出自の嘘

 古事記や日本書紀には、継体天皇は滋賀県高島町での生まれで、応神天皇の五世孫とされています。

これは、明らかに『勝者の論理』でしょう。そもそも、継体天皇が越前から近畿へ進攻するまでは、近畿地方に『製紙』の技術が無く、語り部(かたりべ)と呼ばれる歴史を語る役人が、天皇の系譜を語り継いでいました。継体天皇になって初めて、紙に系譜を書き連ね、歴史を書物にまとめました。ですので、勝者である継体天皇の好きなように、系譜や歴史を書き綴ったのです。

 

 以下に、継体天皇の出生地が滋賀県高島町ではなかった理由を説明します。

 

1.地政学的理由

 滋賀県高島町は、日本海側勢力が近畿地方に侵攻するには、最高の拠点です。右図のように、高島は琵琶湖の北西岸に位置しています。高島から陸路で北西に進むと、なだらかな峠を越えて、日本海側の小浜港に至ります。小浜港は、北の越前だけでなく、西の出雲や九州にも海路が開けている良港です。

 

 街道が整備されていない当時は、船が長距離移動の手段でした。高島に軍事拠点を置くことによって、琵琶湖の水路を利用した近畿攻略、および小浜港からの物資の後方支援が非常に有利です。

越前と近江・高島の位置関係
越前から近畿へ侵攻するには、高島は最高の拠点[邪馬台国]

 

2.豪族衆の懐柔

 継体天皇は、自らの系譜を近畿地方の天皇の流れを汲むとする事で、近畿地方の豪族衆の懐柔を図ったのです。無益な戦いはせず、豪族衆に自らの家系図や鉄剣を下賜することで、勢力を拡大しました。内陸部の世間知らずな近江の豪族衆は、あっさりと継体天皇になびいた事でしょう。

 

3.技術格差

 当時の邪馬台国(越前)と狗奴国(近畿地方)の技術格差は、歴然でした。卑弥呼の時代から鉄器を使用していた継体天皇勢力(越前ヤマタイ)に対して、近畿は昔ながらの青銅器を使っていました。戦うにしても、治水工事をするにしても、継体天皇の優位は明らかです。

 また、継体天皇勢力は、製紙技術を持っていました。日本最初の製紙に成功したからです。(福井県今立町の越前和紙)。 ”紙”というソフトパワーは強力です。現代で言えば、手紙でやり取りしていた政治の世界で、スマホを活用して裏工作をしているようなものです。継体天皇は、紙を使って書状を書き、各地の豪族衆に自らの正当性を大いにアピールできたことでしょう。それまで木簡や竹簡でしか情報伝達出来なかった近畿の豪族達は、恐れ多くてひれ伏してしまったに違いありません。

 

4.琵琶湖周辺の製鉄所

   継体天皇が滋賀県高島町出身ではない最大の理由です。それは、彼が近江に進攻後に、琵琶湖一帯に製鉄所を作ったことです。当時(五世紀から六世紀)の製鉄技術は稚拙で、製鉄所は国滅ぼしの工場でした。それは、酸化鉄から鉄を作り出すのに、大量の木炭を必要としたからです。木炭用の木材を山から大量に切り出し、山々は禿山となり、土砂崩れが起き、川の水に栄養分が無くなり、田畑は痩せて荒れ放題となります。このような工場を、自分の出身地に作るはずがありません。卑弥呼の時代も、製鉄所を持たずに朝鮮から輸入していました。決して越前には作りませんでした。

 継体天皇は、世間知らずな近江の豪族衆を、鉄剣や書状で懐柔し、製鉄所を作らせて国力を弱めたのです。

なお近江は、鉄鉱石の産地ではありますが、他所よりも特に豊富というわけではありません。このことからも、近江を植民地扱いしていたのが伺えます。

 

5.勝者の論理の例

 近畿地方の豪族衆を懐柔するのに、天皇の家系は必須でした。多くの民を治めるには、大義名分が必要だからです。これは、継体天皇に限らず、中世以降の武家政治でもよく見られる事象です。

 例えば、

 源頼朝

朝廷から征夷大将軍を任じられるに当たって、自らの家系を偽っています。清和天皇を祖としていることにしています。朝廷から要職を与えられるには、立派な家柄である必要があったのです。

 足利尊氏

源頼朝と同様に、朝廷から征夷大将軍を任じられるに当たって、自らの家系を偽っています。源頼朝を祖としていることにしています。朝廷から要職を与えられるには、立派な家柄である必要があったのです。

 豊臣秀吉

朝廷から関白太政大臣を任じられるに当たって、自らの家系を偽っています。天皇が尾張に鷹狩りに来た際の落とし胤、すなわち、天皇の直系の血を引いていることにしています。朝廷から要職を与えられるには、立派な家柄である必要があったのです。

 徳川家康

足利尊氏と同様に、朝廷から征夷大将軍を任じられるに当たって、自らの家系を偽っています。源頼朝を祖としていることにしています。朝廷から要職を与えられるには、立派な家柄である必要があったのです。

 

 このうち、豊臣秀吉だけは笑い話になってしまいました。もし、関が原の戦いで西軍が勝利していたら、現代の教科書の豊臣秀吉の記述は大きく異なっていたことでしょう。

 

 継体天皇も、もし戦いに敗れていたら、家系図は笑い話になっていたはずです。幸い近畿を制圧し、紙を使って自らの正当性を示したことで、現代でも第26代天皇として扱われているのです。そして、今上天皇に至まで、継体天皇が実質上の初代ヤマト朝廷天皇として受け継がれています。

 

次のページ: 勢力図

 

継体天皇