出雲の鉄と言えば、「たたら製鉄」を思い浮かべるのではないでしょうか。
実際に、日本の最古級の製鉄所跡が発見されていますし、弥生時代の鉄器の出土もあります。
その為に、邪馬台国の弥生時代にも、鉄器の最先端地域だったような錯覚を起こしてしまいます。
しかし出雲で、たたら製鉄が始まったのは古墳時代の六世紀頃で、最盛期を迎えるのは江戸時代です。
弥生遺跡を追っていくと、鉄器よりも青銅器が主流だった文化が見えてきます。
今回は、出雲・島根半島で発見された鉄器の状況から、邪馬台国時代の出雲の様子を考察します。
日本の製鉄の始まりは、六世紀頃の九州や出雲で発見されている「たたら製鉄」という製法によるものです。邪馬台国時代の三世紀頃の製鉄所は、今のところ発見されておりません。
たたら製鉄は、出雲の国で発展し、江戸時代に最盛期を迎えます。そのせいか、出雲の国は、弥生時代においても製鉄の先進国だったような錯覚を覚えてしまいます。ところが実際には、ずっと後の時代からです。六世紀の「磐井の乱」で、鉄の輸入元だった朝鮮南部の任那・加羅地域の権益を失い、やむをえず日本での国内生産に取り掛かったのが始まりだったのではないかと思われます。
なお、出雲の地で、古墳時代から製鉄が行われていたのは、先進性があったと思われがちですが、そうではありません。以前の動画「恐怖の工場 古代の製鉄所」で考察しました通り、製鉄所は山林を破壊して、国を滅ぼしてしまう工場です。出雲に古くから製鉄所があったという事は、その当時の日本の中では、「軽い存在」だったという事の証明になります。朝鮮半島南部が日本の植民地として鉄の生産を行っていたように、出雲もまた、日本国内では植民地としての扱いを受けていたのでしょう。
現代で例えるならば、原子力発電所は、決して都会のど真ん中には造らず、辺境の地に押し付けているのと同じ理屈です。
では、弥生時代における出雲の鉄器の様子を見てみます。
この地図は、出雲の国・島根半島です。鉄器の出土は、一世紀頃から三世紀頃のものが発見されています。丁度、中国東北部に起源を持つ「四隅突出型墳丘墓」の出現と同じ時期に当たりますので、高句麗あたりからの渡来人たちが鉄器文化を持ち込んだと見られます。鉄器伝来の時期は九州よりも遅れていますが、弥生後期の出土量では勝っています。
出土地域としては、宍道湖や中海の南側から、伯耆の国の大山の麓に分布しています。この中で、最も出土数が多いのは、以前の動画で紹介しました伯耆の国「妻木晩田遺跡」で、300点ほどの武器や農耕具が発見されています。
出雲半島内部では、柳・竹ヶ崎遺跡などでわずかに出土していますが、特筆すべきほどの数ではありません。
この事から、出雲の国の中心部では青銅器文化から抜け出せず、鉄器の普及は進まなかった姿が見えてきます。東側の地域では、先進国の邪馬台国・越前や投馬国・丹後の影響を強く受け、鉄器文化への移行が早かったものと見られます。
出雲や九州の青銅器文化と邪馬台国・高志の国の鉄器文化の例えとして、スサノオノミコトと八俣遠呂智との戦いがよく用いられます。
スサノオノミコトが八俣遠呂智の尾を切ろうとすると、スサノオの銅剣が欠けて、尾の中から鉄剣が出てきたという例えです。
これまで何度か、この神話が、邪馬台国・高志の国による出雲支配である事を述べてきました。高志の国の鉄器文化によって支配されていた出雲や九州が、策略をめぐらせて鉄器文化に打ち勝った様子が示唆されています。なお、この戦いで八俣遠呂智の尾の中から出てきた鉄剣は、現代に引き継がれている皇室の三種の神器の一つ・草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。
この神話の解釈には、他にもいくつかあります。
山あいのあちこちで製鉄の為の火を起こす「野だたら」の炎を形容したもの、という説があります。
これは、たたら製鉄が始まった六世紀以降の話になりますが、宗主国である高志の国の指導の下、たたら製鉄による炎があちこちで見られたのかも知れません。
また、斐伊川(ひいかわ)の氾濫を意味している、という説があります。
出雲平野を流れる斐伊川ですが、古代には宍道湖には流れ込まず、古志郷を流れていました。古志郷では、高志の国からやってきた人々が、治水工事を行っていましたので、これに苦労をしていた様子が描いたのかも知れません。但し、八俣遠呂智自身が、高志の国からやって来るので、矛盾があります。
中国の越(エツ)という国が出雲を植民地化して開拓した、という説があります。これは、いわゆるトンデモ説です。「こし」と記述されているのに、「エツ」と解釈するとは、・・・有り得ませんね。(笑)
北陸地方を意味する高志の国が、出雲を植民地化していた、そして鉄器文化で青銅器文化を支配していた、と見るのが自然でしょう。
古代出雲の鉄器出土状況から分かる事は、青銅器文化が浸透していた為に、鉄器文化という新しい技術に乗り遅れていた姿です。邪馬台国・高志の国によって植民地支配されたのは必然だったのでしょう。また、農業の観点からは、出雲平野の干拓工事は困難を極めていたようです。十分な農耕地を得るのは、古墳時代に入ってからという姿も見えてきます。
次回は、出雲平野に残っていた汽水湖の範囲と、集落遺跡から、弥生時代の島根半島の様子を考察します。