三角縁神獣鏡は日本製?②

 三角縁神獣鏡は古墳時代前期の有力古墳に副葬されており、分布は九州から東北南部にまで及びます。全体としては畿内地域に分布が厚いため、初期大和政権が政治的連携の証として各地の首長層に贈った、という評価が定着しています。

 三角縁神獣鏡に大きな関心が寄せられるのは、「魏志倭人伝」に魏皇帝が邪馬台国女王卑弥呼に与えたと伝える「銅鏡百枚」の有力候補となっているからです。しかし、魏の鏡だとしても、邪馬台国から大和政権への連続的な発展を描くには無理があります。今回は、諸説の論点と、私の考えを述べます。

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議論1

 三角縁神獣鏡をめぐる論争では、舶載鏡なのか仿製鏡なのか、という製作地論争が中心です。つまり、中国で作られて日本に持ち込まれたものなのか、日本国内で作られたものなのか、という議論です。

 邪馬台国畿内説論者は、強力に舶載鏡であると主張し、邪馬台国時代に魏から下賜されたものであるとしています。一方、邪馬台国九州説論者は、仿製鏡であり魏から下賜されたものではない、と主張しています。

 舶載鏡であるとする説の最も大きな根拠は、三角縁神獣鏡の原材料の組成分析結果です。銅鏡に含まれる銀やアンチモンなどの微量成分を科学技術で分析した結果、中国から産出される青銅の可能性が高いとされています。これをもって、この鏡は舶載鏡である、としています。

 九州説の反論としては、

1.弥生時代の青銅器類の原材料の多くが、中国産である。銅鐸という、日本列島でしか発見されていない青銅器にも、中国産の材料が使われている。従って、原材料の産出地が中国だからといって、製作された場所も中国だとは限らない。

2.組成分析自体が恣意的である。日本最大の銅が産出される足尾銅山の青銅との照合がなされていない。最初から中国産であるという結論を導くために、それに近い検査結果だけを大きく取り上げている。

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議論2

 一方で、九州説論者が強く主張しているのは、中国大陸や朝鮮半島からの三角縁神獣鏡の出土が全くない、という事です。また、魏の時代の中国では直径20センチという大きな神獣鏡は存在しないし、中国の学者による調査でも、三角縁神獣鏡とおぼしき鏡はいまだに発見されていない。魏は日本向けに三角縁神獣鏡を特別に鋳造したといういわゆる「特鋳説」にしても、1枚のサンプル、鋳型の破片くらいは残っていてもよい。魏がそれらをことごとく粉砕してしまうような積極的な理由は何も見あたらない。というものです。

 反論としては、

1.倭国の朝貢に対する下賜品として、特別に製作された鏡である。

2.先年、中国から三角縁神獣鏡が出土した。

ただし、この事実関係は不確実で、魏の時代の鏡であるという証明は何もなされなかった。

3.象や駱駝、仏像、車馬など、日本には存在していなかった物がデザインされている

4.「張氏車騎神獣画像鏡」という類似品の出土がある

5.魏の墓の調査は一基のみ。サンプル数が少なすぎる

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議論3

 次に、三角縁神獣鏡の時代の齟齬についての論争です。

出土している場所が、4世紀~5世紀という古墳時代前期の遺跡であり、邪馬台国時代よりも100年以上も遅い時代なのです。

 畿内説論者は、家宝として100年以上も保管してしてきたのだという、いわゆる「伝世鏡」という考えを持っています。確かに、威信財としてトップクラスの重要なお宝ですので、王族が何代にも渡って丁重に保管していた可能性は否めません。

 これに対する反論としては、

そもそもこれは、考古学のよって立つ基盤を危うくする考え方である。遺物は発見された遺跡のほぼ同時代に使用されていたものと考えるのが妥当である。伝世を認めたら考古学などは成り立たない。としています。

 弥生時代の遺跡からは翡翠の勾玉や鉄刀・鉄剣などの威信財が発見されています。ではなぜ、三角縁神獣鏡だけが100年以上も保管された後に埋められたのか、という矛盾にもなってしまいます。

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議論4

 三角縁神獣鏡の出土した数についての議論です。

500枚ほど出土していますので、実際にはその10倍の5000枚が作られた可能性があります。魏から下賜されたのは100枚だけなので、明らかにおかしい。というものです。

 これについては、同じ鋳型を使って製作された同笵鏡だけでなく、同型鏡の可能性が考えられるでしょう。

中国製の三角縁神獣鏡に粘土に押し当ててコピーをとり、さらに周囲に模様を加えて製作された「踏み返し鏡」とも呼ばれる手法で、日本国内で大量に再生産された可能性です。

 出土した数が多く、コピーされた数も多いという事は、中国製か日本製かを考える以前に、三角縁神獣鏡の価値がかなり低かった事を物語っているのではないかと思います。

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狗奴国へは女王國から

 これらのように、三角縁神獣鏡が邪馬台国時代の魏からの下賜品かどうかの議論については、収拾がつかないほどなされています。

 議論の現状を列挙したところでしょうがないので、ここでは私の考えを述べます。

魏から邪馬台国へ下賜された銅鏡には色々な種類があったと思います。連合国家だった女王國の同盟国や、家臣たちに配られる際に、重要度に応じて銅鏡のレベルが決められたのでしょう。その中の最も低いレベルの鏡が三角縁神獣鏡でした。それゆえに、女王國の各地に散らばったのです。卑弥呼や重要な家臣は、三角縁神獣鏡ではない別の銅鏡を所持していたと思います。

 なお、その当時の近畿地方は、女王國と敵対していた狗奴国でしたので、配られる事はありませんでした。

 四世紀の古墳時代に入ると、近畿地方に存在していた河内湖や奈良湖という巨大淡水湖の水が引き始め、広大な水田適地が出現します。すると、若狭湾あたりから、日本海勢力の人々が近畿地方へ流れ込み、人口爆発が起こりました。

人口の流入と共に、新たな階層構造が生まれ、権威の象徴として銅鏡が生産されました。つまりコピー品の大量生産です。これが、近畿地方の四世紀~五世紀の遺跡から、三角縁神獣鏡が大量に発見されている理由です。

 では、魏から下賜されたオリジナル品はどこにあるのでしょうか? それは、「魏」の時代の年号を持つ紀年鏡です。

現在のところ、次の2枚が確認されています。

 島根県加茂町の神原神社古墳から出土した景初三年の銘が入ったものと、京都府福知山市の天田広峯(あまだひろみね)遺跡から出土した景初四年の銘が入ったもの、です。

 これらは、女王國が支配していた日本海沿岸地域です。ライバル狗奴国の近畿地方からは見つかっていません。

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三角縁神獣鏡は低ランク

 三角縁神獣鏡のランクが低かった事を如実に表す事例として、奈良県天理市の黒塚古墳があります。ここからは、最も多い34面が見つかっています。発見状況としては、棺内の死者の頭部分に画文帯神獣鏡1枚が大切そうに添えられていました。ところが、三角縁神獣鏡は棺の外に、一段低い評価のごとく、ぞんざいに並べられていたのです。

 たった一枚の画文帯神獣鏡と、34枚の三角縁神獣鏡。どちらのランクが上だったのかは、言うまでもないでしょう。

 「銅鏡百枚」の内ほとんどが豪族衆への配布用です。三角縁神獣鏡の紀年鏡がそれに当たります。画文帯神獣鏡や内行花文鏡、方格規矩鏡のような格の高い銅鏡は、卑弥呼自らが所有し、保管していたと推測します。

 いずれにしても、近畿地方からの三角縁神獣鏡の出土は多いものの、時代が100年ずれていますので、古墳時代の幕開けと共に入り込んできたコピー品と見るべきではないでしょうか。

 次回からは、三角縁神獣鏡以外の銅鏡に焦点を当てて考察します。