前回までに、卑弥呼の墓を断定し、発掘方法を検討して来ました。これで実行に移せば、遺物が出土するかといえば、そうではありません。なにせ1800年前のお墓です。現在に至るまでに、流失、腐朽、盗掘など、せっかくの副葬品が失われている可能性があります。特に「盗掘」の被害は深刻です。
今回は、古墳時代の盗掘を例に、卑弥呼の墓の遺物が、現在でも存在しているか否かを考察します。
卑弥呼の墓を実際に発掘した場合、何も出土しない確率が非常に高い事を、最初に述べておきます。見つかるとしても、お金にならない土器類がほとんどでしょう。
これは卑弥呼の墓ではないから、という事ではなくて、埋葬されていた副葬品がすでに、
・流失
・腐朽
・盗掘
などで、失われているという事です。
流出は、風雨にさらされる事によって、お墓の土砂が削られ、棺の場所までもが抉られる事態をいいます。盛土で形成された墳丘墓で竪穴式の埋葬方式の場合には、頂上部の土砂が流出して、棺ごと失われてしまいます。
腐朽では、金属や繊維製品などが失われます。鉄製品は酸化してボロボロになりますし、青銅器類の緑青と呼ばれる錆びによって崩壊して行きます。また繊維製品は、麻や絹などの天然素材ですので、土に帰って行きます。
これら自然現象による埋蔵品の消失は、保存状態によってはかなりの確率で起こり得ますが、それよりも大きな問題があります。それは人為的な消失。盗掘です。
いつの時代も、よこしまな人間は存在しますので、防ぎようがありません。
古墳時代の近畿地方の主なお墓の90%以上は、盗掘の被害にあっていると言われています。
古代からの長い長い時間を考えれば、お墓に副葬されていたお宝が、何者かに盗まれたのは、当然といえるでしょう。
大規模なお墓が作られた古墳時代が、西暦600年頃までで、その後、奈良時代に成立した日本書紀に記されている内容から、天皇陵が指定されました。ところが、しっかりと管理を始めたのは、明治時代になってからです。それまでの期間は、天皇陵といえども立入禁止ではありませんでしたので、不届き者がかなり自由に立ち入って、掘り返す事ができたようです。
もちろん、そういう時代でも盗掘した犯人が捕まれば、磔獄門の死罪になっていたようですが、そのような事例は、ごくごく僅かでした。
また、戦国時代には、古墳の上にお城を築いた事例があったり、豊臣秀吉に至っては天皇陵を宴会場にしてどんちゃん騒ぎをしたりと、現代では到底考えられないような振る舞いが、権力者によってもなされていたようです。
そのような状況でしたので、天皇陵に指定されているお墓の99%はすでに盗掘がなされ、そうでない大規模なお墓についてもかなりの高い確率で、盗掘がなされています。
現在では、宮内庁が天皇陵と指定した古墳は、発掘調査が不可能ですので、どの程度、盗掘されているのか、正確には分かりません。幸いにも、宮内庁が指定を誤ったために、奇跡的に大規模な発掘調査が行われた天皇陵がありますので、その事例を紹介します。
以前の動画でも紹介しました大阪府高槻市の今城塚古墳で、第26代継体天皇陵です。全長が190メートルの前方後円墳です。ここは、宮内庁がそのすぐ近くにある太田茶臼山古墳を継体陵と指定した為に、発掘調査が可能となっています。
この古墳の内部は既に、ほぼ全体が調査されて出土品の全容が明らかになっています。出土品には、様々な埴輪類や、阿蘇ピンク石でできた棺などがあり、考古学資料としては一級品です。
ところが、権力を示す威信財が全く出てこないのです。鉄製や青銅製の武器、翡翠の勾玉、碧玉の管玉などの宝石類や、銅鏡など、大王であればあってしかるべき高価な遺物は、何一つ無かったのです。
埴輪というお金にならない土器類だけが残されて、金目の物は全て盗掘されていたという事です。
いつの時代の誰によって盗まれたかは、闇の中。全く分かりません。
このように、大規模な古墳は当たり前のように盗掘がされているのです。
宮内庁で立ち入りが禁止され、発掘調査も行えない陵墓も、同じような状況でしょう。
発掘してみたところで、大量の埴輪は出土するでしょうが、高価な宝石類や金属類は、とっくの昔に盗み出されていると推測します。
一方で、奇跡的に盗掘を免れた古墳もあります。
奈良県天理市の黒塚古墳です。全長が130メートルの前方後円墳です。
この古墳からは、三角縁神獣鏡33面とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見されました。被葬者の権威を示す威信財、つまり金目の物が、盗掘されずにそのまま残っていたのです。
これは、盗掘に失敗したからのようです。一部侵入された痕跡があったものの、盗掘の最中に天井が崩れて大量の石で石槨が埋まってしまった為に、盗掘者が途中で諦めたと推測されています。
また、小規模な古墳では盗掘の被害を受けなかったものもあります。
大阪府高槻市の安満宮山古墳や闘鶏山古墳(つげやまこふん)です。
安満宮山古墳は、一辺が20メートル程度の小規模な方墳です。青龍三年の紀年鏡や三角縁神獣鏡、鉄剣類などの豪華な副葬品が見つかっています。
闘鶏山古墳もまた、盗掘がされていない古墳です。全長88メートルの前方後円墳です。
まだ発掘調査は行われていない古墳ですが、ファイバースコープによる内部検査によって、三角縁神獣鏡2面、方格規矩四神鏡、碧玉製の宝石類、銅鏃、鉄刀などが副葬されている事が確認されています。
これらの古墳は小規模だったために、盗掘しようとするならず者たちに気付かれることもなく、手付かずのまま1500年以上も眠り続けていたと考えられます。
ここまでは、古墳時代の盗掘の現状を述べてきました。では、それ以前の弥生時代の墳丘墓はどうでしょうか? 今の関心事は、卑弥呼の墓を発掘した場合に直面する問題点ですので、そこを明確にしなければなりません。
弥生墳丘墓の場合は、盗掘による被害は少ないと考えます。それは、お墓の規模と、構造的な理由からです。
まず、弥生墳丘墓のサイズは大きくても一辺が50メートル程度です。のちの時代にその場所が王族の墓であると気が付くケースは少ないでしょう。盗掘があったとすれば、埋葬してから50年以内の、直近の時代でしょう。埋葬時にどこに埋められたか、副葬品として何があったか、などを熟知している同じ時代のならず者の手によって、お墓を堀り返された可能性です。
また、構造的にも盗掘は困難です。竪穴式というお墓の頂上から穴を掘って埋葬する方式です。石室のように内部に空間を作るわけでもなく、土葬に近い形で、棺の上から土を被せます。この場合、流失や腐朽のような自然の作用による被害を受けます。
弥生墳丘墓の場合は、盗掘ではなく、ほかの要因による消失の可能性が高いと思われます。
では、卑弥呼の墓・丸山古墳の場合はどうでしょうか?
保存状態としては、古墳時代中期以降にみられる横穴式と同じ構造であれば、自然条件による劣化は少なく、状態は良く保たれていると考えます。
しかし残念ながら、すでに失われていると考えます。人的被害、盗掘が考えられます。
直径が100メートルを超えるお墓ですので、ならず者たちのターゲットになったのは間違いないですし、横穴式であれば比較的簡単にお墓の内部に入る事ができます。
卑弥呼が埋葬された直近の時代には、すでに掘り返されてしまったかも知れません。
わずかな期待が持てるとすれば、地元での丸山古墳の歴史的な位置づけや、地元住民の認識が希薄である事です。なんの伝承も、伝説も残っていませんので、卑弥呼が亡くなった後には、きれいさっぱり記憶から消し去られたとすれば・・・。
そうであれば、ならず者のターゲットにもなり得ません。
そんな、わずかな期待を抱いています。
古墳の盗掘には、大抵、その背後に悪徳業者があって、個人の趣味・収集者との間に闇取引が多かった、と言われています。また、古墳発掘は古くから宝探し的に行なわれており、現代でもその傾向があります。古代史ファンが興味本位で、立入禁止の天皇陵に入り込むケースも、いまだに散見されるようです。卑弥呼の墓・丸山古墳については、現存する神社の裏手に横穴式の入口があると推測しました。それを元に、悪だくみを企てる輩が現れない事を願います。