DNA鑑定・因幡の弥生人

 「弥生人」と言っても、まだまだ解明されていない部分が多く、多様な渡来系弥生人がいたようです。

 水田稲作が最初に始まった北部九州は、揚子江系弥生人や南朝鮮系弥生人で、彼らが主流となって日本列島全体に広がったとされています。その間に、在来の縄文人と混血し、北方アジア系渡来人や南方アジア系渡来人などとも混ざり合いながら、単一民族・日本人の原型が形作られたとされています。

 ところが、弥生時代末期の青谷上寺地遺跡(因幡)から出土した人骨は、この常識を覆すDNA鑑定結果が出たようです。

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青谷上寺地遺跡の人骨出土

 まず、青谷上寺地遺跡について整理します。

所在地は、因幡の国、現在の鳥取県鳥取市青谷町にあります。現代でも非常に狭い平地しかない地域ですが、弥生時代には更に狭く、直径500メートルの面積があるかなしかの小さな小さな平地です。

 出土品は、紀元前3世紀~紀元後2世紀までの多数の土器があります。それ以外にも、鉄器・青銅器・木器・石器・骨角器など多彩で、更には、三人分の弥生人の脳みそや、五千点を超える人骨片も出土しています。

低湿地にあった為、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことから、保存状態の良い遺物が多数出土し、「弥生の博物館」と呼ばれています。

 今回は、この内、人骨に焦点を当てます。

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100人分の人骨

 人骨は、二世紀頃のものとされています。五千点という数は、人数にして百人分を超える量で、北部九州から発見されている弥生人の人骨数を超えています。また、この中には子供や女性も含まれていて、110点の骨には殺傷痕が見られます。つまり、数人分は殺害された人骨という事です。

 発見された場所は、遺跡の中央部の溝に散乱していたとの事です。正式に埋葬された遺骨ではないので、ここを支配していた王族の骨ではなく、殺害された数人を含めて、この地の住民達の骨と考えられます。

 それは、もし外からの侵略者の骨であれば、遺跡の中に埋める事はせず、ごみのように海や川へ投げ捨てたと想像できるからです。

 これらの人骨のDNA鑑定が2018年から始まり、現在進行中です。

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人骨のDNA分析結果

 これまでの鑑定結果では、32人分を解析し、母親から受け継がれるミトコンドリアDNAから、31人が渡来系、1人が縄文系だという事が分かっています。また、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人について解析した結果、父親から受け継がれるY染色体を抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だったという事です。

 ここで、渡来系というのが、どこからの渡来人なのかは発表されていませんが、因幡という日本海側地域ですので、新羅か高句麗からの渡来系だと推測します。

 これらの事から、可能性は無限に考えられますが、要は、青谷上寺地遺跡に住んでいた住民は全員、渡来人と縄文人との混血が始まったばかりの弥生人だったという事です。 これは、弥生時代後期に多くの新羅系・高句麗系の渡来人が日本海沿岸地域に流れ着いたと考える私の説に合致しています。

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定説を覆す青谷上寺地遺跡

 なお、九州から出土している人骨は、水田稲作の原産地である揚子江流域系の渡来人が主流の弥生人です。この系統の弥生人が主流となって、稲作文化と共に、日本列島各地へ広がって行ったという解釈が、これまで一般的でした。頭の固い学者さんたちは、単純に北部九州が全ての原点と考えている節があります。この考え方からすると、青谷上寺地遺跡のケースは、非常に複雑に思えるのでしょう。

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北方系渡来人の青谷上寺地への移動

 青谷上寺地遺跡という一箇所だけのデータから全体像を想像するには、無理があるかもしれませんが、可能性の高いケースを想像して、仮説を立ててみます。

1.まず、高句麗から追い出されたボートピープルが、因幡の地に漂着します。

2.その地は、すでに揚子江系の弥生人たちの土地でしたので、山間部へ避難します。

3.山間部には、ひっそり暮らしていた縄文人達が残っていたので、そこで混血が始まります。

4.やがて勢力を整えて、沿岸部へ侵攻し、青谷上寺地遺跡のある海岸部に定住するようになりました。

 これは、、以前の動画「高句麗からの鉄器伝来 倭国の夜明け」にて考察した内容にも一致する流れです。高句麗に起源を持つ、四隅突出型墳丘墓の出現の流れと一致するのです。

 次回は、この仮説を基に、青谷上寺地遺跡に住んでいた渡来系弥生人について考察して行きます。

 青谷上寺地遺跡の人骨の鑑定結果は、国立科学博物館からの発表です。この中で曖昧な点は、「渡来人」という表現です。渡来人は、日本列島周辺地域の人種で、多種類存在します。ざっくりと南方系と北方系では、全く違うDNAを持っていますが、それさえも示していません。何か隠蔽したい事実があるのか、世論操作の意図があるのかも知れません。「科学による立証」というのも、人為的にいくらでも操作できるのは、四世紀の箸墓古墳が、いつの間にやら邪馬台国時代とされた事実からも分かります。

 ただし現時点では、国立科学博物館からの情報を信用するしかありません。