日本人のルーツは超躍動的

 4000年前の縄文時代に、隠岐の黒曜石が中国東北部へ渡っていた事実からは、新たな疑問が生じてきます。

 日本にとって4000年前は、文明が起こっていない時代です。ところが中国大陸では、8000年前から黄河や揚子江などの各地で文明が出現しています。

 それを考慮すると、

「黒曜石は縄文人が中国大陸へ運んだのではなく、中国大陸から取りに来たのではないか?」

 今回は、そんな疑問に対する考察を進めて行きます。

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黒曜石を運んだのは誰か?

 これまで、隠岐の島の黒曜石が4000年前のウラジオストクの遺跡から出土していた事実から、縄文時代には、日本から中国大陸への海路が拓けていたと推定しました。

 しかしながら、古代においての中国と日本との文明格差は甚大ですので、中国から日本へ黒曜石を取りに来ていた可能性もあります。なぜなら、石器時代の刃物として重要だった黒曜石は、火山のある場所でしか産出しないからです。

 先進地域だった中国大陸の人々が自ら日本列島へやって来て、黒曜石を持ち帰っていた可能性もあります。

 結論から言いますと、この点については、完全に否定します。黒曜石は、縄文人が中国大陸へ持ち込んだのであって、中国大陸から取りに来たのではありません。その根拠を、日本列島に住み着いた人々と、中国大陸の人々との根本的な違いから推察して行きます。

 また、この根拠に従えば、弥生時代の「渡来人の謎」についても解けてくるでしょう。

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日本列島太古の歴史

 日本列島の歴史を原始時代に遡ると、大陸と地続きだった時代に、ナウマンゾウなどを追って移動してきた原始人が住み始めたとされています。その後、三万年前頃に、縄文人の祖先である東南アジア系の海洋民族がやって来て、モンゴル系の民族と混血が始まり、新たな人種へと変化して行きました。一万六千年前頃には、縄文人となり、その頃からが縄文時代と呼ばれています。

 それから八千年後に、中国大陸では黄河流域や長江流域などで、次々と文明が出現します。それは、その地が、定住型農業を行うには最高の土地であり、狩猟に頼らない安定した生活が可能となり、人口の集中が生じたからです。中国大陸で文明が起こったのは、必然だったのでしょう。

 一方、当時の日本列島は狩猟が主体の縄文人が住んでおり、まだ「文明」と言えるものはありませんでした。しかし、個性的な縄文土器や土偶、玉造りという独自の「文化」は発展していました。

 特に玉造り技術は最先端でした。新潟県糸魚川市の大角地遺跡や、福井県あわら市の桑野遺跡は、中国文明と同じ時期で、世界最古級の玉造り遺跡です。

 また、刃物として世界的に利用されていた黒曜石も、日本列島で大いに使われていました。隠岐の島産、霧が峰周辺産、伊豆諸島・神津島産などです。

 日本列島には「文明」こそ無かったものの、しっかりした「文化」が息づいていたのは間違いありません。そして、弥生時代へと受け継がれたのです。

 このような歴史の流れから、ウラジオストク周辺の4000年前の遺跡から発見された黒曜石を推察します。

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4000年前の中国大陸

 黒曜石が運ばれた4000年前の中国大陸の状況です。この頃は、既に黄河や長江という二つの大河の全域に文明が広がり、世界で最も進んだ地域となっていました。その原動力は農業です。黄河流域は畑作物の大生産地であり、長江流域は水田稲作による米の大生産地でした。これらの地域に住む人々は、いわば「農業のプロ」と言える集団でした。

 一方、ウラジオストク周辺の沿岸部や内陸部、および朝鮮半島では、そのような文明は起こりませんでした。それは、年間を通して冷涼な気温と、降水量の少なさから、作物が育たない事が大きな原因です。当時の人々の生活は、現代のモンゴルと同じような遊牧民だったと思われがちです。しかし、遊牧という生活形態が見られるようになったのは3000年前頃からですので、当時は、森林地帯や海辺での狩猟によって、細々と生業を立てていたと思われます。

 また、黄河や長江という巨大文明圏と陸続きではありますが、そこから運ばれてきた物品の出土はほとんどありません。むしろ、日本列島からの縄文土器や黒曜石の出土が多いくらいです。

 つまり、「文明」も「文化」も無い石器時代そのままの、「原始人」が住んでいた地域という事です。

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縄文人は航海のプロ

 話を日本列島に戻します。4000年前の日本列島は縄文人という縄文文化を持った人々が住んでいました。彼らは、東南アジアに起源を持つ海洋民族です。いわば「航海のプロ」といえる集団でした。

 中国大陸の「農業のプロ」や「原始人」に対して、日本列島の「航海のプロ」。答えは明らかでしょう。

ウラジオストクから出土した隠岐の黒曜石は、航海のプロが運び込んだに違いありません。

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渡来人は縄文人の末裔

 さらにもう一歩踏み込んで考えると、中国大陸の日本海沿岸地域は、すべて縄文人たちによって支配されていたのではないでしょうか。海産物の狩猟の為に、日本海を巡回していた縄文人たちの拠点として利用され、ある者は現地の原始人と交わって混血が生まれて定住し、後の倭国の植民地になって行った、とも考えられます。

 弥生時代に渡来人としてやって来た新羅の人々も、元を正せば縄文人たちの末裔だったのかも知れません。

 隠岐の島の黒曜石から、縄文時代の話へと飛んでしまいましたが、弥生時代を考える上で切り離す事の出来ない時代です。

 古代史を考える上で、どうしても中国大陸の方が文明が進んでおり、そこから文物が日本列島に流れて来たと考えがちです。しかし、縄文人という躍動的な祖先が、自ら中国大陸に渡っていた可能性の方が高いのではないでしょうか。

 そして、弥生時代に「鉄器」を携えて日本海沿岸地域にやって来た渡来人の正体は?

 次回は、因幡の青谷上寺地遺跡の人骨DNAからの仮説を、再度検証します。弥生時代後期にも、縄文人が主役だったと考えると、全く違った仮説が成り立ちます。