に活躍した人々とも言えますが、魏志倭人伝や日本書紀・古事記の期間でもありますから、多くの邪馬台国(倭国)のゆかりの人々が越前近隣から登場してきたのはあるだろう事実。
    その中で邪馬台国とは直接的に縁があったのかは不明ですが、古事記を現した"稗田阿礼"という人物について・・・。
    稗田阿礼の出身地は飛騨地方の・・・
    稗田阿礼は飛騨高山出身。高山から郡上八幡に抜けるせせらぎ街道にある高山市清見町楢谷が生誕の土地とされている。稗田とは飛騨(ひだ)でありますから(カタカナ文字~平仮名文字~漢字文字の流れ)、弥生末期から飛鳥への期間に向かう時代というのは天孫族が飛鳥へ集中していく時代であり大和政権に橋渡しする期間だったので、倭国(邪馬台国)から飛鳥時代へ向かう時代とも言えますから、この時代を知る者ということは否めない。 でしょう。
    賣太神社の祭神は稗田阿礼で、7世紀の阿礼の活躍ゆえに奈良の飛鳥に授かった神社であろう。
    しかし稗田氏の流れは生誕の地、高山市清見町楢谷が生誕の土地での見聞きが稗田阿礼を大きくしてきた様な気がする。
    稗田という人々は木地師でもあり御椀や木地製品を山岳の堅い木材から作り出すので、山岳に住むわけだから、高山出身であるのはウナズケル。 菅笠なども山間地で作られていた事も低湿地よりも山間地の利用は弥生時代には必要なアイテムであって、米作地帯とは違って山間地の道というのは熊野古道の様に数多くが街道として開発されていたという事でしょう。
    そんな稗田氏一族も各地に移動して木地製品を生業に村を作り活動した・・・福井県の美山町の(足羽川の奥地)にも稗田の里公園が有りますが廃村していますが、この地には耳磐菩薩が祭られていて、一度目や耳にしたことは決して忘れなかったという。その記憶力を見込まれ、天武天皇から『帝紀』『旧辞』等、古代からの伝承を誦習することを命じられる。 とある。
    稗田阿礼は神代文字も読めたとあり、カタカナ文字が読めるという事は文字の無かった弥生期の音の伝達でもあった為に、耳という大切な器官を大切にする文化とも理解できます。

    <天孫族の山本氏と山下氏の活躍>
    この山本氏は鈴鹿伊勢地方へ向かった末裔の猿田彦、瀬戸内海へ向かった者が末裔の大山清命たちは独特の文化を携えて天から降りてきたという飛騨王朝文化の走りとなり、数多くの降臨・高架が有った様だ。 しかし彼らの降臨・降下は時として問題も多く山岳文化ゆえに小さな争いは発生してはいた。 そしてとうとう、飛騨王朝(日抱き王朝)最後の降臨・降下として、その王朝の神宝でもあった十束の神宝・三種の神�を最後に降下する降臨したのである。 その最後の御手渡しとして天照大神(女)から孫の邇邇芸命に託された!!。 ヘブライで語られる"十"と"三"を根に持つ飛騨王朝は、時に国の祭り事への参政場所として奈良県の斑鳩辺りへジックリと確実に集合させたのだろう。
    その後の飛鳥地方の進展は目覚ましいものがあったのは言うまでもない。
    飛騨文明というのは縄文文化と弥生文明の混交であって縄文の習慣を色濃く持ちつつ弥生文化流入の合理性をも纏め上げたというのが飛騨文明であり、古い縄文文化と西方渡来人との融和を根本として祭る事と合理性を合わせ持つ文明と言えるが、今渡来系の住民からすると古い考えとしか映らないのはかわらない。

    <では、越前は如何いう位置づけか!?>
    越前は天照大御神の親のイザナギとイザナミの最初の降臨の地であり、神話からは天津国ということだろう。 天孫族から見れば "津" そのものであって、天孫族の力が及ぶ地域となる。 しかし越前の地というのは米作地帯(黄泉の国)ではあるけれども雪の降雪地であり雪解け水の洪水の地帯でもあったのである。 降臨の地を変えたいイザナギとして天孫族の地域を廻っているうちに四国・淡路を見出す、しかしイザナミは男性の様に旅は禁物であった為か、土地の有力者との¥を時間を持ったためか動けなくなった様で、古事記の物語がシックリと感じ取れる。
    かくして越前という穀倉地帯は穀倉と鉄を武器に尚も進展する。
    紙文化・農作業鉄文化・造船・米文化は恐ろしく発展する。
    祭り文化は???
    ということなのであろう。

    <ウイルス文化とドングリ文化の相対性>
    ドングリ文化とも言われる縄文時代の遺骨から・・・健康そのものである。
    が弥生文明となると遺骨から・・・・・・・・・・・不健康である。
    との科学的証明が成されている。
    のであるが、未だに米文化最強説がテレビでなされている。 でも、何を食べなくなって人体は弱くなったのか?? という話にはなっていないのであり、 ピーナッツも中身だけ食べて・栗は中身だけ食べて、米も中身だけ食べている。
    こんな時代というのはブドウの中身だけ食べて弱くなっている人体であって、細菌・ウイルスの繁殖の最たる状態であることは間違いのない話だ ろう。


    皮を・渋みを・苦みを捨てれば皮膚の弱い体質となるのは目に見えている。
    私は半年前から緑茶以外は水分補給しないというノルマを課している。
    どうだろう、ノドに溜まった渋みが、皮膚に浮き出る青臭い渋みが、ウイルスを細菌を寄せ付けないらしい。
    自らがトゲのある"栗の実"に成っている様だ ね。

    では。




  • #70

    ヒカル(日軽) (月曜日, 21 3月 2022 18:46)

    どうもヒカルです。
    コロナやウクライナ情勢など気が重くなるので、見ない様にしていましたが、とうとう小核の刃(ヤイバ)がチラチラと、
    見え隠れしてきている様で、コロナに関してもウクライナ戦争にしても、良き終焉を迎えてほしい日軽であります。

    しかしウクライナの町を見ていてもロシアの町を見ていても、何か足りないものを感じる時がある。 その、それは逆に日本・欧米に必然的に増えてしまう事なのか、何か足りないものを足し算する "是足安良する"四文字熟語の原点ともゆうべき、一文字忘れたが・・・、答えは・・・・祭り・・・・の存在なのかもと思ってしまう、弥生時代以降は統治旺・祭祀汪の存在が必然であったように、大きな国作りには大きな乱れもあってはならないという道理があるだろう。 ・・・
    しかしウクライナ戦争を見ていると祭り事(祭祀汪の範疇)が両国とも機能しておらず、統治旺の権勢の意のままに何かに導かれていってしまっている気がしてならない。
    元共産圏には神仏廃棄という流れはあっても新たな信仰は生まれてはいない、科学的平和主義でもいいから新たな祭祀汪の出現を願いたいものだ。両国共通の祭祀シンボルとしてギリシャ正教の"マリア様"を利用してムラのマリヤパン祭りを両国の橋渡しとしたい・・。

    <十戒とは>
    1、神の他に、なにものをも神としてはならない。
    2、偶像 を作ってはならない。
    3、神の名を みだりに唱えてはならない。
    4、安息日を取ること。
    5、父母を敬うこと。
    6、殺してはならないこと。
    7、女女女淫してはならないこと。
    8、盗んではならないこと。
    9、隣人について偽証しないこと。
    10、隣人の家を貪ってはならない事。

    以上が出エジプト以降のイスラエルのシンボルの内容に成っていった。 私自身は浄土真宗という仏壇の下で育ったようなので
    キリスト系を語る者ではないけれども、身近にあった祭祀という遊びは場は、ビバhappyな人間性を育ててくれている。

    <和泉平坂の地(古事記の地)>??・・・私見
    この場所は、ここで言いたい和泉平坂とは、越前福井平野を東西に流れる九頭竜川の上流の上流に和泉村があります。その上には石徹白高地があり源流となってい居て、(その先は白鳥、五箇山、高山へと)おります。 和泉平坂の平坂とは? 現在の平泉寺の平らになった九頭竜川の中流に感じられてしょうがないですね。 なぜなら鹿の骨を朴占いする機関という場所として白山中宮神社(表)の存在が大きいからです。 天孫族(飛騨上)が・・いや、降臨し威厳を創るために計画的に積み上げた努力によって天孫族の行きたい方向に天孫文化が降りてきた空気があっただろう。
    その一例が越前降臨であろうイザナギ夫婦の物語だった のだろう。

    <魏志倭人伝>
    今現在のトピックスは習俗・風習 なので・・・
    越前でもㇳても古く造りが丈夫な民家といえば、北風を遮る山辺の蔭や、東西に入り組んだ住まいの場所に古代からの村が形成されている(場所取り)のは分かっていて、平野の中や水辺には古代の住まいは造成は少なかった気がする。北風の直風の住まいには外来の者たちの場と成っていったのは分かる。 ただそういう場所には同じ動植物も求めている場所なので・・・・・悩ましいところだ。 弥生時代というのはマダマダ自然の力に左右されてしまう時代なのである。
    ただ、鉄器の出現は、道を拓け、船を加工し、狩猟の高度化、衣料の大量化、住まいの品質、そして稲作の生産が増え続け、という弥生最高となっていった。
























  • #69

    ☂の中主の加味 (火曜日, 15 2月 2022 03:25)

    深夜にヒカルです。

    一年前の奈良県のニュースからですが・・
    柿という食べ物は古代からあったのでしょう、柿が柿タンニンといういわゆる柿渋がコロナウイルスの不活性化に、一万分の一
    というレベルで効果が強いという結果を出したという事です。 渋み という代名詞ともなっている"柿渋"ですが自動販売機で売っていても誰も買わないだろうと思われますが、ウイルス新時代ともなれば、古代の英知を現代に蘇らせていいものではないだろうか・・・・。
    https://www.youtube.com/watch?v=NhSHi6Nm5kc&t=18s

    やはり"渋み"という存在は味覚の中に取り入れていいものであったという事だろう。 柿渋・茶渋・栗渋・親父渋・渋顔・渋ワイン、等々の存在は削除するべきでは無いようで、あり、むしろ積極的にチャーハンに渋みを入れたり、甘いケーキに渋甘の味を出したり、コーヒーや麦茶は炒ったものであって渋みではないから、早急に世界は渋みを安く手に入れられる体制を体系化するべきだろうと、思われますがどうでしょうか。

    <モーセの十戒>
    この戒律はモーセがユダヤ難民をエジプトから脱出した後に、シナイ山に上り聖霊から頂いた十の教えを十戒と云い、荒野から始めるユダヤ民の法典として石板に記されたユダヤ民へのプレゼントのようなものだった。
    モーセ自体はエジプトでは役職のある上級官僚的な立場の人だったが民族を荒野から救う意味で書いたものだったみたいだ。
    モーセはシナイ山以降は存在は消えていて(エジプトの恨み辛みの存在)、紅海を渡る為にチャーターした大きな舟は紅海~インド洋へと船出する可能性がある。 結果的にモーセの十戒の石板とアロンの杖とマナの壷、は、ユダヤ民の糧となり得た様で、神の棺としてソロモン王・ダビデ王までユダヤ王国の聖杯所に置かれていた。 その後はユダヤ十二部族のうちの十部族が他部族に襲撃を受け滅びていくのですが、聖なる棺はその後消えていく運命となっていったという。
    モーセの十戒の中身・・中言葉には何がかかれていたのかは分からないが、エジプトで流行した疫病等の事からも"柿渋"的な渋みの食習慣(干しナツメヤシ)を大切な文言として書いていたのではないかと想像しています。 想定。
    渋みというのは身の中に食してそれが腸を伝い血液の流れの中に漂い、体の表面に現れてこそ渋みの意味を成すわけで、自然と世に漂うウイルスやバイキンから身を護る作用が感じられる。

    <食前茶なのか食後茶なのか>
    わたしは食後茶のほうがノドにハーブ的な渋みを残せるので、そのようにやっています。 そして寝る前にうがい程度に渋茶を飲んで寝ます。 朝のノドには菌やウイルスの流入は感じられません。
    <十の押し絵>
    十戒の事ですが、言葉では世界共通には成りません、世界共通に絵にすることで根本的な広がりがあると思いますが、どうでしょう。
    言葉にして記すというより口伝で残す方が真実性が増す気がしてならない、東がしへ真っ直ぐのほうが真実性が増すようなきがしてならない。 魏志倭人伝の事です。

    では。

  • #68

    平仮名なぎさ (土曜日, 12 2月 2022 22:37)

    どうも ヒカルです。

    わたしの父親が奥越(勝山地方)出身で、その地の名は "鹿ノ谷"と云われる所で育ったようです。 この地は割合と福井平野にも遠くはなく、近場でもありませんが、縄文の時代を反映している所だと感じます。 それは、その浅めの谷あいで鹿(カモシカ等)を野性的に飼いならして、その谷あいが九頭竜川への出口にある"遅羽口"という鹿ノ谷の入り口で襲うという習慣があった様です。
    魏志倭人伝には小振りな弓矢という単語が示す通り、縄文的な習慣も交えた雰囲気がありました。 入れ墨に関しては藪蚊や蚊やハエを寄せ付けない南方や湿地帯特有の防御策として体に渋いというか虫の付かない木炭液などを粘着性の液体で練りこんで身に塗り込んでいたという事だろうが、次第に明るい色の塗り液が主流となっていった・・・。この習慣は縄文時代からあっただろう。
    獣道しか無い時代というのは移動という手段に多くの知恵を使っただろうと思います。 食べていける場を求めて多くの部族は
    土地の形状から始まり海の流れなど水流の優劣など知恵と体験を総合して習慣と成っていったのでしょう。 そんな古代まで知りたいわけでも無いですが、縄文時代と弥生時代の接点と縄文の言語と弥生以降の言語の接点という事も知り得たいです。
    文献から、スサノオの時代には、スサノオが残したといわれる詩、"八雲たつ 八雲八重垣 妻籠みに 八重垣造る その八重垣を" という妻のクシナダヒメに残した歌だったそうですが、もう既に漢字もヒラガナもオシテ文字も有った様な弥生時代だったのかもしれません。 かと言って、鉄の文化や船の文化はまだまだの様で、鉄が無いという事は道の整備、田興し、材木の調達、全てにおいて国が立つまでには程遠い時代だったと思います。その地域その区域には豪族的な中心の族は存在するまでは当然にありえただろう。
    神武東征が2650年前だとして、その頃の歌に漢字が使われているのは可笑しいです、が、卑弥呼の時代のスサノオだとしたら歌を詠んで残すというのは有り得ただろう。 言葉も部族の様なもので、部族語の主流はそれぞれで違っていたのは当然で、部族の統治範囲によって言葉も違っていたのは当たり前だった。
    現在、平仮名の、あいうえお×あかさたなはまやらわん、 が主流ですが、オシテ文字は あいうえお×あかはなまさたやらわん、という部族も存在した、様で部族間ではそれらの文字が御旗の違いとして認知されていたのではないか。
    そして最終的にオシテ文字勢力の狗奴国(宮内国)が"杜の教え"という支配教義による伝搬によって力を隠し持ちつつ広がっていったのではないだろうか・・・・。
    ただ杜の教えという教義はどこで始まったのか? という疑問になってしまう。
    ・・・・・・・・・ ・
    それは元々日本には縄文人は居たのだけれど杜の教えという教義は無いはずだ。 と言える。
    生きる教えは在っても、杜という発想が乏しく、有ったとしても病気にならないとか清々しいとかが精いっぱいの先代からの教えしか存在せず、杜の教えという進歩したスタイルは、何処から始まったのか? という疑問だ。
    一つある、モーセの十戒である。ここの教えは縄文の教えとは弱いものではなく、十戒なのだろう。
    この教えが杜の教えだったのではないだろうか。
    そういえば、内灘の渚にモーセ伝説の残る石川県の山にモーセが眠るというらしく、どうも、ここら辺りから杜の教えが岐阜山中へ行き、この地から列島に似付かわしき"杜の教え"となり最終的に大和王権へと天皇制を擁護し推進していったのではないだろうか。

    ・・・。

  • #67

    ヒカル (木曜日, 13 1月 2022 02:49)

    どーもヒカルです。

    最近、私は タッシー&たー坊 さんの動画を拝聴しています。
    https://www.youtube.com/c/tassykotoguide/videos
    この人は観光会社にお勤めですが、深い意味を知る為に辿り着いたホツマツタエをアップしているようです。
    ホツマツタヱというのは卑弥呼が死(240年頃)んだ後、西暦280年の頃の大神神社(奈良県)の主の大物主(世襲制)と大田田根子によって、時の天皇の盟により書き記された書物であり、それは漢字が流入する流れによるクニの歴史(天皇家に繋がる歴史)の迷い歴史にならないように、正しい歴史をホツマツタエというホツマ文字で書かれた書物であります。
    私もこのユーチューブにハマっているのは、消えた150年の流れを知りたいという欲求からでした。 このユーチューブを見ていて想うのは、古事記に書かれている文章というのはホツマ文からの流れを読み取った形で約400年後に記紀として漢文または平仮名で書かれたものだったのだなあぁ、と思うようになりました。
    しかし、魏志倭人伝からの表現とは全く相いれない邪馬台国であり卑弥呼の文字も、うかがわせるものは無いようです。
    何故か、邪馬台国の南にクナコクありと魏志倭人伝には書かれているとおり、近畿説が正しいとするならば、その南に狗奴国が有るという魏志倭人伝は如何なものかと・・・・。 奈良県中心広域がクナコクであるならば、邪馬台国は北に位置するものでなくてはなりません。 宮を造営する国家戦略で広がっていくクナコクであるならば、ホツマツタエから読み取れる邪馬台国というのは、天皇家が窮地に陥った`ハタレの乱`の事が邪馬台国(女王国)の表現なのかも知れない。
    未だ全巻は読んでいないので、あれですが、全巻を見た後にコメントさせてもらいます。
    ただ、ただこのホツマツタエによるイザナミの存在は、おもしろく、島根や九州の筑紫と四国へも杜の教えを伝搬していくのですが、ホツマツタエでは火に焼かれて紀伊の国の熊野で亡き葬ったとされていて、イザナギの心は敢えて歴史に刻んだという表現からして、妻との別れは格別の心痛だったらしい。
    だけど、邪馬台国(越前説)との関りは微塵も感じないというのは削除に値するものだったのか・・・・・ハタレの乱のほうが気になる所だ。 ハタレの乱を鎮圧する為にタケミカヅチが1000もの捕虜を殺害したt×2=2000人をするくらいの激戦なのは気は重くなるし、同じ人間に対して見下す組織もうなずけない事は確かだ。

    あの頃、弥生末期というのは多くの国が立ち、連合し又は飛び地を吸収し、民の安寧・安泰・安らぎ・を探し求め国づくりを興していた時代だったのだろうと思われます。 理不尽な国の成り立ちであるならば、いずれ国は消滅していくだろうが、消滅していかない国立であるならば、それは残っていくのもだろうと、も思えます。 る

    以上、ホツマ情報を伝えしました。

  • #66

    ヒカル (土曜日, 08 1月 2022 20:29)

    harrow happy new year
    どーも ヒカルです。
    歴史の確信性というのは中々難しくて、足利尊氏の肖像画が変わってしまうくらいに歴史は
    不安定でもあるのですが、現代には科学的というか裏付けが真実性を足すといえます。
    今回は、YouTube内に出没する皆さんの邪馬台国論を少し纏めてみました。なかなか若い人には答えが出ない邪馬台国論ではありますが、何かお役に立てればと思います。

    <邪馬台国、それぞれの答えと論拠>
    ★地図をなぞって・・・ふるしょう氏
    邪馬台国は八百津姫で八女地方の奥から出なかった説
    ★アメリカの透視者・・・マグモ・ニーグル氏
    奈良県の鳥見山に住み(祭祀)、そして墓は山口県の萩地方(倭国内)に葬られる説
    ★古史と考古学の著名な学者・・・安本美典氏
    邪馬台国は甘木・朝倉説
    ★むすび大学講師・・・小名木氏
    若干、竹内文書(本家筋)を意識する説
    ★古代史新説チャネル・・・サングラスの人
    九州説前提の数値化による北部九州説(吉野ヶ里)
    ★百田尚樹(関西弁)
    近畿説に偏っている現在だが、私は九州説
    ★神尾正武氏
    神尾でございます。 甘木・朝倉説(高天原の地)を押して間違いないと思う説
    ★ミステリー事件簿
    邪馬台国は北陸地方説 松浦半島(北・東)で既に90度曲がっていた
    ★田中英道(歴史学者)氏
    邪馬台国は存在しなかった説
    ★竹田学校校長
    邪馬台国は・・・・そんな国、あったの? 地方の小国だろう説
    ★マットショー氏
    若干、新潟説で、邪馬台国移動説
    ★なべおさみ氏
    ワンワン吠える説
    ★のだせんいち氏
    四国神山説、アークも天照大神も邪馬台国も全部四国説
    ★福永晋三氏
    九州田川説、庶民への講演に精をだす
    ★TBS公式 諸説ありグループ
    九州説・畿内説・四国説に重きを置く
    ★ゴー宣道場チャンネル
    邪馬台国「九州説」の逆襲 !!!
    ★近重博義氏
    大和朝廷前は近く吉備が邪馬台国だ説
    ★邪馬台国は阿波だったグループ
    列島震撼!! 阿波踊りが世界の秩序を保つ四国説
    ★アカシックレコード氏
    卑弥呼は殺されている、日御碕の巫女、四国にも行っている、金印は四国にある説
    邪馬台国は350年存在し、おばさんの占い師、若い時に夫と死別、一年半が女王、説
    ★ヤマタノオロチ様
    邪馬台国は越前説
    ★魏国防軍司令を説く筋様
    呉防衛の為の地理策謀説

    以上、邪馬台国の想いと答えが皆さんの答えと成れるように心から願うばかりです。
    まだまだ、多くの邪馬台国論者は居るでしょうが、出来るならば本の二冊や三冊は読んだ上で
    邪馬台国論を展開してもらいたいのは山々です。 高く険しい邪馬台国の卑弥呼はいったい
    何処で占っていたのか・・・・・。 鹿の骨が埋まって居る場所かもしれない。

    今回も余談と想いを書いてみました。
    では。









  • #65

    ヒカル一兵卒 (水曜日, 22 12月 2021 02:14)

    ヒカルです。
    今年最後の記事です。 進軍!

    <卑弥呼子王の狗奴国の官クコチ彦の墳墓が岐阜県の美濃にあるという話>
    岐阜の墳墓の一つに狗奴国の官クコチ彦の墓があるという古代史家がいるという。狗奴国がこの辺りまで勢力が有ったとするならば、邪馬台国の南に狗奴国が居たという事に繋がる話なのですが、邪馬台国(越前説として)の南に狗奴国あり、という事なので結構巨大な狗奴国とはなりはしないか・・・・。もし先生の流れからして南が東だったら、狗奴国は越前からすると現在の飛騨高山か信濃の諏訪とか、関東か岐阜美濃、東海、となりはしないだろうか。 
    もしかして、飛騨から美濃そして東海と大和・徳島の広範囲の東南域に狗奴国は広がっていた可能性も考えたい。
    しかし、須佐の男の氏族であるニギハヤヒらは天孫族直系を認めたくない天孫族系の族もあっただろう、し、空白の150年は記紀よりも少し古い古史古伝からの読みが必要となってきてもいる様だ。
    だだ、竹内文書の創造期間を取り去れば、筋の通った話には成る気はする。
    しかし、竹内文書には飛騨と出雲の通り道ではあるが、越前に居たという口伝は語られていないのが現状だ・・・。
    須佐の男が田を壊し、機織り屋に馬を投げ込んだ、終いには食のパイオニアの伯母さんの料理に対し「こんなドロドロとした食べ物は食べ物ではない!!」などとして伯母さんを殺したと言われる。 もしかして、そのドロドロとした食べ物とは? 米料理の現れなのかもしれない。 当時では飛騨では里芋・キノコ料理が主流だったろうから、そう思えます。

    <ヒルコ・泡島、の表現について>
    イザナギとイザナミが生んだ国作りの最初にヒルコが生まれ淡島が生まれたという表現は、国作りの最初という意味において
    語られた比喩表現であって、水に流されたという現実を例え、比喩として表現したものだと言っている人は多い。
    わたしもそう思うが、ホツマツタエ(オシテ文字)太田田根子筆、では、ヒルコは和歌山に育ち金森氏に囲われて・・神社の祖神
    となって・・・うんぬん、何故か生きた人物として書かれているらしく、比喩としているならば、ヒルコを書いた太田田根子は
    ゛うそ゛を書いているという事にもなる。
    本当にそうであるならば、そうなのかもしれない・・・
    卑弥呼が238年に没し、大田田根子は280年頃の人というのも畿内政権樹立への過程としても、どこまでも畿内への融通でしかなかったものかもしれない。 たぶんそうでしょう。
    ん・・・・。


    きょうはこのあたりで。


  • #64

    ヒカル (月曜日, 13 12月 2021 12:03)

    harrow
    どーも ヒカルです。
    暮れにさしかかっている12月となりました。 クリスマス・大晦日とセワシイ時間となっています。
    早速ですが日進月歩の流れは止められないので投稿させてもらいます。
     
    <天の鳥舟・天の岩舟>
    古史古伝に特に多いのですが、天の鳥舟・天の岩舟 という乗り物に乗って降臨するとか舞い降りるとかの表現が多い古伝書類は西洋東様を問わず世界に表現されてきたものがあります。 最近になって鳥舟は三角形の帆だと理解でき、岩船は帆が船体に対して直角に立っていて正面から見ると大きな岩がこちらにヤッテ来る様を初期の漢字で表現したもの、岩船に関しては北前船が岩船の様な表現が望ましい感じがする。

    <竹内宿祢の正統派の71世竹内宿祢さんが50代で亡くなっていた件>
    この人は襲名形式の竹内宿祢として平成に名を表わして、71世竹内宿祢として現代に住んで生きていました。 が、ご病気で亡くなっていました(酒の飲みすぎ・・) 彼のYouTube見ていると、時々だがこれは言えない゛禁言゛という形で口を押さえていたのがありました。 その裏には語ってはいけない秘密めいた内容が有るという事、竹内宿祢の立場でも伝えられない古事があるという事を、再三にユーチューブでは口を自ら押えていたようだ。 
    彼が亡くなり、それから2~3年過ぎた現在に、彼(71世竹内宿祢)の禁言を解き明かしたとして、TOLAND VLOGさんYouTube
    では竹内文書の秘伝中の秘伝を解明したとして最近伝えている・・・。
    それによると、古事記には天孫族、僅かに登場しているが何をやっていたのか分からない人々の変遷が細かく語られています。 https://www.youtube.com/watch?v=jjDWsM8N2RI  TOLAND VLOG
    ニギハヤヒ・大歳・アジスキタカヒコネ・ナガスネヒコ・アマテラス・クニテラス・アメノホアカリ・クシタマ・イワレ彦・
    ニギハヤヒ政権交代の謎・アマテラス男神(ホツマツタエ)とも云われる理由・スサノオの子ニギハヤヒ政権・本当の天照大御神(女)の男神のアマテラスに対しての戦いが蘇我氏と大物氏へと時間がかかり・・  などなど

    この時期の表現として、稗田阿礼は・・・・時間をかけて天孫族を吸収し排除しながらイワレ彦が結果的に初代天皇家として樫原の地に遷都したという事とした史実としている。
    卑弥呼と卑弥呼子との類似性と、天孫族アマテラス(女神)とニギハヤヒ(アマテラスクニテラスアメノホアカリニギハヤヒノ命)の内部抗争の動きは面白いほど同じ現象か。
    南朝武ノ内文書には茨城武内宿祢伝とは違う正統という名で歴史を伝えています。

    これらの事は、信じるも信じないも、竹内文書という宇宙創成から語られる漫画ドラマから真実を貫く不思議な文書なので
    聞くのも読むのもバカバカしいといまでも思っています。
    しかし乗鞍の淡池から始まり天孫族~各地の天津国~芦原の中つ国へ拡大~天孫族降臨の種々族の集合~大和へ大集合~天皇家一代の始まり~天皇政権存続~大和政権の安定。
    では倭国というのはどうなっていったのか、それは、王家以上の論理は持っていなかった様で・・・女支配の穏やかな安定した王家支配以上の一神教の信仰的支配は揃っていなかった、食以上に支配力は考えていなかった、外国の例えばユダヤの支配というモノの順番は、神・十戒・マナの壷・アロンの杖であって食に関する支配よりも神の戒律が優先されていた事からも判る様に、倭国には神という戒律が概念が有ったのかは分からないが有ったようには思えない。
    神の為に働くのと、王の為に働くのとの違いが後々に応えてくるというか、倭国が薄くなっていき大和が色濃くなっていく様は、時間をかけて大和政権へと移行していった時間配分と歩調が似ている。

    と、まあ、頭の中は失われた150年の中に没入中といいますか、少し、だいぶ、理解できたような気がします。
    先生のも必ず二回は見ています。遠呂智先生のは120パーセント正しいです。 
    が、少し浮気したいのもあります。

    では






  • #63

    ヒカル (金曜日, 26 11月 2021 01:09)

    ども、ヒカルです。

    <水銀朱鉱山は高志の国のどこにあったのでしょうか?>
    この質問に対して・・私から一言。
    現在の政治上なのだろうが、福井市・越前市・大野市に大きく集約されてしまいました。 以前は福井市・鯖江市・武生市・大野市・勝山市などと少し小さい市町村だったのですが、武生市・鯖江市の近隣には丹生郡や今立、今庄、織田町などの名が有りました。 その武生市丹生郡には"丹生"という朱丹が取れる鉱山なのだろうが、ありました。 越前焼の近くでしょう。

    <歴史から消された邪馬台国シリーズを見て>
    このシリーズは大変気になっているのですが、記紀以前に上宮記を書いた聖徳太子や蘇我氏の出自等々が書かれている可能性が高いという事なので、より邪馬台国の繋がりを露わに出来る書物として、先代公事本義と同様に大切な書物。
    しかし乙巳の変によって藤原鎌足(後年名)らによる書物の隠蔽・焼失・改ざん・地名変更 などなどが平安以降も繰り返されてきた様で、なかなか厄介な邪馬台国系列であった様な理不尽な遮断が成されてきた経緯を感じざるおえない。
    平安時代には平安京の守り神として安倍晴明が活動して・・・陰陽師として東西南北に守り神を据え置き、特に東北方面(越前・北陸・東北)に鬼という称号を表わしている。 これらの平安京の楚を築いた藤原一族には乙巳の変で蘇我氏を壊滅的にした負い目からなのだろうが、第一の敵対者(内乱者)として蘇我一族を指定したようなものだった のだろう。
    九州・関東・北陸・東北方面は鎮護国家の対象となっていったのは歴史の史実であります。
     蘇我氏は若長氏・竹内宿祢から続く蘇我氏五代で中臣氏に暗殺された為に歴史書の整理が必要とされた。 歴史書の整理は長年の時間が歴史資料が必要とされた、国記・天皇記(聖徳太子・蘇我馬子編纂)・巨連伴造国造百八十部・その他、そして風土記などに伝わる等々の文書・記念物などは徐々に消されていったのだろう。

    なんで消す理由があったのだろうか?
    トップレベルの闘争において歴史までもが対象になっていたのは言うまでもない。 国レベルまで消して終う事もヤブサカデハない平安遷都はユダヤ人の謀略かそれとも神の・・・それでも天皇の継続だけは記紀に完全に記されているのは救いだが・・。
    私は思う。
    越前(邪馬台国)に竹内宿祢を宿していたのは越前の許容量の大きさなのだと言える。 ☂の岩戸伝説・イザナミ イザナギの伝説などは天皇族の通り道として越前の地に舞い降りた事は信じている事実だと思う。 卑弥呼に関しては七〇〇〇〇余戸の黄金のベルト地帯として異彩を放っていた土地として、コシヒカリ(冷えていても旨い)の発祥として現在も御コメの価値は下がる事はない。
    ・・
    <上宮記>
    この書物が発見されれは、邪馬台国に関した繋がりが明白になる事は感じます。
    越前市に住む蘇我氏系の農家か神社か寺の蔵にあるのかもしれない。
    オシテ文字などのカナ交じり漢字入りという事だろうか・・・・。


    では

  • #62

    八俣遠呂智 (日曜日, 14 11月 2021 08:04)

    朱丹は、倭国にあったという記述はありますが、邪馬台国を特定していません。
    四国あたりで採掘して、邪馬台国へ献上したのでしょう。

  • #61

    阿波君(あわきみ) (金曜日, 15 10月 2021 14:13)

    邪馬台国に在ったという当時の水銀朱鉱山は高志の国のどこにあったのでしょうか? ご教授願いたく思います。

  • #60

    田中 (木曜日, 14 10月 2021 17:09)

    八俣遠呂智先生
     コロナによる影響で社会が一変しましたが、お元気でご活躍の事と推察致します。
     さて、大阪府高槻市は13日、継体天皇の墓(6世紀前半)とされる今城塚古墳で太鼓形埴輪が,
    3基分のたたく面や胴の一部が復元できた。と発表されました。
     太鼓形埴輪は宮崎県百足塚古墳(6世紀中頃)での出土がこれまで唯一の例でした。群馬県伊勢崎氏では、今城塚と同時期にあたる6世紀前半の太鼓をたたく人物埴輪が見つかっています。
     今回、出土したのは古墳を囲む内濠と外濠の間にある「埴輪祭祀場」と呼ばれる区画で、これまでに230基以上の埴輪郡が見つかっています。太鼓形埴輪が出土した周辺には、儀式をつかさどる巫女や、両足のかかとをつけてあぐらのように座る楽器演奏時の姿勢(楽坐)をした人物の埴輪もおかれていました。埴輪群は、大王の遺体を祀った「殯の宮」の儀式を再現したものと思われます。太鼓3基の内2基は、全体の大きさは不明ですが、面の直径が23.4cm、21.2cmと判明しました。面に張る革を留める「鋲」とみられる直径~2cm突起があり、木の
    胴に牛や馬の革を張った太鼓がモデルと見られています。
     今城塚古墳は墳丘長181mの前方後円墳で出土品の年代などから継体天皇の墓であることが学界で確実視されていますが、陵墓に宮内庁が指定していないので調査が今も続けられています。大王の政治や日常生活に音楽が根付いていたことを伺わせます。
     コロナに気をつけてお身体にきをつけて益々の研究を充実させて下さい。
                       以上報告です。

  • #59

    岳騨ヒカル (木曜日, 14 10月 2021 03:46)

    どうもー、ヒカルです。
    早速ですが、
    文献史学からの考察でもありますが、ミステリーチャンネルの富士吉田さんのYouTubeから
    2日前に飛騨王朝を纏めているようなのであっぷしときます。
    https://www.youtube.com/watch?v=ShsyzPPmWp4&t=52s

    高天原・邪馬台国・神様・・・等々の呼び名は、高原川・山(八馬、耶麻、山大、山台など)・上方様、の伝搬の後の言葉となった感じがしております。 八ッ駕岳は八つの高山を表わしているもので、富山平野(神通川)からは北アルプスの八つの峰が見えています。
    20日で投馬国~ 10日で投馬国~邪馬台国へ水行する、20日陸行の行程も可能。
    邪馬台国の範疇は北陸・美濃山間部も含まれていた様で、米どころ(黄泉の国)の地域には山間部で採れた山芋・自然薯・椎茸・笠・草履・干肉・木の実・etc、が米と取引されていて、生計を成していた様で、海産物・米・豆・干魚というのは黄泉の国の食生産物だったのでしょう。
    邪馬台国の範疇以外の諏訪や南美濃などには別文化が・・・美濃物部や諏訪縄文などが色濃く存在していて、ト祈祷などの動物骨の亀裂による占いがアルプス構造線には盛んであったと考古学では語られています。 卑弥呼のト占いなどは縄文スタイルの最西端なのかもしれません。 
    身の皮に蚊やダニや昆虫が付かないように工夫されてきた経緯から、何かを皮膚に着けていれば蚊やダニは来ないものであるという知恵が結果的に赤色顔料となっていった様で、最初はドクダミの葉のエキスを液体にして塗り込んでいた程度だったが、フラバンジェノールの様なフランスの松の幹細胞から塗り込んだもので透明感を得たのであって、最初は汚い色の樹皮が皮膚に塗りこまれていたようだ。 渋く漢方薬は皮膚にも練りこむじだいだった。
    口内は外皮に近い内皮と言われていて、口内殺菌や食事後の渋茶は名残でしょう、けれど最近は水やジュースで食後が終わっている現状に、ウイルス・細菌の体内侵入の危険を誘発させている切っ掛けとなっているようだがね。
    <飛騨王朝の分身たちの仮の住まい>
    最近エクアドルの金版が掘り起こされたようで、そこに書いてあった文字は解読できない宇宙文字として理解不能としていたが、ある日本人が出雲の神代文字で解読できるとして簡単に解読している。 弥生縄文時代と古くなるほどに歴史は読めなくなりますが、地の果てまでも行動する人々は我々定住民との根本的に違いが理解しにくい。 古事記・日本書紀でも簡単に場面が1000キロ先へ飛んでいたりする事も、だが、根本的に教育の違いによる行動の違いへと発展していくのでしょう、が、地球を一周しないと大人にはなれないという教科書が有れば、それは、その様に行動するだろうが・・・・・・・。
    まあ、天孫族というのはソンな教科書が有ったのだろうと、しか、うま、理論的に理解される。
    福井平野の稲作地も河川の氾濫(降雨と雪解け水)と海水浸入による地域というのは弥生末期には既に満ちていたと思われます。 現に福井市周辺の町名ですが、舟寄地区・春江地区、岡保地区・芦原など海水と真水のあるような名が目立つのです。
    もともと天孫族というのは商売を通して社会支配を考える集まりで、農漁業生産からの社会支配とは行動範囲が全く違いを見せている。国家づくりも天に通じるスタイルと地に通じるスタイルとでは腰の位置が違いすぎる。
    わたしは地に通じるスタイルが嘘の無い純粋であると思うのだけれどね。

    今日もこの辺で !
    では。

     

  • #58

    竹南方 (火曜日, 21 9月 2021 23:23)

    こんばんわ、ヒカルです。
    最近はふるしょうさんのYouTubeにはまっていて見ごたえありますね。対面形式なので対話しながら的な感覚でストップさせながら再生・停止、とじっくりと視聴しております。
    古事記・日本書紀・三国志、等々の時代考証が難しくて、ふるしょうさんの様にパソコンに資料が満載させているのは新しい発見があるのかもしれませんね。

    <地図をなぞって日本古代史を考える>  この人、ふるしょうさんのYouTubeは見ごたえがあって面白いので報告します。 特に狗奴国は神武が天皇に成る前の熊野の地で戦闘準備期間が、魏志倭人伝の倭人の章・・・の邪馬台国の南に狗奴国あり官はクコチヒコとあるが、その神武の集団がまさに狗奴国だったと。 確かに九州勢力や北九州や広島・岡山に滞在し軍の拡大が有ったのだろうと伺えますね。 越前と滋賀(伊勢遺跡)、奈良纏向遺跡を考えれば・・・各地の壷などが出てきますが九州地方の壷は出てこないらしく、卑弥呼(邪馬台国)が魏への忠誠を選択した事と、神武が東征して熊野まで来て居た事はツジツマが合う。
    ただし安本ビテン氏の天皇年数二倍説(神武天皇の即位年を紀元150年)を受け入れたという前提が必要だが・・・・。
    ふるしょうさんが語っていたのかは分からなくなったが、紀元前660年に神武即位とした理由は釈迦や孔子などを越えたかったという単純な動機があったものとも言われている。

    ・・・・・
    <日本の泥水地の歴史>
    日本の歴史というのは大きな大きな流れからならば、大きな意味で解るのですが、集約して一期間を知るのには発掘が欠かせないと思われます。高台の考古学ならば発掘に時間は必要ないですが、平野部というのは土砂の流入が大きなネックであって、丸山地区の田んぼを一㍍掘り起こすと緑色した粘土層がビッシリと埋まっております。この粘土層は堤防の無い河川時代の
    泥水の結果というのは明らかなのです。 ですから安易な低地の集落はというのは数多くの洪水による泥水の積み重ねが過去の遺物を隠しているのですよ。
    いずれにしても、私の田んぼの塚田の遺物は掘り起こしてみたい気ではいますが、仕事に追われてチャンスが廻ってこないのが現実です。丸山の水源地の周囲の盛土などを金属探知機で回ってみようかと、も、おもっていますが。
    最近、誰かのYouTubeだったのですが、中国史の魏(曹操) ~ 普(司馬懿)に移譲されて国名が変わった場合には一旦金印を返還するという事なので、親魏倭王の金印は日本国内には存在しないとも言われているらしい。が。


    では。


  • #57

    竹南方 (火曜日, 14 9月 2021 22:57)

    9月も中旬ですね、どうもヒカルです。
    コロナの影響はまだまだですが、みなさん元気で過ごしているようですね。
    みなさん と言っても、会ったことも無いうえに一般的に読書家でもあるという事だけが繋がっているようなものですが、言葉があれは案外ツナガリも確定している様なものです。・・
    さて邪馬台国ファンにとっての関心事は、やはり女王として一時的にも君臨した卑弥呼の事だろうと思います。 いろんな角度から様々な文献から多くの主張から邪馬台国の卑弥呼を考えるに、なぞ解明したいにも関わらず、出てくる答えは・・・宇宙の謎と、答えは堂々巡りの壊れた AI とでもいうのか、やみ雲の世界と言ってもイイだろう。
    やみ雲というのは気質にはある。 金の使い道がヤミクモニなるとか、やみくもに運転していたら民家に辿り着いたとか、二人の仲が闇雲になって見えなくなるとか、だ。
    せめて彼女(女王卑弥呼)の片鱗でも明確な名の書かれた勉強机や御皿や衣装などが出て来てくれれば、文献上の指定地よりも格段に推定度がアップします。 どうかひとッ、考古学的な調査を優先して発掘一番という旗印のもとスタートしてもらいたいものです。

    <丸山古墳>
    この地域は福井平野の真ん中にある事から、アクセスしやすいという事なので福井古代歴史民衆博物館として水源地を利用するべく開発し、新しく保ち、まあるく、長もち本として新築維持、そして世界に開けた優しい文化会館として卑弥呼真衣(舞い)を毎年執り行い、県知事・総理大臣・天皇・チンピラ・サラリーマンを集め、天岩戸開ける儀式を電電太鼓を掻き鳴らす360度のパノラマから巨大な宇宙船からみのもんた、身が持たないのでここまでにしておきます。
    身近な我々にとっては蝉の鳴き声、鳥のさえずり、木々の息吹という自然が身近にあるのは大変な喜びでもあります。 50年前に丸山が材木を売った地主がいて禿山にナッタころの事を思い浮かべると、時代は複雑になったなと思います。 しかし単純な所に解決策というのが転がっているのかもしれません、例えば
    例えば、木の中身は甘いものです、が木の皮膚は苦く成っていて虫やウイルスを入れないようにしています。 栗の実は美味しいですが栗の皮膚は苦くてトゲトゲで鳥でも食べれません。
    そうです渋皮や赤色顔料というのは日本脳炎やウイルスの侵入を妨げてくれる天然の素材だったのです。より虫刺されやダニによる皮膚炎、そしてウイルスによる人体えの攻撃も渋皮・朱液は防いでくれています。個人的には墨液もダニやウイルスには効果が大きいと思いますが・・・。

    <踊るアホウ、に、見るアホウ、同じ阿保なら踊らなければ損損>
    四国の徳島に伝わる現在最高の伝説となっている阿波踊りですが、阿保踊りではないので勘違いで理解されていると思います。 四国の住人に成るくらいのハイペースで四国ユーチューブを見聞してきましたけれど、邪馬台国四国説だけは何かしらのオブラートに包み入れて吐き出した食べ物のように原型が何なのか見えてきません、四国も一時代の期間に文化が育ったようなものはあるのでしょうが、イザナギから神武東征までの宇津々は感じられるにしても、元々倭国の争そいごととは無縁の相争わない衆族の感じかするのは私だけでしょうか・・・。
    考えてみてください、四国の太平洋側に玄関を持たなくても、太平洋の内浦である日本海側こそが自然を巧みに取り入れた知恵の宝庫となりはしないか、四国は二名島と言われており伊の国と予の国とあったので、淡路・二名島と国の始まりを歌っているようですね。
    しかしですよ・・・・
    しかし、魏志倭人伝に七万余国とあるように7×5=35万人を擁する人口を抱えていた現実から、徳島吉野川にはその責任は果せていなかったという四国説ストップ!! という結果しか生まれない事となる。 そして酒を飲むとある、米の酒というのはある程度米作りが進化しないと生まれてこないものであって、雪解け水か巨大墳墓にある水瓶が夏場のコメの成長を促進させるもので夏枯れする吉野川であっては満更良いコメも育たないのである。 コメは元来淡水平野でしか作れないものであるという事。
    我々北陸人は南の阿波踊りに踊らされている現状が有る、北陸の雄の星稜×和歌山の簑島との一戦は良い例だ。 踊らされてしまった星稜はファーストミットにも玉が入らなくなって堅くなった身では踊りは踊れない、終いには逆転されたのだ。
    転機を待って身を保つという基本に則れば何時かチャンスは音ずれるのである。
    耳を澄ませ・・音が変わった! チャンス到来ということとなる。

    今回は自分自身への説教でもあり、空海と最澄との戦いを具現化するこだわりでもあり、未来永光の物語の終着点でもあり、終着点は鑑真でもあるのだから・・・

    それでは。

  • #56

    竹南方 (金曜日, 09 7月 2021 00:20)

    どうも、ヒカルです。https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zpyvT5f91fs&feature=emb_logo
    7月となって線状降水帯が明日の天気を怖がらせています。 山陰あたりがヤバいみたいで、コロナと同じ様に大雨が過ぎていくのを待つ、だけでしょうね。
    最近ハマっているのは、古事記徳島説を深読みしたせいか、徳島にもイザナギ~から~神武東征までの期間の天孫族の期間が有ったものと理解するようになりました。 三村氏のYouTubeを何度見ただろうか・・・、魏志倭人伝からの卑弥呼は少し無理している気がしますので、そこは省かせてもらいたいものですが、何せ、阿波踊り(踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿保なら踊らにゃ・・・・)を材料に天孫族の存在を解いているのは素晴らしい勢いが感じられました。
    だだ、以前に私の説(書所から)でのイザナミの存在は越前に有ったように思えるのですがね。
    <天皇家の移動系譜>
    現在の天皇の活動場は東京であり、その前は京都で、奈良周辺を移動し、その前は空白の150年、その100年間は徳島美馬中心に国生み期間となっていて、その前、卑弥呼の頃は越前というか徳島にはイザナギが徳島の同じ天孫族に単身降りて行った・・・、イザナギとイザナミは本来の文化の違いによる別れをしてしまった事の結果、イザナギの国生みを徳島を中心に拡大していくこととなる。淡路島・四国の二名島・九州島・などなどを生みだしていった。
    では越前の資料として白山中宮神社にイザナギとイザナミの足跡がオシテ文字資料に有るらしく、ここでヒルコや淡島を生み悩んでいた事でもあるから、飛騨という天孫族の集団が何らかの天皇家の成り立ちを感じる・・・。
    徳島美馬には5万戸の住まいが有ったとは考えにくい、今現在は徳島と福井は人口も似ていて、過疎化も似ている様だが。
    <イザナミから卑弥呼へ改名か>
    イザナミとイザナギの離婚は案外早かったような気がします。 同じ天孫族の身の上だから似ている様だが笑いの国と寡黙な国との根本的な身に溜まったアカは簡単には結び付かない、というか寛容な国と雪国との隔たりは、結果、離婚を招き、天孫族ではありながら二人の道は邪馬台国と狗奴国という違いに至ったのでは? と思うのです。

    <オリンピック>
    九州には(宮崎)、五色人神社があるらしく、五輪の書の宮本氏も意識したのかもしれませんが、当時でも肌の色が異なる存在は強かったのかも知れません。

    まだまだコロナの空気は減りませんから、くれぐれも焦らず騒がず、清潔第一にした生活を心がけましょう。 神社の手水鉢は10代崇神天皇が発明したらしく、殺生による罪穢れなのか手を洗うという行動はコロナを衰退させるものなのかも知れません。

    では

  • #55

    竹南方(ユーチューブ) (日曜日, 13 6月 2021 22:08)

    どうも、ヒカルです。
    6月中程となりオリンピックも近く明るい矢柱が天から差してきている気がします。 
    お元気ですね、絶賛ユーチューブ見ています。 一つ一つ塗りつぶしている研究に頭が下がる一方ですね。 邪馬台国と女王国は同じではないとする考え方に、やっと理解できた想いです。
    邪馬台国から21カ国めに奴国を女王国の尽きる所としている事が筋立てて見えるようです。
    途中に21カ国の途中の邪馬国という邪馬台国では無い近い国が有りますが・・・これは出雲あたりなのでしょうか ? 、邪馬台国の支店のような邪馬国・・・・。
    <四国ソロモン秘宝伝説>
    剣山に秘宝在りという文章から 一度は見たりチェックする事となるのですが、日本には、倭国には多くの部族や地域の国が有った様だと思います。 まあ、それ以前の倭国には100くらいの国が有った様だから、女王国が30カ国程度という事なので絶対的に倭国を支配したというわけではないようですね。  其の中で四国(徳島)に集った人々はいったい狗奴国とどういう関係をモッていったのだろうかと・・・・。
    最近ハマっていてなかなか抜け出せないのですけれど、ただ、ただ五万余戸数を理解すれば邪馬台国では無いと答えは出るのです。
    <卑奴母(ひなもり)>
    卑奴母(ひなもり)という官がいます、卑奴母を漢文から要約すると・・卑弥呼は奴国の母となるようですね。 奴国から女王とするべく米作地帯の越前に根を下ろして、邪馬台国をマトメて安定させて、そして女王国の範囲を約30カ国まで広めたのだろうと思います。
    倭国の統一の寸前までこの体制を維持しつつ、他の倭人地域との連盟を模索する。
    <京都大学出身安本美典氏>
    安本さんの仁徳天皇以前の天皇年齢二分の一説。 この説はオロチ先生の農業米生産穀高比例説と似ていて、納得させられていて真実だと考えさせられました。
    安本氏の講習演説を見ていまして、千年が五百年しか進んでいなかった事に、越廼国の季節感というのが越年読み(春と秋を二年とした)を生んだのか、中国(シナ)の越国からの渡来民による年数えが仁徳天皇あたりまで数えられていたのか・・・、西暦が無い為にそのように数えてしまっていたのか、舎人親王・稗田のアレ・太安万侶、等は、いえいえオオキミ内の歳読みは二倍にする習慣が、何故か数えられていた、とする安本氏の第一の邪馬台国探索の大きな大きな証明として安本氏を美典として評価されているみたいです。
    しかし、それに留まっていては進歩が無く、怪しい古代研究家の大頭ダイトウを許してしまう事となっていく暗黒の御手前理論が蔓延ってしまう。ハビコッタ御手前理論は、暴走を重ね、神尾冒涜するのか、それとも笑ってすますのか、ナンデ そんな小さな事象まで・・・、わかるのじゃーと言いたい気持ちがぁ、神尾です。(笑)

    <飛騨王朝伝説>
    縄文時代はアマリ文化流入としては無かったように思います、やはり米作により人口が増えだす頃からが文化が築かれていった事は誰しも感じているのでしょう。 その縄文文化の中に逸早く卵巣に入る精子の様に辿り着いた地、それが飛騨山地だった様に思える。 対馬海流に乗り丹後・越前を経て宝来山に着き、そこから大きなアルプス山脈の麓まで辿り着いた。 二艘三艘の大きな船で着いたという伝説が有るようでトミー一族とか・・・、そして彼らは神通川を南下し飛騨の地で天然温泉に足を奪われる、また縄文人の生活スタイルを取り入れ(郷に従う)て一神教の神を表わす前の段階として、巨石文化を残すこととなる。 縄文海進が終わりかけた頃に飛騨を降りる事となる、天然温泉は有れど食料事情が良くなく、寒冷では種族(天孫族)の身体までも子孫までも・・・・降りる事となる。山本・山下を先頭に暖の取れる食料の確保できる場へとチームを作り種族の証明書となる石材を胸に翳し、子孫存続に命をかける。のである。
    <饒速日の命(ニギハヤヒ)>
    この男は直接に天孫から降りてきた様で、関西に住み関西で偽名多く、偽名を創る事で天孫族の御方様の正統性を伝播していく。


    今日もこの辺で。




  • #54

    ヒカル (日曜日, 02 5月 2021 20:57)

    どうもヒカルです。
    五月の連休です。 いかがでしょうか、相変わらずペースがある
    八俣遠呂智先生ではありますね。
    われわれ凡夫からしたら頭があがらないですね。
    という事で、考古学や科学的または実証的根拠からの知恵に乏しい者にとっては、魏志倭人伝や古事記・日本書紀などの文献からとなりますが・・・今回も、感じるものがあったので・。

    <黄泉の国という表現について>
    黄泉の国と表現された意味合いについて死の国と和訳されていますが、いやいや、古事記からはそう理解されているようですね。 黄泉国=死の国 と定着しています。 怖いというしかないような国とされています。  しかし、どうでしょうか、黄色い稲穂の多い国と読み返せばだが、理解不能な稲穂だらけという見方をされていた人々の集団(天孫族)の見分で書かれている書物が古事記・日本書紀の当時の見方だったとしたら、そこに死も含めた事件(天災)も含めて"黄泉"と呼ぶ様に漢文大和へと移行する過渡期の表現として"黄泉の国"を利用したのではないだろうか。 と思うようになりました。
    かつてマルコポーロは日本の第一印象を・・「黄金の国ジパング!!」と言っています。

    <イザナギがイザナミの神社を余生の淡路島から渡、美馬市に伊邪那美神社を中州に創る>
    これは離縁した理由が想像できる。 それは君の居る場所は河の中州なのだと・・・イザナギは元妻の意地に対してのササヤカナ反抗として中州に宮を建て祭ったのではないだろうか。
    水害や天災の多い土地に縛られるのは"もういいよ"と無言の祭りを似た地で供養したのであろうと、思われます。
    この時代には越前の地も入植できる場所は、危険地帯は多く広いが、扇状地や川下というのは失敗しやすく二重の苦しみに出会という、因果な所で、当時の河川というのは竜に例えられるほど手の付けられない制止させれない災害を繰り返す事があったからだ。
    天孫族は山から下りてきただろうから、平野部の思ってもみない災害を一度は出会ってしまうものなのかもしれない。
    <イザナギ・イザナミが国を見下ろす天の浮橋に立ち・・・>
    天の浮橋 = 二本松山古墳の端に立ち と漢文の無い時代の平仮名もどきで語った言葉を古事記にしているからか、そこから見下ろす入植地は塩水と河川と沼地で有った様で、そこから始まる二人の旅路はアッケなく一代半で終わりを告げる。 同じ天孫族の散らばった地へゆくゆくは辿り着き、別れ、時が過ぎ、妻の出身地の島根に葬り、イザナギは淡路に引きこもる。

    ・・・・・
    なぜ北陸越前へ入植したのか? それはやはり、黄色い米・麦というのは害の少ない食べ物だと理解されていたからではないだろうか。 四国の讃岐うどんの始まりはイザナギが苦労の末広めた食べ物では? と感じるのは私だけだろうか。 米よりも麦の栽培の危険度が少ないのは陸麦栽培として成り立つからだろう。
    畿内では三輪そうめんが活動期となるのもこのころからだろう。


    今日もこの辺で・・。






  • #53

    hayachan (土曜日, 24 4月 2021 10:41)

    次の2点に疑問があるのですがご教示願えませんか?
    1. 九州に上陸してから奴国に行くまではやけに詳しいのに、20日も掛かるというのに邪馬台  国までの途中経過(経由地)が全く書かれて無いのはどう考えられますか?
    2. つまびやかでないその他の傍国はどこに比定されますか?

  • #52

    ひかるチャンネル (月曜日, 05 4月 2021 18:39)

    ヒカルです。
    おしんの橋田さんが亡くなられたそうです。
    95歳まで生きるというのは、おしん一筋の精神があったのだろう。
     帰省一週間を過ごしました。 老夫婦(私の)が車を廃車したので、徒歩とタクシーで買い物をするという状況なので心配してました。 80歳済んでいるのでやはり心配で、帰省を長くしました。
    そんな中で、丸山淵の西片面を歩いてきました。 
    【亀石型横穴蓋】
    神社の昇り階段の下から願応寺の間の山側に四角い井戸のマスが有ったので(昔から)眺めていましたら・・・・その奥の雑木林の地ズラに岩が有ったので眺めていました、何か楕円形の形状していたので亀の甲羅を大きくしたような岩だなと・・・・思いました。 岩の材質は"サザレ石"の様で、君が代を思い出して、いたんです。 が、またフト、井戸と丸いサザレ石のコンビネーションが坑道の蓋と感じ得ました。
    地べたに平行してある坑道であるならば・・・・ひょっとして奴婢百人の坑道(墓)だとしたら、扱いやすい坑道となりはしないか、と思った次第です。
    <貯水棟の秘密>
    丸山の山側の廃屋が有りますが、近ごろ不動産屋(アイフル)に売ったのか、そこには住まない地主が不動産屋に任せたようで調査していました。なぜ住まないのか? 村内には住みずらい、のか、それともヘビが出るからなのか? 廃屋になって20年以上ですから、売るタイミングだったのか・・・。 ヘビでしょう。 わたしの自宅まで時折姿をみせるヘビは穏やかだが夜の動物の鳴き声というのはヘビが小動物を飲み込む時の喘ぎ声だったのか、よく聞こえてくる。
    餌の無い季節になると私の家まで出てくる様だ。
    守り神なのか厄介な動物なのか、貯水池が廃墟になった理由が少しずつ見えてきたが、まさかヘビが貯水棟にトグロを巻いて住んでいるとしたら・・・。

    福井県に帰って福井の番組見ていると、歴史に対しては余り熱心ではなく、米・家・仕事、と現実的な視点が強く、県が主催する"越前時代行列"ではミスお市の方、が福井のミスコンとなっていて柴田勝家役のタレントが気になる程度の歴史思考で終っている。 何故に朝倉氏・新田義貞氏というのは主役に成れないのか・・・・それは負け戦的な戦歴が越前の歴史となっている中、お市の方は三姉妹を生み江戸幕府の礎となった所に福井県民の心があるのだろう。
    漢文と平仮名からが歴史の始まりが強く、言葉が無かった現れない現状に奈良時代の繋がりからが歴史を感じさせる事柄が多いのだろう所が歴史の始まりであり全ての福井県の物語となっている。 魏志倭人伝の雰囲気には酒文化や敬老文化や料理文化が進んでいる景色があるが文化を持った渡来人は雪国ではなく雪の積もらないラインに多く移り住んだ気がしてならない。
    雪のある時期というのは精神統一が損なわれるので文化祭的には遅れてしまう結果となっているような気がする。 ただ、生活文化は進展する発展する気配を感じるが・・・。

    きょうはこの辺で、ん
    ところで、丸山墳墓の突破口は県や市の文化部の力による様な気がしているのですが、卑弥呼にに関しては宮内庁は関わっていないのが筋なので、宮内庁を意識するのは神社の境内だけにので、其処だけ残して県や市は調査発掘と貯水棟の解体を進めるべきだ!!。 竹田恒泰氏さんは邪馬台国卑弥呼を‥‥『だれ? それ、日本の歴史には・・・無いから、どっかに王が、たくさん王は居たからね列島には。』と、ユーチューブでは言っていました。

    では。





  • #51

    田中 (木曜日, 01 4月 2021 19:00)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事お慶び申しあげます。
     コロナ第四波に入り、社会が一変しておりますが、産業革命以来の構造変化の過度期の場に我々は存在して次なる港を目指しているのでしょうか。
     さて、箸墓古墳(神話によると、ヤマトトトヒモモソヒメ)は、「国立歴史博物館研究報告Radiocarbon -Dating the Appearance of kofun」炭素14年代法で箸墓古墳が完成したのは西暦240~260年と考えられる。という研究は確かなのでしょうか?魏志倭人伝では、卑弥呼が没したのは西暦247年頃です?。この年代を意識した邪馬台国近畿説の発表ですね。陵墓ですので宮内庁が比定していますから考古学者も立ち入りは出来ない制約がありますね。
     名古屋大学と樫原考古学研究所共同で宇宙線ミューオンで箸墓の埋葬空間を確認しようとしていますね。箸墓の埋葬者解明は古代史関係者皆が望んでいると思います。
     ヤマトの墓は元々、方形周溝墓で4m=12mの墓でしたが唐子・鍵遺構のように建物は大きかったので、水運にも都合の良い奈良が交易場として合意ができていたのでしょうか。
     三世紀~四世紀に中央集権国家の原型が成立したと考えられています。しかし、真実は常に少数説である事は歴史が証明しています。
     お身体に気をつけて益々のご精進を祈念致します。

  • #50

    ひかるチャンネル (日曜日, 21 3月 2021 22:24)

    ヒカルです。

    気になる事があったので・・・。
    丸山墳墓としている丸山において、墳墓としての道具・材料・人材は不可欠だと思われます。
    道具は鉄製のスコップは作れたでしょう、そして人材は当然揃ったでしょう、・・・しかし・・
    材料はいったい何処から取り入れ運んだのだろうと、思いました。
    材料(石材) ? となると、丸山一帯は泥で埋もれている地域なので、遠く九頭竜川だったり、シャクダニ石材地だったりと、ずいぶん離れているように思う。 という事は、丸山墳墓に選定された時には石材の事も考えられていた筈だと・・思いました。
    ・・・・・考えてみました、長い時間。
    ふと、そういえば、丸山の北西の崖は何の理由からか、墳墓用の石材として丁度イイ大きさであり形が積み上げやすい平板なモノだったと思い出しました。  ああ、これは作業効率といい絶好の墳墓作りとなるだろう、と思いました。
    だから幼い頃から平板型の崖の崩れ方といい、何かの作業場の気配を感じていたのは間違いのない事実です。願応寺の山側の崖が削り取られて、トラック5杯分の石材(崖石)が無いような気がしていました。1800年前の事だとしても可笑しくない事実だと思います。

    ああそうか。

    今回は、石材が有るから墓を造ったという順番に考えてみました。

    今回も、あくまで自説からですが、考えてみました。
    では。

  • #49

    ヒカル (月曜日, 15 3月 2021 06:34)

    こんにちはヒカルです。
    YouTubeでプロレスを好く見ています、天竜が大好きで突っ張る天竜に外国レスラーも動きが止まっている時、タケミカズチがタケミナカタを諏訪湖へ飛ばしたという伝説を描いてしまいます。 レスラー天竜は丸山墳墓と言われる上流の町勝山市出身なのです。

    <乙巳の変>
    イッシの変が起きたのは皇極天皇の在位中です。乙とはオッス!! ありがとう ごくろう という意味が有り、そして巳とは の意味であるから、乙巳とは御疲れ交代します、の意味としての事変ということで理解されて国史に書かれている様だ。
    <イザナミの墓を造った天照大御神>
    スサノオが起こした事件は天変地異による邪馬台国崩壊を語っているとするならば、田の畦を壊した件・牛が機織り小屋に流れ込んだ件・食堂の女を殺した件、などは黒竜川の氾濫を示唆している様子であって川の水流氾濫によって失われた田畑は取り返しのつかない状態と化し、イザナミの死後に天照大神は洞穴に住まわれて現状を取り戻す事ができなくなって終いました。 そんな中で埋葬を考えるのですが・・・・卑弥呼(イザナミ)と奴婢百人を同時埋葬墓という形で低い場所からの入り口を設け、埋葬する。 そして、この地と決別の儀が滋賀県守山の地で執り行われ(伊勢遺跡)、天照大神は父親(イザナギ)の指導の下へと進展していく。
    イザナギは性格上"暗い所"、"湿った所"、ヘビ、殺し、などが好きではなく、自然から排除したいと思っていたようで、妻のイザナミとは許容量が違っていた、夢に見るのは常日頃得体のしれないものであったに違いない、間違いない。。。

    皇極天皇の御世になると倭国の存在・イザナミの存在・九頭竜川の氾濫頓死、等々を神話化して消し去ろうと・・・・最後の権力者である蘇我氏との乙巳の変をして終う。 国権の仲間の命まで取ってしまった結果と成って、その歴史(倭国・氾濫都村消滅・イザナミの道程)をアル程度消していく作業が必要と成っていったのである。 結果として、神話にして供養できたとは思えるが、蘇我氏の首は日本中を舞っているかもしれない。

    <奈良時代>
    大きく示す良い時代・・・・。
    田畑を洪水から守るための方策として、ダム建設・・・当時は湖水・ため池建設であったのだろうが、古墳時代には実行されてきて、飛鳥・奈良へと確信されてきて安定し、平安遷都へと繋がっていく。

    きょうも長ったらしくコメントしましたが、あくまでも自説なので、そのへんよろしくお願いします。 座りっぱなしは穴の血管を潰しているので歩くようにしましょう。

    では。

  • #48

    ひかるチャンネル (日曜日, 28 2月 2021 12:48)

    こんにちはヒカルです。
    マイペースですが今回も奇想天の想いで歴史文献を読んでみました。
    今回は約80台の歳で死んでいった卑弥呼が、卑弥呼子(男王)・狗古智卑狗(官)の組織と対峙したという記紀神話文献から関係性が相似している気がしましたもので・・・。
    <イザナギとイザナミの夫婦の関係が卑弥呼子と卑弥呼との関係と似てる似てない !!??>

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kobayashi_Izanami_and_Izanagi.jpg
    天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。イザナギとは夫婦となりオノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
    火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチはイザナギに殺された。 カグツチの亡骸は熊野や島根に埋められた。
    死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。 イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミとイザナギは離縁した。
    ・・・・・・・・。
    この後、イザナミは黄泉の『 主宰神 』となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。 
    <黄泉津大神としての主宰神>
     直接に死去したとは表現されていない。「神避り」の解釈を巡っては、天皇の「崩」に対応する神の死の表現とする説や、死を意味するのではなく元いた場所から離れていくことを表すとする説、死を表す文脈にあって、異なる神格への変化を含んだ、黄泉国への移動の表現とする説などがある。(国学院古事記の説明より)
    と、する国学院の説明からすると・・・・・イザナミは身が死んではいないが黄泉と云われる国に居座ってしまった、という事になると想う。

    <ハラミ山(原目山)に16歳から其処に住まわれた天照大御神>
    これはホツマツタエからですが、天照大御神が全国行脚(あわ歌・田作り・生活等)する父母の不在中でしょうが、高天原から高臨して天津国に来て育った場所とされている。
    ・・・・・
    原目山でしょう!!。


    今回は記紀文献から考察しました。
    丸山墳墓は天照大神よりも母親のイザナミの方が可能性が有る気がします。
    イザナミの亭主への裏切りにより名も無き神社は増大したのは良かったことだと思います。
    こうなったら・・・
    こうなったら世界中に、たとえばアイダホ神社とかカレー神社とかジャーキー神社・石油神社・天安門神社・地中海神社・あっふりか動物神社・唐辛子神社・島唄神社・アサイー神社・
    とか、鶴瓶神社・アザラシ神社・・・・・・・・・・・・・・・等々の名も無き神社が増えたとしたらイザナミのお蔭だとなります。 ね。

    では。 そうだチャンネル登録お願いします。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=5&v=zpyvT5f91fs&feature=emb_logo

  • #47

    八俣遠呂智 (木曜日, 25 2月 2021 09:57)

    山口哲也さま
    魏志倭人伝シリーズで述べていますので、ご参照下さい。
    https://www.youtube.com/playlist?list=PLrCGq8HwIwxYL2T5zgZuVG1kfs-abekNN

  • #46

    山口哲也 (日曜日, 21 2月 2021 23:09)

    追伸
    ⑤奴国の比定地を博多の金隈遺跡とお考えでしょうか?しかし、奴国の中心地はむしろ当時の青銅器生産の一大拠点である、須玖岡本遺跡付近と考えるのが一般的です。そうすると、伊都国の真東に位置しますが?
    ⑥方位が90°ずれて記載されたことの妥当性は?なぜ、朝鮮半島→対馬→壱岐→末盧は、45度のずれなのか。むしろ、全て45度のずれ(私は30度と考えていますが、これもどのポイントを取るかで違ってきます)と考える方が一貫性があるのではないか?
    以上質問の追加です。

  • #45

    山口哲也 (日曜日, 21 2月 2021 20:58)

    八岐遠呂智様の「邪馬台国と女王国は同じじゃないよ!」動画を拝見しました。
    「悪質なる曲解」に対する嫌悪の気持ち、よくわかります。
    原文に忠実に読むべきとのご意見全くごもっともです。
    そこで、質問です。
    ①女王国に統属=女王国の一部という見解のようですが、女王国との主従関係との見方の可能性はないでしょうか?
    ②末慮国=現在の伊万里市である根拠はありますか?
    ③対馬から壱岐が45°方位がずれているとし、伊万里から伊都国は方位が90°ずれているとしているが、では、その後行程がすべて90°ずれるとする根拠は?
    ④③の方位のずれは、魏志韓伝においてもいえるずれなのか?
    以上が、この動画を見ての疑問です。
    ちなみに、私の見解はこれらの点で異なりますので、ご質問差し上げています。
    ぜひともご見解をお願いいたします。

  • #44

    藤原 (金曜日, 12 2月 2021 00:32)

    弥生時代のはじめから日本列島は「ヒムカイの国:ヒッタイト」の植民地となった。
    神武帝の東征により首都を任那から大和へ移動し、統制力の弱まった満州地域で上づ国(高句麗)が関東軍と同じ原理で暴走し独立した。高句麗が宗教的、言語的にみて朝鮮族ではなく、日本民族であることはあきらか。
    卑弥呼は伊勢の斎王:いつきの「ヒメミコ」を事情を知らぬ中国人が名前と勘違いしたもの。
    瀬戸内は軍事目的のため平安時代にいたるまで外国船の通航が禁じられていた。したがって、日本海か太平洋にでて伊勢湾からはいるしかない。太平洋航路をとる場合、九州の東か西を「南下」し黒潮に乗り伊勢湾の「鳥羽:投馬」から上陸、神宮近辺をとおり大和にはいるのが自然なルートだとおもう。
    「倭人伝」に伝わる倭人の風俗はヨーロッパ西アジア系であるはずの日本民族というより、渥美半島周辺を拠点とし朝廷につかえた海洋民族である安曇族の風俗と考えるべきだ。

  • #43

    藤原 (金曜日, 12 2月 2021 00:12)

    日本神話は日本だけで考えてはいけません。ヨーロッパの成立と並行して起こったものです。
    神武東征と同じころゲルマン系の祖であるチュートン(にしうど?)人の中央ヨーロッパ西征がおこります。
    戦前の地政学者マハンはチュウトン系のなかに米英独とならべて日本も入れていますし、人種差別主義者ヒットラーも日本文化のなかに典型的アーリア文化をみとめています。
    メルカトル図法の錯覚で日本文明と西アジアヨーロッパとの関係を無視していることで戦後古代史の矛盾が解決できないのだと思います。
    高天原:コーカサス、葦原中つ国:アッシリア、ヒムカイの国:ヒッタイト帝国、天孫降臨:東亜細亜東征、神武東征:瀬戸内征服大和遷都とかんがえるのが普通です。
    軍事大国倭国は朝鮮の原住民に軍事技術をおそわって成立したなどありえないことですし、縄文人の血は日本人の血の1割程度、天から降りてきたなど考えられない以上、言語、宗教の酷似したヒッタイトが移動したとかんがえるべきです。
    人種は、神話が象徴する通り国つ神との数代の混血によりまったく変わるはずです。
    白人からモンゴロイド+アイヌへ。
    ちなみに、ヒッタイト初代皇帝は「ハツシル」、神武崇神両帝の名「ハツクニシラス」とおなじ意の称号とおもいます。

  • #42

    ヒカル (水曜日, 10 2月 2021 21:45)

    こんばんわ、加~賀ヒカルです。

    陳情書(五回目)という話を聞いていました。 なかなか答えを出してくれない民主主義的政権の人々も経済的な潤い一番としているのは分かりますが・・・、例えば星稜高校の松井を生んだ監督の山下さんは言っています・・「花よりも花を育てる土に成れ。」 良い言葉です。 長打やホームランを打ってスターに成るな、と、打てる人に繋げて時を待て、と。
    しかしながらヤマタ先生の地道な御努力で、霞が晴れてきているような感じもしております。

    古代史に関心のある人の集まりならイザ知らず、世間的にも古代歴史は戦国時代で止まっている社会ですので、仕方ないのでしょう。  それと、邪馬台国卑弥呼の言葉もあの頃から見れば徐々に関心の薄れた古代史部位となっている気もします。
    それでも、私や 遠呂智さんにとっては大切な日本人のアイデンティティー(完成・感性)なので譲れないものでもありますね。
    <打開案>
    無いですね。  ・・・  ただ民衆や権力が動かないのであれは、残るは丸山墳墓の若干の検閲者である神明神社(伊勢系)への申し送りというか、神社本庁への丸山墳墓解明の手掛かりとなる新神社建設計画(神明)の陳情と、蛇退治と、水源地敷地の国家プロジェクト(卑弥呼と100人の護り墳墓館)の推進をご提案・・・・・。
    OK となれば、
    となれば民衆も権力役人も誰も言えないスムーズ進行していけるのではないでしょうか。

    昔、30年も前の事、近所の土建屋の社長は「あの山の土を取ってしまって家建てよう~さ。」と人前で言っていたのを思い出す。  信仰心の薄い人ならではの発案に思える。

    <裏日本の最高の活用術>
    日本海側というのは山口県北部から北海道まで雪という残雪によって閉ざされてきた地域であって、其のことが人口減の要素となっている部分がある。 人が居なければ文化も墓も衰退していくのは目に見えている。 その衰退を止めようと試みても、雪というのは寒さを連れてやってくる。
    イタリア半島には良い答えがある。
    イタリアは小国家の集合体としてローマを支えている様で、小国家の尊厳を第一にして価値を高めて文化・産業・商業を造っているとの事で、その地へ行くとアマガキが有ったり、ある地域に行くとバカンスの巨大な街と造られているという。
    日本もそういった地域というか小国家的に老後の聖域として居住して一つの部位だけでなく三っ揃った小国家観光地として作り変える必要に迫られていると思う。
    ただ、爆弾を抱えたランボー者が小国家(観光地)の一等地に陣取り居座られても、困るのだが。

    <ホツマツタエの旅>
    ホツマツタエのYouTubeを聞いていたのですが、ホツマツタエの不信感を3つほど・・・
    ①  大田田根子が紀元300年頃に漢字の流入に対して過去の歴史をホツマ文で残した事。
    ②  天照大御神が女神ではなく男神としている事。
    ③  ヤマトタケルが全国行脚で「外国人の流入に不安を感じる」と歴史残せと、自らは白鳥となって飛んで行った。

    ホツマツタエというのは紀元300年頃の天孫皇族の天皇主義を朝廷の長と位置付けて権力も政治も笑いもスポーツも取り入れて大きくなあれと念じ続け、神武東征という降臨先の少数で偽書を行動をし、皇王家という日本や世界の豪族(王)には無い政治体制を大きくしていく。
    ホツマツタエには飛騨王朝や邪馬台国は描かれていなくて卑弥呼が死んで60年後なので大田田根子も巨大な倭国の存在も天皇家系の飛騨王朝から、も欠けているのは必然だろう。
    ただ、歴史の匂いは神功皇后や邪馬台国卑弥呼や菊理姫やイザナギなど鹿の骨で明日を占った部分など、飛騨に神物語の始まりは感じているのが、わたくしの現状です。

    天皇在位24年(平均)で考えれば紀元300年の崇神天皇からの天皇称名の始まりを正しいとして
    仮定することでアメミヨヤの降臨からミナカヌシ→クニトコタチ と10代後に神武天皇という天皇制を敷いたという事ですから、今から2000年頃に渡来したアメミヨヤ(天中主の神)さんが御中主の神に神主義を伝授して日本列島に神社の発展に進化する。
    だけど渡来したアメミヨヤ(天中主の神)は飛騨の山中を彷徨った後にアモトへ帰ってしまわれたらしい。 アモトとは? アメミヨヤとは誰なのか?  という問題は残るが、晴れて日本列島には神という存在で「清潔・正しく・美しく」という種を播かれていったのは正解だったといえる。
    長ったらしく書きましたが、今の私の頭の中はコウナッテいます、悪しからず、まあ、歴史をやると古代になれは尚更なのかもしれない。

    ではまた。

  • #41

    日賀ヒカル (日曜日, 24 1月 2021 09:35)

    こんにちわヒカルです。
    まだまだコロナ時下ですが気お付けたいものです。 またまたユーチューブで見つけた論者を紹介したいと思いますので、地固めとしての情報としてもらいたいものです。

    BC1200年頃から中国大陸の動きは危険地帯へ少しずつへんかしていきました。
    邪馬台国の倭人の繋がりだろう倭人が、長江中流域で発生?して安全な地を求めて往くこととなって神尾氏の最初のユーチューブが良いと思ったので投稿します。

    倭人について>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=2&v=nklALU50qvA&feature=emb_logo
    倭人は呉の民となった>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=3&v=nklALU50qvA&feature=emb_logo
    倭人は呉の滅亡で北へと逃亡した>
    https://m.youtube.com/watch?v=DsavxLqHCN4&feature=emb_logo
    倭人は日本列島へとやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=uvJAfGIbx3E&feature=emb_logo
    越人は朝鮮半島馬韓へとやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=0AB2OCvS_dA&feature=emb_logo
    楚人は朝鮮半島辰韓へとやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=mwluUI1nL-c&feature=emb_logo
    楚人は朝鮮半島辰韓にやってきた>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=mwluUI1nL-c&feature=emb_logo
    秦の始皇帝の中国統一>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=14&v=mXPh9E74NF8&feature=emb_logo
    徐福一行・・千人一行の来日>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=iqWFngwMQbI&feature=emb_logo
    漢帝国の朝鮮半島への進出>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=3&v=nGrhlBna55U&feature=emb_logo
    楽浪郡と真番郡>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=1&v=me8WciaHe40&feature=emb_logo
    楽浪海中に倭人あり>
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=3&v=Lt6475dWyoM&feature=emb_logo

    日本列島へ流れてきた渡来人も最初は縄文生活と変わりのない生活を強いられたと思いますが、携えてきた文化は伝え残したいものであって文化程度が高いレベルであれば尚更に権力闘争へと繋がっていくものでしょう。
    縄文時代から ~ ~ 、倭人の拡大進出、呉人の分散進出、越民のひなんによる進出、楚人の韓南拠点による列島進出、秦滅亡による秦氏の進出、・・・・弥生時代古墳時代というのは複雑多岐にわたる列島への進出があったのだと神尾氏は述べています。
    この辺りが解りやすく解説してくれたので好意をもっています。 倭人の位置関係が分かったような気がします。
    倭人の東への流れも日本海の対馬海流は冬の荒波以外は易しかった様で日本海側への倭人の広がりは宮城県の仙台へも広がった感じがします。
    BC600年時代の渡来人の中にスメラ系の集団が列島へ来たのは倭人・呉人・越人・楚人・秦人の何処の国に含まれていたのかは分からないが、先ずは九州の地、出雲中国・北陸・四国の地に渡来進出してきたのは当然の成り行きとなっていたろう。

  • #40

    ヒカル (日曜日, 17 1月 2021 04:24)

    ヒカルです。
    福井へ二度目? ですか、冬はカニですが三国海岸方面が良いかも。
    福井といえば、勝山太夫の考案した勝山掛けは巷では有名です、勝山には勝山大仏座像は日本一であって奈良の大仏座像は二位、鎌倉大仏は三位となっています。 古事記の泉平坂とは勝山市の平泉寺社の大きな坂道だと感じております。 

    <ヨシテ文字系ホツマツタエの文献ユーチューブ>
    ヨシテ文字系ホツマツタエの文献を読み解く努力がされているらしい、中で、卑弥呼に関しているだろうと思われる部位です。ワカヒメ・セオリツヒメが記紀に外されている理由までは分からないが、天皇家の男性系列(Y染色体)から外れた営みに関しては書かれないのは分かる気が。・・
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=9&v=NgBmLXBH6Ok&feature=emb_logo
    イザナミ・イザナギが最初に子を産んだ地の兵庫県の西宮、幼少を過ごしたヒルコ(ワカヒメ)は育った西宮神社から住吉大社を起こした金崎氏(わかの名人)に拾われて成人となりイザナミの娘のヒルコ(卑弥呼)は紀州に居た、その時にオモイカネ命に見初められてアプローチする。 その答えは・・・

    きしいこそ つまおみきわに ことのねの とこにわきみお まつぞこいしき(卑弥呼)
    なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねを おとのよきかな(金崎氏)

    と廻り言葉でヒルコと金崎氏は答えて、オモイカネ命と縁を結ぶ。 そして越前へ嫁いだヒルコはヒミコと名を整えて、魏志倭人伝の卑弥呼へと繋がっていく。
    <奴婢100名と共に・・・>
    約、80歳の齢となっていた元皇女卑弥呼、魏への朝貢や狗奴国(宮内国)との不和、臣下(倭人)との疑心、大きな倭国の長として共立された女王として最後の時期をどう過ごすべきか・・・・、卑弥呼は答えを出す。  下戸以下の奴婢たちへの想いを込めて、陵墓建設の場面には忠誠の奴婢100人を抽選(あみだくじ)で入墓していいとする。 国を治める為に奴婢たちが法を犯してしまった事の責務が卑弥呼にはあったのではないだろうか。短い魏書から読み解くには、単純に卑弥呼の気持ちから想い興せばだが、その方がシックリくる様だ。
    たとえイザナミ・イザナギから外れた皇族であっても神官の立場からも、五段階の人種差別のある時代に王と君臨しても直せない習慣というモノに対して不義を感じていた卑弥呼は最後の最後になって答えを出した、それが奴婢百人と共に埋葬されるという反抗精神でもあったのだろう か。 奴婢が生き埋め的に読み取る人も多いが、忠誠奴婢100人は後々に陵墓へ埋葬されたという意味として理解は可能である。

    ヤマタノオロチさんも二礼二拍手一礼を見せてくれました。 有り難い有り難い。
    これで掘ってくださいとまでは言わないかもしれないが、出入り口のパスワードをそろそろと
    夢の中で答えてまいりましょうと、言ってくれている気がしてならない。

    では。

  • #39

    ヒカル (金曜日, 15 1月 2021 22:31)

    こんにちはヒカルです。
    コロナ抑制の為に おぉ~いお茶濃い をのど元でうがいをする様に飲んでます。のどに溜まったウイルスは95パーセント落ちるようです から。

    <ホツマツタエ(秀真伝)>http://www.woshite.com/page1.html
    この伝記は滋賀県高島の とある蔵から出てきたオシテ文字による文字で書かれていて、記紀の信頼を高めている書としている。 フトマニ文字といいカタカムナ文字、オシテ文字といい、総称して神代文字とされるらしいが、平仮名文字カタカナ文字の前身でもあるので時間をかければ理解し読み解いていけるものらしい。 あわ(淡)のうた、があるらしいが、あわという言葉は飛騨王朝の高天原にある・・池で始めて歌われたと伝わっているらしく、いときょう氏によると、古代文字の源泉は縄文時代から脈々とあったという。 らしい。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=7&v=R2B2Sf5c_IU&feature=emb_logo
    この国の成り立ち、この国の行事、その時代の事象が書かれているというものですが、その中で天照大御神(男性)が食に関して語っている部位で・・・
    ダイコン・海藻・ショウガを最も大切な食べ物としていて富士の下で採れる菊は長命薬として食べていると書いてあるらしく、天照大御神の存在でさえ分からないはずなのに、ホツマツタエによると事象までもが解るという。

    まあ、神代文字の使い手たちは漢字文字の使者に押されて消えていった経緯はあるのだろうが、卑弥呼時代 倭国時代というのは丁度その過渡期であったのか日本海側の文明だったからか、分かりずらい環境となっていて解明には埋まってしまった泥土の除去から始めるしかないと思われます。 現在の10倍もの発掘費用で何かしらの文字文献や文字石碑や生活道具などが発掘されることを願っています。 1メートルの泥土はとても厄介な気はします。

    あいうえお とは母音(女音)で あかさたなはまやらわ とは子音(男音)と言われていて、文字による歴史解明が続けば日本の歴史も埋もれていた魂が蘇える気もします。

    <不彌国(宗像)から但馬(投馬)の地へ20日で実証船旅>
    火野正平さんが自転車で旅をする番組がありますが、丸木船のスピードで対馬海流の流れるスピードで20日で走り切ってもらいたい お手紙 を送ろうかなと思っています。
    あと、但馬から歩いて邪馬台国越前まで30日を歩いて走破して老後の足しとして体力維持を祈願してもらいましょう、火の招へい氏に、。 本当は火野正平氏のエゴで走破するより、見たいのは火野正平氏の魂のエキサイトであるから、江戸から京都まで道路が整備されていた時代で11日半の日にちが必要だったらしく、整備されている現代なら酒を飲みつつ歩いてもらうのは簡単なものだ。国家費用が動く時に成れば、火野正平氏も声が掛からないと思われるから、今が絶好のチャンスだ!!。
    https://m.youtube.com/watch?time_continue=9&v=WjgZX4_gUb4&feature=emb_logo

    また、おもしろい話が浮かべは書かせてもらいます。
    では。



  • #38

    ヒカル (日曜日, 03 1月 2021 22:10)

    2021年 1月3日 夕刻
    ヒカルです。
    また、緊急歴史解釈をユーチューブからです。

    西山恒之氏
    https://m.youtube.com/watch?v=WGMaFELBVYw
    西山恒之氏は、
    大倭国(邪馬臺国)は出雲、邪馬台(女王国)国は九州北部 と主張されているのですが、邪馬一(いち)国と邪馬臺(だい)国の関係性の親戚関係としては越前と飛騨王朝とがオーバーラップして面白く感じていますので、投稿します。

    邪馬一(いち)国<女王国> と 邪馬臺(だい)国<大倭王> とは親戚的な関係であって、けっして同じ場所に在るものではない。 と西山氏は述べています。 
    中国歴史書籍からの引用が多く、島根地方出身のせいか中国地方の捉え方というのは難解で80パーセントはコジツケの様な気がします。
    しかし、本居宣長からなどの歴史家は邪馬台国の台の字に対して、魏志倭人伝(陳寿)の間違いの元として捉えていたのですが、西山氏は漢字の扱いは間違ってはいないとしている事に、親近感という真実性が有るような気がします。

    私見としては、邪馬いち国には邪馬だい国の支店を置いたとする。 大倭王(飛騨・白山)の筋である卑弥呼が越前に居を構えていたという私論としては待ってましたという意見だと思います。 では何故に卑弥呼が女王と成れたのか・・・米 鉄文化 造船 を早急に進歩させた越前の権力者に嫁いだからなのではないか? 女王として共立されてからは飛騨の上方様を大倭王の地位に認めたからなのではないか。 ・・・

    大和の宮造りに移行してからは飛騨王朝の政治も大和向きとなっていったと思われる、何故なら越前を流れる黒竜(九頭竜川)は百年に一度は大水害を起こすらしく、その田畑は鉄器や装飾類以上に大切なベースだからだ。  水害整備のされた20世紀・21世紀でも足羽川の決壊というのは生々しいからだ。

    しかし、しかし邪馬台国論争というのは300年続くのは分かるような気がします。
    いろんな解釈をしてもウナズケルのは言葉数の多さにも原因があるのかな・・・。
    伝説の碑と建立出来るだけでも幸福と言える。

    では。

  • #37

    ヒカル (土曜日, 02 1月 2021 15:13)

    明けましておめでとうございます。 ヒカルです

    ビック安本氏は弱くなっている様ですが、弱い時程、ビックに名っている時であります。
    安本氏の目の付け所は、すごいですね。

    <金銀錯嵌珠龍文鉄鏡>
    https://livedoor.blogimg.jp/kurofune8/imgs/4/b/4b235f91.jpg
    崇神天皇の皇子の娘御子と結婚した景行天皇、この時に美濃に行幸した時に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を携えてきた景行天皇の妻(皇后)の持ち物であったとするならば、日田の地は飛騨(美濃一帯)との関係性が出てくる。 という事は、飛騨王朝の降臨政策の柱ともいうべき"筑紫の日向(日子)の橘"だったのではないか、と、降りてきました。

    筑紫の日向(日子)の橘とは日子山だったのかもしれない。 日子という意味は、天照大神の子という意味ではなかったか。そして日子山には、忍穂耳命という天照大御神の長男が祭神されている。 この山には、大己貴命や宗像三神までもが祀られていて、天孫降臨神話は、この日子山だった可能性があります。

    結果・・・卑弥呼所有の鏡という事であり、卑弥呼の弟(崇神)所有となり゛、その最高の鏡が崇神の娘へと引き継がれ、景行天皇の皇后と成り日田に降臨妻となりし住まわれ゛ヒダ゛つながりから考えると最高のカガミ(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)は日田の地に持ち運ばれた様だ。

    ヒダ王朝側の視点であるので、トンチンカンと思われますが私論公論として悪く思わないでください。 ヒダの降臨は主軸(スメラ系)だけでなく他にも降臨多数であって、三種の神器の伝説があるかぎり火の国伝承は続くと思います。 火の国伝承とは人類が生活をし出す頃から始まった!! たき火神事(どんど焼き)に由来します。
    日本列島に降りてきた外来人がこの国の素を大事にし神事にまで高めた゛蔡゛という習慣は神社の主を成し火そのものが生命の煮えたぎる湯から穢れや悪霊や垢を取り去り文化国家のあけぼのとして捉え、見据えて神社体制を整えていったのではないだろうか。
    まだまだ世界には湯焚神社が足りません。 まだまだ湯焚神事が足りないと思います。
    世界の小さな宗教施設でも湯焚神事が行われる事を願って、今年の干支"うし"にちなんで牛歩していきましょう。 

    邪馬台国が滅んで縮小していく最大の原因は、寒さや狗奴国によるものと噂されますが、本当のところは自然災害(一番怖い)による河川の水害による破壊・泥土だったのではと考えたいです。遷都を考えるスメラ系の人々の決起は計り知れない行動だったのでは・・と思います。


    立場上、南無阿弥陀仏 ! と唱えて今年の始まりとします。






  • #36

    ヒカル (木曜日, 31 12月 2020 18:13)

    12月31日
    ヒカルです。
    休みが多くて今日も降りてきたものが・・・。
    <どうする邪馬台国論争>
    邪馬台国論争も佳境に入ってきた気がします。
    これまでの邪馬台国総論を支えた安本氏の所属するチーム邪馬台国連絡協議会はどういった行動を執るのが適正か的確な道を辿るはずでしょうから、チームの行方はリンク先の最後の最後尾のホームページである͡八岐大蛇ページが救いとなってくるのは間違いない。
    https://m.youtube.com/watch?v=U5b_dkVn_tg&feature=youtu.be
    https://yamataikokunokai.com/index.htm(邪馬台国の会&連絡協議会)
     安本氏 「揚子江の流れは、ある場所では南に向かう、ある場所では東から西へ向かい、突然に北に向かい続け、そして東へ向かうが、大きく見れば西から東へ向かう大河であると、毛沢東の言葉を引用してですが、邪馬台国の解明も紆余曲折しながら答えが先に待っているはずだ!!」。
    邪馬台国の会&連絡協議会というのは資金が潤沢なのだろうか・・・、その資金と第一党の邪馬台国総論の会としての立場を何か前向きな援助としてでもいいから 資金援助すべき時がきているように思うのは私だけだろうか。 おしん世代でもあるのだから、ここは信じて投棄先として覚悟して資金を練り出す捻りだす総チャンスにきている(カッコイイ)。

    <火だ王朝から分派した竹内文・上ッ文・秀真伝・等々・・・>
    長い長い時代を細々く山の神として生きていた天孫族。
    天孫族というのは水のキレイな、湿地ではない、農産可能な、場所に住み着く民族性なのだが、いずれ寒さによる飢え稗により高天原を降りなければ民族の明日はない状態化し、プライドによる天孫族の明日を憂いたスメラ一族は言葉を発する。
    「天孫族の国民よよく聞け !  我々の前に降臨する者モノよ、いずれ降臨先崎で出会う天孫族同士が居たならば、天日鞭・勾玉などを見せ合えば天孫族の証と成ろう。 仲良くするがよい。   もしも天孫族で無い民族・集簇・鬼族・食族・・・であったならば鳴動神事(100
    度殺菌鍋)でもてなすが良い。      以上が降臨に際しての注意である。  天孫族万歳!! 天孫族万歳!! 。」
    と、オリテきました。

    <丸山古墳の工事資料>
    いやぁ、とても深く書かれてあるものですね。 しかし工事関係者の努力も浅いもので、古墳とは微細なものでもあるので、工事に入る前に文化庁へ連絡するべきだったのだろう。
    とはいってもマダマダ余地はあるのでしょう。 神社を置いている神明神社は天照大御神が祭られているから、神社の祭壇には何かしらの意味があるのだろうか・・・。
    この丸山の神明神社の親元は松岡町室の明神社だろう、地鎮祭の時もこの神社の宮司が来ていた経験からですが。神明神社自体が伊勢神宮の子分の神明神社というのは最近知りました。
    三つ巴の論争になったとしても古くなった水源地やヘビの巣と成っている事も整備してもらいたいし、古墳が有るとするならば古墳の復活と供養と祭政を考えてもらえれば近辺に住む者として感無量、感嘆となります。




  • #35

    ヒカル (日曜日, 27 12月 2020 00:20)

    12月26日  
    ヒカルです。
    細川先生の先生口撃は大したもので邪馬大国そのものです。 感謝 感謝!!。
    孫正義氏の新陳代謝のように夜を照(世を照らす)らす行動そのものです。
    <観光>
    菅公・慣行・感光・勘考・漢口・・・・観光と同じ "音" で考えれば同じ意味に近いもので、とても良い傾向となる言葉だと思われます。  へたな浅い知恵で箱物を造ってしまう前の観光を造っていくべきなのは観光の目的とも言えるでしょう。
    裏日本(日本海側)の観光地として有名なのは出雲・兼六園・弥彦神社・舞鶴・かに域、など多くあるが日本列島から見ると無いに等しく、無いというよりも北朝鮮が共産化している異常による日本海の側の活発化が進まない上に、過去の文化が見えなくなっていく年月も大きな負の経済となっていってしまっているのだと思います。 日本海の穏やかさ(冬だけは寒荒波)というのはもったいない財産だと思われますし、スキーなどのスポーツだけではなく老後の避暑地としての雪かきなども長寿への住環境となっていて、バイキンやウイルスが地に水に流れていきやすく沈んでくれるというメリットや、農産物の豊富さなど、いろいろ考えていくと日本海側の計画がカスミから少し見えてくる、いやいや光ってくるような気がします。
    観光にはハッキリした歴史観を取り入れるという事で、的屋が生まれ健全商売が増え都市も潤ってくるのですから、まず、先ず適当な歴史と文化を見詰めていきたいものだ。
    違っていてもいいんです、九州には九つの邪馬台国候補があるらしく、それも文化です。箸墓だけでなく日本列島に100の邪馬台国が生まれてもいいでしょう。

    <天皇家の流れ>
    旧約聖書のイザヤ書には、東へ行け東の行きつくところの山にシオンの・・・・・飛騨に流れ着いた少数のトーラー持参のイスラエル人たちは、高天原として小さい文化を。BC2600年頃から始める。
    天之御中主神(アメノミナカヌシ)高御産巣日神(タカミムスビ・高木神)神産巣日神(カムムスビ)から始まりスメラの始まりとなる。 飛騨に文化を伝えて縄文から弥生へ移行し、未だ飛騨の山奥に出ないままに居たが、弥生期になるとコメ文化が隆盛を成してきた、ので。その米の生産地へ弟子入りする。高天原(飛騨)~ 天津国(越前)へと第一次降臨した。 その国は越前平野であって、伊邪那岐・伊邪那美あたりから天照大御神あたりまでは越前に居を降ろしてスメラの文化を継承していた。 そして卑弥呼(天照大御神)死を過ぎてから天孫族の文化は高千穂や奈良(大和)へ再度降臨し、国つ神(天孫族の本拠の山本・山下の降臨)国との接触し本格的に奈良に居を大々的に移して大和政権を運営する。
    越前時代に学んだ事が良かったのだろう、天孫族(スメラ一族)は日本全国に的屋商売の神社を多く建立してヤクザへも救いの手を差し伸べた政治を、祭りごとを営む。 
    祭り事は大繁盛して大和政権の柱となり、そして日本統治へと向かう。

    天孫族の意味合いからすればスッキリと腑に落ちる話ではあるが、九州説・畿内説 などから言えばつまらなくなるのは必至だ。
    文化の交差点となる地であれば残すべき歴史は大切にしたいものでしょう。

    ただ天孫族というものの本質が何なのかは判然としないが、清く・正しく・美しく の三柱を怠った村・町は消えて(近寄らない)いっている現状があるのは天孫族の怖い考えとして捉えていいと思う。
    福井県も日本も整理整頓を怠らないように世界の模範として生きていくべきかもしれない。
    清潔に手を洗い・マスク着用・美センス は21世紀先も必要だという事だろう。

    史論ではなく私論ですが、
    のりきれ紅ショウガツ、オショウガツ !!
    今日もこの辺で。

  • #34

    ヒカル (日曜日, 20 12月 2020 02:47)

    12月19日
    弥生時代には全国に様々な形態の 国・王朝・地域・信仰共生域、などが何十か国も存在していたのでしょうね(笑)。
    こんにちはヒカルです。 
    邪馬台国というのは山大国と簡略して伝えていたとするのならば、白山信仰域と理解すれば分かりやすい国名だろう。しかし国というには範囲は掴めないものだ。
    今回も私想定による自由解読を決行します。

    <飛騨王朝について>
    福井(越前)からは白山山脈系を越えた所に、山岳が囲む大きな盆地に高山市があります。 その地には王朝があったというので、ユーチューブにより調査しました。
    ・・・・・・・  ・・・なになに、記紀神話である始まりから大和遷都に至るまでの記紀の歴史が口伝として伝承され最近2000年を過ぎた頃に口伝を一冊の本にした人が公表したとある。
    私も今、これらの事を検証中なのですが・・、なにやら白山信仰やククリ姫だけでは説明のできない事柄がもう一つ在るような気になっています。 高層出雲社殿の建立といい飛騨地方には質実剛健な建築物が並んでいるのを見てしまうと、寒い寒冷な冬で閉ざされる山岳だけに眼中に無かった飛騨地方とは。
    基本的に皇尊(スメラミコト)を生んだというか創造したというのか天皇家の筋を生んだというのか、各地に山本・山下を派遣し本家と分家を創造して上方様(うえかた)を本家としてスメラを飛騨(高天原)に置いたという。 理に適う話ではあるが、なんとも・・、都度都度に軍隊がサポートして派兵したとして、高山(飛騨)から多くの兵が集まって中つ国へ向かう(例えば出雲)としても大変な行程となっていると思うが、たとえば橿原の宮の近くに飛騨村がある様に、越前に飛騨村(出張所)があるのならば船団を組んで水平に軍隊派兵は可能だろう。
    しかし飛騨王朝伝説に越前が少しでも口伝されていないというのは、いささか眉唾の伝承なのだろう。 後乗せを感じる。
    飛騨王朝を感じさせる話として、戦後に熱田神宮の剣をアメリカ(GHQ)の監査の為に飛騨一位神宮に一時隠して置いたという話があるのが飛騨王朝伝説を裏付ける何かが有る。

    しかし私にとってコメ文化圏でなければ、その当時人口も増えないし、産業も花開かないし、ましてや軍隊も作れないと思う。ということは百歩譲って飛騨王朝に上方様があっても、実質として越前米作地帯に何らかの本部出張所が在っての出雲出兵だったのではないのかと思う。
    それが卑弥呼・天照大御神・重金命・建御雷神・手力の命・天鈿女美子などなどが越前で結び付いて、天照大御神は重金命と結婚していたと飛騨王朝説では語られているから、重金命は越前の王様的な立場で天照大御神はそこに嫁いだ形で生活の基盤を考えてしまう。
    天津国というのは高天原から見れば息の届いた範囲として天津国と見れれば良いのかも・・。

    <越前の特性>
    この地域というのは海面から10m程度と超水平な平野部が鯖江地域までえぐっています。
    早く言えば"水の都"となると思う、冬の積雪は夏まで川は枯れにくく、田畑の水分で夏までも
    蒸し暑く蒸し風呂状態が続く。 そんな水の都としてのイメージが湧いてこない越前地方は何か水の都としての苦労が足りないような気がする。
    福岡県には柳川川下りなるものが有るし、京都には高瀬舟だったり、関東には様々な川下りなる船旅が楽しめるようだ。 敦賀には日本海フェリーがあるが三国には無い。
    足羽川や日野川を整備して三国へ下る川船をいただきたいものだ。
    しかし現代では堰きも多く橋の形態によっては通行不可となるだろう。
    福井のイメージアップはヤハリ古墳観光を主に自然・うまいもの・やさしいふれあい、という事に尽きると想う。
    水の都という意味では富士山信仰や御嶽山信仰よりも豊富な水脈があるのは間違いなく、白山の水脈というのは枯れない川という信仰にほかならないようだ。

    ではまた。


  • #33

    ピカル (土曜日, 12 12月 2020 13:23)


    昭和・平成でも地名改変がありまして、多くの過去帳は消え失せてホコラか石碑にしか残らないという現状に、歴史は遠く遠くへとなっていくのだろうけれど何かの痕跡は見え隠れする。こんにちは、ヒカルです。

    今回も昨晩に続き、倭の邪馬台国内の風景を感じさせる何かを発見したと思うので発表させてもらいます。 
    https://map.yahoo.co.jp/address?ac=18201&az=MjY3&lat=36.05783&lon=136.26403&zoom=15&maptype=basic
    (殿下町の離れ区域の疑問)
    https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/18B0100017.html(殿下村)
    https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/18B0100016.html(天津村)
    https://pbs.twimg.com/media/DO3F7n2UMAAjIXA.jpg(天津神力)
    丸山町の隣村の今泉、その今泉町の隣村の殿下町の地盤は花野谷遺跡(多くの白玉首飾り)に近い場所に離れ殿下町の不思議・・・。 川面が荒川から真っ直ぐに玄関にとどいている様式の神殿があったのではないかと勝手に想像しました。
    昔は丹生郡だったが福井市に編入する前は天津村となっていて、その山辺には殿下村がありました。 たぶんに中流域というのは小舟の出入りには津郷よかった良かったのだと思われます。天皇家の祖先が天照系ならこの様なルートで弥生時代末期へ、そして天孫降臨へと歴史をつなげていったのではないでしょうか・・・あくまでも白山信仰は別の集団であって土着信仰のそれを学ぶ為に舞い降りた土地だったのかも・・・と思ってしまう。
    越廼村(改名) → 殿下村地区(福井市に編入) → 福井県丹生郡天津村 (福井市に編入)

    はっきり言って天皇系は中国に居た景教系で景教は西アジアからであり、西アジアの以前はヘブライ(消えた12部族の̚カド族)だったと誰か(久保有政氏)の影響から理解してます。
    福井市清水町は菅笠が特産品となっている理由は旅人でもあったという事でしょう。
    落合神社の発祥も丹生郡であって、それから皇族が古神道を取り入れ天皇の系譜が生まれていったのではないでしょうか。正式な文書には四国系奈良物部王朝と結び付いて王政ではない皇統治と変化していった。
    皇統治は曲がりなりにも2600年が過ぎたという、その前は縄文土器文化という鍋煮文化が1万年以上続いており縄文統治は誰が統治するべくもなく、神託に依存し神を壊せば不敬罪として神罰の対象となる。 みなさん鍋煮(塩・昆布程度)で野菜や穀類や肉類を高温殺菌して雑菌ウイルスの消えたものをポン酢で食べましょう。 ウイルスが人体混入し飽和してくると簡単に別のウイルスを引き込みやすくなります。

    今日も持論展開の珍島物語でした。

  • #32

    ヒカル (金曜日, 11 12月 2020 22:46)

    12月11日 
    ヒカルてす。 コロナ下で仕事も削減されて時間があるので試行錯誤で空想中なのですが・・・誤字や誤文が迷惑の無いように気楽に読んで貰えればイイです。
    しかし記紀は読みずらいのこの上ないですね。
    <古墳盗掘について>
    私の母親が戦時中に空襲を避けるために丸山の部分(諏訪神社祠の北西部分)に防空壕の穴に入ったとの事です。 深さを聞いたのですが・・ 深いか浅いか記憶にないけど穴に入ったとの事です。  丸山の脇周辺にはヘビがよく出没して困っているとの事ですが、石灰を播いたり工夫をして防いでいる様で最近わたくしの家に現れたようで石灰粉を余計に播くように伝えてあります。 なかなか厄介な守り蛇神が取り巻いているようですね(笑)。
    <天照大御神である場合の宝物>
    この場合天孫降臨で消えたモノは三種の神器
    天照大御神の子である天忍穂耳命、天忍穂耳命の子邇邇藝命へ勅令が下った。
    邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。
    さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。
    天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。 邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。

    三種の神器は天照大御神の生存中の最宝物品だったので日向の国へ云ってしまったし、日向の降臨伝説が嘘であるならば・・・狗奴国へ戦利品として奪われてしまったと考えられる。
    と理解するならば、丸山古墳に残された宝物品(卑弥呼周辺)は祭祀用土器や金印・銀飲・などと化粧用品・衣装・椅子・スプーン・箸・防蚊薬・小さなヒスイ・メノウ・ロウソク・茶碗、等々の小物などが箱詰めとなってあるという事だろう。

    <天照大御神(白山信仰域の名前)と卑弥呼(邪馬台国女王での本名)>
    白山信仰の拡大の為に一肌脱いだ卑弥呼は孫(まご)を九州南部へ派遣する。信仰と権力とが入り混じった考えのもと卑弥呼は言う{「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」}と。
    現在の日本国の国旗とは白をベースに天照太陽が真ん中にあるのは偶然とは言えない気がする。必然だったのか。 白山菊理姫神社(白山王朝)と天皇家との接点は菊・白・天・王・太陽
    なんとなく感じる。
    <北陸地方の食生活と似た食品>
    さて、このような騒動(岩戸が暮れ)になったのは、もとはといえば須佐之男(すさのお)が原因です。神々は須佐之男の処分をどうするか相談いたしました。そして、二つの刑を決められたのです。
    ひとつは山のようにたくさんの物品を差し出すこと、ひとつは須佐之男の髭と手足の爪を切り、けがれを払うというものでした。 神々は、それらをとどこおりなく済ますと須佐之男を放しました。大騒ぎも静まりようやくひと息ついた神々は、空腹を覚えたので食べ物の神おほけつ姫(大宣都比売)に、おいしい料理を作ってくれるように頼みました。
    おほけつ姫は、はな、くち、大きなお尻から食べ物を取り出してごちそうを作る不思議な女神です。そこで、さっそくはりきって料理に取りかかりました。
    まず、おしりから、五色のお米をとり出してご飯を炊きました。また、おしりから里いもを取り出して口に放り込み、ぐちゃぐちゃとよく噛んで、それをよだれのように垂れ流し、おいしそうなとろろ汁を作りました。鼻からは、あずきや栗をまるで鼻くそのようにほじくり出して、ぐつぐつと煮込んでいます。
    ほんとうに楽しそうに歌を口ずさみながら、美味しいものをつくろうと一生懸命です。
    偶然通りかかって、その光景をのぞき見ていた須佐之男は、
    「おえっ。なんと汚いことをするやつだ。あれを食べろというのか!」
    と言うなり駆け寄り、大きなお尻のおほけつ姫を剣で切り殺してしまったのでございます。
    殺されてもさすがに食物の神様です。死体からは食べ物がどんどん出てきます。
    頭から蚕が、目からは稲が、耳からは粟が、鼻に小豆、ほと(女陰)に麦、尻に大豆が生じました。死体に成ったこれらを、宇宙を創造された造化三神の一人、かむみむすひの神が採って、種とされました。それがいまわたしたちの食べている五殻と養蚕の起源ということでございます。
    このおほけつ姫さまは、阿波の国(徳島県)の神山町にある、上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)の御祭神としてお祀りされています。
    さて、堪忍袋の緒が切れた神々は、またもや乱暴を働いた須佐之男を、ついに高天原から下界(中つ国)へと追放しました。
    権力系だけで育った人は"穢れ"や"清潔"や"美"が不足していて何らかの神門に入らなければならない運命を辿っていっている、スサノオも次第に厚生し由り強い権力者と成っていった。
    <荒川の舟場跡での別れの見送り>
    邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。
    さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。

    なんでも繋げて試行錯誤してみました。(笑)
    ではまた。

  • #31

    ヒカル (水曜日, 09 12月 2020 23:00)

    12月9日

    5日間で田舎に帰ってきました。 ちょうど福井県議会ライブ中継を見る事ができました。
    パソコンでも見れるのでしょうけど、家族と丸山古墳という議会のテレビ音声で、80代の老夫婦がくぎ付けとなっていました。 私もです。

    時間があったので前から気になっていた荒川について、爺さんが語るには…・隣村の下中町(旧名)、北今泉・東今泉には"舟場跡"が有ったというので、ピンときまして、荒川を下る小舟が存在していたというので、東今泉へ行ってきました。    ・・・おぉ ありました!!。
    米を運び、海産物や肥料を購入する商いが成立していた様です。 実に良い発見だと思われます。 船着き場というのは私が知る限り、船橋地区(森田)・舟寄地区(丸岡)・足羽川(福井市)に有ったぐらいだと感じていました。まさか荒川中流域にあるとは、やはりそうだった。
    <白山白ら姫神社>
    2100年前に船岡山に神社を誰かが創ったとあり。泰澄大師は700年頃に白山頂上に神社を置いたとされ御祭神のククリ姫は伊邪那岐・伊邪那美のケンカの仲裁をした人とされている。
    どうしても、白山信仰の巫女・神官などなどの物語が多分に古事記・日本書紀には引用されているきがしてならない。丁度 西日本には白山信仰が手薄だった様で、天下った気配がある。
    八幡神社信仰は秦氏の紀元後からなのでその当時は白山信仰は絶大の勢いがあった様だ。
    どうでしょう。

    今日もこの辺で。

  • #30

    田中 (月曜日, 07 12月 2020 11:13)

    ・12月7日、福井県議会ライブ中継を視聴していました。
     短い質問時間の中で、細川かをり議員は慣れたもので簡単明瞭に、鉄器出土、林藤島遺跡や翡等々要領良く質問されていました。教育長からは、福井市を通じて県に上がってくれば、昭和29年建設の貯水池がある、いわゆる丸山古墳についての話し合いが行われる。という事でしたが、所有権者が許可をしないと駄目ですが、凄い前進だと思います。日本の原点が福井にあるということが、一歩、現実味を帯びて来たと感じました。

  • #29

    八俣遠呂智 (金曜日, 04 12月 2020 06:01)

    【卑弥呼の墓が議題にのぼります!】
    福井県議会12月定例会一般質問において、細川かをり議員が質問します。
    地上波およびインターネットで生中継されますので、是非ご視聴下さい。
     予定日:2020年12月7日(月)午前10:00~
     地上波: 福井テレビ(FTB ローカル局)
     インターネット:福井県議会ページ (世界中で生中継!)
    https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/036050/shitsumon-chukei/shitsumon-chukei.html

  • #28

    ヒカル (金曜日, 04 12月 2020 03:24)

    12月3日

    https://m.youtube.com/watch?v=s8M21r5e5ms
    11月20日頃の細川かおり先生の現在の行動力(ラジオ最後部に古墳の夢語る)・・・。
    細川先生は大変に権力と文化と食欲に長けた人だと思います。 細川先生の御磁力で暗い地に光を差し込んでもらえれば嬉しい人は多いと思います。ただ古臭いものには興味の無い人もいます、でも古くて新しい文化としてほしいものです。

    <高天原を治めるために天照大御神には米倉と手仕事を>
    古事記より  禊払い後の子供たち・・・託すもの

    ・・・ そしてさらに、左目を洗った時に誕生した神が、天照大御神あまてらすおおみかみである。
    次に、右目を洗った時に誕生した神が、月読つくよみ命のみことである。
    次に、鼻を洗った時誕生した神が、須佐之男すさのお命のみことである。
    八十禍津日やそまがつひから、須佐之男すさのおまでの十柱の神は、体を洗い清めることによって誕生した神である。
    このとき、伊邪那岐いざなきはとても喜んで、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」
    と命じて、ただちに首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしながら、天照大御神あまてらすおおみかみにお授けになって言った、「あなたは高天原たかまのはらをお治めなさい」
    そして、その御首飾りの珠たまの名を御倉板挙之神みくらたなのかみという。
    次に月読つくよみ命に向かって、
    「あなたは夜の世界をお治めなさい」と命じた。
    次に須佐之男すさのおに、
    「あなたは海原をお治めなさい」と命じた。

    <淤能碁呂島>
    ここに、天つ神一同のお言葉によって、伊邪那岐いざなきと伊邪那美いざなみの二柱の神に、
    「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」
    と仰せられ、神聖な矛を授けて御委任になった。
    そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子はしごの上に立たれ、その矛を刺し下ろして掻き回された。
    潮をゴロゴロとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。
    これが淤能碁呂島おのごろしまである。
    二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。

    私見>  淤能碁呂島というのは伊邪那岐いざなきと伊邪那美いざなみが生んだ島ではなく、もともと在った島で、周りの水分が抜け落ちていく様子がうかがえます。 この地域に住み始めたのが伊邪那岐いざなきと伊邪那美いざなみであるとするならば最初に生んでしまった蛭子や淡島は失敗した。 なので高天原へ昇って「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神あまつかみの所に行って申しあげよう」と言って、ただちに一緒に高天原たかまのはらに上って、天つ抻あまつかみの指図を仰がれた。 とある。
    高天原はこの地より高い所に在ると考えれば・・・白山信仰の地の神託か、別な天皇族の神託なのか・・・・。
    日本には・・・神社があるが一番多いのは八幡神社・白山神社・御嶽神社等々の数ではダントツであるが、この地(福井)には白山信仰が有った様で、・・・そこで天つ神あまつかみの命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、
    「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。
    と天津神(白山縄文信仰)から神託を受けていた感じもする。
    その後、先代 先々代と家系から伊邪那岐の知るところの日本地図を頭の中で統一していくオボロゲな感情が、古神道に従属した天・家の始まりの物語なのかもしれない。 ただ、
    天・家の先代が高天原たかまのはらに現れ出でた神の名は、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ、次に高御産巣日神たかみむすひのかみ、次に神産巣日神かむむすひのかみである。この三柱の神は、すべて単独の神として出現した神であり、姿形を現わされなかった。 とあるから何処から来た一人神なのかは謎だと思います。

    ひとり語りも
    今日はこの辺で。
    次回は月読みの命と瀬尾理姫の同一について。





  • #27

    ヒカル (火曜日, 01 12月 2020 11:48)

    12月01日 火曜日 

    秋も終わり日は短くなってる今日このごろです。
    福井県内の邪馬台国のポイント地として私が気になっている所を詳解します。

    <元伊勢の点在ルートの一つの福井県大野郡伊勢地区>
    この地を何度か訪れた事があります。 グーグル地図で見れますけれど、現在はナニモ無いのですけれども其の昔"42社の神社が在ったらしく、九頭竜川の上の上の天上の広場と言っていいくらいの場所に42社が有ったと言われています。 崇神天皇五年、疫病が起こり宮中に有った"天照大神"と"倭大國魂神"の御霊を崇神天皇の娘の豊鍬入姫命に託して途中から倭姫に託して82年間も各地をさ迷う。  三重県の伊勢に天照大神の御霊の選定地とする前に倭姫一行が選定地としてこの地に何年間も滞在した様です。
    84年間も彷徨い、"天照大神"と"倭大國魂神"を祭る神社を29か所も作り結界(権力のネットワーク)としての卑弥呼~台与~崇神へと神による統治を行い、伊勢神宮の天照へとつながっている。

    福井平野~大野盆地~泉村~~伊勢地区 へと九頭竜川を昇って行くと42社もの神社を置いたという意味があるのだろうか・・・・この地は豪雪でもあるから限界でもあったのだろう。

    <丹巌洞>
    この洞窟は卑弥呼の前の代から在ったであろうと思われます。 この洞窟は福井の青石の取れる採掘場で足羽山の西壁に有って、今はレストランであり江戸明治時代の秘密の社交場として利用されている様で動画でも紹介されています。 この洞窟に籠る事は可能だったのではないかと思います、鉄器がある時代ならばあの笏谷石は成型が自由だと思います。少し行けば足羽川・荒川へ繋がっています、緩やかに。
    https://www.bing.com/videos/search?q=%e4%b8%b9%e5%b7%8c%e6%b4%9e&FORM=HDRSC3
    <戦国武将の朝倉一門>
    邪馬台国とは時代が浅いですが、朝倉家滅亡(信長侵攻)の時でした、朝倉義景当主は東の大野へ逃げて其処で自害する。 しかし生き残っている一門とその家族は小舟を用意して、足羽川から西へと流れに沿って九頭竜川、そして三国湊へと出て、北前船で毛利家へ逃げていったというから、未だ室町幕府の守護大名として逃げる場所を考えていたのはあるらしい、あったという。 福井の平野部の河川は緩やかで平面に近いのが良かったのだろう。
    <大野笠>
    笠縫村という村では編み笠を作っていたみたいで、思わぬ雨には傘が必要な事は多いが、この時代では編み笠は重要なアイテムであって重宝されていた様で、大野笠もこの土地では有名になるくらいのモノだったと、大野笠という名称が今現在伝わっています。
    <大野城>
    福岡県に大野城という山城がありますが、倭国の繋がりから邪馬台国から城壁工(大野出身)を派遣して作らせた倭国の城だったのでは? と、疑問が出てきました。 福井の大野は中流の盆地で河川に行けば城固めの石も多く、現在でも住まいの石は城壁の様に石積が施されていて、石組み工が盛んな地帯だと思います。
    <太平記のシーン>
    太平記の最後のシーンで越前の多くの山城に逃げ延び新田一門は最終的に国見山の北隣の高須山に陣取り、足利勢(朝倉等々)が取り囲む中で持久戦に持ち込まれてしまっていた。 何日も食料が無いままに持久戦になって食料は尽き果てて、飼い犬も限度にきていた。 その時犬は走った。 犬は斬られるが、また夜が明けようとした時、新田のサムライ太刀どもは高須山を駆け下り東国がある日の出る方角に向かって走り出した。 九頭竜川を渡り沼地や田畑を飼い犬と共に走り切り、当主の死体が転がる藤島地区を抜けて古市地区を北に向かう、浄法寺山系の支流の川の谷に逃げ込む、そこは岩屋観音と云われる磐座があり、その谷の奥に逃げ込む。
    足利勢はゆっくりと捜査に山狩りをする、が、その時、三余人のサムライが犬を先頭にして九頭竜川河原まで威嚇して落ち武者となって多くの弓で射掛けられて、最後の新田一門だったのである。
      わん   わん わん   ぶぶぶぶぶ~~
    飼い犬はかいほうされた様だ。    太平記より

    太平記と古事記は感情先行で楽しく読めました。
    今日はこの辺で。

  • #26

    ヒカル (月曜日, 23 11月 2020 05:53)

    11月23日月曜日  05:30
    ・・・(ヒカル改め)

    掲示板の掲載ありがとうございます。
    丸山の中まで見えるような話を絵を見るにつけ、少しずつ心の中で、早く開かれて"供養"できる環境をととのえてあげたいなぁ、と思います。 と同時に神社が建立された場所には鳳凰が飛来する為の好物を種を播いてあるようにも感じます。
    すでに卑弥呼の供養は神社形式で済んでいるのかもしれません。神明神社の歴史とイワレヲ知りたいものです。

    <卑弥呼と奴婢100余人>
    当時・・・卑弥呼の最終時には魏への朝貢のなかで、影と成っている人々が日本へ流れて来ている人々がいると思います。 呉が奈良地方まで流れてきたでしょうし、公孫氏が滅亡し帯方群まで支配が及んでいたそうで、日本列島へ逃げ延びる公孫氏交戦士などが入りずらい倭国ではなく南廻りで日本の中央勢力?へ逃げてきた人々もいたでしょう。大きな魏への対抗勢力ですから戦闘能力は"A"エース級でしょう。 それら緊急渡来人も生活に追われているうちは良い子のだけれど、先頭渡来人のギラついた眼は隠せない・・・・。
    倭国の邪馬台国の存在を知ると、魏への朝貢以下倭国の対応が腹立たしく思われていた気配が、卑弥呼子など準勢力の名の中で、感情を移入させてきた感がある。 と、推察していくと邪馬台国(女王国)が魏とともに強く成れば、せっかくの日本への渡来も台無しで、調査され削除は繰り返されるだろう・・・と、公孫氏の緊急渡来人は強かったのである。
    彼らは倭国の中心を調べに調べる。倭国の大きさから全体に戦闘を仕掛けるのではなく、女王の住む地域に限定したシノビ的戦闘集団を作ることに卑弥呼子を持ち上げ、突如に!! 越前地方に乱入かオゴソカに忍んで来たのである。 百四人と卑弥呼を謀殺に及んで魏のつながりを断つ事に成功する。 それから先は闇の150年と云われる解らない時代に入っている。
    歴史書は書く!! 子への伝承はするな!! 神社継投は残すな!! などなどの歴史真っ暗の中に入っていく傾向があるのです。 そんな中、幼少であった台与は"見ていた!!"!!、未だ倭国が存続の中ではあったが台与も狗奴国内の天皇家との関わりの中で仲哀を婿入りさせて倭国を存続させようとする。  そして、公孫国=朝鮮、への敵意の証を盾てる為に船出する。
    神功皇后の伝説へと繋がっていく。

    あくまで小説です、私説です。

  • #25

    ヒカル (月曜日, 16 11月 2020 04:07)

    11月16日月曜日 深夜 02:00

    ヒカルです。
    卑弥呼の墓2,3,4と連ねてこられて大変な努力をされている姿に感動しています。
    "確定"したという表現へ移行している以上、私もそれを押す為の、私の記憶から支えたいという気持ちが、またパソコン投稿をする気持ちにされました。
    <私の丸山の記憶>
    小学生の頃から丸山神明神社への春・秋祭りへの参加と神官の祝詞を聞いたりお神酒・供え物、菓子を頂き、当時の丸山町という村の習慣という形式を体感していました。 小学生後半になって近所の仲間と山の中を散策・遊びする事が多くなり、貯水棟エリアへ当然足を踏み入れ、カクレンボ・鬼ごっこ・スキー・戦争ゴッコ等々の遊びをしている中で、神社の脇に置いてあった棺か手水鉢が気になっています、・・・そして山の崖側・蛇側・赤土崖側・カブトムシ側・階段側、と視点の小さい小学生でもあるから、見るモノは総て大きく感じたのでしょう。 ある時、神社の裏路地を登り始めたら、巨大な鳥が羽根を広げて道の真ん中に居るではないですか、化け物的に後ずさりしたが、少し萎んだので鳥を見つめたら鳳凰という�鳥が(今となっては)後ろを守る様にトウセンボ、結局頂上には登らなかった記憶が蘇えってきました。
    高坏(タカツキ)を丸山頂上から出土されている様ですが、その流れで言えば私も小学生6年頃でしょうか、貯水棟エリアの外郭2メートル付近の表土から現代の物品とはいえないコインの欠片かガラス製の破片か古代木片だったか、なんだか古い小さな奇妙ものを拾って皆に見せた記憶があります。 
    <丸山の形状>
    丸山の形状というのは全体の形状ではなく、古墳を創った形状のところであるのですが、最近気になっている事ですが、"勾玉"、勾玉の形状に似ているというか、勾玉の頭の穴が御墓の位置だとして神社へ下り西へ下る、という形状が・・・・。 勾玉はそれ以前の形状なのでそれ以上に語ることはないですが。
    <丸山釜山遺跡>
    酒生遺跡が南に有りますが、ここの場所には古墳時代でしょうけれど法隆寺の様な五重塔が聳えていたらしく、ただ足羽川扇状地でもある為に、土砂や泥土が流れ込み台無しになっている現状が発掘されています。 丸山釜山遺跡も何百年は存在していたのでしょうが、九頭竜川(黒竜)も扇状地である藤島から新保・開発へと泥流が流れ込み現在では弥生時代の遺跡は地下一メートルは掘らないと出る遺跡ではないものと思われます。 以前書いたのですが、私の田んぼの塚田という一角がありますが、その塚田でも80センチ以下に何かが有るのはわかっています。ゴリゴリ ゴリ と音が皿が何かが有るようです。(30年前から土を掘り起こしたい想い。)しかし今は30センチ盛られて田んぼをフラットにした父親の経緯が・・・。
    チャンスがある米を刈り取り以降の台風の無い10日間でなんとかしたい。
    <楼観御殿>
    原目山・花の谷遺跡と丸山との真ん中に荒川が流れていますが昔は吉野川と言われています、吉野山から流れている川で九頭竜川と足羽川を結ぶ様に穏やかな流れの川で流通に利用されていたのはあるでしょう。 古くは吉野川と言ったが、大変荒れる川として荒川という名になったとされる。 問題は低地である福井平野でも小高い丘か山側のヘリに住む縄文・弥生と移行する中、より平野部へ移行するのですが、荒川(吉野川)の蛇行する平野部で選り小高い丘は楼観城郭御殿の選定となるとしたらそれは何処かということになると思われます。
    わたしは原目山側・花の谷側に楼観城郭御殿が有ったのではと思います。なぜなら卑弥呼の墓は別ですが奴婢100人を埋めることは住まいの身近かな場所ではなく福井平野一帯から見え隠れない 場所 が墓地選定とされてはないのだろうか。
    荒れる・安らぐという対語としての荒川と安川は何やら気になる。

    さて、今回の高坏の具体的文様が私にも何かしらの天地創造を想わせるものであったのだと、深く感心しました。しかし天と地の中間にある四角い穴と丸い穴は何を語っているのでしょうか・・・・陶工の感情を読むには何だか深い理想が表現されているのでしょう、古事記の創生記を読み返してみようと思います。
    では。





  • #24

    田中 (日曜日, 15 11月 2020 18:58)

    八俣遠呂智先生
     お元気でご活躍の事と思います。
    11月14日に、大阪府立弥生文化博物館の学芸課長の「弥生農耕、近畿における始まり方」の見解を拝聴してきました。
     その中で、「遠賀川系土器の東進」をお話しされましたが、何故か、青森県まで一気に広がったのが不思議。と述べられていました。八俣遠呂智先生の日本列島環縄文人による津軽海峡の活用ですね。
    コロナに気をつけてお元気で過ごして下さい・