魏志倭人伝では、倭の女王國が中国・魏へ何回も朝貢していた事が書かれています。そして魏からの下賜品には、「銅鏡百枚」という記載があります。しかし銅鏡の具体的な記述はありません。
邪馬台国の場所探しでは、日本列島から出土する様々な銅鏡から、魏からの下賜品を比定する試みが続いています。もちろん、行路と同じように曲解だらけで、何の結論にも至っていません。
今回は、魏からの下賜品を考察する前段階として、銅鏡がどのようのものかという基本的なところから入ります。
魏志倭人伝の中で「銅鏡」と呼ばれている鏡は、純粋な銅だけで作られたものではありません。銅を主体とした複数の金属が混合したもので、一般には「青銅」と呼ばれています。具体的な含有金属などについては後で述べることにします。
最初に青銅器が使われたのはメソポタミア文明やエジプト文明で、紀元前35世紀頃とされています。その後、紀元前20世紀に中国大陸に伝来しました。
そして日本へは、紀元前3世紀頃に伝来したとされています。その当時の日本列島は、ようやく水田稲作が広く行われるようになった時代です。
日本でよく見られる青銅器には、銅鏡・銅剣・銅鐸などがあります。この中で銅鏡は、当時の権力者しか持つことのできなかった威信財です。それは、王とみられる棺の中に副葬されている事からも分かります。このように、銅鏡について考察することは、土器類、木器類、石器類など一般庶民が使っていた道具類とは別格ですので、弥生時代の権力構図を探る上で、非常に貴重な遺物の一つです。
出土する銅鏡は、この写真のように青や緑のような色をしています。銅鏡に限らず、銅鐸や銅剣なども青緑色の、輝きの無い、お粗末な物というイメージがあります。しかし、最初からこの色だった訳ではありません。もともとは光り輝く黄金色でした。まさに鏡という光を反射する役割だけでなく、黄金に近い高貴な色を放っていたのです。
出土品に見られる青緑色の青銅鏡は、長い年月の間、土の中にあったために、「ろくしょう」と呼ばれる銅のさびができたために、そのような色になってしまったのです。
土器や石器しかなかった弥生時代初期の日本人にとっては、青銅器というピカピカと黄金色に光る硬いものに、さぞかしびっくりし、憧れたことでしょう。
弥生時代に伝来した銅鏡は、古墳時代に至るまで中国大陸から輸入されたり、日本国内で製造されたりしました。
弥生時代の銅鏡で有名なものをいくつか上げます。
・三角縁神獣鏡
・画文帯神獣鏡
・内行花文鏡
・方格規矩鏡
などがあります。これらの名称は、鏡の裏側に施されたデザインから付けられたものですので、弥生時代からそう呼ばれていた訳ではありません。それぞれの鏡の詳細については、次回以降の動画で紹介します。
これらの銅鏡ですが、中国で製作されて日本に持ち込まれたものを舶載鏡(はくさいきょう)日本国内で製作されたものを、仿製鏡(ぼうせいきょう)と呼びます。仿製鏡は古墳時代に多く作られ、中国産銅鏡のレプリカとして大量生産されたようです。鏡を持っていることが有力者の力の証だったのでしょう。
なお、同笵鏡(どうはんきょう)と同型鏡という区別もあります。同笵鏡(どうはんきょう)とは、オリジナルの鋳型を作って大量生産したものです。鏡の文様から細かい傷まで全く同じ特徴を持つ鏡です。一方、同型鏡は、1つの鏡に粘土を押し付けて型をとり、それを鋳型として複製を作ったものです。これはズルいやり方ですね。自分では何のデザインもせずに、オリジナルをコピーしただけのものです。現代でこそ、中国産はコピー品だらけですが、古代日本は文明が遅れていたので、中国と同じような事をやっていたという事です。
銅鏡には、模様の他に文字が刻まれているものがあり、これを「銘文鏡」と呼びます。その中でも中国の年号が書かれていて製造年が特定できるものを紀年鏡あるいは紀年銘鏡と呼んでいます。
日本の邪馬台国時代は、中国では魏の時代でしたが、その年号を持つ紀年鏡も幾つか出土しています。
主なものとしては、
・丹後半島、京都府峰山町にある大田五号墳の、青龍三年銘・方格規矩四神鏡
・近畿、淀川水系、大阪府高槻市にある安満宮山古墳の、青龍三年銘・方格規矩四神鏡
・出雲平野、島根県加茂町にある神原神社古墳の、景初三年銘・三角縁神獣鏡
・大阪府南部、和泉市にある和泉黄金塚古墳の、景初三年銘・画文帯神獣鏡
・丹波の国、京都府福知山市にある天田広峯遺跡の、景初四年銘・盤龍鏡
などがあります。
これらの紀年鏡から、女王國が魏から下賜された青銅鏡を比定しようとする試みが続いていますが、全く結論には至っていません。
中国製か、日本国内製か、材料が中国産で日本国内で製造したものか、などなど、科学技術を持ってしても確定できる要素が、現在のところ見つかっていないからです。
銅鏡の材料についてです。
銅鏡は、銅とスズ、およびその他少量の不純物との合金からできています。日本語では青銅、英語ではブロンズと呼ばれ、純粋な銅・カッパーとは明確に区別されています。
青銅の本来の姿は光沢ある金属で、その色は添加物の量によって様々です。添加する錫の量が少なければ、十円硬貨にみられるような純銅に近い赤銅色、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。
なお、銅と錫の合金としたのには、色彩や強度などの実用的な面だけでなく、鋳造技術の面からも必要だったようです。それは、純粋な銅だけでは融点が1083度なのに対して、錫を加えた青銅では、錫の融点の875度で熔けるという製造技術の利点もあったようです。
ちなみに、日本で製作された銅鏡、銅鐸類という青銅器は、材料のほとんどが中国からの輸入品だったようです。
銅鏡を分析しみて、その原料が中国産だったからといって、銅鏡の製造自体が中国で行われたとは限らないという事です。
銅鏡の製作方法を示します。現代も弥生時代も、基本は同じです。
・まず、砂岩などの石を彫って鋳型をつくります。
この鋳型は、福岡県ヒルハタ遺跡で見つかったものです。小型仿製鏡の鋳型で裏・側面に勾玉・ 鏃(やじり)十字型銅器の鋳型が彫られています。
・鋳型をすえつけます。
鋳型を土の中に埋めて固定し、溶けた青銅を流しやすくするため粘土で注ぎ口(湯口)をつくります。
・流し込み
溶かした青銅を鋳型の中に流し込みます。
・型はずし
鋳型を掘り出し、鋳型をはずします。
・完成
バリをとって、磨き上げて完成です。
魏から下賜された銅鏡ですが、邪馬台国畿内説論者は、「三角縁神獣鏡こそが、その鏡である」と主張していました。
それは奈良県天理市の黒塚古墳などから、大量に出土した事によります。しかし、出土数が多すぎる事や、日本国内産の可能性が高い事などから、現在ではほとんど否定されています。
次回からは、この三角縁神獣鏡を含めた様々な銅鏡について、それぞれ焦点を当てて行きます。
なお、私としては銅鏡百枚は一種類ではなく、家臣への配布用、女王用など様々だったのでは? と思います。