魏志倭人伝に書かれている九州の最初の上陸地点は末蘆国です。一大国(壱岐島)からの距離や、伊都国(糸島市)への距離から、現代の唐津市または伊万里市が上陸地点だと推定されています。この地域はリアス式海岸なので、天然の良港ではあります。しかし伊都国との間には、背振山地という断崖の壁があり、陸路を移動するには極端な困難を伴います。また農業の視点からは、平地の面積が狭く、大規模な農耕地は得られない場所です。奴国や伊都国に比べて辺境の地と言えます。
今回は、この地域の地形に焦点を当て、末蘆国の弥生時代の役割や様子について考察します。
この地図は、唐津市と伊万里市を中心としたものです。典型的なリアス式海岸ですので、外海の波や潮流から守られた天然の良港です。ただし弥生時代に重要な港だったわけではありません。
唐津という名称は中国の港という意味ですが、その起源は決して古くはなく室町時代からとされています。また伊万里焼で有名な伊万里もまた、江戸時代の有田焼などの積み出し港だった事で有名ですが、古代からの重要な港だった訳ではありません。中国からの使者は、このような辺境の港町に上陸させられていたようです。
では、魏志倭人伝に記された末蘆国の港はどこでしょうか? 一大国から末蘆国へは1000里、末蘆国から伊都国へは500里ですので、距離的には伊万里の港が最も適合すると思われます。
末蘆国から伊都国まで陸路500里を、現代の伊万里市から糸島市までの地図で見てみましょう。
伊万里の海岸線はリアス式ですので断崖が切り出していて、そこを陸路では進めません。陸地を進むならば、伊万里川を遡って峠を越え、松浦川の上流域に出ることになります。そして、この川を下ると唐津市に抜ける事が出来ます。
唐津市からは、さらに険しい道のりになります。背振山地という標高こそ高くないものの急峻な山々そびえ立っています。海岸線は断崖絶壁なので陸路は使えません。山を越えるにしても峠らしい峠もない極めて困難な山道です。現代でさえも細くて曲がりくねった道しかない場所ですので、弥生時代という獣道しかなかった時代に、果たしてどうやって背振山地を越えて行ったのか、想像もつかないほど困難な道のりだったと思われます。
このように魏志倭人伝では簡単に陸行五百里となっていますが、実際の末蘆国から伊都国までの移動は、大変な重労働だった事が分かります。外国から来た人々に、敢えて無理難題を押し付けていたとしか思えません。
前回の動画でも述べましたが、一大国から末蘆国へ船で渡って陸路で伊都国へ向かうよりも、最初から直接伊都国や奴国へ船で渡った方が、何十倍も何百倍も楽です。
それをさせなかったのは、女王国・卑弥呼の賢い思惑だったのでしょう。伊都国や奴国という重要な地域へ、外国の船が直接乗り入れる事を嫌い、排除していたに違いありません。
また、上陸地点を唐津の港ではなく伊万里の港とした事も、同じ理由です。唐津であれば伊都国と同じ湾の中に位置しています。この湾に入港しようとする外国船もまた、防衛上好ましくありません。外国人が入り込むのを厳重に警戒して、伊万里の港を上陸地点と定めていたのではないでしょうか。
農業の視点から見た末蘆国は、明らかに小さな国です。現代でさえも平地の面積の狭い伊万里や唐津ですので、弥生時代には農業ができる土地はほとんどありませんでした。あえて農業が行われていた場所があるとすれば、谷底低地のような湿地帯跡です。山間部の河川に削られてできた低地が干上がった平地部分です。
実際にこのような地質の場所から、水田遺構が見つかっています。菜畑遺跡です。北部九州という中国大陸に最も近い場所ですので、農業が盛んでなくても、太古の水田遺構が見つかったのは、不思議ではありません。
時代は縄文時代晩期という今から2900年前頃で、日本で初めて水田稲作農業が行われていたことが実証された遺跡です。唐津市の西南部の谷底低地だった場所で、最初は畑作物の稲である陸稲の栽培が始まり、後に水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が作られていた事が分かっています。 水田遺構は18平米の小さな田んぼです。
日本で最も古い水田稲作の遺跡ではありますが、これを以って末蘆国が農業大国だったとは言えません。あくまでも小規模に水田稲作が行われていたに過ぎません。
その後、弥生時代初期に福岡平野の板付遺跡に見られる水田へと移行し、弥生時代中期には直方平野の大規模水田へと進化して、そこを起点に日本列島全域に広がって行きました。
なお唐津市には、末盧国に因んだ末盧館という資料館が建てられ、この遺跡から出土した炭化米や石包丁、鍬、鎌などの農業用具ほか発掘に関連した資料が展示され、竪穴式住居や水田跡も復元されています。ご参考までに。
末蘆国の様子をまとめます。魏志倭人伝の末蘆国の記述には、「草木茂盛行不見前人」草木が盛んに茂っていて前を行く人が見えないほどだ、とあります。この状況は、一つには農業が行われておらず、平地がほとんど無い地域だったという事。そしてもう一つには、中国・魏の使者たちが感じた本音だったのではないでしょうか。それは険しい山々の中を、草木の生い茂る獣道を歩いて伊都国まで行かなければならなかった苦労が、この描写に表されているように思えます。
弥生時代とはいえ、国家間の取り決めは厳格だったのでしょう。女王国の主要国の一つである奴国(博多湾)に許可なく入り込んだ船は、敵国と見なされ攻撃されたのではないでしょうか。魏を含むすべての外国船は、末蘆国を上陸地点と定められていたように思えます。
背振山地という天然の城壁が、もしもの場合の砦の役割を果たしていたでしょう。
なお、末蘆国は主要国ではありませんが、女王国に関連する弥生遺跡が見つかっています。その中には邪馬台国・高志の原産の宝石類もあります。
次回は、末蘆国の出土品に焦点を当てて行きます。