継体天皇 近畿での活動

 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、主要豪族の大伴金村らが協議して、越前の男大迹王(継体天皇)を招聘したことになっています。武烈天皇が暴君だったことや、他の天皇候補の器が小さかったことなど、継体天皇が選ばれる為の正当性が列挙されています。平和裏に天皇即位がなされたことになっていますが、これはまさに「勝者の論理」ですね。

 まず、507年に都を樟葉宮として即位し、筒城宮、弟国宮へ遷都しています。即位から19年後に、ようやく奈良盆地の南部の磐余玉穂宮(奈良県櫻井市)に遷都しています。これだけ見ても、継体天皇の即位は尋常ではなかった事を物語っています。

 単純に考えれば、越前から近江を制圧し、琵琶湖下流の淀川水系周辺を固め、最後に奈良盆地を制したということです。

 そして、この磐余玉穂宮を中心とする奈良盆地南部を、自らの勢力であるヤマト(邪馬台)と改名しました。これで、邪馬台国 vs 狗奴国の戦いが終結したのです。

継体天皇即位後の、遷都の図
継体天皇即位後、幾たびも遷都が行われた。[邪馬台国]

 農業の視点から見ると、さらに理にかなっています。淀川水系の河内湖の干拓、巨椋池の干拓を行い、大いに水田耕地を広げています。

 越前 → 近江(高島)制圧 → 琵琶湖周辺地域の制圧 → 淀川水系制圧 

という自然な流れですね。そして、最後に残った淡水湖(奈良湖)の工事の為に、磐余玉穂宮に移動したと見ることが出来ます。治水工事をするにしても、青銅器文化の近畿に対して、鉄器文化の越前の完全な勝利だったということです。

 

 近畿制圧の中で、九州北部で大事件が起こっています。「磐井の乱」です。朝鮮の新羅と結んだ磐井によって反乱が起き、対抗勢力の百済へ援軍を送っています。結果的に朝鮮の新羅・百済を失うことになりますが、継体天皇が即位する前には、九州や朝鮮半島と深い繋がりがあった事を裏付ける事件でもありました。邪馬台国が越前から九州北部までを勢力下に置いていた事を思えば、当然といえば当然です。

 ところで、「磐井の乱」は、明治時代の西南戦争に似ていますね。越前から九州までの連合軍が、近畿を制圧して天下を統一したにもかかわらず、九州には何の恩恵もありませんでした。同じ勢力だった九州の不満分子たちが、継体天皇に対して刃を向けた・・・と見ることができます。

 

 なお、継体天皇の近畿での活動において、鉄器や石棺(越前固有の笏谷石で作られた舟形石棺)などの越前からの出土品が多数発見されています。また、古事記や日本書紀以前の越前和紙に書かれた書類も存在していたことが分かっています。書類は、あとの時代、大化の改新や壬申の乱で大半が焼失してしまいました。わずかに残った書類も、現存しておりません。ただし、平安時代の書物の中に、継体天皇以降に書かれた書物からの引用が見られる事から、「有史以来」という言葉は、継体天皇以来を意味するようになりました。

 

次のページ:: 三種の神器

 

継体天皇