古代の明治維新

 越前・邪馬台国から出現した謎の大王 継体天皇

近畿・狗奴国を滅ぼすのは、容易ではありませんでした。古い体制を破壊し、新しい国家を樹立する姿は、あたかも、明治維新の混乱期のような状況でした。

 周辺諸国の勢力結集による中央への侵攻だけでなく、政治体制の一新、最新文明の大量流入、新政府成立後の混乱、九州勢力の反乱、など江戸末期から明治時代の変革期に起こった事件と同じような事が、この時代に起こっています。

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継体天皇の即位後の遷都

 日本書紀によれば、継体天皇は、近畿の有力豪族・大伴金村らの招聘により、西暦507年に即位した、とされています。しかし、継体天皇が近畿に入ってからも、混乱状態が続きました。

 この地図では、皇位継承してから、奈良盆地に遷都するまでの流れを示します。

 507年に、樟葉宮(くずはのみや)を都として即位します。

 511年に、筒城宮(つつきのみや)に遷都します。

 518年に、弟国宮(おとくにのみや)に遷都します。

 526年に、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷都します。

磐余玉穂宮は、当時の中心地である奈良盆地南部ですので、皇位継承から王朝交替が完了するまで、20年近くの歳月を要している事が分かります。

 当時は文明後進国の近畿・狗奴国でしたが、豊かな農業生産を背景に、強力な守旧派の抵抗があり、簡単に侵略が成功したわけではなかったのでしょう。

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継体天皇:近畿での守旧派と改革派の闘い。

 この当時の守旧派は、葛城氏という最強豪族でした。江戸時代末期に抵抗した徳川幕府のような存在です。

 なお、継体天皇勢力は、越前からの重臣・蘇我氏。九州系と見られる中臣氏(のちの藤原氏)。近畿・狗奴国の改革派豪族として、継体天皇を招聘したとされる大伴氏や物部氏でした。いずれも、飛鳥時代に主力となった豪族達です。

 日本書紀には、戦いの記載はありません。穏便に禅譲されたように書かれています。しかし、守旧派と改革派のせめぎあいは、いつの時代もあったはずです。

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近畿での治水工事

 一方、これらの遷都には、もう一つの側面があったと見られます。農業生産の飛躍的な向上です。

 元々、先進的な治水工事技術を持った越前出身の大王です。近畿に入った際も、その技術を大いに活用して、農地を拡大し、米の収穫高を大幅に増やしたと思われます。

 淀川水系の河内湖の干拓、巨椋池の干拓を行い、大いに農地を広げました。そして、最後に残った淡水湖(奈良湖)の工事の為に、磐余玉穂宮に移動したと見ることも出来ます。

 治水工事をするにしても、青銅器文化の近畿に対して、鉄器文化の越前の完全な勝利だったということです。

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継体天皇の近畿制圧の流れと、馬の生産。

近畿侵略の流れをまとめると、

 越前から → 高島制圧 → 琵琶湖周辺地域・近江の国制圧 → 淀川水系制圧 → 奈良盆地制圧

となります。

 また、最初の都・樟葉宮では、河内馬飼首(かわちうまかいのおびと)による馬の生産が行われました。馬の導入は、戦いの道具としてだけではありません。治水工事、農耕作業、物資運搬のあらゆる面で、活躍します。

 鉄器や馬という先進文明の流入は、明治時代の西洋の武器・機械類・蒸気機関という先進文明が流入して来た事と似ています。

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継体天皇による古代の文明開化

 継体天皇による近畿地方への文明の流入は、鉄や馬という、いわばハードウェアの先進技術、だけではありません。紙、文字、政治体制という、いわばソフトウェアの先進技術も流入しました。

 天皇系譜図、歴史書などが書かれ始めたのは、この時期からです。それ以前は、天皇の系譜や歴史は、「語り部」と呼ばれる役人が記憶して神話化し、次の世代へ伝承していました。

 「有史以来」という言葉が、「継体天皇以来」とされているのは、この為です。

 また、「五経博士」という渡来人による政治体制の変革もありました。これは、継体天皇の曾孫の聖徳太子に受け継がれ、律令国家・中央集権国家体制が推し進められることになります。

 政治体制が一新され、文明開化が起こった明治時代とよく似ています。

 これらの最新の文物が、越前という日本海側からもたらされたのは、単なる偶然ではありません。継体天皇の250年前の邪馬台国・卑弥呼の時代から、朝鮮半島との深い交流があったからこそ出来た事です。

 継体天皇の出現もまた、邪馬台国が越前である事の一つの根拠と言えるでしょう。

 なお、最新文明の流入に主要な役割を担ったのは、渡来人たちです。次回は、この時代の渡来人たちの功績について検証します。